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    KiyoNago32

    @KiyoNago32

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    KiyoNago32

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    間に合いませんでした!(土下座)
    5月か6月ごろまでに完結させて本を発行する予定です。よろしくお願いします。

    butterfly effect 04チャタールームの煌びやかな照明が落ちる。既にパーティー参加者は全員帰途に付き、ルームにはそれを見送った藍曦臣だけが残っていた。
    薄暗い部屋の中、シャンパングラスを片手に窓際に立って、ビクトリアハーバーの夜景を眺めている。こんな時でもなければ、「絵になるな」とでも言って揶揄っただだろう。二人で過ごした日々が、もう遠い過去のように思えてならなかった。
    藍忘機がボーイに確認したところ、夜八時になるまで、このチャタールームには誰も入らないようにと言われているらしい。あと三十分、それが偶然にも江澄に残された時間だった。
    「行くのか?」    
    魏無羨の問いに、江澄は静かに頷いた。ネクタイを締め、スリーピースのスーツを正す。
    まるで勇気付けられるようにその背中をポンと叩れた。江澄は背筋を伸ばして、一歩を踏み出した。

    足音は殆ど立てなかったが、藍曦臣は気配を察したのか、静かに江澄の方を振り向いた。
    「驚きました。まさかここで会えるとは」
    そう言いながらも藍曦臣は驚いてはいなかった。どこか、こうなることを予想していたのかのような態度でもあったが、江澄との再会を喜ぶ様子もなかった。
    「話をしに来た」
    「あなたとの面会は断り続けてたはずですが?」
    「だからこんな手段に出ているんだ」
    「協力者は忘機と魏無羨、後は阿瑤ですかね」
    「………」
    喧嘩をしにきたわけじゃないのに、藍曦臣の嘆くような口調はどこか自棄気味だ。無言のままの江澄に、藍曦臣が僅かに目を伏せた。
    「…いいでしょう、上に立つ者として、部下の進言にも耳を傾けなければ。それに、これが最後ですから」
    「最後に、するつもりなのか?」
    「そうしなければいけないのです」
    「どうして?」
    江澄は苦しくなった。まるで胃の中に鉛でも詰め込まれたかのような閉塞感だ。話をしなければいけないと思うのに、聞きたいことも言いたいこともたくさんあったはずなのに、どの言葉も藍曦臣の意思を翻意させる力を持っているとは思えなくて、続く言葉が出てこない。しばらくお互いに黙ったままだったが、その均衡を破ったのは藍曦臣だった。
    「私は一つ、あなたに謝らなければいけません」
    「…何を?」
    藍曦臣はそう言うと、シャンパンの入ったグラスを机に置き、江澄に向かって頭を下げる。江澄は困惑していた。
    「あなたをずっと、騙していたこと、危険な目に合わせたこと、怪我を負わせてしまったこと…全てです」
    「そんなの…仕方ないことじゃないのか。記憶を無くしたのは俺の方だ。むしろ謝らなきゃいけないのは俺の方で、貴方は何も悪く」
    「出来ることなら、ずっと忘れたままでいて欲しかった」
    江澄の言葉を遮るように藍曦臣が言った。その声色に威圧があるわけではなかったが、どこか諦めたような雰囲気が漂っていた。それもまた、江澄の心を苛んだ。
    「……忘れたままなら、離れずに済むのか?」
    「……」
    もし藍曦臣がそうだと答えたなら、江澄は「なら忘れる」と言いたかった。
    それが出来るかどうかは別として、自分にはもう何もない。思い出したからといって、家族が帰ってくるわけでもない。
    でもきっと、それは違う。そんなことはわかっている。記憶の有無なんて関係ない。いつかこの出自と因果が自分に降りかかる。どれだけ藍曦臣が遠ざけようと思っても、自分が、ディーラーという職を選んだ時に、そして澳門金庭園で働くようになった時に、もう運命の歯車は動き出してしまった。
    「あの金庭園カジノの廊下で…初めて会った時、あなたはとても驚いていた。避けようと思えば避けれたはずだ。俺の存在など無視することなど容易かっただろう。でもあなたはカジノに来た。俺と一緒に、何度もポーカーをした。それはどうしてだ」
    責めているつもりはなかった。ただ、病室で「君を守るよ」と言ったまだ幼い藍曦臣の姿が脳裏を離れないのだ。あの頃から特別な感情が彼にあったかどうかわからない。でも、守るだけの目的なら、藍曦臣は自分とのコンタクトを取るべきではなかったはずだ。それでも接触を続けた藍曦臣の想いに訴えかけたかった。そしてこれからも関係は変わらないと、そう言いたかった。
    「あの日は本当に偶然でした。病室で別れて以降、二度と会わないと思って生きていたのに、いきなり目の前に現れるんですから。正直、幻覚を見たのかと思いましたよ。でも会ってしまったら、止められなかった」
    藍曦臣は静かに話し始めた。江澄と話すことやめられず、客とディーラーの関係を維持したまま、何年も何年も逢瀬を重ねたことを。それが唯一の、自分にとっての表の世界との繋がりだったと。
    出資者という立場であればカジノに出向くことは不思議ではない。それにハイクラス専用フロアであれば人目を避けられる。そう自分に言い訳していたけれど、偽札事件でそれは一変した。思えばあの時に会うのをやめていればよかったのだ。でもあと少し、まだ大丈夫、そんなふうにずるずると引き伸ばした。
    「偽札事件の犯人が温門会の構成員であるとわかった時、嫌な予感はしていました。あの温晁が再び勢力を取り戻そうとしていることもそうですが、あなたの存在が露見するのではないかと、それが不安でした。でもあなたと会うことを止められず、解雇することもできなかった。私は何より、ディーラーとして働く江澄が好きでした。優れたディーラスキル、ポーカーの腕、美しい所作、江澄に、あの場所で輝いて欲しかった。私が作った、この澳門一のカジノで。あなたの天職を、奪いたくはなかった。その思いは今も変わりません」
    「変わらないなら、今まで通りでいいだろう…?俺はあなたを、」
    「江澄」
    藍曦臣は江澄の言葉を遮るようにそう言って、首を振った。
    「これは最後のチャンスです。温門会の人間は今度こそ一人残らず全員殺しました。三聖会で事情を知る者には全員に箝口令を敷いています。あなたが、このまま黒社会と関わりなく暮らしていく為にはここで縁を切らなければなりません。カモッラのボスは、幸いあなたのことを私の愛人としか聞いていませんし、阿瑤の協力者を経て、江晩吟は銃撃戦で死亡したと伝えられています。今ならまだ逃げられますが、私のそばにいれば、いずれ必ずカモッラの目に入る。そうでなくても黒社会そのものに認知されてしまう。できればこの香港澳門から出て、アメリカにでも行ってください。魏無羨と一緒に。ベガスのカジノでも、あなたはきっと輝ける。それにあなたには資産がある。セキュリティのしっかりとした住まいをご紹介しますよ」
    最後の一言はどこか他人行儀で、信じられない思いだった。
    「こんな時に営業か?」
    「我が社は海外にも物件を保有していますからね」
    江澄の言葉も藍曦臣は意に介さない。
    そして彼が言葉とともに浮かべた営業スマイルは、江澄にある事実を痛感させた。藍曦臣の目はどこも笑っていなかった。釣り上がった口角はどこかアノニマスの仮面を思わせる。白龍という殻の中に自分自信を押し込んで、江澄を跳ねつけていた。江澄はただ悲しかった。
    「そんな事、俺は望んでない」
    「ええ、知っています。だからこれは私の願いです」
    「願い…?貴方が願えば、俺が大人しく言うことを聞くとでも?いいなりになるとでも?」
    「…江澄」
    まるで聞き分けのない子供を嗜めるような一言に余計に腹が立った。
    「記憶を無くしただけで、黒社会の重責から逃れて代わりに貴方を生贄に捧げて、挙句魏無羨の人生までも犠牲にしたのに、自分一人だけアメリカでのうのうと暮らすなんて出来るわけないだろう?!」
    「私の意思でしたことです。魏無羨も同じでしょう。それに何より、私の手は汚れている」
    「汚れてなんかいない!」
    「何も知らない貴方が、どうしてそんな事を言えるんですか?」
    「………」
    絶句する。その一言は、江澄を何よりも深く傷つけた。
    藍曦臣は視線を下げ、自分の掌を見つめた。
    「…もう、何人も殺しました。比喩ではなく、本当に殺したんです。自分で手を下した者もいれば、そうするように仕向けたこともあります。言ったでしょう、温門会の人間は全て殺したと。それに…貴方が親しくなったあの青蝶の恋人を殺したのも私ですよ」
    藍曦臣は、真っ直ぐに江澄を見た。その目は何処か苦痛に歪んでいた。そして言葉は嫌悪に溢れていた。彼が、彼自身を忌み嫌っているのだと、江澄は今更ながらに感じた。そんな人生を、どうして神様は藍曦臣に用意してしまったのだろう。
    藍曦臣と過ごした日々が何もかもが嘘だったとは思わない。彼は常に江澄の前で誠実だった。でもだからこそ今この瞬間が辛かった。藍曦臣の一番は、江澄と生きていくことではない。江澄が幸せに生きることなのだと、そこに自分自身はいないのだと痛感させられるようで。
    彼の幸せはどこにあるのだろう。
    「どうしてそんな辛そうな顔をするんだ。俺を死んだことにできるなら、貴方だってそうすればいい。何もかも捨てたってかまわないだろう?!生まれが全てを決めるだなんて不公平だ!」
    「それはあまりにも短絡的で無責任な言葉だ。それに私は子供ではありません。黒社会という場所は、誰かが道を指し示す必要があるのです。そうでなければこの世界は秩序を保てない。そうでなければ…あなたを守れないかもしれないと。そう思ったら、こんなところまで来てしまいました」
    「…………そんなの、俺は…」
    望んでないと、言いたかった。でも言えなかった。いくらなんでも、そこまで恥知らずにはなれない。彼の気持ちも、守られていた事実も、全て望んでない、頼んでいないと、そんなふうに言って藍曦臣を傷つけたくはなかった。
    銃を持ち、人を殺す。それだけじゃない。密航、人身売買、知識の乏しい江澄だってわかる。黒社会に綺麗事は通じない。カジノだって、重要な資金源の一つに過ぎない。そこに正義はない。そんな世界に身を置き続けることで、藍曦臣が、藍曦臣としての心を、この先どれほど保てるというのか。
    「貴方に会えてよかった。どうぞ末長く幸せに。さようなら、江澄」
    真正面から見据えられる。その瞳に捉えられることを、何よりの喜びだと思ったのに、今はこんなにも苦しい。江澄の目尻から涙が溢れた。藍曦臣は、一瞬腕を伸ばしかけて、けれどすぐにそれを戻した。抱きしめたかったのだろうか。むしろ抱きしめて欲しかった。そうしたら自分はもっと、何かを言えたかもしれない。藍曦臣はそのまま、静かにチャタールームから出ていった。

    江澄は藍曦臣を救いたいと思った。その気持ちに嘘はない。ただそれが、傲慢な願いだったということは認めざるを得ない事実だ。
    藍曦臣がチャタールームから出ていった後、しばらくして部屋の照明が入り、ホテルの従業員達が入ってきた。遠くにシンフォニーオブスターライツを彩る音楽が聞こえてくる。いつの間にか八時を過ぎたのだと江澄は気づいた。
    どこかぼんやりとした心地のまま、江澄は魏無羨と藍忘機に連れられ、再びヘリで澳門の病院に戻った。そこで二人とは別れ、一週間は静かに入院生活を送った。魏無羨は仕事の合間を見て何度か見舞いに来たが、藍忘機は来なかった。やはり藍清会の内紛がいい方向に進んではいないらしい。魏無羨は見舞いに来るたびに何度も江澄を慰めた。藍曦臣の言葉も、江澄の言葉も全て聞いていた魏無羨だったが、藍曦臣の決意の固さを知っているからか、はたまた江澄の置かれた立場の危うさを痛感しているからか、江澄を慰めはするものの、いつかお義兄さんに会えるよ、などとその場限りの嘘はついたりしなかった。
    毎朝の診察もこなし、記憶の混乱も見られないため退院が決まった。打撲の跡も目立たなくなり、藍曦臣がつけたキスマークは綺麗に消えた。火傷はもう少し治るのに時間がかかりそうだったが、それだけといえばそれだけだった。


    時の流れは何もかもを中和していく。同僚のロッカーにかけられていた花輪はすでになく、先日採用されたという新人がそのロッカーを使っていた。彼の不在を、皆はもう終わったこととして受け止めていた。それを責める権利は江澄にはない。人はそうやって不具合を均し、悲しみを癒していく生き物で、それが当たり前なのだ。こうやっていつまでも罪悪感に囚われている自分の方が特殊なのだと、江澄にはわかりきっていた。
    自身のロッカーの前で、聶懐桑に渡された勤務予定表に目を落とす。
    もちろん藍曦臣の予約はない。
    それどころか午前中は誰の予約もなくて、暇になるのがわかりきっていたので江澄は備品庫へ向かった。でもいざ備品チェックを始めてみると、あの日のことを思い出してため息が出た。
    一般フロアに出ても同じだ。どうにも嫌になって、江澄はまだ早いがエグゼクティブフロアに上がった。午後の予約客に備え、準備をしようと思ったのだ。
    けれど藍曦臣とよく使っていた部屋に入った瞬間、江澄は足を止めた。こんなにも寂しい空間だったかと、そう思わずにはいられなかった。
    言い様のない寂寥感に胸が痛む。煌びやかな内装、天井から下がるシャンデリア。磨き抜かれた大理石のバーカウンター、そしてポーカーテーブル。目を閉じれば、何度でもこの場所に座っていた藍曦臣の姿を思い出せるのに藍曦臣はもういない。もう会えない。そう思ったら怖くなった。仮に藍曦臣の願い通りアメリカに渡ったとして、ディーラーとして生きていくなら、自分は何度この瞬間を繰り返すのだろう。トランプをシャッフルするたびに、チップを渡すたびに、誰かの手元に、誰かの姿に、藍曦臣を重ねるのだろうか。
    幸せなキスも、温かな腕ももうないのに、ここにいれば嫌でも思い出す。記憶の残滓に振り向いても誰もいない。カジノも、ペニンシュラも、孤児院も、赤柱のバーだって、藍曦臣と行った場所はどこも同じだ。この澳門、香港で暮らし続ければ自分はきっと面影を探す。髪の長いスーツ姿の男性を、そして不動産関連のニュースを調べるだろう。そしてその度にそばに居ないことに落胆し、自嘲する。自分はその惨めさと向き合っていけるのだろうか。彼との日々が、本当にただの思い出になるまでに一体どれぐらいの年月が必要なのだろう。
    幸福な思い出は本当に僅かな期間しかなく、恐ろしいのは、それを過去にできないかもしれないという予感があることだった。そしてそれを痛感する日々から逃げ出すことを自分が選んでしまいそうで、江澄はただそれが、怖かった。
    静かな絶望を感じながら立ち竦んでいると、「大丈夫?」と声をかけられた。緩慢な動作で振り返ると、すぐ後ろの廊下に聶懐桑がいた。
    「…大丈夫だ」
    なんとかそう答える。
    「とても大丈夫そうには見えないけれど…とりあえず、社長から呼出し」
    「社長から?」
    「うん。今日午前予約ないでしょ?話したいことがあるそうですよ」
    一体何の用だろうかと江澄は思った。
    江澄が金光瑤と最後に会ったのは精密検査を受けた後、病室で話を聞いたあの時だ。
    以降会ってはいないが、藍忘機が連絡を取っていた相手が社長なのは間違いない。だから自分と藍曦臣が話した内容も全て筒抜けのはずだ。社長は自分が藍曦臣と共にいることを良く思ってはいなかった。それなのに藍忘機に頼まれたからとはいえ、マンダリンまでの手筈を整えてくれたことについて、まだお礼を言っていない。要件が何かはわからないが、ついでに済ませてしまおうと思った。
    「わかった、今から行く」
    「よろしくね」
    踵を返した聶懐桑の背中を見送りながら、彼もまた、黒社会の一員なんだよな、と江澄は思う。
    「どうかした?」
    視線に気づいた聶懐桑が振り向いたが、江澄は「何でもない」と言って社長室に向かった。


    中に入ると金光瑤は重厚な革張りの椅子に腰掛けていた。その腕にアームホルダーはすでになく、見た目には以前と変わらないように見えた。彼は江澄を見ると「待っていましたよ」と言った。
    「あなたにスカウトが来ています」
    「…スカウト?」
    江澄は怪訝そうに返事をした。
    「正確にはあなたと魏無羨の二人にですが…ラスベガスでも最大規模を誇るあのベラージオカジノからのスカウトですよ」
    ラスベガスと聞いて江澄は目を瞠った。
    「社長は…知っているはずです。マンダリンホテルで藍曦臣が俺に何を言ったのか。それでスカウトだなんて!」
    「さぁ、どうでしょうね?」
    「とぼけないでください!あの日藍忘機が連絡を取った相手はあなたのはずだ!藍曦臣の居場所を教えてくれたのも、ヘリを手配したのも社長のはずだ!知らないわけがない!」
    江澄の言葉などまるで聞えていないかのように金光瑤は続けた。
    「ベラージオは移籍が叶った際には十万ドルを払うと言っています。もちろんUSドルですよ。悪い話ではないでしょう」
    「そこまで俺をアメリカに行かせたいんですか?」
    「それにあそこはワールドポーカーツアーの会場でもありますからね。あなたにも魏無羨にも戦いがいがあるでしょう?」
    「社長!」
    江澄は思わずデスクをバンと叩いた。そのまま金光瑤を睨みつけると、金光瑤はふうとため息をついた。
    「移住は早い方がいい。カモッラは待ってくれません。貴方は黒社会の実情を何も知らないから悠長に構えていられるのかも知れませんが、ルチアーノを甘く見ない方がいい。彼はハイエナです。貴方が生きているとわかれば地の果てまで追いかけてくる」
    やっぱりスカウトなんか来ていない。それは藍曦臣が用意した逃亡の道筋だ。
    「ルチアーノってカモッラのボスですか?俺は死んだことにされてるんですよね。社長が手を回したって聞きましたけど」
    「ルチアーノは御歳七十五歳になるカモッラの大ボスですよ。腎不全と心臓病を患っているのであまり外には出てきませんが、その影響力は絶大です。カモッラも複雑で、ちょっとつつけば色々出てくる面白い組織で…とまぁそれは置いといて、貴方…というより、『白龍の愛人である江義社の唯一の生き残りの江晩吟』は、あの銃撃戦で死亡したことにしてあります」
    七十五歳の男色家の老人のもとに行くことにならなくて本当によかったと江澄はゾッとしながらも反論する。
    「けどそれに何の意味が?働く場所を変えたって、アメリカに行ったところでそれがどんな時間稼ぎになるって言うんだ?社長が言ったんでしょう。俺は母に似ているって、だから気付く者が現れたって」
    「まぁ、時間稼ぎにはなるんじゃないですか?貴方自身はルチアーノに顔を見られてませんし」
    「社長は知らないかも知れませんが現代にはカメラ機能付きスマートフォンってものがあるんですよ」
    精一杯の嫌味を込めた江澄だったが金光瑤は歯牙にも掛けない。ただその言葉に「そうなんですよねぇ」と間延びした声で同意してきた。金光瑤はため息をついていた。
    「まぁ、その点は私も同意です」
    「同意って…ならなんでスカウトの話を持ってくるんです?意味がないって社長にもわかっているなら…」
    「私は白龍の意志を尊重するのでね。無意味であろうと馬鹿らしくても、まずは従いますよ」
    その言葉はつまり、金光瑤自身は藍曦臣がでっち上げたスカウト話を無意味で馬鹿らしいと判断しているということだ。
    「大体魏無羨もだなんて、藍忘機はどうなるんです?」
    「忘機はもちろんこの香港、澳門に残ってもらいますよ。大体彼は白龍の影なのですから、ここにいなければ意味がない」
    「罪悪感はないんですか。二人がどう言う関係か知ってますよね」
    「罪悪感?」
    惚けたように金光瑤が言うので、江澄は言葉を選び間違えた事に気づいた。案の定金光瑤は大声をあげて笑いだす。一通り笑ったあと、金光瑤は深呼吸をしながら息を整え始めた。
    「まさかマフィアに罪悪感の有無を聞く人間が居るだなんて…無論そんなものはありませんし、忘機がいなくなったら黒龍派も黙ってはいないでしょう。個人的にはいない方が有難いのですがね」
    「…有難い?」
    若干の恥ずかしさを感じながらも江澄は話題を変えるために気になった部分を聞き返した。
    金光瑤は真面目な表情に戻る。
    「白龍派と黒龍派の対立について何か魏無羨から聞きましたか?」
    「何かと言われても…藍曦臣と藍忘機の部下がそれぞれの派閥に分かれて代理戦争をしているってことぐらいしか」
    「あの二人は同母兄弟です。本来争う立場にありませんし、本人たちにもそのつもりはありません。黒龍派のトップは表向き忘機という事になっていますが、実際は藍清会第三位の李という男です。藍曦臣より二十も歳上の、先代の部下だった男です。黒社会の内乱で先代が命を落とした時、一部では彼が次代の白龍とも言われていました」
    「それが…対立の原因なのか?その李という男は藍曦臣に白龍の座を奪われたと思っているのか?」
    「本人はそう思っているでしょうね」
    「代わりがいるならやらせればいい。藍曦臣は嫌がってたんだろう?」
    そうは言っても、それが簡単にできれば、あるいは藍曦臣がマフィアのボスに向いていなければ、当然そのようにされただろう。何せ先代である藍曦臣の父が亡くなった時、彼は十二歳だったのだから。その時李という男は三十二歳。先代の部下で、一部では次代の白龍と目された男。わずか十二歳の子供に継がせるよりはと選ばれてもおかしくない。
    江澄の脳裏に、金光瑤の言葉が浮かぶ。
    ーーー類まれなるカリスマ性がなせる技でした
    藍曦臣は、一体十二歳で何を成し遂げたというんだ?
    「そう簡単なことでもないのですよ。何せ彼には才能があった」
    「その李という男よりも、十二歳の藍曦臣に…?」
    「ええ、人を統べる才能です。持たずに生まれた者には、一生手にすることが出来ない天賦。本人の望む望まないに関わらず与えられてしまった、残酷なまでの輝きです」
    でもその輝きが、ただそこにいるだけで目に見えるわけじゃない。
    金光瑤は続けた。
    「前にも言いましたが、五聖会の内紛には、本国と香港の情勢が密接に関わっています。貴方のお父上が目指した独立は叶いませんでしたが、香港は高度な自治権を手に入れた。この時黒社会という裏側から各方面に指示を出し、政府との会談をこなし、江義社壊滅後誰も担い手がいなくなった要人暗殺を請負い、手掛けたのが藍曦臣です」
    「………十二歳だぞ」
    「ずっとそう言ってるでしょう」
    「…でも、そんな」
    俄には信じられなかった。どれほど大人びていようと、十二歳は子供だ。それに今の自分と同じように、当時の藍清会の構成員も子供に従おうとは思っていなかったはずだ。
    「彼がまだ若いという理由で、成人までの間だけでも李を当主にするべきなのではないかという案もあったそうですが、結局それは無くなりました。年齢など関係なく、ただ藍曦臣の方が優秀で、才能があった。それに藍曦臣の中には懸念もありました。自分の父を間接的に殺したのは李ではないのかという懸念です」
    「…それは、事実なのか…?」
    「証拠はありません。ただ藍曦臣の中に、先代が亡くなる寸前に電話していた相手が李じゃないか、それによって先代が護衛もつけずに出かけたのではないか、という憶測があるだけです。先代の死     因は、車のブレーキ故障による崖からの墜落死ですから。温門会の仕業となっていますが、李の可能性は大いにあると私は考えています。当時李は、温門会のスパイをしていた。向こうに情報を流すこともできたでしょう。自分が当主になりたいという願望を叶える為に先代の暗殺を手引きする、なんてのは、三文小説でもよくある話です。ただ李は、先代を相当心酔していた。それを多くの者が知っているので、現在まで疑いの目は向けられていません。藍曦臣も証拠のないことを話して波風立てるようなことはしませんし」
    「……」
    「李は先代を心酔するあまり現白龍をよく思ってはいない。そのこともあり常に否定的だ。というのは、藍清会での共通の認識です。この前の温門会粛清の件も、藍曦臣がカモッラとの対話を選んだのはそのあたりの事情を鑑みてのことです。李は、こと選択に迷うような局面においては、藍曦臣の逆張りをしますからね。藍曦臣がもしカモッラとの前面抗争を打ち出せば、おそらく李はカモッラとの対話を進めたでしょう。しかし彼が裏切り者だと仮定した場合、それは非常に危険です」
    「李がカモッラと繋がって、暗殺を仕掛けてくるかもしれないと?」
    金光瑤は頷いた。
    「それを抜きにしても、全面抗争は非現実的ですし代償も大きい。藍曦臣が選ぶわけもありません。だが今回藍曦臣がカモッラとの対話を選んだことで、姚はその逆張り、つまり全面抗争をするべきだと主張し始めました。そしてその主張を正当化するだけの理由をひっ提げてきたわけですが、それが、あの時澳門高口岸で貴方が海に投げ捨てた新型覚醒剤ですよ」
    「…あの注射器の…、藍忘機が言っていた。急性症状と依存性が強いのに、作れるのはカモッラだけだって」
    「そうです。しかもあれ、ある一定量以上を一度に投与すると、人を心停止させる代物なんですよ。挙句その成分は残らないだなんて、とんでもない薬物です。それが今じわじわと、藍清会の中に広まっています。本当に末端の末端ではありますが由々しき事態です。これは早急に対処せねばならない。大体こんなタイミングでどうして広まる?白龍があれだけ厳しく規制を引いたのに、裏切り者がいるに違いない!」
    言葉の後半は徐々に芝居がかった大仰な声になった。江澄は金光瑤が誰を真似ているのかすぐにわかった。彼は李の言動を真似ているのだ。そしておそらく、李が主張する裏切り者こそが…
    「そして槍玉に挙げられたのがこの私です」
    ーーーやっぱり
    「…社長以外に、藍曦臣の考えに賛同するものはいないんですか」
    「もちろんいますよ。しかし私が金城当主の異母弟というのは藍清会でも知られた事実です。いくらこれまで白龍に尽くしてきたとは言っても、先代の頃より藍清会に忠誠を誓ったように見える李の発言は私以上に重い。構成員が何万人といる以上、全員の考えを統制することは不可能です。李が裏で何をしていようと証拠は何もない。証拠がなければ何を言っても意味がない。李は狡猾な男ですしね」
    つまり、社長が二人いるようなものだ。口がよく回り、人心掌握に長けた人物。李という男は、周りからの信頼を得つつ、真っ当な理由で藍曦臣の主張の逆張りをしている。だがその理由さえも、李本人によって作られていると金光瑤は疑っている。
    「社長が、藍忘機に対していない方が都合がいいと考えているのは、李が藍忘機を隠れ蓑にしているからですか?仮に証拠を捕まえて李をどうにか出来ても、実情はどうであれ藍忘機が黒龍波の筆頭となっているなら、その責を免れないから」
    金光瑤の仮定する通り、新型覚醒剤を手引きしたのが李であればそれは立派な反逆と取られるだろう。黒社会においては命を持って償わなければならなくなる重罪だし黒龍派全体の粛清も必定だ。そうなれば藍曦臣がどれだけ弟の無実を訴えようとも、累が及ぶのを避けられない可能性がある。
    「そうです」
    「そして李は、藍曦臣が安易に手を出せないことも計算済みなんですね」
    「ええ」
    金光瑤はもう一度頷いた。
    ことはそう簡単な話ではないのだろう。藍忘機自身の問題ではなく藍忘機の存在そのものを危険視する人間がいてもおかしくはない。仮に李を葬ることが出来ても、彼を担ぎあげて第二、第三の李が出現しては意味がない。白龍が藍清会で磐石な地位を築く為に、藍忘機には消えてもらった方がいいと、この目の前の男は考えているはずだ。だがそれをはっきりと言えないでいるのは、多少なりとも白龍ではなく、藍曦臣に気を遣っているからからだろうか。

    江澄は考えた。藍曦臣の要望通りにアメリカに行くのは嫌だったし、それに魏無羨を連れていくなど論外だ。
    現状、江澄がアメリカに渡ってもいいことは何もない。多少時間が稼げるだけで、根本的な解決にはならない。けど藍曦臣は諦めないだろう。自分を、黒社会から遠ざけるためにやれることはやるはずだ。でも…と江澄は思う。誰かの犠牲の上で生きるのは、もう嫌だった。
    「俺は、魏無羨と藍忘機の二人にアメリカに行ってほしいと思っています。黒社会と関わり合いのない場所で生きてほしい」
    「藍忘機の不在を、黒龍派は許しませんよ」
    「でもいない方が都合がいいのも事実でしょう。社長の中にはすでにあるはずだ。藍忘機を排除しつつ、黒龍派を一掃する計画が。白龍派の重鎮すら宥める口実も考えている。そしてそれには、カモッラも深い関わりがある。違いますか?」
    金光瑤は椅子に座ったまま少し驚いたような表情をしたが、すぐに笑みを深くした。
    「貴方の方からそう言って頂けるとはね。計画はもちろんあります。顔に泥を塗られてそのままにしておくほど優しい私ではありませんから」
    「その計画の…内容は?」
    「カモッラの中でも、ルチアーノの事をよく思わない人物がいます。その者が新しくカモッラのボスになれば、私としても大変助かるんですよ」
    「ルチアーノって人は隠居でもしてくれるんですか?」
    七十五歳ならありえるだろうかと江澄は考えたが、金光瑤は「あり得ません」と言った。
    「奴が隠居?絶対にないでしょうね」
    「……なら、新しいボスっていうのは」
    「彼が死ねば、誰かがそうなります」
    それがルチアーノの寿命を待つ、という意味ではないことぐらい、流石の江澄でも察することができる。金光瑤はルチアーノを殺す気なのだ。そして、藍清会に都合のいい人物を次代のカモッラのボスにしようとしている。
    (でも多分、俺に話す理由はそれだけじゃない)
    「それはつまり、カモッラのボスを暗殺したいって意味ですか」
    江澄が聞くと、金光瑤は静かに頷いた。
    「そしてそれは貴方にしか出来ないことです」
    「………」
    金光瑤の言葉は、江澄に覚悟を問いかけているようだった。藍曦臣は貴方のために手を汚しているのに、あるいは今この瞬間も汚し続けているのに、貴方は藍曦臣のために手を汚さないのかと。まるでそう言っているようだった。
    「俺は、やりません」
    「…ほぅ?でもあなた、スカウトを受ける気もないのでしょう?」
    「受けません。でも俺は、黒社会に戻るつもりもありません。少なくとも、誰かを殺したりするような意味では」
    「暗殺は本来江義社の領分ですよ?請け負うことで白龍の負担を減らせるというのに」
    「それでも…俺はやりません」
    「………」
    金光瑤はそのまま無言で、江澄をただ見つめていた。その指先が、トン、トン、トンとまるで何かを吟味するように、ゆっくりとしたリズムで机を叩いている。ただそれだけなのに胃を締め付けられそうな不穏さを感じる。心臓がバクバクと鼓動を鳴らしていた。澳門口岸に向かうリムジンの中で感じた底知れない金光瑤のマフィアとしての本質。その視線から、態度から、ひしひしと感じる。見つめるだけで人をここまで威圧できるのも恐ろしい。でも江澄は絶対に視線を外さなかった。どれだけ恐ろしくても強く見つめ返した。無意識に手を握りしめる。
    「…理由を聞いても?」
    永遠とも思えるような長い沈黙の後金光瑤はそう言った。江澄は静かに息を吸い込んで、吐き出す。そして話し始めた。
    「マンダリンで藍曦臣は俺に言いました。俺との繋がりが、表の世界との繋がりだったって。俺がディーラーとして生きるのを見るのが好きだったって。俺はそれを、無くすつもりはありません」
    「己の命が危うくとも?」
    「暗殺が安全とも言えないでしょう。それに俺は素人です」
    金光瑤が無言だったので、江澄は続けた。
    「俺は、藍曦臣を救いたいと思ってました。でも何をすればあの人を救えるのか、正直まだよくわからない。彼を黒社会から解放出来れば一番いいんでしょうけど、それはあまり現実的じゃない。俺は、ただあの人のそばにいたい。藍曦臣のためにだなんて綺麗事をいうつもりはありません。俺がそうしたいからするんだ。できるなら藍曦臣のそばで、藍曦臣を照らす光になりたい。それが無理でも、俺はずっとここであの人を待ちたい。もし俺がルチアーノの暗殺に手を貸せば、あの人は一生自分を責めるだろう。自分がその道を選ばせてしまったのだと、罪悪感を抱くはずだ。俺が黒社会でしか生きられないとなったら、きっと最後まで面倒は見てくれる。でもその責苦の果てに、それこそ本当に、ただの「白龍」になってしまう気がする。俺は…藍曦臣が好きだと言ったディーラーとしての自分の矜持を汚すつもりはない。あの人が守りたかったものを、自ら壊すことはしない」
    「藍曦臣はもう二度とあなたに会うつもりがないというのに、その矜持に何の意味があるというのです?」
    「意味があるとかないとか、そんなのは考えていません。これは俺の意思で、俺がしたいからするだけのことです」
    「ここで、可能性もないのにずっとあの人を待つと?」
    「まだ二十八歳ですから、後五十年は余裕で待てますよ。五十年後も、この澳門金庭園が残っていればの話ですけど」
    「…………」
    金光瑤はふっと笑った。その眼光から威圧感が薄れると彼は力を抜くように椅子にもたれた。
    「確かにそうかも知れませんね…私は……」
    「…社長?」
    その声は囁くようで、江澄には聞き取れなかった。金光瑤は続ける。
    「なんでもありません。確かに貴方の言うことにも一理あります。いいでしょう、私はあなたに賭けますよ。吉と出るか凶とでるか…あなたのその矜持とやらが藍曦臣の何を動かすのか、見届けましょう」
    そう言って僅かに笑った金光瑤の表情は、江澄が見たこともないものだった。澳門金庭園の社長である金光瑤とも白龍を心酔する金光瑤ともまた違う、どこか寂しそうな笑顔だった。


    金光瑤は江澄に一つの宿題を出した。それは魏無羨と藍忘機の二人に、国外に出てもらう為の説得である。金光瑤の中にある、藍清会の派閥争いを避けるために藍忘機は居ない方がいい、と言うのは、合理的な理由ではあるものの、仲の良い実の兄弟を引き離す正当な理由にはなりはしない。あくまで本人たちの納得の上で行わなければ意味がない。それに魏無羨自身も、江澄を残してこの香港澳門を去るとは考えにくい。だから説得を、と言うのだ。
    江澄は金光瑤がこの先どうするのか皆目見当もつかなかったが、暗殺の依頼を拒否した手前、それ以上深く聞くこともできず、その役目を引き受けた。

    江澄は社長室を出ると、魏無羨を探しにフロアへと出た。
    あの澳門口岸での事件以降、魏無羨はフロアで一般客を相手にディーラーをすることがよくあるという。藍忘機が来ないため時間に余裕があるのも理由だが、江澄は彼がフロアに立つことで周囲に目を光らせているのだろうと思った。思えば、よくそんな無駄金があるなと思った藍忘機も指名も、魏無羨が裏で活動するための時間を確保するためだったのだろう。
    江澄が魏無羨を見つけた時、彼がついたテーブルでは一つの勝負が山場を迎えていた。

    机に座る五人のうち、すでに三人はもう勝負を降りて観戦に回っていた。一対一、アジア系男性と白人男性。だがアジア系男性はもう追い込まれている。手元に残ったチップ以上の額をベッドされていた。コールするには、オールインで挑むしかない。
    江澄はテーブルに置かれた四枚の共通カードを見た。キングもAもない。数字が並んでいるわけでもなければ、同じ柄が揃っているということもない。こういうのは一番よくあるパターンだ。
    ワンペアかツーペア、よくてスリーカード。おそらくお互いに決め手に欠けているのだろう。ベッドもブラフの可能性がある。例えハイカード勝負にもつれ込んでも、手元にAがあれば勝てるかも知れない。自分の手札だけでワンペアを作れたらもっと勝率は上がる。ただ向こうがツーペアかスリーカードだったら負けてしまうかも知れない。ベッドやレイズは手札の強さに対する自信の表れだが、相手側がフォールドを選択したらその手札は公開されない。だから俺は強い手札を持ってるんだぞ!と思わせるためのブラフ、つまり嘘かも知れない。その可能性は大いにあるし、それこそがポーカーの本質だ。確率を見据えた上で見抜ける力が、この男性にあるだろうか。
    江澄や藍曦臣であれば間違いなくフォールドを選択する場面だが、結局アジア系男性はオールインを選択した。やけっぱちの勢いで叫ぶ「オールイン」の声。
    けれど白人男性の方も、どこか落ち着きがない。
    魏無羨は笑顔を保ったまま、共通カードの最後の一枚をめくった。
    そのカードを見た時、アジア系男性は小さく悪態をついた。その一枚がもし自分の手札と同じ数字であれば、ペアが組めたのかも知れない。そんなところだろうか。
    しかしまだ勝負はわからない。白人男性が喜んでいる様子もないのだ。
    魏無羨は静かに「ショウ・ダウン」と言った。観光客同士の戦いでも、どこかヒリヒリとした緊張感を感じてしまう。ポーカーの面白さはここにある。自分と藍曦臣のあの戦いは、どれだけの興奮を見る人に与えたのだろう。
    魏無羨の声と共にテーブルに広げられた手札。白人男性の10のワンペアとアジア男性のハイカード。Aの♦︎がたった一枚、来なかった片割れを探しているように見えてしまった。

    「どうした?江澄」
    観光客が去ったテーブルを片付けながら、魏無羨が江澄にそう聞いた。
    「ちょっと話があって。今夜は家に戻るのか?」
    「その予定。話があるなら、そっち行くよ」
    「藍忘機は?」
    「え?」
    「奴を呼べたりしないか?」
    「藍湛にも話があるってこと?」
    江澄が頷く。
    「できるかわからないけど、一度メールしてみる」
    「悪いな。じゃあ夜の八時に」
    「オッケー」
    挨拶を交わして一般フロアを出る。その後江澄は、予約客に対応するためにエグゼクティブフロアへと上がった。

    午後に応対した予約客は三人。皆江澄の交通事故(表向きの理由)を心配して、その復帰を喜んでくれた。ふと江澄は、彼ら、彼女らが普段何をしているのか改めて聞いてみた。
    数ヶ月に一度という頻度でやってくる女性は、香港人だがイギリスで暮らしている会社経営者だ。
    香港を拠点とする旅行会社を経営している。なぜイギリスに住んでいるのかと聞いたら、配偶者がイギリス人とのことだった。彼女はポーカーではなくルーレットを好んだ。赤か黒か、もしくは奇数か偶数かの単純な賭けぐらいしかしていないのだが、一回に賭ける額が藍曦臣ほどではないがとんでもない。江澄と雑談をするのが目的なので、あまり勝ち負けには興味がないようだ。結局二分の一の確率で勝ったり負けたりを繰り返しつつ最終的にそこそこ負けて、しかし上機嫌で帰って行った。
    二人目は中国人で、深圳で不動産会社を営んでいるという。不動産会社なら、藍曦臣のことを知っているだろうかと江澄は考えたが、そこを聞くことはしなかった。藍曦臣が不動産会社の社長であることは知っているが、彼がこの澳門金庭園の出資者で、自分と顔見知りであることを話すのが良いことだとも思えない。この男性とはポーカーをやった。男性は生粋のルースアグレッシブプレイヤーで、手元にどんなカードが来ても八割方プレイに参加するし、ベッドやレイズもどんどんする。性格も同じで、とにかく何に対してもおおらかな人だ。自分のプレイスタイルをよく理解した上で遊んでいるので負けても荒れたりはしない。ただ時折ものすごい幸運で勝ちを手にすると、子供のように喜ぶ。見ていて少し面白い人だ。男性は特に江澄を指名している訳ではなかったが、江澄が不動産情勢について色々聞いても、不快な顔はせず快く話をしてくれた。
    最後は香港の電子部品メーカーの社長で、よく来る人だ。メガネをかけた品のいい六十代の男性で、江澄の好きな香港俳優にどこか似ている、この日は何人か部下を連れて来ていた。男性は最近の株価や市場の話を部下や江澄に聞かせつつ、わざと負けたりして部下に勝たせていた。一つ大きなプロジェクトが終わったとかで、今回はその褒美らしい。江澄もにこやかにディーラーとしてカードを配りながら、ポーカーが初めてだという彼の部下に対して簡単なアドバイスをしてみたりもした。

    予約客の応対が終わり、すでに暗くなった澳門の夜景を眺めながらエグゼクティブルームの片付けをする。思い返してみれば、皆それなりのステータスがあるものの、黒社会とは関わり合いがあるようには見えない。事件が起きる前までここに来ていた藍曦臣と同じ、ごく普通の人。少なくとも江澄にはそう見える。
    一般人として育てられた自分に、目の前の人間が黒社会に関わりがあるのかどうか見抜く目はない。ただ一つ言えるのは、おそらくエグゼクティブフロアでもてなす以上、社長のチェックが入っているのは間違いないということだ。
    この澳門金庭園で働く以上、客は選別される。アメリカに行くよりもはるかに治安が良いと思うのだけど、そこに思い至らない藍曦臣はよほど余裕がないのか、冷静さを失っているのか。
    江澄はため息をついた。

    時間が押していたので江澄はタクシーで帰路についた。実を言うと、いつも使っていたシャトルバスを使う気にならず、来る時もタクシーを使った。何気なく使っていたものだけど、今思えばよく許されていたなと思う。
    家に戻ると、江澄の部屋にはすでに灯りがついていた。玄関の扉を開けると靴が二足。リビングのソファには予想通り魏無羨と藍忘機が座っていた。
    「おかえり」
    「悪い、少し遅れた」
    「まだ八時前だよ。とりあえず着替えてきたら?飯でも食おうぜ」
    そう言いながら魏無羨がダイニングテーブルを指差す。そこに置いてあったビニール袋は、近くの屋台のものだ。
    江澄は一つ頷くとすぐに部屋へと向かい着替えを済ませた。
    再びダイニングに戻ると、魏無羨と藍忘機がビニール袋から中身を取り出し、食事の準備を整えている。
    江澄は外に面したキッチンに出るとコンロに火を入れ湯を沸かし始めた。
    人数分の茶を入れ、ひとまずは食事に集中した。食べ終わって片付けも済ませたところでようやく江澄が切り出した。
    「スカウトの話、聞いたか?」
    魏無羨は一瞬迷ったようだが頷いた。
    「ラスベガスのベラージオカジノだっけ」
    「ああ」
    「お前も聞いたんだな?それで、どうする?アメリカに行くのか?」
    まるで決定権は江澄にあるとでも言いたげな口調だった。魏無羨は金光瑤から話を受けた時、少しでも反発しなかったのだろうか。まさかスカウトの話を額面通り受け取ったわけではないだろうから、仕方ないと諦めたのだろうか。
    「俺は行かない。社長にもそう伝えてきた」
    「そっか…でも、ここに残るリスクはあるって、わかるよな」
    魏無羨の声は、安堵とも危惧とも取れる複雑な声色をしていた。
    「リスクがあるのはわかってる。でも、お前だってわかってるだろ。アメリカに行ったところで、そのリスクがなくなるわけじゃない」
    「…まぁ、ね」
    曖昧に笑う魏無羨もまた、金光瑤と同じで意味がないと感じていたのは明白だろう。
    「むしろ、金庭園に残った方がまだマシだ。あのカジノは社長の、いや金城の管理下にある。エグゼクティブフロアならある程度客も選別できるし…というか、それが目的で、社長は俺をハイクラス専門にしたんだろう」
    「江澄、お前の技術を疑う人間なんていないぞ。お前は実力でそのポジションを手にしたんだ。現に常連客だっている」
    「…わかってる」
    「江澄」
    「とにかく、俺はここを動くつもりはない。だがカモッラの脅威は気にかかる。社長としては藍清会内部の不穏分子も処理しつつ、カモッラでもひと騒動起こしたいみたいだけど」
    「ひと騒動って」
    「社長はルチアーノを消したがってる。あと、藍清会の李も」
    「金光瑤はフラッカを流通させたのが李だと思っている」
    「フラッカ?」
    突如呟いた藍忘機の言葉に江澄が返す。
    「前に話をした、新型麻薬の名前だ」
    「李…ねぇ」
    「魏無羨、お前知ってるのか?」
    「…一応ね。直接話したことはほとんどないけど、いつも食えない笑顔をしてるよ」
    その表情からは、魏無羨が李に対して良い印象を抱いてないことが明確に感じ取れた。そして藍忘機自身もまだ同じだということも。
    「詳しいことはわからないが、今その新型覚醒剤の手引きをした犯人として社長が槍玉に挙げられてるんだろう?それも李の計画のようだけど」
    「……証拠はない」
    「うん、証拠はないな。それに李の信頼は厚い」
    「先代を心酔してたっていうやつか?でもそれも演技だったら?藍曦臣は父親の死ですら、李が関わっているいるかもしれないって疑っているようだし」
    「…それは、お義兄さんに直接聞いたわけじゃないだろう」
    「そう、だけど」
    「李は確かにいけすかないやつだけど、俺が金光瑤とお義兄さんに直接雇われている身でありながら藍湛とも親しいから、それで敵視されてると俺は思っている。俺のご主人様にちょっかい出すな、みたいな?一応藍湛の第一の部下だし。あとお義兄さんのその話、俺は今始めて聞いた」
    「私もだ」
    「じゃぁ社長の捏造って可能性もあるのか…?何のために?」
    「さぁ…あくまで可能性ってだけだよ」
    「…李が兄上に対して当たりがきついのは承知している。だが李の意見が正論なのも確かだ。今回の事件、兄上の命令とはいえ、金光瑤が温門会のスパイをしていたことは事実だ。フラッカの流通も、状況的に彼が一番怪しいと言わざるを得ない。それを覆すだけの証拠はない」
    「…反論に証拠だなんて、悪魔の証明じゃないんだぞ」
    江澄が言う。
    「お前はさ、社長としての金光瑤しか見ていないだろ。藍清会での奴の立ち位置って本当に特殊なんだよ。金城のボスが寛容、というか、あまり黒社会向きじゃないってのもあるけど…冷静に考えて、自分とこのボスが他のマフィアの、しかもボスの異母弟を腹心の部下にするだなんておかしな話なんだ」
    「それは確かに、そうだろうけど…」
    でもそれを、周囲に納得させるだけの行動を社長はして来たんじゃないのか?
    「魏無羨言ってたよな。社長は藍曦臣を心酔してるから、その点だけは信じれるって」
    「そうだよ。つまり俺が言いたいのはな、金光瑤が嘘をついているとも思えないけど、李も同じだってことだよ。それに多くの藍清会の人間は、李を選ぶ。覆すには証拠がいる。確たるものが」
    「……証拠を、抑えることができるんだろうか…仮に藍曦臣の父親の死が本当に李によるものだとしても、今更すぎるし、今のそのフラッカの件も、何をもって証拠とするのか俺には到底思い付かない」
    「…何か一騒動起こすつもりなら、ある程度考えているとは思うけどな」
    「でももしかしたら計画の変更で手間取ってる可能性も」
    「なんで?なんかあったの?」
    江澄はこれは言わないでおこかと思っていたのだが、図らずとも金光瑤が黒であった場合について何も考えていなかったため、魏無羨と藍忘機に意見を求めるべく話をした。迷った上での決断だったが、もし自分の選択が、藍曦臣にダメージを与えてしまった後悔してもしきれない。
    「実は…ルチアーノの暗殺を依頼された」
    「……はぁ?!」
    「でもちゃんと断った。社長はそれで納得してた」
    「当たり前だろ!江澄をなんだと思ってんだあの人は!」
    怒りながらスマートフォンを手にした魏無羨を、藍忘機が右手を出して制止する。そのまま神妙な顔で見つめあって、しばらくして魏無羨はスマホを手放した。
    「わかったよ…」
    何がわかったのか江澄には全くわからなかったが、とにかく魏無羨は金光瑤への追及を諦めたらしい。
    「カモッラのボスは、どうしてだか俺に執着してる。温晁も同じようなことを言っていた」
    「あのクソジジイの趣味なんて知ったこっちゃないけど事実だよ。でもそれを利用して江澄に暗殺を依頼したんなら無理にも程がある。素人なんだぞ。どういうつもりなんだか…まぁ、江澄の反応を見るためって線もありそうだけどさ」
    全くもってその通りだ。江澄は暗殺のためのお勉強なんて当然一度もしていない。人を殺したことだってもちろんない。
    ズブの素人にやらせようだなんて藍曦臣のスカウト話と同じぐらい馬鹿らしい事だろう。
    でももしそれが、魏無羨のいう通り江澄の反応を見るためだとしたら、金光瑤の中には、ちゃんと別の計画があったということだろうか。だからあんなに簡単に引き下がったのだろうか。
    「俺は、社長に一つ頼まれていることがある」
    「…何を?」
    「お前と藍忘機を、アメリカもしくは、どこか海外に移住させるための説得」
    「俺と、藍湛を…?」
    お互いに顔を見合わせた魏無羨と藍忘機に対して江澄はまた頷いた。
    藍忘機が静かに言った。
    「おそらくそれが、金光瑤の計画の要なのだろう」
    「…藍湛がいない間に事を起こしたいってこと…?」
    「おそらく。そしてカモッラと李を纏めてどうにかするつもりであるならば、魏嬰の顔をカモッラに見られるわけにはいかない」
    「どういうこと?」
    「社長は、お前たちを黒社会から追放したいんだよ。一般人として暮らしていくために…顔を見られない方が都合がいいってこともあるだろう」
    江澄の言葉に藍忘機も頷いた。
    「現状私の存在は、兄上にとって障害物でしかないのは事実だ。長老達も気を揉んでいる」
    「だからって俺が江澄のそばを離れたら誰が、」
    魏無羨は言いかけた言葉を止めた。江澄の目の前で言うべきではないと思ったのだろう。
    でも江澄は途中まで聞いてしまったし、この際はっきり伝えるべきだとも思った。
    「もういいんだ魏無羨。母さんの言葉は気にしなくていい」
    襲撃があったあの日、あの一瞬で、江澄の母が魏無羨にかけた言葉は決して多くはなかった。江澄自身は姉である江厭離に抱き上げられて逃げるところだったし、そもそも泣き叫んでいた。江澄の記憶が失われたことによって、これまで一度もこの話をしたことはない。でも今の江澄には鮮明に思い出せた。あの時母が、魏無羨に何を言い聞かせたのか。何を願ったのか。
    「お前は…母さんの遺言通りに姉さんを守れなかったことを悔やんでるんだろう?だから余計に俺のことを気にするんだ。でももういいんだ。俺は自分のことは自分で守れる」
    「それは…」
    イタリアマフィアの脅威を前に言うには随分説得力のない言葉だったが江澄にとっては本心だった。江澄は続けた。
    「俺は社長を信じる。確かにお前の言っていることも一理あるけど、あの人が俺をどうにかしようとするなら、チャンスはいくらでもあったはずだ。それに藍曦臣が信頼しているのは確かだ。二人とも社長を疑ってる訳じゃないだろう?見ず知らずの李より、俺は社長信じる。それに社長の計画がうまくいったら、カモッラの脅威がなくなるかもしれない。そしたらずっとカジノで藍曦臣を待てるし」
    それがどれだけ意味のあることなのか、魏無羨も藍忘機も、図り兼ねているようだった。でも何を言われても覆すつもりはなかった。藍曦臣を諦めることだけはしたくなかったから。
    「…わかった。移住のことは…すぐに答えは出せないけど…俺も金光瑤に話を聞いてみる。それでいいよな、藍湛」
    藍忘機も静かに頷いた。
    「金光瑤の話を聞いた上で、兄上ともお話しする。全てはそれからだ」
    その結果がどうなるのか今の江澄には何も見通せなかったけど、少なくとも覚悟は決まった。諦めないために行動する覚悟が。
    「それで十分だ」

    その日はそれで解散になった。


    それからはしばらく平穏な日々が続いた。出退勤にタクシーを日常遣いするようになり(もちろん会社もちで)、防犯ベルも買った。子供騙しのようなものだが、ないよりマシだろう。
    魏無羨と藍忘機はあれから数日後に社長と何か話したようだが、その詳細を江澄は聞いていない。もしかしたらカモッラや李に対する計画が始まったのかもしれないが、日々を生きていく上で、その気配は感じられなかった。ただスカウトに関する追加の話もなく、金庭園カジノでは江澄がスカウトを断った事に「勿体無い」という人も多かった。
    江澄はただ待つだけだった。そもそもそれ以外の選択肢はない。でも藍曦臣を諦めないと決意したおかげか、時折彼を思い出して胸が苦しくなっても、焦ることはなかった。そうして気がついたら、季節は春を過ぎていた。

    マカオはポルトガル領地時代の名残から、カトリック信仰とそれに伴う行事が現在でも行われている。さらに古来から続く天后節の信仰行事や国際的な芸術祭も開催されるので、マカオの春はとても賑やかだ。約一ヶ月にわたるマカオ芸術祭の期間中は、カジノの客層もより一層派手になる。富裕層の来訪が多く、この時期は江澄もとても忙しい。毎日目まぐるしく働く日々は、今はどちらかというと有り難かった。
    芸術祭の期間が終わると、江澄は魏無羨に呼び出された。五月中旬のことだった。
    江澄が魏無羨に指定された場所は澳門ではなかった。
    香港海洋公園。香港島の南に位置する動物園と水族館と遊園地が一緒になった複合施設だ。江澄も昔、一度だけ家族と行ったことがある。ただ園内の景色は、昔とはだいぶ変わっているようだった。
    澳門からターボジェットに乗って上環のフェリーターミナルへ。MTRに乗って金鐘(アドミナルティ)で乗り換えると、昔はなかった南港島線(サウスアイランドライン)に乗って海洋公園駅で降りる。二年ほど前に出来たばかりの路線で乗ったのは初めてだったが、意外と利用者は多い。九龍半島の中央を走るチェンワンラインに比べたら四両と車両は少ないが、電車は海洋公園駅で家族連れや観光客をどっと吐き出していった。
    青色を基調とした綺麗な駅構内に、所々に飾られているパンダイラストのポスターや垂れ幕。そういえば澳門にもパンダがいるのに、見に行ったことは一度もなかったなと考える。海洋公園の入口に繋がる連絡橋を渡り、そこかしろにある巨大な動物オブジェの前で写真を撮る家族連れを眺めながら江澄は歩いた。魏無羨は何故ここを待ち合わせ場所にしたのだろう。
    予定を聞かれ呼び出しを受けた時、魏無羨は江澄に『会わせたい人がいる』と言ったが、心当たりは一人もいなかった。最初は、江義社に所属していた元構成員の誰かもしれないと考えていた。魏無羨が移住を決意し、自分の代わりにと新たな護衛を紹介するのかと江澄は思っていたのだ。ただそうであったら、断るつもりでもあった。しかし指定された場所は海洋公園。この平和なテーマパークと、黒社会の構成員は全く結び付かない。
    テーマーパークのチケットは魏無羨が用意しているらしい。待ち合わせはエントランス左側の休憩スペース。自動販売機の近くだと聞いていた。
    指定された時間の十五分前だったが、江澄はその目印となる自販機を見つけた。すぐ隣のベンチの前には魏無羨がすでに立っている。だがそれだけではなかった。ベンチには、一人の女性と、一人の子供が腰掛けて、魏無羨と楽しそうに何かを話していた。
    「…………」
    女性の長い髪が風に靡く。子供は魏無羨と話しながら早く中に入りたいとうずうずしているようだった。その子供の横顔を、江澄はどこかで見たことがあった。急激な既視感に襲われる。歩みを止めた江澄に、女性が振り向いた。
    女性は江澄の存在に気がつくと、どこか泣きそうな表情で口元を手で押さえる。でもすぐに目元を拭って、笑顔で手を振った。それは昔と変わらない笑顔だった。
    身長はもちろん違う。どう見ても大人だし、髪の長さも、着ている服も違う。でも雰囲気が同じだった。その笑顔に、仕草に、見覚えがあった。江澄はその女性こそが魏無羨が言う『会わせたい人』なのだと確信する。魏無羨も江澄の存在に気付いたようだった。
    「姉さん……?」
    呆然と呟くと、途端涙が溢れて止まらなかった。
    その場から動けなくなってしまった江澄の代わりに魏無羨が小走りで近づいてくる。思わず「何で…」と呟いたが、魏無羨は「うん」と言うだけだった。
    記憶を取り戻して以降、江澄はあの日の自分の愚かな行動が、姉を死に至らしめたのだとそう思わずにはいられなかった。あの時無理に母の元へ戻ろうとしなければ、姉が自分を庇って撃たれることもなかっただろうと、そう思わずにはいられなかったのだ。信じられない思いで一歩一歩近づく。ついに女性の前に立つと、女性は、江澄の姉である江厭離はこう言った。
    「阿澄、おかえりなさい」
    昔は見上げるばかりであったのに、今は見下ろしていた。江厭離の手が江澄の頬に伸びる。涙を拭う仕草に、江澄は思わずその身体を抱きしめた。何で、どうして、そんな思いはたくさんあったけれど、とにかく今は生きてるんだと、夢じゃないんだと、死んでなかったんだとそう実感することで精一杯だった。胸の奥が詰まる。会えて良かったと、心の底からそう思った。

    海洋公園に入場すると、魏無羨は気を遣ってか江厭離の一人息子であるという金凌を連れて遊園地エリアへと遊びに行った。江澄と江厭離は、ウォーターフロントエリアにあるベーカリーカフェに入る。江澄はコーヒーを、江厭離はレモンティーを頼んで、二人はテラス席に座った。春の陽気に雲ひとつない青空。平日だけど、来場客はそれなりにいた。開園して間もない時間帯なので、目の前の通路をひっきりなしに人が歩いてゆく。
    「いきなりで驚いたでしょう」
    「正直に言えば、夢じゃないかって思ってる。亡くなったって聞かされてたから」
    しかし思えば自分も、江晩吟としては死んだことになっている。この可能性に思い至らなかった事に江澄自身驚いていた。
    「父さんと…母さんは?」
    江澄の問いに、江厭離は静かに首を振った。
    「二人ともあの日に亡くなってる。阿羨も確認してるし、間違いないわ」
    つまり香港にある江家の墓は、ハリボテでは無いということだ。本来はいない姉の名前が入っているものの。
    「毎年命日に花束を添えてたのって、もしかして姉さん?」
    「ええ、人に見られるといけないから、いつも夜明け前にね」
    「…今までどうしてたんだ?さっきの子は姉さんの息子って言ってたけど、いつ結婚したんだ?」
    「ずっと金城にいたの。結婚は…もう八、九年前かな」
    現在の三聖会の一角、金城。社長である金光瑤の異母兄が当主を務めているという組織だ。江澄の知識では澳門金庭園のほか、いくつかの澳門内のホテル及びカジノ経営している財閥だが、金庭園リゾート自体が澳門政府肝入りのIR政策の一部なので、金城という組織がどれだけ政府と密接に繋がっているのかがよくわかる。
    「私たちのお母様と金城の先代の奥様は仲が良くてね、私には子供の頃から許嫁がいた。その人が金城の現当主で、私の夫。襲われた時私は大怪我を負って、三ヶ月も意識がなくて、目が覚めても完治するまでにはすごく時間がかかった。その頃からずっとおばさまが匿ってくれたの。金家の遠戚ということで戸籍を作ってもらって、でも黒社会に私の名前は一才出ていない。あの頃は…あなたが記憶を無くしてしまって、温門会の手もあったし、私は私で襲撃者を目撃しているから、狙われる可能性があって近付かない方がいいと思ったの。阿澄が、黒社会と無縁の生活を送れるならその方がいいと思ったのよ」
    まるでそれが正しかったのかどうかわからないとでもいうような、少し複雑そうな声色で江厭離は言った。江澄も同じように思う。
    江澄が記憶をなくした時、一般人として生きる道を用意したのは藍曦臣、そして当時まだ生きていたであろう先代の藍当主、そして今の話を聞く限り、金城の先代夫妻も絡んでいるだろう。姉が襲撃者を目撃していたことは初耳だったが、事情を鑑みて、彼らが手を尽くしたのだろうと言うことは想像に難くない。魏無羨だって、そばにいながら本当のことを語ることは一度もなく、江澄が記憶を取り戻すまで、黒社会の片鱗すら見せなかった。これだけの人の、これだけの思いの上に今があるのに、記憶を取り戻してしまった今、江澄は藍曦臣を諦めたくないという理由から、江晩吟の名前を取り戻すことになるかもしれない、といった状況にいる。
    「どうすれば良かったかなんて結果論に過ぎない。でも俺は、施設で育ったことも、カジノのディラーになったことも後悔してない。ただこの先、せっかく用意してくれた道を台無しにしてしまうかもしれないから、それが少し申し訳ないけど」
    「台無しって…阿澄、江義社を再建したいわけじゃないでしょう?」
    江澄は頷いた。
    「そのつもりはないし、そもそも出来ない。俺は、この前まで拳銃も触ったことなかったのに」
    「…阿羨から聞いたわ。貴方にあったこと。白龍とのことも」
    「姉さんは、知ってるのか?藍曦臣のこと」
    江厭離は頷いた。
    「何度か会ったこともあるし、こうなってからは、あの人にも本当にお世話になったわ」
    「どう思う?藍曦臣のこと」
    「…強い人だと思う」
    しばらく考えた後、江厭離はそう言った。そして続ける。
    「夫も同じだから、よくわかるの。夫は向いていないからと言う理由で、逃れることが出来ている部分もあるし、阿瑤が率先して引き受けてくれるけど、白龍はそうじゃ無いから…。守りたいものがあればあるほど、深みにハマっていくように見える」
    「藍曦臣が、藍清会を捨てることが出来たらいいのに」
    でもそれが無理な話だと言うことは、江澄も江厭離もわかっていた。
    それこそ一族や組織の幹部が滅ぼされて自分たちが死んだことになった今だからこそ江澄は一般人として生きているが、言い換えればそれだけの代償を必要とするわけだ。脳裏に金桑拿で温情が言った言葉が読みがえる。一度失ったら取り戻せない。大切なもの。
    「藍清会の先代が殺された時、白龍も襲撃を受けて大火傷を負ってね、だからあの人の背中には、隠すように大きな刺青があるの。白い龍の刺青…その刺青を入れたのは私の友達なのだけど、その時覚悟を決めたって、そう白龍が言っていたと聞いたわ」
    「刺青…初めて聞いた。覚悟って、黒社会で生きる覚悟…?」
    江厭離は頷いた。
    思えば江澄は、藍曦臣の背中を見たことがなかった。求め合っている時も、彼とは正面で抱き合うか背後から抱きしめられるかで、自分にも余裕がなかった。それにほとんどの場合、バスローブであったりシャツであったり、何かを着ていたと思う。
    「覚悟、か…」
    「阿澄は、白龍が好きなのね」
    「……うん。愛してる」
    「そっか」
    恥ずかしく思う段階はとおに過ぎていた。藍曦臣を愛していると、今この瞬間も藍曦臣自身に伝えられたらどんなに良いだろう。
    「私はね、物事には理由があると思っているの。貴方が記憶を取り戻したことも、きっと何かの理由があるはず」
    「そうやって、自分を納得させてきたのか?」
    両親が亡くなった理由を探して、自分が死んだことになった理由を探して。姉はどんな気持ちで今まで生きてきたのだろう。
    「そんなに深刻に考えないで。知っておいて欲しいのはね、私が今幸せだってこと。だからちゃんと幸せになってほしいの。阿澄にも、阿羨にも、そして白龍にも」
    なれるだろうか、と江澄は思った。
    「幸せ、か…姉さんの旦那さんってどんな人?」
    「知りたい?」
    「うん」
    江厭離は少し目元を緩ませた。江澄や魏無羨を見るような、愛しむような笑顔だけではない、少し熱っぽい目元。恋をしているのだなと思った。
    「…恥ずかしがりやで優しくて、正義感が強い人。夫はね、医者なのよ。表の顔ということだけど」
    医者、と言われて江澄の脳裏に閃くように主治医の顔が浮かんだ。退院後も月一回はカウンセリングの為に病院に行くので、その際に会う。彼の専門は脳神経内科なのでカウンセリングをするのは別の人だが、いつも江澄のことを気にかけてくれる。
    「あ…、あの写真…もしかして、姉さんの子供って、バイオリン弾いて…」
    「阿凌の写真、見た?」
    「あっ……」
    初めて写真を見た時の違和感の正体を理解する。あの写真の子供は確かに主治医に似ていたが、姉にも似ていたのだ。
    「先生の言ってたあの話、姉さんのことだったんだ。でもそうなら、もしかして姉さんの旦那さんが俺の主治医になってのって、わざと?」
    「故意かどうかという意味なら、そうね。黒社会でのことだから、できるだけ身内で片付けたいという思いが阿瑤にはあったのかも」
    改めて黒社会の影響力を思う。この香港澳門に、手が伸びてないところなんかないのではないかと思うほどに。
    「…姉さんは、時々苦しくならない?その、ずっと隠れて生きていくことになるだろう?」
    「阿凌のことを思うと…この先どうなるのかと思うこともあるけど、でも今回の件で、温門会は壊滅した。ヴィクトリアピークの事件から年数も経ってるし、江義社のことを思い出す人もほとんどいない。隠れて生きる生活も少しは変わると思ってる。それにこれからも、未来を変えるために足掻くことは辞めないつもり。どんな小さなことでももしかしたら大きな成果になるかもしれないでしょう?」
    『わずかな一歩でも、たとえ自分が見届けることが叶わなくても、それでも何かが変えられることを夢見て』
    ああそうか。藍曦臣の言葉を思い返しながら江澄は考えた。
    姉も、主治医も、温情や、青蝶も皆信じている。藍曦臣と同じようにたった一つの蝶の羽ばたきがもたらす何かを、諦めずに信じている。
    姉は昔から優しい人だった。そしてそれと同時に真の強い人だった。
    諦めないと言った瞳が、本当に綺麗で、江澄は自分に言い聞かせるように「そうだな」と頷いた。

    お昼になって、別のエリアで遊んでいた魏無羨と金凌が戻ってきた。戻ってくる魏無羨の姿を見て江厭離は言った。
    「そういえば今日、私はあなたを説得するように阿羨に頼まれているのだけど、どうしたらいい?」
    「説得?魏無羨に頼まれたって、何を?」
    「阿澄も一緒に香港を出るように説得してって」
    「……それはできない」
    「だそうよ、阿羨」
    「今その話してたの?姉さん」
    「ごめんなさい。今思い出したところなの」
    「もー」
    そう言いながらも、魏無羨に怒っている様子は全くない。
    香港を出るように説得、と言うのは、金光瑤がしていることと何か関連があるのだろうか。あれから約三ヶ月。何か進展があったという事だろうか。江澄は気になったが、子供が目の前にいるこの状況で話をするわけにもいかない。後で魏無羨に話を聞こうと思いながら、会話に入れないでいる江厭離の息子に声をかけた。屈んで視線を合わせる。
    「初めまして」
    そういうと、男の子は魏無羨の後ろに隠れてしまった。
    「金凌、お前の叔父さんだぞ。姉ちゃんの弟」
    「お母さんの?」
    江澄は頷いた。
    金凌は最初こそ人見知りを発揮していたが、すぐに江澄に慣れた。四人で昼食を食べた後は園内を一緒に回る。動物園エリアでパンダも見たし、園内ロープウェイにも乗った。夕方まで遊び尽くす頃には、金凌はもう眠そうな顔をしていた。
    「今日は本当にありがとう。二人とも」
    「いいって、また遊ぼうな金凌」
    姉は普段香港で暮らしているらしい。天后の高台にあるという二人の住むマンションまでは、普段から二人を警護しているという金城のボディーガードの車の乗せてもらった。マンションの入口まで送り届けると、手を振って別れる。別れ際「また会える?」と言った金凌に江澄は「必ず」と答えて約束した。

    別れた後、魏無羨は流しのタクシーを捕まえ後部座席に乗り込むと、運転手に「文武廟」と言った。
    「文武廟?」
    一緒に乗り込んだ江澄が小声で聞き返す。
    文武廟とはその名の通り文神文昌帝君と、武神関聖帝君を祀る廟で、上環にある香港で最も古いとされている道教の寺院だ。有名な寺院で観光客もよく来る。特に熱心な信者でなくても、香港に生まれれば必ず一度は行くであろう場所だ。
    「うん、神頼みしに」
    「最近そういうのが流行っているとは聞いたけど、何かあったのか?」
    江澄が学生の頃の文武廟は、日参するような熱心な信者や観光客以外は、受験生が訪れるような場所だった。しかし最近はそうでもなく、願い事があればとりあえず行く、という状態らしい。
    魏無羨に受験は関係ないだろうし、何かの願いごとをしにいくようだが、でもそれは一体なんなのだろう。
    昼に姉が言っていた、魏無羨から頼まれたこと、つまり江澄も一緒に香港を出ること、に関連があるのだろうか。
    「俺と藍湛は、来週香港を出る。イギリスに行くよ」
    「え…」
    座ったまま魏無羨が言った。視線は前を向いている。江澄は思わず魏無羨の方を見た。
    「そのことを、お前に話さなきゃって思ってたんだ」
    タクシーは車通りの多い軒尼詩道(ヘネシーロード)を進んでいた。運転手は後部座席の二人には興味もないようで視線すら寄越さない。
    魏無羨はそれ以上をタクシーの中で話すつもりがないようで、江澄もひとまず無言になる。
    約十分程度で、タクシーは文武廟へと着いた。魏無羨が支払いを済ませ、二人は文武廟の向かい側にある小さな公園に入った。隅にあるベンチに腰掛ける。
    「先週の金曜、カモッラのボスが死んだ」
    「カモッラのボスが?!」
    魏無羨は頷く。
    「誰が殺ったんだ、藍曦臣なのか?」
    「違う。表向きは病死だけど、手を下したのは、ルチアーノの第三子だ」
    「内部分裂…?」
    「焚き付けたのは、もちろん金光瑤だぞ。でも自分で作ったフラッカにやられてるんだから自業自得もいいところだよ」
    「あの覚醒剤で殺されたのか?」
    「元々そういう用途も想定して作られたものだしな」
    魏無羨は以前藍忘機が江澄に話した、フラッカという薬物の詳細を教えてくれた。以前聞いた通りカモッラにしか作れない薬物で、急性症状と依存性の強い悪魔の代物だが、無味無臭、透明の液体もしくは結晶で、一定量以上を一気に投与すると依存症状や幻覚症状を一切引き起こすことなく心停止を迎える。金光は瑤数多くの実験を経て人体への作用を確認した後、心臓病を患うルチアーノにピッタリだと笑ったらしい。
    「………」
    「おそらくこれから熾烈な後継者争いが起こる。起こるというか、激化する、と言った方が正しい。そしてその中で、あの李が動くはずだ」
    「大丈夫なのか?」
    「李はカモッラの長子と秘密裏に同盟を組んでいたんだ。フラッカを香港澳門、そして中国市場に流し込む対価に、藍曦臣、および藍清会幹部暗殺に関して協力関係を結んでいる。そしてその証拠を金光瑤は抑えた。しかし捕えるとなるとまだ好機じゃない。やつごと黒龍派を根絶やしにするために、もっと泳がせて追い込む必要がある」
    「黒龍派を根絶やしにしたら藍忘機はどうなるんだ」
    「長老たちから、すべてのことが終わったら藍清会から去ることを条件に赦しをもらえることになっている。李の件に関して藍湛はもちろん無関係だけど、黒龍派の勝手を許していた事実は残るから…。その身をもって贖う…ってやつ?でもそれが藍清会からの追放なんだから…金光瑤もお義兄さんも優しいよな。正直、よくここまで話を纏めたなって思うけど」
    「それじゃぁ、お前も?」
    魏無羨は頷いた。
    「俺も、藍湛について行くよ」
    魏無羨が、黒社会から離れて生きて行くための道筋がそこにはあった。愛する藍忘機と共に生きる道が。江澄は自分が望んだその未来を、金光瑤がちゃんと用意してくれたことに驚いていた。
    「藍湛は白龍の影武者としてカモッラの長子との会談に臨む。その場所がロンドンなんだ。だがこれは李の思い描いた筋書きだ。藍湛の身柄をロンドンで抑えて、香港に残る白龍に暗殺を仕掛ける。もちろんカモッラの仕業に見せかけて」
    「………暗、殺」
    江澄は息を呑んだ。
    「もちろん黙ってやられるのを待ってるわけじゃない。実際の会談場所にはお義兄さんも行く。今金光瑤は、李の張った罠にわざとハマって、長老たちからの追求を受けている事になってるんだ。ほぼ軟禁状態だから大きくは動けない。この澳門で何かあっても、江澄を守れないかもしれないんだ」
    事態は大きく動き始めていた。罠と罠の張り合い。カモッラと藍清会の戦いに見せかけたそれぞれの内紛。この先藍曦臣も藍忘機も、魏無羨も金光瑤も頼りにすることはできない。
    そんな中で自分の身は自分で守ると、そう言えるだけの傲慢さは江澄にはなかった。
    自分自身の身柄が、有効な交渉材料になりかねない今は特にそう思う。
    「裏を、かくのか?でもそれは、安全なのか?」
    「絶対安全とはもちろんいえない。カモッラ側の協力者が、向こうの後継者争いにまず勝利してくれなきゃ何も始まらないし…」
    「勝算は?」
    「…わからない。俺たちは李の裏をかいたつもりでも、向こうがさらにその裏をかいてくるかもしれない。黒社会はいつだって騙し合いの戦場だからな」
    「俺に、香港を出ろって言うのは」
    「ルチアーノが死んだ以上、江澄が直接狙われる可能性は減ったと思う。それでもこの香港、そして澳門で、大規模な抗争が起こる以上危険性は高まる。黒龍派の構成員はおよそ千人。そのうちの誰かが、江澄のことを知っていて狙う可能性もある」
    この状況では澳門に留まる方が藍曦臣にとっても金光瑤にとっても迷惑な話だろう。魏無羨は続けた。
    「多分、一、二ヶ月ぐらいの話だよ」
    「そんなにかかるものなのか」
    「今回は結構大きい膿を出すからな」
    「……俺は、戻ってこられるんだよな?」
    「約束する」
    「…わかった」
    「カジノには研修って事にすると金光瑤が言ってた。全部が終わったら、お前を狙う人間はひとまずいなくなるはず。俺と藍湛はそのままどこかでのんびり暮らすさ。その時はお前も遊びにこいよ」
    「それは楽しみだな」 
    魏無羨は握手を求めるように江澄に手を差し出した。江澄はその手をしっかりと握る。
    「よし、お参りするか!」
    そう言って魏無羨は立ち上がると、そのまま江澄の手を引っ張った。まるで子供の頃のように連れられて歩くと、その背中が過去と重なる。これで最後かもしれないと、そう思ったら少し目が潤んだ。
    信じよう。何もかもうまく行くことを。未来が明るいものであるようにと、そう祈ることしか自分にはできなかった。

    魏無羨と共に駆け込んだ文武廟は、後十分ほどで参拝時間が終わるところだった。中に入ると、たくさんの渦巻き型の線香から出る煙が建物内を満たしている。ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りのそばで写真撮影をする観光客の隣をすり抜け、右手奥にある授与所に向かうと、魏無羨は財布を出した。
    「線香二セットと、後これ。江澄何色がいい?」
    魏無羨が示したのは、並べて置かれた祈福絲帯というリボンだ。色ごとに印刷されている願いが違う。魏無羨はすでに赤と青のリボンを持っていた。江澄はその場で、水色のリボンを選ぶ。印字された祈願は心想事成。
    願いが、叶いますように。
    受けとったリボンは中央に空白のスペースがあり、そこに願い事と名前を書くようになっていた。魏無羨は早々に二つのリボンに自分と藍忘機の名前を書いて、願い事も割とびっしり書いて、さっさとお参りに行ってしまった。江澄は机の上に乗せたままのリボンを見つめ、油性ペンを片手に考える。願い事を書くなら、何がいいだろう。
    いつかまた藍曦臣と笑って話せる日が来ますように?彼が黒社会から解放されますように?怪我なく無事に帰って来ますように?色々考えて、でも江澄は、やっぱりこれだな、と思う言葉を書き記した。
    『藍曦臣が幸せでありますように』
    書き終わったところですぐに参拝を始めた。多数祀られている神様に向かって、奇数本の線香を立ててお祈りしていく。最後の文昌帝君と関聖帝君の廟にお参りする際、江澄は祭壇脇の棒に、他のものに倣ってリボンを結ぼうとした。そしてその瞬間、あることに気付いた。
    「………嘘だろ」
    思わずそう呟く。
    本当に本当に信じられない思いで、江澄は自分の買ったリボンと同い色の青いリボンを引っ張った。
    他にもたくさん結ばれているのに、どうしてこれだけが目に入ったのかわからない。
    天啓といえばそうなのかもしれない。江澄は震えながらリボンに書かれた文字を読む。
    美しい文字。すぐにわかった。藍曦臣の字だ。でもそのリボンに藍曦臣の名前はない。ただ「江澄が幸せでありますように」と書かれていた。
    「…………どうして、」
    どうして、自分の願いごとを書かないんだ。なんで俺の事なんか祈るんだ。
    溢れ出る涙を止められなかった。嬉しくて、でも同じぐらい悲しかった。
    愛しさが込み上げる。会いたい。今すぐにでも会って、抱きしめたい。拒否されたって知るもんか。だってこんなにも愛が溢れている。このたった一本のリボンから、あなたの愛が溢れている。
    江澄は藍曦臣の筆跡を指でなぞった。何度も何度も、そしてぼろぼろと泣いた。
    授与所の人が、もう間も無く寺院が閉まることを知らせるべく声をあげている。
    江澄は涙を拭うと、藍曦臣のリボンに被さるように自分のリボンを結んだ。
    そして残った線香を全て立てて祈りを捧げる。
    藍曦臣が、幸せでありますようにと、そのためにできることはなんでもするからと、心からそう祈った。

    江澄が最後の参拝者だったようで、廟を出ると同時に出入口は閉まった。
    文武廟の前の歩道では魏無羨が待っていた。涙の滲む江澄の顔を見て少し驚いて、でもニヤリと笑う。
    「お前、わざとだな?」
    思わず江澄は言った。
    「何が?そりゃ確かに、お義兄さんが先週この廟を参ったことは知ってたけど、それだけだぜ?」
    確かにそうだ。ここに連れてこられたけど、どの色のリボンを買うか、どう参拝するか、どこに結ぶかなんて全部江澄自身の意思で、魏無羨に指図されてなんかいない。
    「文武廟の中に一体何本の祈福絲帯が結ばれてるかわかんないけど、見つけたっていうなら、それは運命なんだよ。だから江澄も信じればいい。運命ってやつを」
    魏無羨が言った。
    たった一つの偶然だけど、とても大きな偶然だった。それはポーカーでロイヤルフラッシュが出るより高い確率なのだろうか。でも本当に、江澄は信じたくなった。運命というものを。
    文昌帝君と関聖帝君にとって黒社会の抗争は管轄外かもしれないけど、この偶然は、全てがうまくいく宣託のように思えた。そう信じることで、ほんの少しだが江澄は心の安寧を得ることができた。

    翌週、江澄は金光瑤の用意したチケットで香港に渡り、魏無羨や藍忘機とは別の便で出国した。用意されたのはキャセイのファーストクラスで、慣れないおもてなしにあたふたしつつも十四時間の空の旅を快適に過ごすことができた。
    魏無羨と藍忘機はロンドンのホテルに滞在することになっていたが、江澄はイングランド南西部のエクセターという街に滞在する。
    金光瑤が用意した単身用のフラットでの生活は、気候や文化、習慣の違いで最初の一月は大変だったが、二ヶ月目には慣れた。この街にカジノはないが、初夏の陽気が漂う自然溢れる街を散策するのは心地よかったし、近所の人は皆親切だった。マーケットで買い物をして、自炊しながら生活する。自然の中を歩き、時には川釣りをしてみたり。市中心部にあるエクセター大聖堂に行き、エクセター大学で社会人向けの週末公開授業を受けたりもした。
    そうして暮らす日々の中、金光瑤からの連絡は一度もなかったが、江澄は魏無羨と頻繁に連絡をとった。
    七月に入って一度だけ、ロンドンとエクセターの中間ぐらいの場所にあるバースという街で魏無羨と会う機会があった。
    その際江澄は魏無羨から、無事ロンドンでの会談で李の裏をかくことに成功したこと、カモッラ側での後継者争いが藍曦臣と金光瑤が支持する第三子で決まったこと、失脚した李が逃亡の末、香港の大東山から飛び降りて死んだことを伝えられた。
    金光瑤は藍清会での地位を盤石なものにし、藍忘機も不在の黒龍派は瀕死の様相だ。
    新生カモッラと新たな協力関係を締結した藍曦臣は、もう間も無く開業すると噂されている港珠澳大橋の関連行事の準備にも大忙しらしい。ここイギリスにいても、橋の開通に関するニュースは多く、江澄も時折目にしていた。
    七月下旬になると、江澄は市内のバーで働くようになった。元々就労できるビザだったし、英語力にも問題がないので採用はすぐに決まった。
    週に四日、夕方から夜まで働く。カジノでの経験が生きたおかげか、店主にも気に入られ仕事は上々の滑り出しだ。カクテル作りも二週間経つ頃には慣れた。きっと藍曦臣が見たら驚くだろう。いつか絶対に披露してやると誓って、毎日いろんなカクテルを作る。店では江澄の前職がカジノディーラーだと知れると、バー内でポーカー大会が開かれるようになった。それ目当てで客が来ることもあるぐらいだ。もちろんカジノのよう現金で賭けることはできないので、ポーカー大会は週に一回毎週月曜日、参加費を徴収し、優勝者には店のワインボトルを一本プレゼント。というような形に落ち着いた。
    九月に入って、エクセターでの暮らしが三ヶ月を過ぎるころ、江澄の元に一本の電話が入った。
    金光瑤からだった。
    『お久しぶりです』
    「お久しぶりです」
    江澄も同じように返す。
    『魏無羨から聞いてるかと思いますがひとまずの脅威は無くなったのであなたには戻ってきてもらいます。ただしそれは十月になりますが』
    「十月?」
    『十月二十一日のキャセイの航空券を手配しました。メールで送ってありますので後で確認してください。澳門に戻ってきたら、金庭園ホテルで待機です』
    「金庭園ホテルで待機って、どういうことですか?何の為に?」
    『これはまだ非公式の事案ですが、十月二十三日、珠海側の口岸管理区で港珠澳大橋の開通式典が開かれます。そしてその式典の記念パーティーはこの澳門金庭園で開かれます。あなたにはそのパーティーに江義社の当主として参加してもらいます』
    「………はぁ?」
    本当に意味がわからなくて、江澄は呆けた声を出していた。
    『指輪、無くしてませんね?家を探してみましたが見つからなかったもので。そっちに持っていっているんでしょう?』
    さらっと恐ろしいことを言った金光瑤の主張はこうだ。
    現在藍曦臣は、江澄はラスベガスで暮らし、ベラージオカジノで働いていると思っている。江澄のことは金光瑤に任せきりなので金光瑤の嘘に気付いていない。五月の終わりに出国したのも、情勢の悪化に伴いようやく説得に応じた。という金光瑤の説明を真に受けているらしい。黒龍派の粛清も一通り終わり、現在さしたる脅威はないものの、今江澄が澳門に戻ると藍曦臣にその嘘がバレてしまう可能性があるためそれを避けたい。そして十月二十三日、澳門金庭園で行われる開通式典記念パーティーに江義社の当主として参加することで、死んだはずの江晩吟を復活させ、藍清会と江義社の蜜月を黒社会に知らしめる。現地には各国有名企業(の皮を被ったマフィア)も一部参加しているので、噂を流すにもお披露目するにももってこいだと金光瑤は言った。
    『私も色々考えたのですがね。一生隠れて生きていくのは無理なんですよ』
    「それは、そうかもしれませんが…」
    まだ追いつかない思考で江澄は言った。
    当主になるだなんて、そんなのは無理だ。その考えばかり浮かんでしまう。
    『安心しなさいとは言えませんが、ひとまずこれは形だけのものです。江義社そのものが本当に復活するわけではありません』
    「どういう意味ですか?」
    『本国の黒社会でも温門会の滅亡はすでに知られていることですが、これに加え、逆に死んだはずの江義社の後継者が生きていたと分かれば向こうも驚く。尚且つずっと匿ってきたのが藍清会と分かれば、藍江の結束を疑う者はいません。実態はともかく、向こうからすれば江義社の勢力が全て藍清会に組み入ったと考えるのが普通です。だから温門会もカモッラの第一子も負けたのだと、そう勘違いしてくれれば大変ありがたいですね。そしてこの度温門会の滅亡を機に、私と白龍、そして聶友会の当主の三人で義兄弟の契りを結ぶことが決まりました。三聖会の結束に一片の綻びもないことを示せば、白龍に匿われていた貴方に手を出す事は、香港黒社会を統治する三聖会全てを敵に回すのに等しいこととなります。もちろんそんな無謀をやらかす人はいません。そして最も重要なのは、こうなったら藍曦臣はあなたを受け入れざるを得ない、ということです』
    「藍曦臣がそれを許しますか…?」
    『許すとか許さないじゃないんですよ。江義社としての責務が全うできないならせめてその名前ぐらい使わせてもらわないと割に合わないんですよ。大体このままだと本当に一生藍曦臣と会えませんよ。あの人はあなたの情報を一切遮断して生きてますからね。本当に世話が焼ける。まぁ、前みたいに人殺しをしろと言ってるわけじゃないんですから譲歩してください。この先どうなるかは、貴方次第でしょうが』
    「それは、実質元通りの生活に戻るけど、江晩吟の存在が黒社会で認知される以上、ある程度の危険がつきまとう、ということですか」
    『それもそうですし、あなたの元に江義社の構成員が戻ってくるかも知れませんね。万が一そうなったら、その制御はあなた自身にしてもらう必要があります』
    奇しくもそれは、入院していた病院で藍忘機が言っていた『江澄自身が変わらない事』を実行する機会というわけだ。
    藍曦臣が白龍を演じるように、自分もまた、江義社の当主、江晩吟を演じる。
    『情勢はいつ何時でも変わり得る。貴方が江義社を後継者として名乗りあげたら、将来的に貴方が何かしらに巻き込まれる可能性は確かに否定できない。世の中に絶対はありませんからね。ただそれでも、藍曦臣のそばに居続けることはできるでしょう。貴方に類が及ばぬように、あの人は全力で貴方を守るでしょうから。江澄、今一度聴きましょう。貴方は藍曦臣の業を受け入れる覚悟がありますか?そして貴方自身の、藍曦臣に全てを背負わせてしまった業を、受け入れる覚悟がありますか』
    金光瑤の言葉に江澄はハッとした。スマートフォンを持った手が僅かに震える。
    藍曦臣が望んだ「江澄」という存在を守りたかった。黒社会とは無関係な、カジノディーラーである自分。それも確かに自分だけど、藍曦臣と同じ痛みを分かち合えない自分だった。
    江澄はこの瞬間、自分自身の業を理解した。綺麗な身であり続けることを、その為に誰かを犠牲にしてきたことをずっと自覚して生きていく。藍曦臣に全てを背負わせてしまった業、まさにその通りだと思う。その業を、毎日見つめて生きていく必要があるのだ。江義社の江晩吟として、そしてただの江澄として。それを、彼が許してくれるなら。
    「わかりました」
    深呼吸のあと、江澄は言った。そして続ける。
    「俺は…江晩吟であることを受け入れます。でも江澄であることを捨てたりもしない。自分の心と信念は自分を守る。そして藍曦臣の心も、守ります」
    電話の向こうで、金光瑤が笑った気がきた。
    『では澳門金庭園でお待ちしております』
    その後送られてきた航空券のメールはまたもやファーストクラスだったが、この飛行機に乗る自分は、もう世間知らずの自分ではダメなのだろうと、ぼんやりと江澄はそう思った。

    バーの店主は江澄が澳門に戻ることを殊更惜しんで、けれど新天地への旅立ちを応援してくれた。
    出国日前日、荷物をまとめ終えた江澄は常連客や近所の人を自分のフラットに招待して、ガレージセールを開催した。引越しの際に不要なものをガレージセールで売るのはよくあることだが、全て無料にしたので、こちらに来てから揃えた家具も家電も、果てや調味料の一本までも綺麗に片付いた。部屋は完全にもぬけの殻となり、最後に綺麗に掃除をして、江澄は不動産業者に鍵を渡して退去を終えた。
    夜には店主主催のパーティーが開催され、たった数ヶ月働いただけなのに盛大な送別会を開いてもらった。どんちゃん騒ぎの大宴会に、常連客に近所の人、店主の家族も入り乱れのポーカー大会。誰でもいいから江澄に勝てばいい、そんなメチャクチャなルールだったけど、江澄は負けなかった。とても楽しい時間を過ごして、その夜は店主の家で過ごさせてもらった。翌朝銀行の開店時間と共に、最後の給料が記された小切手を店主と共に交換しにいく。
    バーでの給料はカジノよりも少なかったが、江澄はこのポンドを使わないで取っておこうとそう思った。エクセターセントデイビット駅まで送ってもらい、最後に握手をして別れた。いつかまた会いましょうとそう言って。
    ロンドン行きのGWRに乗り込む。車内はそこまで混雑していなかった。約三時間ほどの列車旅を終え到着したロンドンのパディントン駅では、魏無羨と藍忘機が待っていた。
    「魏無羨…、藍忘機も」
    まさかいるとは思わずに、江澄は驚く。だって約束もしていなかったのだ。
    「ドッキリ成功!かな?」
    魏無羨がおどけながらそういうと、隣にいた藍忘機が無表情のまま頷いた。
    「どうしてここに?」
    「金光瑤が江澄の乗るGWRを教えてくれたんだよ。ロンドンまで出てくるっていうから、こっちにくるつもりかなって」
    それは確かにそうだった。元々カモッラとの会談の為にロンドン入りした二人だが、黒龍派の粛清が終わった後もイギリスに残ることを決めたらしい。ロンドンにフラットを借りて暮らしていることをある人から聞いた江澄は、その所在を金光瑤に電話で聞いたのだ。夜の飛行機にも関わらず早めに出てきたのは、魏無羨に会いにいく為である。
    魏無羨は江澄の持っていたスーツケースをつかむと「行こうぜ」と言った。
    「あ、ああ」
    「せっかくだし少し観光もする?ロンドン来たことないだろう?」
    魏無羨は上機嫌にスーツケースを転がしていたが、途中でその役目は藍忘機に変わっていた。
    すでに昼過ぎだったので、藍忘機の運転する車で市内のとあるカフェに移動する。その道すがら魏無羨が「あれが俺たちの家」と紹介したのは、大きな庭付き一軒家の建物だった。
    ただ外見は一軒家でも中はフラットらしく、一つの建物に三つの住宅があるらしい。三つのうち二つが魏無羨と藍忘機のそれぞれの住居で、中はコネクティングルームになっているそうだ。
    「職場から近いからここにしたんだよ」
    「お前働いてるのか?」
    当たり前だろ、と魏無羨が笑う。
    「しかもカジノだぜ。なんなら藍湛も働いてる」
    またもや驚くべき事実だ。藍清会から追放という名の自由を得た二人だが、おそらく暮らしていくのに不自由がない程度のお金はあるはずだ。藍曦臣がそれを惜しむとは思えない。
    聞けば藍忘機は、ハロッズで働いているという。藍忘機が店頭で接客?とあまりにも想像できない姿を想像しかけたが江澄だったが、そこはやはり富裕層専門の外商担当らしい。これまでは客側であっただろう藍忘機の知見、そして生来の品の良さは、一夕一朝で身につくものではない。それにこの容姿の良さ。採用する側としても願ってもない人材かも知れない。二人がそれぞれがこの地で働き、共に生きて行く為の生活の基盤を築いている。それは当たり前のことかも知れないけど、やはり特別な感慨があった。
    連れてこられたのは、コヴェントガーデンにある二人の行きつけというカフェだ。レジ横のショーケースに並んだ数々のサンドイッチとケーキはとても美味しそうで、江澄はサーモンサンドイッチとコーヒーを頼む。魏無羨と藍忘機も同じようにサンドイッチとドリンクを頼み、テラス席で昼下がりのロンドンの喧騒を感じなら食事をした。食事をしながら話もした。エクセターでの自分の生活や、魏無羨と藍忘機のロンドンでの生活について。話題は尽きなかったが、肝心なことは話せずにいた。
    カフェを出た後は大英博物館、ウェストミンスター寺院という観光の定番に案内してもらって、夜六時を過ぎる頃にはテムズ側にかかるウェストミンスター橋の上にいた。夕方から夜へと変わりゆく景色の中でネオンの明かりがところどころで灯り始める。橋からはかの有名なビックベンが見えたが、ちょうど工事中らしく、工事用の防音シートで覆われていて全体を見ることは叶わなかった。
    あと少しで満月というぐらいの明るい月が夜空に輝いている。
    観光客が行き交う橋の欄干に腕を乗せてテムズ川を眺めていると、突如隣に立っていた魏無羨が言った。
    「江澄、後悔しない?」
    それが何のことを言っているのか、江澄はすぐに理解した。むしろ今日はそれについて話すつもりだったのだ。いつ言おうかと迷っていたので、切り出してくれて助かった。同時に、取り繕うことも、背伸びする相手でもないので江澄は正直に心の内を伝える。
    「わからない」
    「今まで通り、過去を忘れて生きていく方法だってある」
    「藍曦臣さえも忘れて?」
    魏無羨は少し困ったような表情をした。
    予想通りであったが、魏無羨は全てを知っているようだ。
    心はどこか寂寥感を覚えていたし、この先どうなるのだろうという不安もあったけど、ただそれでも、引き返す気にはならなかった。
    「お前が言ったように、そんな道もあると思う。でもそれはいろんな人の犠牲の上に成り立っているんだってことも、今の俺は知ってる。これまでと変わらないディーラーの生活をして、でも藍曦臣とは二度と会えない生活…でも、それじゃダメなんだ。お前だって藍忘機のいない生活なんか、考えられないだろう?」
    「…そうだな」
    「それと同じだ」
    「でも、江晩吟としてパーティーに出たら、本当に後戻りできなくなるぞ」
    「わかってる。でももう決めたんだ。待っていようかと思ったけど、それじゃダメみたいだから、覚悟を示そうと思って」
    「覚悟?」
    「ああ」
    そう言って江澄は、自身の肩の裏を指先で示した。それは江澄の背中に、何かがあることを示していた。
    「お前…」
    「これが俺の覚悟だ」
    魏無羨は驚いて、でも何か、想いを飲み込んだような表情をした。その目元に涙が浮かんでいた。
    「…そっか。うん、わかった。江澄がその気なら俺はもう何も言わない。でも俺はずっと、江澄って呼び続けるぞ。江晩吟とは呼ばないからな」
    「俺もそのつもりだ。江澄である自分を捨てる気はない。それに江澄でいた時間の方が長いからな」
    「江澄、いや江晩吟、」
    魏無羨の隣にいた藍忘機が、静かに江澄の名を呼んだ。江澄は藍忘機に名前を呼ばれたことがほとんど無かった為、あまりの聞き慣れなさに驚いたが、藍忘機は前に進み出ると、周囲の人の目も憚らず、江澄に頭を下げた。
    「兄上を、頼みます」
    藍忘機が、なぜ名を言い直したのか、少しわかる気がする。
    自分が江晩吟の名を取り戻すことで守れるものがあるとしたら、それはきっと藍曦臣だと思うから。
    「ああ」
    魏無羨と藍忘機、それぞれと握手を交わしながら、江澄は藍曦臣のことを考えていた。彼の弱さと強さを想う。黒社会の頂点という大きな権力を手にしながら、自分を殺し続ける恐怖に身を震わせていた。藍曦臣の希望にになりたいと思った。
    でも同時に、腹立たしくもあった。こんなにも惚れさせといて、好きにさせといて、後戻りなんかとっくにできなかったのに、マンダリンホテルで平然な顔でさよならを言った藍曦臣が憎かった。憎くて憎くて、こんなにも彼を憎めるのはこの世で自分だけじゃないかと思った。でもそれでもいいだろう、羨望も、尊敬も、畏怖も、全てを集めてしまったと言うのなら、自分からは惜しみない愛をあげたい。
    その代わり、この先の人生を、後悔しないと江澄は誓う。誰に言うでもなく、ただ心の中でそう固く決心した。黒社会に身を投じる事を、決して誰かのせいにはしない。この先傷つくことも、涙を流すこともあるだろう。でもそれはすべで自分が選んで決めたのだと、その矜持だけはしっかりと持っていたかった。



    続く



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    takami180

    DOODLE攻め強ガチャより
    「澄を苦しませたい訳ではないけれど、その心に引っ掻き傷を付けて、いついかなる時もじくじくと苛みたいとどこかで願っている曦」

    阿瑶の代わりだと思い詰めている澄
    vs
    いつまで経っても心を開いてくれないから先に体だけ頂いちゃった兄上
    「また」と言って別れたのは、まだ色づく前の、青の濃い葉の下でのこと。
     今や裸になった枝には白い影が積もっている。
     藍曦臣は牀榻に横になると、素肌の肩を抱き寄せた。
     さっきまではたしかに熱かったはずの肌が、もうひやりと冷たい。
    「寒くありませんか」
     掛布を引いて、体を包む。江澄は「熱い」と言いつつ、身をすり寄せてくる。
     藍曦臣は微笑んで、乱れたままの髪に口付けた。
    「ずっと、お会いしたかった」
     今日は寒室の戸を閉めるなり、互いに抱きしめて、唇を重ねて、言葉も交わさず牀榻に倒れ込んだ。
     数えてみると三月ぶりになる。
     藍曦臣はわかりやすく飢えていた。江澄も同じように応えてくれてほっとした。
     つまり、油断していた。
    「私は会いたくなかった」
     藍曦臣は久々の拒絶に瞬いた。
    (そういえばそうでした。あなたは必ずそうおっしゃる)
     どれほど最中に求めてくれても、必ず江澄は藍曦臣に背を向ける。
     今も、腕の中でごそごそと動いて、体の向きを変えてしまった。
    「何故でしょう」
     藍曦臣は耳の後ろに口付けた。
     江澄は逃げていかない。背を向けるだけで逃れようとしないことは知っている。
    1112

    takami180

    PROGRESSたぶん長編になる曦澄その1
    閉関中の兄上の話。
     穏やかな笑みがあった。
     二哥、と呼ぶ声があった。
     優美に供手する姿があった。

     藍曦臣はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
     窓からは午後の光が差し込んで、膝の上に落ちている。眼裏に映った姿はどこにもなく、ただ、茣蓙の青が鮮やかだ。
     閉閑して一年が過ぎた。
     今に至っても夢に見る。己の執着もなかなかのものよと自嘲する。
     優しい人だった。常に謙虚で、義兄二人を立て、立場を誇ることのない人だった。大事な、義弟だった。
     毎晩、目をつむるたびに彼の姿を思い出す。瞑想をしたところで、幻影は消えるどころか夢へといざなう。
     誘われるままについて行けたら、この苦悩は消え去ってくれるだろうか。あの時のように、「一緒に」とただ一言、言ってくれたら。
    「兄上」
     締め切ったままの戸を叩く音がした。
     藍曦臣は短く息を吐いた。
    「兄上」
    「どうかしたかい」
     弟に応えて言う。
     以前、同じようにして藍忘機に呼びかけられても、どうにも答える気になれなかった時があった。そのとき弟は一時もの間、兄上と呼び続けた。それから、藍曦臣は弟にだけは必ず返事をするように心がけている。
    「江宗主より、おみやげに西 3801

    mahoy_asa

    PROGRESS16年かけてくっつく曦澄。
    アニメベースで江澄が金丹を取り戻した後、傷が癒えるまで曦臣に匿われていた設定です。

    ここまでだと幸せじゃないので、16年後も書いて支部に載せたい。
    曦澄① 雲夢江氏が温氏に襲われて、町中に江晩吟の手配書が配られていた時、手負の江晩吟を匿ってくれたのは藍曦臣だった。温氏討伐を願う手負いの者たちを集め、山奥の隠れ家に匿う彼もまた雲深不知処を襲撃されたときに負った傷を癒している最中だった。

     江晩吟は金丹を取り戻した直後で、温氏を全て滅ぼすことに心血を注いでいた。どう復讐をすればよいか、そのために自分がすべきことを考えて、鍛錬をしながら過ごす。復讐という目標が江晩吟の生きる意味となっていた。
     それでいて夜になると、全てを失ったあの晩が夢になって蘇り、眠れなくなった。母や父の遺体が無碍に扱われる所を見ながら、何もできなかった。師弟たちが家畜以下の扱いを受け、山のように積み重ねられていた。助けることも、弔うこともできず、金丹を奪われて腑抜けになった。自分の無力さを知り、誰かのせいにしなければ立っていられなかった。同じように苦しんでいるはずの魏無羨に怒りを向け、心のない言葉で責め立てた。魏無羨が言い返してこないことに余計腹が立って、言うつもりのなかったことまで上げ連ね、その結果彼もいなくなった。
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