花と海とポケモンの楽園※今までよりエグい話になっております。
【長い三日間 三日目(三)】
滝の下では、犯人が用意したザングースとハブネークを、警察官達のポケモンがやっとの思いで倒していた。二体のポケモンが動かなくなり完全に気を失っていることがわかると、警察官達は長く息を吐いて、その間だけ気を休めた。だがすぐに上を見上げ、犯人逮捕へ決意をみなぎらせた。
「よし滝の上に行こう。乗せていけよ」
「できるよな」
元の姿に戻ったままのハイビスが頷いた。
「その姿だと話せないのか?」
先輩の一人が聞くと
(口の形が違うから……テレパシーなら大丈夫。ちょっと疲れるけど)
頭に伝わってきた返答に、先輩が「わかった」と言った。
(……でも先輩……)
「えっ?」
(とりあえず、この姿は事件が終わる時に忘れてください)
「できるかーい‼︎」
最後のツッコミは両方の先輩から重なって出てきた。
先輩二人を自分の背に乗せながら、元の姿に戻ったハイビス……ラティオスは滝に沿って上昇していった。生まれて初めて人を、それも二人も乗せていたので、スピードを出すことが難しい。しかし気持ちは焦っていた。
頭に浮かぶのは、姉が消えてしまった夜。赤に染まったキナギの海を見た朝。この三日間のこと。始めて自分が口にした言葉は「姉さん」だったこと。次に言葉にした思いは「キナギの海をこんなにした人間を必ず見つける」だったこと。
(今更だけど……オレはこの言葉、どういう思いで口にした?)
三日間で、すっかり言葉による思考に慣れたハイビスは考える。
(見つけて何がしたかった? もうすぐそれを考えなきゃいけない時がくるぞ)
姉や保護したラブカスや、他の犠牲になったポケモン達のことを思えば、当然犯人には罰を受けて欲しい。報いを受けてほしい。では「罰」とはなんだろう。この言葉の意味に迷うのは、自分がポケモンだからなのだろうか。
(罰……オレが自分の力で一方的に人間をボコボコにするのは、なんだかイコールにならない気がしちゃうのは……どうしたら……)
自分のような竜のポケモンが本当に怒れる力を解放すれば、人間など捻り潰せるという実感がなんとなく彼にはあった。そのくせ彼は数日前に見た血に染まった海が未だに怖くて仕方ないほどそういうものが苦手な性質だった。だからこそ彼は迷ってもいた。迷いのまま、彼は滝の上へと辿り着く。
「ボスゴドラ、ボスゴドラ……破壊光線!」
「きたよメタグロス、破壊光線!」
着いた先で、いきなり二体のポケモンがとんでもないビームを撃ち合っている現場に出くわし、ぎょっとして上に乗せている先輩を落としそうになってしまった。なんとか体勢を立て直し、二体のポケモンの様子を見る。そして当然メタグロスの方を心の中で応援し始めた。背中の上で先輩二人も応援したり息を飲んだりする反応をしているのが感じ取れた。光線の中央でぶつかっている部分が激しく揺れ動き、しばらくしてボスゴドラの方が押し切られて破壊光線に飲まれた。
ダイゴと一緒に滝の上にいた上司の警官が「か、勝った……」と漏らした。改めてホウエンのチャンピオンを眺めてみる。技の指示を出したり相手に押されていたりしてもそこまで声を荒げている印象はなかったが、勝負が終わった時にはさすがに少し息が上がっていた。そのまま犯人を確保するのを忘れてチャンピオンの方ばかり見ていたが、当のチャンピオン本人は犯人に向けて歩き出した。途中で犯人の方から声がかかったので、まだ少し距離がある位置で止まった。
「……あなたがしたい話って、なんでした……?」
「そうだね……」
ここで一度、自分の方を見ている警察官に顔を向けてから、犯人へ話を始めた。
「ボクは警察の人々と協力してここまで来た。犯人を捕らえ、事件を解決する役割を持った人達だ。その人達と共にあった以上、ポケモントレーナーとして勝負を楽しむのはもう終わらせて、ボクも務めを果たすつもりだ」
「警察やあなたの務めって自分みたいなのを捕まえることなんですか」
「もちろんだよ。きみの場合は、完全に悪意を持ってこの事件を引き起こしたことは確定している。そして悪事にポケモンを加担させ、また被害にあった多くのポケモンもいる。ボクはきみを裁きの場所へ連れていく」
「裁きの場所?」
「きみは野生のポケモンを自分が住む社会にいざなった。人の社会、もっと正確に言うなら、人と、人と共に生きることを選んでくれたポケモンの社会だ。連れてきた以上、きみには責任をとってもらわなければならない。この場合の責任とは、裁きの場所に立ち、どうしてこのような事件を起こしたかを語ってもらうことだ」
「どうしてもなにも……別に、金儲けのために……」
「本当にそうなら、その通りに語ってもらう。けどきみが話すことはそれだけじゃない。手口も、犯行の時期も、きみを裁くために必要な情報は、どんなにきみが話したくなくとも全て話さなければならない」
「聞いたところで理解してもらえるわけでもないだろうに」
「理解されるされないに関わらず果たさなければならないし、ボク達もまた……少なくとも耳を傾けなければならない」
滝の上でまだ飛んだままの優しい竜が、人を守る警察の人間を背に乗せながらこの宣言を聞いた。そして相変わらず背に乗せた二人を地面に下ろすのも忘れてしまっていた。
(警察の人達と一緒にいたから……じゃあ、ダイゴさんはもともとそういう考えを持ってたわけではないのかな……)
竜はそう思っていた。そしてふと気がついた。ここに至る二日間、自分はさんざん彼に「言葉なんて面倒くさい」と言ってきた。
「きみを逮捕すればそれだけで事件が終わるというわけではないんだよ。未来でまたポケモンが傷つくような事態が起きないように、今回の場合はきみという人間がどういう考えで事件を起こすに至ったかをボク達は知らないといけないし、きみもまた自分の思いを知らないといけない」
今度はダイゴが少しの間だけ上を見上げた。登ってきていた竜のポケモンと目が合わせて、すぐに犯人に目線を戻した。
「話をすることでそれができるはずだから」
(この二日間、オレがあれこれ喋ってたことも……ずっと聞いていて、考えてくれていたの……?)
本当に今更になってハイビスは、自分が口から出していた言葉が、聞いていた相手の耳と心にきちんと入っていたことを知った。
「そこのチャンピオンやってるお兄さんはさ……自分みたいな奴に同じポケモン使われて怒ってる?」
出し抜けに犯人がダイゴに問いかけた。
「怒るというより悲しいよ。きみは多くのポケモンを傷つけたけど、今の勝負に出してきた彼らについてはよく戦えていたから。認めたくなかったけど……。君が殺した……よりによってボクが特に好きなポケモンを使って罪のない命を奪った現場をボクは見たんだ。それがとても許されることでないから認めたくなかったけど、きみのポケモンはよく育っていたよ……楽しかった……どうして」
「……あなたも……今まで手持ちを真似した有名人達も全員、トラウマになって、ポケモン嫌いになっちゃえば良かったのに……」
「ボクは……人生で最初にポケモンを好きになって、それからは……きっともう死ぬまでポケモンを嫌いになることはないよ」
そう答えた。犯人は答えを聞くとその場にうずくまり、そしてうめき声を出し始めた。
「……だったら」
しばらくして折っていた体を、がばりと勢いよく起こした。
「証明してよ! 今ここで死んで、その瞬間までポケモンが好きだったって証明してください……!」
絶叫し、隠し持っていたナイフを手に走ってきた。ダイゴは驚愕して身が竦んでしまった。いっそポケモンの攻撃ならば少しは反応できたかもしれないが、人間が刃物で自分を刺そうとする光景は今まさに初めて見るものだった。動けなくなってしまった。
メタグロスはダイゴを守るために技を出そうとした。しかし、あろうことか、身を竦ませたはずのダイゴは相棒の気配には反応できてしまった。さらに
「だ、駄目だ、メタグロス!」
そう言ってしまった。反射的に人間への攻撃を止めてしまったのである。そしてメタグロスもまた反射的にダイゴの言葉に従う動きをとってしまった。
メタグロスのスーパーコンピュータ並と言われる頭脳ならば、自分が動きを止めた結果がどうなるか、鮮明に脳裏に描くことができただろう。わずか先の未来にある光景をコマ送りのように。目の前でトレーナーが刺されることも、血潮がどう噴き出るかも。その量や軌道まで鮮明に。その結果を自分達自身が招こうとしている。これまでの生涯ずっと、自身の頭脳が導き出す合理的な結果よりも優先してきたほどの人間の言葉によって、そうなろうとしていた。
瞬間、メタグロスの口からは今まで誰も聞いたことがないような悲痛な叫び声が出た。
一方で警察官達も動いていた。唯一地上に立っていた警官は犯人を取り押さえようと走った。二人の先輩も、ハイビスから飛び降りて向かっていく。
ハイビスは弾かれたように飛んでダイゴの方へ向かっていき、その間も人間である犯人に対して言葉で何度も念じ続けた。
(止まれ……止まれ……止まれ……!)
しがみついて庇うには人の長い手足の方が適しているため、ダイゴの体に届くと同時に人の姿に変わった。犯人も間近まで迫ってナイフを振り上げた。抱きしめるために人の姿になったのであって、喋ることは忘れていたハイビスはそのまま念を送り続け、
(……止まれ‼︎)
その念が犯人の思考に届いた。動きが止まったため、すんでのところで上司が手を押さえた。しかし手を掴まれたところでまた抵抗し始めた。止まれと念じ続けているとそのうち犯人どころか、犯人を抑えようとしていた上司も先輩も、自分が腕の中でかばっているダイゴも、近くで固まっていたメタグロスも、全員がはっとしたようにハイビスを見つめた。彼自身は犯人にテレパシーを伝えることだけで頭がいっぱいになっていた。
(……なに……お前はなに……?)
当惑した顔のまま犯人はまだナイフを動かそうとしている。だが頭に浮かんでいる疑問が伝わってきた。
(……さっきまで、青い……ポケモンだった……)
犯人の思考が過去を遡ったのがハイビスにも見えた。身を寄せてくる赤い羽根が生えたポケモン。その近くを飛ぶ青い羽根の生えたポケモン。
また一つ犯人の思考が過去の映像を探っていた。そして映る。死んだ魚の鱗をナイフで削いでいる時に現れた赤い羽根のポケモン。先程ダイゴに振り上げたのと同じように、そのポケモンにナイフを振り上げ……致命傷を受けたポケモンが最後の力を振り絞ってどこかへ飛び去る後ろ姿……。
(……お、お前……お前……!)
犯人の脳裏にまたハイビスの声が響いてきた。怒りに震えている。
(そんな風に姉さんを殺したのか……!)
(なに? お前はなんなの?)
(分からないのか。さっき、お前の思い出にも映っていたじゃないか)
犯人が目を見開く。そして犯人の頭の中で手繰られた記憶の中では、また青い羽根のポケモンが飛んだ。
(そうだ、それだよ)
(……! や、やめろ。さっきから……人の記憶を探るな……!)
(ちょっと違う。オレに記憶から見たいものを探し当てるまでの力はない。お前が勝手にオレを見ながら思い出してるだけだ)
犯人は口を開いてハイビスと話し始めた。ハイビスの方はテレパシーから切り替えられていないままだった。
「……あの子の弟……じゃあ、敵討ちに来たのか……」
(そうなるな……ただ……)
自分がしがみつくようにしてかばっている人間が先ほど言っていた言葉を思い出した。自分の中の迷いにもまた答えを出す、犯人への「罰」が分かった気がした。
(ダイゴさんは……人間なのにポケモンのことを思って、お前を『裁きの場所に連れて行く』と言った。それならオレは、ポケモンだけど人間のお前を思って同じ言葉を言ってやる)
犯人の思考がまた過去に遡っている。工作を一人でしていたり、ポケモンを育てていたり。ある日クラスメートに言われたこと、家の前で冷たくなったポケモンを抱きしめたこと。
(裁かれろ!)
犯人が唇を噛み締めた。
(なんでこんな真似をしでかしたか、自分はどんな人間なのか、自分はもともとどういうことを望んでいたのか、全部言葉にしてぶちまけろ!)
「嫌だ……!」
(そりゃあ嫌だろう。言葉なんて上手く表現できない。言葉で伝えられないことは確かにいっぱいある。けど、試す前からそれを言い訳にしちゃ駄目なんだ、オレもお前も)
「自分の……本当の心なんて、誰にも知られたくない……」
(言えよ! 言えなくてお前は自分を抑えられなくなったんだから! そうさ。オレはお前の過去を覗いたところで、お前に何の共感もできなかったし、やったことが許せなさすぎて何の同情もできない! もし敵討ちに来た奴が、お前が罰を受けることとお前をぐちゃぐちゃに捻りつぶすことをイコールで考える奴だったら今頃そうなってるし、オレもそれはおかしくないと思う。でもオレは……犯人を捕まえようとする警察の先輩達やダイゴさんと一緒にここまで来ちゃったし、やっぱり……)
ここで一度思考がうまく形にできなくなってしまった。しかし、犯人を取り押さえようとする上司や先輩警官たちの目線が、完全に犯人ではなくハイビスの方を見ていることに気づいた。メタグロスもまたそうだった。腕の中にいるダイゴはその腕に自分の手を添えていた。彼の手にも力がこもったのを感じて、ハイビスはこの場の全員が自分の次の言葉を待っていると分かった。もう一度、勇気を奮い起こした。そして人の姿なら喋ることができるのを思い出した。
「……お前の事は捕まえたい! いいか、捕まって裁かれて、お前は自分の思いを人に伝える。それは、お前にとって罰でもあるし、救いでもある。言いたかったことがやっと言えるからだ。批判されるだろうし、お前は罪をこれから先の人生を使って償わないといけないし、時には自分がしでかしたことで心が苦しんだりもするだろうし、それが罰になる。でもやれ、思いを言葉にする努力をしろ。お前は人間なんだから。さあ……裁かれろ‼︎」
「……う……う、うぅ……」
犯人の口からはもう抵抗の声が出てこなくなった。そしてついにナイフから手を離し、落ちたナイフが地面にぶつかる音がした。犯人自身も体の力が抜けてしまったのを警察が三人掛かりで拘束した。
ハイビスの方も体から力が抜けてしまい、かばうためにしがみついていたダイゴに今度はそのまま寄りかかった。
「怖かった……」
先ほどとは打って変わった弱々しい声を出した。
「ハイビスさん。でもよく……ありがとう……」
「マジで怖かったよお。あいつの記憶で姉さんが刺されるのを見ちゃった……だから……もし、ダイゴさんも刺されてたらどんな感じなのか、想像できる。そうならなくて良かった」
ダイゴはハッとして、目で相棒を探し始めた。そして見つけると、ハイビスに一言断って体を離してもらいメタグロスに近づいていった。メタグロスの頭に手を乗せると、体が小刻みに震えているのが伝わってきた。
「きみも、怖かったのか……」
メタグロスが自分のトレーナーの無事を確かめるように、赤く光る目を向けた。赤い光はいつもよりも揺らめいていた。
「メタグロスみたいなカチカチな生き物が、オレたちみたいな刃物一本で死ぬ生き物を大切に思うのって、しんどいだろうね……」
ハイビスもダイゴの隣まで歩いてきて、メタグロスに同情するようなことを言った。ダイゴは黙ってメタグロスの頭に自分の頭を乗せ体を寄せた。メタグロスからすればそれはどのような感触だったのか、彼にしか分からなかった。しばらくして彼はまたボールの中にしまわれた。
滝を降りる時には、エアームドと元の姿になったラティオスとが手分けして人間を乗せていったので、行きよりも手早く下に着いた。犯人を確保したと無線で外にいた応援を呼ぶと、すぐに何人も一行の前に現れた。犯人の身柄を引き取る者や、また犯人から盗んできたポケモンの隠し場所を聞き出すと保護へと向かう者がいた。犯人を引き渡す直前、ハイビスは姉の心の雫を取り出し「姉さんになにか言うことはないか」と聞いた。犯人はその玉がなんであるか知らないはずだが、何かを察したように思案し少し経ってから
「……自分で殺しておいて……誰も信じるはずないし、自分ももう信じられない……けど、あなたが遊びに来てくれるの嬉しかった」
と言った。
「……姉さんは信じるんじゃないか?」
犯人はそのまま連行されていった。
それから、応援の人々が洞窟の中をあれこれ動き回っている様子を一行はしばらく眺めていた。警官の一人が口を開く。
「今はみんなワタワタしてるからいいけどさ、落ち着いてきたらこいつ誰ってなるよな」
親指でハイビスを指し示した。
「あの、オレ……本当は、このメンバーだけでいるうちに事件解決して、それでみんなの記憶は消しちゃって、帰るつもりだったんです」
「さらっと怖いこと言うな」
「元に戻すんですよ。みんなを騙して、オレっていう部下がいるんだ風にしちゃったから……」
上司は「ほう、そうか」と言った。先輩の一人、探偵が好きなあの警官もまた口を開く。
「まあお前としても、記憶を消しておきたいよな。我々から正体がどんどん漏れたら厄介だものな。絶対忘れてもらいたい訳だ」
「な、なんでそんな意地悪な言い方するんですか?」
ハイビスが途端に反論し始めた。
「誰かにずっと覚えていて欲しいって、むしろ人間の特徴的な考え方じゃないんですか。オレはポケモンだからそういう感覚ないって思ってます? そんなことないよ」
「なら記憶は消さないで帰れよ。周りは頑張ってごまかしておくよ」
先輩警官はニヤッと笑ってもう一言言った。「そうだろうと思ったよ」
「せ、先輩推理しやがったー!」
「こんなの推理じゃないよ、お前が分かりやすすぎるだけだよ!」
他のメンバーはこのやりとりを聞いて、「そういえばこの事件、謎解きっぽいものは一切なかったからなあ。いろいろ良かったなあ」と思ってしまった。そして顔を見合わせて笑った後、五人で出口へと歩いていく。
「後で秘密が漏れていくかもしれない厄介さなんて、今この瞬間の幸せには勝てないですねー」
お気楽ポケモンは軽い足取りになってそのまま出口まで進んでいった。
ところがだった。
ハジツゲ側の出口では他の警察官達がもめている騒めきが広がっていた。
「犯人が見張りで飛ばしていたエアームドを捕らえようとしたら……」
一行が騒めく輪の中を見るとその中心に、無理やり空から落とされたらしいエアームドが翼を広げ体をじたばたと動かしていた。周りにはエアームドの翼で切られたらしい人が何人もいる。
「もうお前の持ち主は捕まったんだって伝わらなくて……」
エアームドは暴れ続けた。しかも暴れ方が尋常ではなかった、半狂乱と言ってもよく、周りのことが把握できているかも怪しかった。そのうち、ピシリ、キシリと金属が擦れるような音も聞こえ始めた。
「悪あがき……!」
ダイゴが気がついた。後で説明されたところによると、ポケモンが技を打てる回数には限りがあって、その限界を超えると自分を傷つけてでも無理やり体を動かそうとする「悪あがき」という状態になる……しかしこれは本当に後で聞いた話だった。なぜなら、この時のダイゴは「エアームド!」と叫んで、誰も近寄らない鋼鳥へ一目散に駆け寄っていったからだ。暴れるポケモンに腕を回してしっかりと抱きしめた。それでもエアームドは翼を動かし続け、刃物のような翼からダイゴの服の切れ端がとびちった。
周りは驚いて助けに入ろうとしたが、正気を失っているポケモンが恐ろしく、どうしていいか分からなくなってしまった。そもそもダイゴ本人が、いつもなら自分のポケモンを出し攻撃させることでエアームドの動きを止めていてもおかしくはなかった。だが実はこの時、冷静な判断ができなくなっているほど彼の心は疲弊していた。本人もあまり自覚していなかったがしかし、彼はこの三日の間、殺害現場を見せられ、ユレイドルが捕獲されるところを見せられ、ネンドールが目の前で大爆発し、自分と四天王が愛情を注いでいるポケモンと同じ顔ぶれを勝負に出され、それらを倒してでも勝ったかと思えば、犯人には殺されかけたのだ。
だがどんなに疲弊し、普段通りの対応ができなくなっていても、目の前でポケモンが苦しんでいるとなれば体が動いてしまったのだった。しばらく耐えて抱きしめていると、エアームドが少しずつ大人しくなっていったので周りはまた驚いた。動きが完全に止まり、ダイゴがエアームドから身を離した時だった。
応援に来ていた警察官達があっという間にエアームドに群がり、荒々しく鋼の体を掴むと、ダイゴの目の前で檻にガシャンと放り込んで、激しく檻が揺れるまま運んでいった。本当に「あっ……」という間だった。一連の流れを前に、ダイゴがそういう声をあげて虚しく手を伸ばしていた。
それからしばらくの間、ダイゴはしゃがみこんだまま何も言わなかった。この三日間ともにいた仲間が心配して近づき始めた時、彼は両手で顔を覆った。
「ダ……ダイゴさん、ダイゴさん……」
ハイビスが慌てながらとにかく名前を呼んだ。しかし反応がなかった。それだけでハイビスまで打ちのめされてしまった。人間とは名前を呼べばこちらを向いてくれる生き物ではないのか。呼ばれた方に顔を向けて、微笑んでくれて、挨拶をしてくれる生き物ではないのか。どうして。いよいよ訳が分からなくなり、途方に暮れ、悲しくて悲しくてたまらなくなり、それでも肩に手をかけてもう一回名前を呼んだ。
「ダイゴさん……!」
肩がビクッと震え、ダイゴが呼ばれた方を向いた。しばらく表情を作るのも忘れていたように顔を向けていたがやがて
「……ああ、そうだね。ごめんよ。まだ止まるわけにいかなかったね」
そう言って立ち上がった。
「な、何言ってんの……? ねえ、その顔やめろよ……」
「不安にさせてしまったね。分かった、もう困った顔はしないから」
自分を辛そうに見ている周りを落ち着かせるように微笑んでみせた。だがかえって相手は泣きそうになって訴えてきた。
「違うよ! こんな状況、苦しくなる方が普通だろ。苦しいのすっと消した顔するのをやめろって言ってんだよ!」
「…………っ」
俯いた。周りの警察三人がダイゴの肩や背に手を置いた。改めて姿を見ると、エアームドの翼であちこち服が破け、頬のあたりも切れたのか、赤い線が一本走っていた。
「……いや。もう少しばかりは強がっておくよ。することがまだあるからね」
ダイゴは顔を上げ、声に力を込めて答えた。
「することって……」
「犯人を逮捕すること自体は、この三日間でできた。でも被害を受けたポケモンのその後、確保された犯人のポケモン達のその後、情けないことにボクはまだまだ知識不足でどうなるのか分かっていない。特に犯罪に加担したポケモンというのは、更生する場所があるのか、……さ、殺処分されてしまうのか、知って、ボクにも何かできることがないか探りたいんだ。犯人には裁かれろと言っておいて虫が良いことだけど、よりたくさんの命が助かる道がないのか、行動してみる」
ハイビスはいよいよ「もっと苦しい思いするかもしれないのに……」と泣き出してしまった。そんなハイビスを申し訳なさそうに見た後、周りの警察官達にも声をかけた。
「皆さんご心配をおかけしました。でもお気になさらないでください。これはボクの身勝手な振る舞いでしかないんです」
「だからこそ、止められなくなるじゃないですか……」
上司がポツリと答えた。ダイゴの意思が、すべて高尚な理想で占められているのなら「あなたがそのような重責を負わなくてもいい」などと綺麗な労わりの言葉をかけて諌めることもできたかもしれないのだ。半分ほど彼自身の「好きなポケモンだから助かってほしい」という自分本位な欲求が含まれているからこそ……そしてここにいる者は揃って「ダイゴの願いが叶ってほしい」と思ってしまうからこそ、止められなくなってしまったのだった。
犯人が逮捕されることによって、おかしな五人パーティーだった三日間は終わった。その後は、数日間だけ存在していた部下の存在をごまかすべく、警察の三人はあれこれと知恵を絞っていた。もちろん事件の後処理や書類仕事なども一つずつ片付けた。事件に関連する噂は、三人が務める職場にもちょくちょくと入ってきていた。被害を受けたポケモンの数や、その中で命が助かったものの数、そうならなかった数、大切な家族を失ってしまった人の嘆きなども耳に入り、三人は苦しい思いをした。加害者側になったポケモン達は、多くは無事……という表現が適当かは分からないが、更正施設に入れられたとも情報が入ってきた。
ただし、最後に捕らえられたエアームドは檻の中でまた暴れまわり、誰から差し出されても食事を受け取ることもなく、いっそ犯人を呼んだ方が良いのではという意見が出始めたタイミングで……残念な結果になってしまった。そして、その知らせだけが身柄を拘束された犯人にも届き、犯人は泣き崩れたという。さらに、泣き崩れたという噂が世間にも広まって「元はといえばお前のせいだろう」という意見が飛び交った、とも。
しかしダイゴが何をしていたかという話は、なかなか三人の警察官達のところまで入ってこなかった。本人が言っていた通りに事件に巻き込まれた被害者、加害者、両方のポケモン達のために行動していたらしいことが飛び飛びに伝わってくるのだった。だが一つ、おかしな噂が出てきた。エアームドが悲しい最期を迎えてしまった後、ダイゴが犯人に面会したという話が出てきたのである。いくらなんでも自分を殺そうとした人間に面会などできるものなのかと三人は疑い、さすがにこれはデマだろうと考えた。そういえば、カラクリ大王は願っていた通りある日犯人と面会したという。こちらも何を話したかまでは伝わってこない。
事務的な処理が一通り終わろうとする頃、事件の被害を受けた人々、警察など関わった人々を集めて、今回の事件で犠牲になったポケモンに対する大規模な弔い行事をする日取りが決まった。場所は、ポケモンを葬る聖なる山「おくりび山」だった。
おくりび山は、まず山中の洞窟に入る。この洞窟は天然のものだったのか、それとも人工的にくりぬかれたものなのか、今となっては知らない人が多い。そこに入ると、きちんと整備された壁、床でできた空間があり、そして寿命を終え葬られたポケモンの墓が並んでいる。階段があり、数階分にわたって墓がある部屋が作られていた。また別の出口から外に出ると、山頂まで歩いていくことができた。
山頂までの道の雰囲気は、洞窟内にある墓地そのものの空気から一変する。洞窟内は墓の前で大事な一つの命を悼み、惜しむための場所のように思えるのに、山頂付近は、まるでホウエンの命の流れ、もしくはおくりび山に漂う霊的なエネルギーがうねっているかのような、力を肌で感じる場所に変わるのだ。だからこの山は、厳かだが、静かと表現するのはあまり正しくない、そんな場所だった。
うっすらと霧が立つ山道にも墓がちらほらと立っていた。その風景の中を事件の関係者達は弔いのための服装で登っていった。山頂には山を守る男女の老人が立っており、男性の方が集まった人々に呼びかけた。
「皆様がた。痛ましい事件の犠牲になったポケモン達のために、この山まで足を運んで下されたこと、ポケモン達自身に代わり、わしからお礼を申し上げたい。おくりび山はポケモンの魂を慰めるためのところ……。ここは高い場所にあって、ホウエンを見渡すことができるから、きっとポケモンの魂も安らぎを覚えるのだろうと、昔から考えられてきました」
老婆の方はこういった。
「ここには連日、多くの人が墓参りに訪れてくだされる。その中の、名前も伺わなかった一人のトレーナーがある日こうおっしゃっていた。『今はもういないポケモン、今一緒にいるポケモン、それに、これから出会うポケモン……全て大切なポケモンであることを覚えていてほしい』……。今日は、いなくなってしまった大切なポケモンのために人々が集まっていることは重々承知していますが……これから先、出会うポケモン達を大切にするためにも、ここで、十分に、心の整理をしていかれよ」
この日はダイゴも招かれており弔いにやってきていた。そして弔いの儀式が済んだ後は一人で崖の前に立って、海を眺めていた。おくりび山がある場所は小さな島で、山頂から海の方向へは霧が流れていなかった。先ほどの老人の話にあったように、自分にとって懐かしい場所がある方向に立てばその風景を遠目に見ることもできるのだろう。
「ダイゴさん。オレも来たよ」
聞き覚えのある声に呼ばれて、ダイゴが振り向いた。
「ちょっと久しぶりだね、ハイビスさん」
その挨拶に、人の姿をとって現れたラティオスはパァと明るい表情になった。
「へへへー。オレもこの姿になるの久しぶりで……あっ良かった。ほっぺたの傷がなくなってる」
「ほっぺ? ああそうか、最後にハイビスさんと一緒にいた時……」
「うん。あれから、オレたまに警察の様子を覗き見してたよ。先輩達も大変そうだった」
「そうだろうね。今日は会ってきたかい? ボクは儀式が始まる前に挨拶したけど」
「ううん。他の警察の人もいたから。せっかくオレのことをごまかしてくれたのに、ぶち壊しにしちゃったらまずい」
ダイゴが続けて、今は姉と過ごしていた住処に戻ったのか、ラブカスのハートちゃんは一緒に暮らしているのかなどと聞いてきたので、ハイビスは「そうですそうです」と首をこくこく動かした。
「ダイゴさんの願ったこと、全部は叶いませんでしたね……オレまでめちゃくちゃ悲しい。しかもいっつも、泣いてるのはオレの方ばっかり。元々オレは涙をどうやって出すんだかも知らなかったのに、姉さんのことで泣いちゃってからはもうドバドバです」
「でも、君がそうしてくれるだけでボクは心が軽くなるよ。本当にありがとう。それにね……ボクもやっぱり泣いてしまったよ」
「えっいつ?」
「ここに来る数日前くらい……はは」
笑われ、具体的にいつどこで泣いていたのかは誤魔化されてしまった。
周りには霧がかかり人気がない。ふうとハイビスがため息をついてから呟いた。
「願いを叶えるポケモンとか、いればいいのにな……」
「願いを叶えるか。言い伝えなら存在するよ」
「い、いるんだ! どんなポケモン?」
「うーん。ところできみにどんなポケモンって聞かれる度に気になっていたんだけど、ボクに聞くってことは説明にボクの主観が入るけどそれでもいいの?」
「要するにダイゴさんからしか聞けない言葉ってことでしょう。ぜひぜひ聞きたい」
これにはダイゴも照れ笑いした。そして説明してくれた。
「ジラーチというポケモンでね、絵本に描かれるお星様のような姿をしている。千年もの間眠っていて、周期がくると七日だけ起きて過ごすといわれているんだ。起きている間、どんな願いでも叶えてくれる」
「うわあ。千年のうち七日しかチャンスがないって会えた時点で運を使い果たしそう」
「まあジラーチも一体だけとは限らないから、今年起きる個体もいれば、来年起きる個体もいるのかも知れない。それにボク、寝ている状態でも会ってみたいな。寝ている時は体を硬い結晶で包んで守っているそうだから。どんな形の結晶なのかな」
「あははっ、さすがダイゴさん! 歪みのない石マニア!」
ハイビスが揶揄った。ダイゴも笑ってくれたかと思ったタイミングだった。
「……ところできみは……死者を蘇らせる願いをすれば、ジラーチは叶えてくれると思うかい?」
このようなことを問いかけられた。ハイビスは固まってしまった。
「いきなりごめんね。先にボクの見解を話そうか……途方もない願い事だから、こればっかりはジラーチに断られるかもって思ってるよ」
「途方もない?」
「おくりび山に並ぶお墓、見ただろう。途方もない数の生き物が、亡くなってそして惜しまれているんだよ。だから、願い事の中で最も叶え出したらきりがなくなってしまうのが、死者を蘇らせることだと思うんだ」
「ふうん。じゃあオレの考えは、そうだな……」
うーんうーんと考えだし
「どんなお願いも叶えてくれるんでしょ? ならジラーチは叶えようとすると思うけど、オレ的にやめといた方がいいかなって感じ」
ダイゴが理由を聞いたので、ハイビスは少しずつ理由を言葉にしてみた。
「生き物って死んだら自然にかえるわけで、あそこのお墓の下に眠ってる生き物だったら、土になって、近くに生えてる木とか花とかの一部になってそうじゃないですか」
ぼんやりと見える墓と木を指差した。
「生き返らせようと思って、かつて体だったものを集めようとする時に、木からその生き物だった部分を引っ剥がすことになるのかなって。そういうのどうかなあ……と思って」
「なるほどね」
「にしても千年に一回起きてまた寝て……って大変そうな生き方だな」
「どのくらい寿命があるポケモンなのかは分からないけど、複数回そうした寝起きを繰り返しているのだとしたら、起きる度に七日間を楽しい思い出で一杯になるよう過ごしているのだろうね。そうであって欲しいな」
「そうであって欲しいですね」
《願いを叶える》ポケモンの生涯に対して「そうであって欲しい」と言うのも何か面白いなと、ダイゴとハイビスからくすくすという笑い声が出た。ハイビスがまた話し始める。
「もしジラーチにお願いをするなら、叶えるジラーチの方も楽しくなるやつが良さそう」
「というと?」
「ああ、ちょっと待って。考えるよ」
相変わらずおくりび山には霧がかかっている。ハイビスは元の姿で飛んでいて雲の中に潜り込んだ時の感覚に似ていると感じた。そして、前に飛んでいる時に考えたことを思い出した。
「オレ、虹を見ると下をくぐりたくなるんですよ。だから、くぐることができる虹を五つぐらい並べて出して欲しい」
「ははは、いいね。虹が五つも並んでいる光景なんてボクも見てみたいや」
「でしょう! ……そうだ! オレのテレパシーでも、あなたに見せてあげることはできますね!」
「ああそうか。イメージした映像を見せる力があるものね」
「オレ、ダイゴさんには全然ラティオスっぽいところ見せてないから、ここは披露させていただきまーす」
手を貸すように言われダイゴが右手を出すと、ハイビスの方はダイゴの右手を両手で握った。
「まずは虹が五つ並んでいる姿をイメージするの?」
「そうですね……うーん……」
なぜかここで彼は迷いを見せた。
「……やっぱり、虹の方はもしもジラーチに出会えた時にお願いする内容としてとっておこうと思う。見せたいものを思いついてさ。ダイゴさんと最初にご飯食べた日、オレ、言葉で上手く伝えられなかったことあったよね?」
「うん?」
ダイゴは何のことを指しているのか振り返ってみた。
「えっと……ハイビスさんが自転車に乗った子どもと追いかけっこをした話……だったかな? きみも自転車に乗っていたのかって聞いたら違うと言われたような」
「そうそれ。自転車なんてオレ乗ったことない。もう分かるよね」
握る手に力がこめる。目を閉じて、本来テレパシーを使うのに必要ない言葉をわざわざ唱える。
「あなたに翼をあげたい思い。代わりにオレの翼が捉えた世界を」
日が昇る前。夜の間に冷やされた大気。目で見える映像だけがテレパシーで伝わっているはずだが、肌にひやりとした感触があたった気がした。もし実際に立っていれば草木の匂いも濃く感じる時間帯だ。木の葉から朝露が一粒落ちた。下にある水たまりに波紋が広がった。
突然視界が上へ上へと上がっていった。この日の朝、ラティオスが空へ上昇していった瞬間の光景なのだろう。先ほど見えていたものが全て下に、全て小さくなっていた。
海岸線に沿って飛んでいる。横から光が走り、そして広がった。朝日が海に上がったのだ。
続けて草原の上へと飛んでいった。下に広がる風景が、風が吹くたびに波のように光る緑に変わった。風にも色があった。カットされたダイヤモンドを明かりにかざして回しているかのように、色が現れては消えていった。
草原を一人の子どもが自転車で走っている。朝からどこに行くのだろうか。空飛ぶポケモンは近づき、そして追い越した。振り返ってどんな顔をしているのか覗いてみる。子どもは、初めて見るポケモンに頬を赤く染め目を輝かせていた。そして一層ペダルに力を入れて自転車を漕ぐ。前を行く背中を、真っ直ぐな瞳をそらさずに追ってくる。
「この子だったのか……」
「えっ?」
記憶にある風景を見せている途中でダイゴが口を開いたので、ハイビスはうっかりテレパシーを途切れさせてしまった。
「これは確かに、どんなに言葉で説明されても気づかなかっただろうな。あの自転車に乗っていた子、ボクの知り合いだったんだよ!」
ダイゴの方は普通に映像が終わったと思っているのか、明るい口調でこう告げてきた。今日話していた中で一番愉快そうな表情だった。ハイビスは反対に複雑な心持ちになった。
「はあ。そうなんだ……なんかなあ」
「どうしたの?」
「せっかく自分の翼で飛ぶ景色を見せたのに……それより人間の知り合い見つけた時の方が嬉しいんだ……」
「ああ、ごめんね。でももしこのテレパシーを見せた相手もボクじゃなくあの子なら……お返しで自転車でホウエンを駆け抜ける視線をプレゼントできるかもね」
「はあ」
そもそもあの三日間でダイゴにもらったものを返したいような思いでやったのだがと、ハイビスはわざとらしく頬を膨らましてみた。
「もういいよ。オレそろそろ帰ろうかな」
「どっちの方向に帰るんだい?」
「どっち?」聞き返すと、どこの空をどう飛んできたかを教えて欲しいとダイゴが言うのだった。
「ああもう、こんな感じだよ」
一旦手を離していたのをもう一回軽く握って、テレパシーで伝えた。実のところ必ず手を握る必要はないのだが、触れている相手の方が伝えやすいのである。上から見たおくりび山の風景が二人の頭の中を流れていった。
「なるほど。ありがとう、分かった。それじゃあ、ハイビスさんが帰るならボクも急がないといけないから」
随分と最後のセリフはそっけなく、ダイゴはスタスタと去って行ってしまった。
「えっちょっと……」
後ろ姿はもう霧の向こうに見えなくなった。
「帰るとは言ったけど……ええ……もっと話したかったのに……」
どうもダイゴと言う人は、どれだけ話をしても掴みきれない部分があるような感じがした。だからもう一度会いたいと思わせるのに、そう思った時には自分は彼がどこで何をしているのかさっぱり分からないことを悟ってしまう、そんな雰囲気の人だった。話をしている間は、いくつ質問しても親切に言葉で答えてくれるようにも思えるのだが。
「言葉で答えて……そういえば……」
ハイビスは今も肌身離さず持っている、姉の心の雫を手に取った。事件の二日目、自分が泣きながら「この石を姉とは思えないのに、大切に持ち歩いてしまうのはなんで」と問いかけた時、あの時だけはダイゴは言葉で答えずに黙って手を撫でてくれた。そう今の今まで思っていた。
「でも、手を撫でる前になんか言ってたな……確か、姉さんの……」
お姉さんの名残を見せて欲しい。
「名残……?」
ああそうか、とハイビスは閃くものがあった。犯人の記憶を見た限り、姉は刃物で刺されたその場で死なずに致命傷を受けた状態で懸命に飛んでいった。最期まで弟のところへ戻ろうとした先で心の雫を残していったのだ。
この宝石は、姉そのものではない。弟は姉という生き物の温もりが好きだった。翼が好きだった。形が好きだった。だから今でも寂しく感じている。しかし姉は、本来なら体がすべて自然にかえってしまう世界で、わざわざ一部だけでもと残していった。
それに、ダイゴは「名残を見せて欲しい」と言って心の雫を目の前に出された時、雫とハイビスの手と、両方を握った。
「オレもか……」
姉につけるはずだった名前を名乗って、もう自然の中に消えたはずの姉の姿を一人覚えているハイビスもまた、彼女のこの世の名残だ。そしてこれからもずっと覚えているために姉の心の雫を大切にしている。そう、言葉で答えていたのだろうか。
「…………」
いやいや、と思い直してみる。そこまで意味を込めて発言したかどうかなんて分からないぞ。
「ダイゴさんは同じ人間からも変な人に思われてそうだけど、ポケモン視点で見てもやっぱり変人だよなあ」
我ながら酷い言い様になり笑えてきてしまった。
さあ今度こそ帰ろうと、彼は人の姿も言葉による思考も切り替えて、本来の姿へ戻った。
ラティオスの青い翼は風を切り裂く鋭いものだった。早く飛ぼうと思ったなら、引き絞った弓から放たれる矢のように一瞬の線となって空を横切ることもできた。だがおくりび山から帰ろうとするこの時は、そのようなスピードを出す必要はなかった。風を、様々な色に変わっていく光の束のように知覚しその上に体を乗せた。滑るように悠々と飛んでいた。悠々と。ラティオスは美しいポケモンだ。
「ハイビス!」
「おーいハイビス!」
張り上げた声が突然聞こえた。言葉で考えるのを止めていたので、聞こえてきた音を瞬時には知覚できなかった。ただ懐かしい響きだと直感して、声がする方を向いた。その時まるで、おくりび山の大気にも意思があって優しく手で払ってくれたかのように霧が横に流れていった。声の主達の姿が現れた。
警察のフリをしていた時に先輩や上司と思って親しんでいた三人の警察官達が山の端に立ち、ハイビスに手を振っていた。
「ハイビスさん、驚いた?」
三人の隣で、ダイゴもこちらに声をあげて手を振った。先ほど彼に帰る方向を聞かれたことを思い出した。
ラティオスは美しい姿のポケモンだったけれど、飛びながら手を振り返すことは難しい形だった。自分で自分にハイビスと名付けていたこのラティオスは、生まれて初めて自分の形がおしいと思った。手を振る代わりに、何度か人間達の周囲を旋回して飛び始めた。そして、自分に向かって手を振り名前を呼ぶ人間達の姿を見つめる。
思いを込めて振ることができる長い腕の形。自分のことも何度も撫でてくれ背を叩いてくれた温かい手の形。よく動き、声を出し、傷つく言葉も優しい言葉も紡ぎ出せる口の形。人間も、とても綺麗な生き物だ。
「元気でな!」
「さようならハイビス」
「これからも頑張れよ」
「またどこかで会おう!」
その言葉に送られて、ハイビスという名のラティオスは自分の住む場所へと帰っていった。