春になって その年の正月は酷く寒かった。
雪はしんしんと降り積もり広い庭を真っ白に染め上げていたし、池に張った氷は驚くほど分厚かった。廊下を歩いているのに息を吐けば白くなる。軋む床を、体を温めるように小刻みに踏みながら先へと進んだ。
大人たちは広間に集まって何かの話を聞いている。子供は自分一人。つまらない話に飽きて、黙って俯いている大人たちからこっそり抜け出し、目的地もなく歩いている。しかし、長い廊下はその先を不安にさせるかのごとく薄暗かった。
たまにしか来ないこの家はとにかく広いのに、山鳥毛が入ったことがある部屋は少なかった。来たら絶対に通る玄関、そこから少し進んだところにある応接間、それと先程までいた広間、それくらいであり、今歩いている先は山鳥毛にとって全く未知の場所だった。
廊下の薄暗さと静かすぎる家に響く床の音に、山鳥毛はだんだん恐ろしくなってくる。もう体の震えを寒さだけのせいで誤魔化すのは難しい。それでも自分の腕を抱きこんで、必死に足をうごかした。しかし奥に潜む暗がりの恐怖には勝てず、引き返そうとした時だった。真っ黒く塗り潰されたような廊下の奥に一筋の光が見えたのだ。山鳥毛はその一本の光に導かれるように、恐る恐る歩いて行った。
廊下の行き止まりの部屋のドアが薄く開いている。光はそこから漏れていた。その隙間からこっそりと部屋の中を覗いてみるが、中は洋風のドアに反し和室になっていることくらいしかわからない。山鳥毛が感じていた恐怖はいつの間にか好奇心に塗り替えられ、無意識に重いドアに手を掛けていた。
山鳥毛の視界がだんだん開けてくる。大きさは八畳ほどだろうか。広い家なのでこの部屋は小さく感じる。テーブルなどの家具はなく、床の間は神棚になっていた。それから障子の向こうに縁側がある。山鳥毛は視線を奥に動かして、ハッと息を飲んだ。
半分閉じた障子の向こうに、赤い膝掛けの端から伸びる白い爪先が見えた。その足はゆらゆらと揺れている。慌ててドアを閉めるがもう遅い。障子の向こうはこちらに気がついただろう。かすかに椅子の揺れる音が聞こえた。
「おい」ドア一枚を通してこもった声がする。「誰かいるんだろう」山鳥毛はドキドキと外に聞こえてしまうのでは、というほど心臓を鳴らしながらドアを開けた。
緊張したまま部屋を覗くと、障子の向こうの人は椅子に座ったまま先程と同じ場所にいる。「あの……」ドアに隠れ、相手の様子を窺いながら声をかけた。
「あの、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ」キイと椅子が揺れる。
「だって勝手に入ったから」
「僕は別に気にしちゃいないよ。こんなところに珍しく人がきたから驚いているのさ」
山鳥毛はホッと胸を撫で下ろした。酷く緊張していた体がようやく弛緩する。
「ちと動くのが億劫でな、お前さんこっちに来てくれないか」
「えっ……」向こうから動く気配がない。山鳥毛は仕方なく部屋に足を踏み入れた。
部屋は廊下よりも寒く感じる。山鳥毛はまた緊張しだしたのか、寒いからなのか、一度ブルリと大きく体を震わした。
「あの、あなたは」
小さな部屋はすぐに目的地に到着してしまう。まだ気持ちも整っていないのに。寒いのに手はじんわり汗が浮かんできた。
「人に聞く前に、まずは自分が名乗るべきではないか。坊主」
視界には真っ赤な膝掛けが広がっている。そこから伸びる足は一本しかない。汗で更に冷たくなった手をギュッと握って、口に溜まった唾液を飲み込んだ。
「さ、山鳥毛……」強張った口からなんとか声を絞り出し、ようやく顔を上げる。「僕は則宗」そう名乗った男の春をにおわす瞳が細くなり、淡い金の髪がふわりと揺れた。
「ただの隠居のじじぃさ」
寒いだろうと赤い膝掛けを肩にかけてもらったが、窓際にあったせいかその布は冷え切っていた。「ここで何をしているんですか」かけられた布を握り込む。
「なにせこの足だろ。本当は外に行きたいんだが」則宗はない方の足を摩ってみせる。「お前さん、もし見つけたら僕のところに持ってきてくれないか」にこりと微笑んだ。
はたして、足なんて落ちているものなのだろうか。もし拾ってきたとして、くっついて歩けるようになるのだろうか。疑問は尽きないが、則宗の口からそれ以上のことが語られることはなかった。
今年は春が早い。三月の中旬だというのに、すでに庭の桜がちらほらと咲き始めている。山鳥毛は気を引き締める意味を込めて、ネクタイを締め直してから玄関を潜った。この家に来るのは、正直気が重い。しかし来なくてはならない用がある。気と共に重くなる足を無理矢理持ち上げた。
「お頭」後方から聞こえる日光の心配そうな声に「大丈夫だ」とため息と共に流し、靴を脱ぐ。そうするとその先には広間が待っていた。
山鳥毛はあの広間が嫌いだった。あの部屋の奥には時代錯誤な御簾があり、その後ろに何かがいるのだ。子供の頃は気にならなかったそれは、成長するにつれてだんだん胡散臭く感じられ、頭領となった今、なぜ何者かわからないものに従わなくてはならないのか憤りすら感じていた。
「我が翼よ。あれはなんだと思う」
「……は、」要領を得ない問いかけに戸惑う日光の声が漏れる。「御簾の裏にいるものだ」古い人間たちが揃って首を垂れる何かに、山鳥毛は思いを巡らした。
「古い奴らはあれを祖だというが……」
山鳥毛は到底信じられなかった。祖とは、今いる者たちは顔も知らない、遥か昔の存在である。それがどうして今あるというのか。
「そんなはずはないだろう。なら、あれはいったいなんだ」
後ろで日光の息を呑む気配を感じた。御簾の先に触れるのは禁忌であり、存在を疑うことも許されない。そして口に出すことすら憚られる存在であった。なので、もし日光が山鳥毛と同じように存在を疑っていたとしても、口を硬く閉ざしているだろう。しかし山鳥毛が切り出したことで、日光に迷いが生じた。
「キツネが坊主に化けた話があるが……、さて何が出てくるかな」
「お頭、まさか」
「そのまさかだ」
山鳥毛は緊張で強張った顔を誤魔化すように、口の端を持ち上げた。そして息を吐き、気持ちを落ち着かせる。「ここで待っていてくれ」日光に持たせていた得物を受け取るため手を上げた。
「……お気をつけて」
何か言いたそうな日光を視線で止め、障子に手を掛ける。人が出るか、化け物が出るか、いずれにせよ斬れるものならばありがたい。山鳥毛は御簾の奥を見据えた。
「失礼いたします」
部屋の中程まで進む。久しぶりの緊張感に口の中が乾燥してきた。奥にいるものはこちらの気も知らず落ち着いたものだ。山鳥毛は御簾の前に行くと片膝をついて、頭を下げた。
「こんな時期に珍しいな。して、何用か」
御簾よりこもった声が聞こえた。心臓は痛いくらい鼓動が速くなる。しかしけっして緊張しているからではない。禁忌を暴こうとする興奮からくるものだ。
山鳥毛は横に置いた鞘を握ると、起き上がりにそのまま刀を抜いて、一線を入れる。御簾は綺麗な断面を作って斬れ、その奥を晒した。
まず初めに目についたのは古い祭壇だった。それから人の形。それは興奮冷めやらぬ山鳥毛を恐れもせず、微動だにしていない。山鳥毛は切れた場所から御簾の奥に入り込み、それに切先を突きつけた。
「ずいぶんと遅かったじゃないか。山鳥毛」
気安く名前を呼ばれ、怯みそうになるのを必死に堪える。一度柄を握り直して、乾いた唇を湿らせた。
「お前はいったいなんだ」
「なんだ、僕のことを忘れちまったのかい。薄情なやつだな」薄暗いなか、髪の毛がふわりと揺れた。「僕は、則宗。この家の主で、今はただの隠居のじじぃさ」そう言うと、山鳥毛に向かって微笑んだ。
「則宗……」
山鳥毛は一歩下がった。あんなに乾いていた口は唾液が溢れそうになっている。
「僕はお前さんが来るのをずっと待っていたというのに、待てど暮らせど来やしない」
則宗は座ったまま、手の力を使ってズルリと近づいてくる。「足を探してくれと頼んだだろう」切先を握られ、グッと引っ張られた。少し触れただけで切れるはずの刃を握られて、しかし少しも痛がらず。
「なぜ、ここに……。あなたは足が、」
揺り椅子に座る彼は片足が無かった。そのせいで歩けないとも言っていた。
「そうだ。だから僕は、お前さんが探しにくるのをずっと待っていたんだ」
そう言うと足を崩してみせる。目の前にいる彼も足は一本しかないが、記憶にある足とは違った。
「本当に落ちていたのか……」
「後ろの箱だ。開けてみろ」
則宗の言葉に手の力は抜け、握っていた柄がゴトリと音を立てて床に落ちた。そして言葉に操られるかのように、ふらふらと祭壇に置いてある箱の前へ来た。
箱は桐でできており、赤い組紐が結んであった。それを解き、蓋を開ける。足の木乃伊が入っていると思うと、中身を覗きたくないような気もする。「骨と……」しかし山鳥毛の予想に反して中には骨と、長い髪の毛の束が入っていた。
「それを持っていってくれ。お前さんなら信用できる」
何が、と問う前に則宗は姿を消してしまった。
「お頭! 無事ですか」
なかなか出て来ず、豪を煮やしたのだろう日光が広間に入ってきた。斬れた御簾、それと転がる刀を見て不審そうな顔になる。
「すまない。私は大丈夫だ」
「しかし、これは」
「足の幽霊がいたのだ」
箱を持って戻って来た山鳥毛を見て、日光はますます不審な顔になった。
「これを届けに行こう。どうやら私は殊の外信用されいているらしいからな」
山鳥毛は微笑んだ。まるで春の日差しの暖かさのように柔らかく。しかし、ここで何が起こったのか想像もつかない日光は、眉根に皺を深く刻むことしかできなかった。
この屋敷は山鳥毛の記憶よりもずっと狭いらしい。成長した足で歩けば、廊下の端までなどすぐに着いた。たいした重さもないドアを開けると見覚えのある八畳間に神棚、そして縁側がある。半分障子が空いていて、その奥に見える足まで記憶通りだった。
「則宗」
「遅いぞ山鳥毛」
「すまない。だがようやく足を見つけてな」神棚に骨と髪の毛が入った箱を置く。「お前さんなら見つけられると思っていた」則宗は揺り椅子から立ち上がり、山鳥毛たちの元へ歩いて来た。記憶にあるよりも遥かに小さくまじまじと眺めていると、視線がうるさいと怒られてしまった。
「で、後ろの坊主は」
「我が翼である、日光だ」
なるほど、と頷いて「僕は則宗。この家の主で……」則宗は一度咳払いをして、二人を見上げた。「これから旅に出る者だ」うははと笑いながら二人の間を通り抜け、部屋から出て行ってしまった。
その後ろ姿を山鳥毛は晴れやかな気持ちで見送った。
「お頭、今のは……」
「あれが祖だ」
はあ、と日光からため息にも似た声が返ってきて、山鳥毛はガラにもなく大声で笑った。