7月にしては暑い日が続いていた。上旬だというのに梅雨は明けて真夏の暑さが続き、早々にふたりのベッドは夏仕様になっていた。オフホワイトの薄いタオルケットの手触りは万次郎の評価も悪くはない。まぁ、アレには勝てねぇんだろうけど。なんて、堅はけして代わりになるとは思っていない。ふたりで始めた空間をふたりで少しづつ埋めていけたら。急ぐことも急かすことも必要ない。
早すぎた夏の帳尻を合わせようというのか、はたまた気まぐれか、その夜は火照った地面を冷ますような大雨になった。あるべき気温に戻った夜は、薄いタオルケットでは少しばかり肌寒い。
「…重い」
からだの上に重くのしかかるそれに身動きの取れない万次郎は、寝苦しさにうっすらと瞼を開ける。
肩には万次郎を引き寄せ抱きしめた名残なのか、堅の長い腕が絡みついていた。
寒いことが苦手な彼は肌寒さを訴えるように万次郎の体温を求めてからだを寄せる。昔、堅のベッドでじゃれ合いながら眠ったころと変わらぬ仕草に、万次郎は目を細める。
人のことをわがままだとか意地っ張りだとか、そんなことをぶちぶち言うくせに、万次郎にしてみれば堅だって似たりよったりだ。
背筋を伸ばして肩ひじ張って、顎を上げて。睨みつけるまなざしの奥にほんの少しの寂しさと痛みのような憂いを滲ませる。それはきっとなんど上書きをしても消え去ることのない、記憶の欠片だ。生まれたその瞬間に始まって、なんどでもなんどでも、形を変えて姿を変えて、それでも「失う」ことは繰り返される。埋めようのない置いてきぼりの感覚は、魂のまんなかに染みついて、消え去ることはきっとない。
だけど、神様は意地悪なだけじゃない。寂しさと一緒にそれを癒すたったひとつを与えてくれた。
もしもそれに出会ったなら、もしもそれに気づいたなら。
奇跡をあげる。だからどうか、ひとりきりで泣かないで。
目も口も心臓さえも作られる前の、優しい音を覚えてる。
小さなわがままもこそばゆい独占欲も、だったひとつの答えを辿るヒントのひとつ。もっともそんな手がかりなんてふたりには必要もないのだけれど。
オレの。万次郎に絡みつく腕がそう主張して譲らない。
「寝てンのにバカ力すぎ」
鍛えた腕を無理やりに押しのけて起き上がる。ほどけて離れた戒めにウゥ、堅の抵抗が小さく漏れる。見れば瞼はしっかりと閉じたまま、長い前髪の隙間から眉だけしかめてみせる。ぐっすり寝ているくせに離さないと訴える男の寝顔に「寝顔までカッケーんだけど」なんて万次郎は思うのだ。
万次郎に向かって大きなからだを「く」の字に折り曲げて眠る堅の前髪を指先で払う。目じりをかすめる感触に、まつ毛がひくひくと抗議する。
「どこにも行かねーから」
万次郎の声が聞こえたのか偶然か、ふ、と眠る堅のこわばりが解ける。切れ長の目は閉じてしまえば涼しげでまつ毛は思いのほか長く、その気性が浮かぶように凛として邪気がない。
(きれー、…なんだよな)
惚けているとは思う。欲目だとも思う。けれど万次郎の思うきれいなものを形にしたらこうなってしまうのだから仕方がない。それが自分のために蕩けるようにドロドロとぬかるむ様は無性に胸の奥がジンと焼けて焦がれて熱くなる。
かわいい、なんて言ったらまた、しかめっ面で深ぁ―いため息をつくのだろう。「オマエぐれーだよ、そんなモノ好き」そう漏らす甘く低い声にまた、背筋がぞくりとする。
オレだけでいい。そうじゃなければ許さない。オマエがこんな無防備な様子を見せるのは、世界中でオレひとりだけでいい。
(――こんなやるせない寂しさなんて、オレだけでいい)
触れることができるのは、互いのからだは別々にあって、それは別々の生き物だって証。
別々のからだ、別々の命。それが果たしてどれほどに遠いいつのことなのか、瞬きをした瞬間なのか、どちらかが先にこの世を去って、どちらかがこの世界に取り残される。
どこまでいってもひとつにはなれない。どこまでいってもまたいつか切り離される。一秒一瞬たりとも堅を誰にも渡したくなくて。髪一本、細胞ひとつも誰にも譲れはしないのに。
ひとつになれたらいいのに。それがなにを意味しているのかもわからずに、無体なほどのわがままに飲み込まれ果てのない寂しさに覆われる。
「こぇーよな、こんなの」
「…マイキー、?」
ひとりごとのそれに応えるような囁きだった。びくりとして見返せば、堅の瞼はまだ閉じたままだ。
ねだるように薄く開いた唇がふにゃふにゃと囁いている。眠っているはずの顔は少しばかり不機嫌に眉を寄せ、意識のないはずの指先はシーツの上を彷徨って万次郎を探しているようで。ウロウロと彷徨って、ついにその指先は万次郎のパジャマの端にたどり着く。指先だけでそれが万次郎の欠片だとわかったのか、ふやふやと力の入らない指がそれでも懸命に握りしめる。捕まえた。そう言いたげに、潜めた眉はほどけてすぅっと眠りへ落ちていく。
「ケンチン、鬼ごっこでもしてんのかよ」
万次郎の唇には笑みが浮かぶ。しがみつくように眠るのは堅のほうだ。時折こどものような仕草で寝ぼけてみせるのは堅のほうだ。ふたりのときにだけ拗ねてみせるのは堅のほうだ。
離れ離れが寂しいのはきっと、同じ。同じだけ愛しくて同じだけ寂しくて、同じだけ離せない。
神様は意地悪なだけじゃない。寂しさと同じだけの愛しさをーーたったひとりを授けてくれた。ふたりで生きろと。ふたりなら、と。
眠る瞼に小さく唇を落とす。そこじゃないだろ、とでも言いたげに堅は唇の先を尖らせる。けれどそれには答えずに、万次郎はごそごそと堅の横に寝転がる。だって眠ったままじゃ物足りない。もっとねちっこくて甘いヤツが欲しいのだ。
ベッドサイドに目をやると、アナログの時計の針がビっと振れ、もうすぐ5時になろうとしていた。
万次郎の朝にはまだまだ早い時間だけれど、堅の起床は早い。あと1時間もすれば目の覚める時間になる。目覚ましの5分前、地獄から這い上がるような低い声を漏らして起き上がる。
目にした時計は朝の5時。7月8日の朝だった。いつかどこかの世界の7月7日の夜を超え、生死を彷徨った明け方を超えようとしていた。
静かに明けていく朝の音と安らかな寝息とほのかな体温。ここがオマエの場所だから、そう空けられた場所に忍び込めば好ましい体温の匂いがした。
薄いカーテンの向こうではいつもの朝がやってくる。カァカァと遠くで鳴くカラスの声と通り過ぎる四輪の振動が明けてゆく朝を教えてくれる。
あと1時間もすれば目覚ましの音よりも早く起き上がり、にょきっと長い手が目覚ましに延ばされて、しばしばする目で時刻を見てアラームを止める。
ありふれた朝。毎日毎日繰り返される、朝。なんども繰り返されてきた朝を、きっとこれからも繰り返す。
ふたりで、ずっと。