ぞんざいに手渡されたのは茜色の特攻服。オマエの分だ。隊長はそう短く告げて窓の外へと視線を向ける。どうせ外に興味があるわけじゃない。オレの顔色を確かめる気もないってことだ。オレが隊長に従わないなんてこと、きっと考えてもいないんだろう。それとも興味すらないのかもしれない。隊長にとって、オレは窓の外の曇り空と同じぐらい興味がない。隊長の頭の中なんて、どうせ1から10まで「イザナ」のことばっかりだ。
「…オレの分て、どういうことですか」
「横浜へ戻る」
戻る、そのひとことが隊長の正体だった。
目の前にいる黒の特服姿は偽物で。オレはそんなことただの一言も知らされていなかった。
隊長にとってオレはその程度なのだと知らされたことに、そんなことを思う女々しい自分に、どうしようもなく怒りがこみ上げる。
ついて来いとも、ついてくるかとも言わず、横を向いたままオレを見ようともしない無機質な横顔にどうにも無性に腹がたつ。
相手を一発で殴り飛ばす硬いコブシが一転、オレに触れる手は滑稽なぐらい慎重だ。たったそれだけのことに、コロリと気を許した自分にヘドが出る。
ふたりきりの時にだけわずかに緩む視線が焦れったいとさえ思った自分に腹がたって腹が立って、からだ中の血液がぼこぼこと沸いて音をたて、煮えくりかえって駆け巡る。
とぐろを巻く怒りで頭のてっぺんからつま先まで濁流が渦を巻き、眼球の奥でチカチカと火花が散って胸の奥がキンと痛む。
首の根っこからひん曲がるぐらい力いっぱい殴られて、からだごと吹き飛ばされた気分のオレの痛みを、隊長はほんの少しでも思うだろうか。オレを殴りつけた隊長の拳は、ほんの少しでも痛んだだろうか。
突然現れた痛みに渦を巻く感情の意味を、ズキリと痛む意味を知る。
骨の形が浮き上がるぐらいに強く手を握りしめ、ようやく絞り出した声は果たしてこみ上げる震えを押し殺せただろうか。
「…行かない、って言ったらどうしますか」
オレとアイツと。どっちを選ぶのかなんて。そんな情けないことをいう気はなかった。聞くまでもない、たっぷりの最優先はあっちだってことぐらいわかっている。ほんの少しだけでも困らせたかっただけだ。
隊長はオレの魂胆なんてわかりきっているくせに、それを口にはしない。眉をゆがめて厄介だと思っているのがアリアリと顔に張り付いている。
そうだよ。オレは隊長にそんな顔をさせたいんだ。アンタを困らせて呆れさせて、オレのことを考えてくれればいい。
ほんの少しの間だけでもオレのものになってくれたらいい。
せめて。それが声に出てしまわないように、漏れてしまわないように奥歯を噛みしめて、けれど視線をそらしたくはなかった。それがせめてもの抵抗だった。
奥歯を噛みしめ真向から向き合ったオレはいったいどう見えたのか。
無言のままその瞳はわずかに揺れ隊長の厚い手のひらが目の前に現れる。殴られる、と反射的に歯を食い縛って身構える。なのにすくめたからだは凄まじい力で抱きしめられた。
一瞬のうちに頭からまるごと抱えられ、ぎりと長い腕に抱きしめられた。
片方の手は逃がすまいと後頭部からがしりと抱え、もう片方の手は力任せに肩を抱きたぐり寄せ、からだごとすっぽりと胸の中に閉じ込められる。
ごつと太い指が乱暴に髪をまさぐりしっかりと頭蓋骨ごと引き寄せる。肩を捉えた指は肩のくぼみに食い込みつかんで離さない。力まかせにかき抱かれてひとまわり小さなからだは軽く浮き、上向きになった軽い顎が隊長の肩に引っ掛けられて乗りあげる。すりと寄せた頬はざりざりとして、たまらなくなって摺り寄せた。
抱きしめられた反射で浮いた両の手が宙をさまようのを咎めるように、一層抱きしめる力が強くなる。痛いほどに抱きしめられて、今度こそオレは隊長のからだを抱きしめ返す。抱きしめて抱きしめられて、肌の匂いを吸い込むと、辛いフレグランスとタバコの混じった見知った匂い。じっとりと下肢を濡らす、匂い。
「勘違いするなーーイザナは”王”だ」
耳元で漏らす吐息に鼓膜が焦れる。それに弱いのを知っていて、この男はわざと耳元に唇を寄せるのだとわかっていながらジンと小さなしびれが走る。
憎らしいのは恋しいのと同じ意味なのだと、この男に教わった。
「アイツにとってオレは手駒のひとつに過ぎない。オレもそれ以上を望んじゃいないし、それでいいと思っている」
「隊長?」
(アイツの恐ろしく歪んだ狂気じゃなきゃ、辿り着けねぇ高見が、ある。オレはそれが見てぇんだ)
「アイツの狂気の行く先を見てぇと思うだけだ」
(――オマエも同じ目に見えねぇ化け物に憑りつかれてるんだろう?)
饐えた血の匂いに頭ん中をやられて憑りつかれてる。息を潜めるバケモンが目を覚ますのをいちばん近いところで待ち構えてる。
狂った赤い血肉を与えられるのを息を潜めて待ち構えてる。殉教者の顔をした使途のようだ。
「隠し持ったおっかねぇ顔にこそ情が沸く」
「そんなおっかねぇ顔を無理やりにひん剥いて喉が枯れるまで泣かせてやりてぇよ」