interested 忠が新しい趣味を始めた。ショックだった。かと言って愛之介にはとやかく言う権利もなかった。言えば忠は聞いてくれるのだろうが、止めろなんて言える訳がない。そういう台詞はこの世で一番嫌いなのだ。
けれど寂しいものは寂しい。これくらいで寂しいと思っているのも嫌だった。万が一忠に知られたら、恥ずかしくて仕方なくなる。
なんだってそんな趣味を選んだんだろう、と思う。人の趣味にケチをつけたくはないが、ついつい思ってしまうのだった。忠には内緒にするつもりだ。だって、言えば愛之介の方が照れてしまう。二人では楽しめないような趣味をどうして選んだんだ、と言いたくて仕方なかったのだ。
忠はクロスワードに夢中になっていた。仕事の合間や、休憩の残り時間を使って、自分のペンを持ちながら嬉々とした顔で本を見つめている。単純なジェラシーだった。何故こっちを見ていない、と言う嫉妬だった。
何を考えているんだろうと自分でも思う。自分の仕事や、やるべきことをこなす方が先だ。休憩中だと言うのなら、それに見合った過ごし方をするのが一番のはずだった。でも結局は忠を見ている。
文句を言う筋合いもないし、言った所で単なるわがままだと言うのも承知していた。だから言いたくないのだ。けれど言わないだけで行動には出ている。やたらと彼を見てしまうし、楽しそうだな……と思った。合理的な説明はいくらでもできる。一人の時間は必要だとか、恋人の楽しそうな顔を見ているのも良いじゃないか、とか。
でも、この感情を否定されるくらいなら、一時的にでも恋人と言う肩書を捨ててしまいたかった。じゃあ何になれるのだろう?
愛之介はぼうっと考えてから「友達かな」と思った。
話しかけるくらいはいいだろうと近寄ってみる。友達だってそれくらいはする。
彼の椅子の真横に立ち、じっと見下ろす。彼はすぐに顔を上げた。きょとんとした顔をしていた。
「……楽しそうだな」
そう口走った自分の声が、不機嫌でないことを祈った。自分では分からないものなのだ。
忠は愛之介の目を見て、少しの間無言になった。彼の表情が微かに変わる。柄にもなく緊張した。
「……見ますか?」
そう言って忠が本を差し出してきて、愛之介は心底安堵していた。たったこれだけの会話で胸の中が詰まりそうになっている。不安や、そこから脱したときの安心と嬉しさ。忠の前では、自分の心が粘土にでもなったような気になる。簡単に傷つくし、痕はいつまでも消えなかった。その代わり、彼の優しさもちゃんと残っていた。遥か昔の事だと思っていたけれど、時間は関係なかった。愛之介が忠を好きなのは彼が愛之介を好きになってくれたからだ。まだ小さかった自分に、あらゆる贈り物をしてくれたからだった。楽しさと、友情と、優しさ……。
忠の横に椅子を置き、そこに腰を下ろしながら、小さい頃もこうやって隣に並んでいた気がすると思った。子供が外でペンや本を持つと言うのはどんな状況だったのだろう。そう考えてみると、ふいに思い出したのだ。日記だった、と思う。
忠が外で日記を書いていたのだ。夏休みの宿題だったのだろう。暑かったし、休みの日の解放感があった。
「なにを書いてるの?」と聞くと忠は「日記です」と言った。見たい、と言わなかったのは正解だったと思う。見られたくないものだと言う感覚は持っていたし、忠の困る顔を見たくなかった。あの頃は純粋でいじらしい少年だったのだ。懐かしい話だった。忠は覚えているのだろうか。
彼の手元を覗き込む。クロスワードはほとんど完成しつつあった。愛之介が見ている横で、忠はすらすらとパズルを完成させていく。一つが完成すると、忠は淀みなく次の問題へと移っていく。ページが軽やかにめくられていった。気持ちのいい紙の音だ。でもなんだかつまらなかった。
ため息が出たのは無意識のことだ。まだするのかと言ってしまったのも同じ。でもそれは愛之介にとって驚くべきことだった。言おうとすら思っていなかった。口をついて出た台詞だったのだ。
忠は自分の腕時計を見ていた。仕事を再開するまでは時間がある。忠は時計を見た後、不安そうな顔で愛之介を窺った。休憩を切り上げましょうか、と言いそうな顔だった。
「違う」とは言ったものの、その後に何を言えばいいのか分からない。
忠も、自分は何をするべきなのか困ってしまったらしい。愛之介にかける言葉を色々考えているみたいだった。でもここで何か声をかけられても、それは全部愛之介の台詞が言わせたことで、元を辿ればただの嫉妬なのだからこれほど虚しいこともなかった。
忠に何も言わせたくなかった。口を開くと、また同じ台詞が出てきた。「違う」。
次は「どうして」と言っていた。忠が見ている。知らない間に見つめ合っていた。
「どうして、新しい趣味なんかを、始めたんだ……」
言ってみると頬が熱くなる。尻すぼみな声だと自分でも分かった。
忠はぽかんとした顔になっていた。当然だ。彼から顔を反らしても、視線はこちらを向いたままだった。
しばらくは何の声も聞こえなかったが、その後で忠がぽつりと言った。「実は……」と言ったのだ。
忠を見ると、穏やかな顔をして、照れくさそうな気配さえ見せて笑っていた。
「どうしてか、最近は心が楽になって……」と忠は言った。「そうすると、余裕と言うんでしょうか……いえ、暇って言ったらいいのか……何か新しいことをしてみたいなと思ったんです」
「とは言っても、私は今の生活リズムを崩したい訳ではありませんし、ちょっとした時間に出来ることがないかなと思ってたら……」
そう言って忠はクロスワードの本を見下ろしていた。途中で止めてもいいし、好きな時に再開できる。場所を取らない。そう言う所が好きなのらしい。それを、忠は優しく説明してくれたのだ。
「そうか」と愛之介は相槌を打っていた。恥ずかしいほど正直な声が出た。軽やかな声だった。嬉しかったのだ。彼の新しい趣味が逃避するためではなかったことが。自分との生活から少しでも離れようとする試みではなかったことが。
解決した、と愛之介は思った。氷解、と言っても良さそうだった。なんだ、今日は良い日じゃないか、とさえ思う。
「愛之介様もやりますか?」と忠は言うが、愛之介は「いい」と言って断った。彼一人で遊ぶ方が楽しいだろうと思ったのだ。
忠が懸命にパズルを解くのを愛之介は横で見ていた。心配することなかった、胸を撫でおろすと、自分の心に余裕が戻ってくるのを感じる。
こう言う時間も良い、と和やかな気持ちで思う。
でも、束の間のことだった。数分もするとまた例のジェラシーが蘇って、「忠」と話しかけたくなっている。
(以下、おまけ)
菊池忠が大事に持っているノートには子供時代の日記が書かれてある。学校の課題で提出したものだ。子供の日記と言うのはやけに無邪気で、文章は拙くもあり、鑑賞する面白さは大してなかった。けれど、忘れられない記述があるのだ。当時の「友人」の隣で書いた日記だった。
八月五日 水ようび
今日はあつかったので、すずしい所で遊んでいました。友だちがぼくにくっついてくれます。かわいいです。父さんや母さんとくっついても、友だちとくっついても、あついけど楽しいです。
父さんが「すてき」と言うことばを教えてくれました。お花にも、人間にも言えるそうです。ぼくは友だちがすてきだと思います。父さんからいろんなことばを教えてもらいました。
すてき きれい うつくしい はなやか すばらしい