コーヒーをひとくち こんな時間に起きなくてもいいはずの朝。おぼつかない手つきで入れたコーヒーは、中途半端な苦味と酸味がブレンドされて鼻先にツンとする。
習慣だとか、そんな大それたものじゃない。寝ぼけた頭には煙草と缶コーヒー、そんな日常が身近にあっただけのこと。
煙草は身に付かなかった。ガキの分際で煙草なんてまだ早い、そうたしなめられて手を出し損なった。そんなことは言い訳で、煙草にはどうしたってあの人の姿がちらついて、軽い気持ちで真似事のようには出来なかった。目にしていた朝の光景からの単純な引き算で、中途半端に残った方が未だになんとなく続いている。ただ、それだけ。
適当に煎れたインスタントコーヒーは毎日微妙に味が違っているけれど、そうこだわりがあるわけじゃない。ごくりと飲み込んだひとくちは舌をジンと焦がしただけであっさりと喉を通り過ぎ、ぼんやりとした頭には効きめがない。せっかくの休みだというのに、20分も早く目が覚めてしまったせいで、頭には靄がかかったままだ。
半分ほどになったカップの中の茶色い水面をぼんやりと眺めていると、どうしてなのか、甘い味が欲しくなった。
ずっと忙しい日が続いていた。ずっと。それで良かった。それぐらいでいいと思えた。
小生意気に意気がって乗り回した単車に夢中になった。ソイツを生業に選んだのは軽い気持ちなんかじゃ、けしてない。順調とは言い難い、けれど曲がりなりにも夢の端っこを掴んで必死に毎日過ごせることに、ありがたいとさえ思った。
ささやかな毎日に懸命だった。必死だった。部屋の家賃に毎日の食費に光熱費、店の家賃に仕入れにたったひとりの従業員の生活だってある。稼がなくちゃならないし、学びたいことも山ほどあった。時間なんていくらあっても足りないし、おちおち休んでなんかいられない。
アイツが残していった日常ってやつを叶えなるために、負けるわけにはいかなかった。
店が休みの日にはバイトを入れるつもりだったオレに、抑揚のない声が釘を刺す。
「ドラケンはわざと自分を追い込んでる」
妙に達観したその一言にぎくりとなって、咄嗟に言い返すことも出来ず、突然に自覚させられた。ガツンとやられたわけでもないのに身動きが、取れない。
「ドラケンは誰かのためにバイク屋やんの」
ジ、と目を細めるさまは冷ややかですらある。
「自分のためにバイク屋やるんじゃねぇの」
目を見開くオレに、有無を言わせぬドスの効いたひと言がトドメを刺した。
「たまの休みの日ぐらいガキはおとなしく糞して寝てろ」
その言いぐさに、毎朝飽きずに店を覗いて行く女子高生も向かいの店のオバちゃんも、きっと目ン玉ひんむいて絶句するに違いない。
けれど、起きなくても言いはずの朝に、いつも通りどころか少しばかり早くに目が覚めた。目が覚めてしまえば横になっているのも落ち着かなくてノソノソと起き上がり、ぼんやりいつもと同じようにコーヒーを煎れる。
ほとんど自炊なんて習慣がなかったから、ひとりきりの生活には台所周りなんてほんとの最低限。コーヒーに入れる砂糖もクリームも、そんな小洒落たものなんて、この部屋にはない。
そうして元々自分には甘い味を口にする習慣なんてなかったのだと今さら思う。
思えばアンコの甘ったるい味も、これでもかというほどクリームがのったパフェの味もアイツとつるむようになってから知った。
辛いカレーや味の濃い弁当に自販機のコーヒーとしょっぱいスナック菓子、ジャンクなものばかりに溢れたオレには縁遠い、甘い味。
喉も腹も胸の奥まで撫で付ける、どうしようもなく甘たるい、それは気を緩めたとたんに浮かびあがってくる。
オマエに出会わなければきっと知らないままでいたかもしれない。もしも知らずにいられたなら。そんなものは知らないままで、無ければ無いで狭い世界で終わってた。
知ってしまったオマエとの記憶はかき消しても押し殺しても、気を許した隙にこみ上がる。
知らないことなんかに出来ない。無かったことなんかには出来ない。オマエを忘れてしまうことなんて、出来ない。オマエ以上に大事なヤツなんて、この先一生現れるわけがない。オマエ以外になんて、誰もーー。
今も消え去ることのない、快い痺れ。頭の芯から爪の先まで震えるような、苦く甘やかな記憶がこみ上がる。
手にしたカップに残るコーヒーはとうに冷めて濁っただけの液体だ。口にすればドロリと重い。ざらり舌をなでるその味は、一層記憶に残る甘やかさを愛おしくする。
忘れられないなんてわかっている。オマエを忘れられるはずがない。どこにいるのかさえわからないほど遠く離れていても、忘れることなんて、出来ない。
忘れられないんだ、マイキー、オマエを