カリカリと紙を引っ掻く音がする。
暗くなってきた教室の片隅、自分の席でノートを埋めているソーンズの前に逆向きに座り、エリジウムはそれをぼんやりと眺めていた。
蝉の啼く声は次第に遠くなり、夜の気配が近づいてくる時刻。教室のエアコンは既に止まり、開けられた窓から風だけが僅かな涼を運んでいた。
「宿題は早いのに、日誌はなんでこんなに時間がかかるんだろうね、君は」
「先に帰っていろと言っただろう」
「えー、やだよ」
カリ、とシャープの動きが止まり、考えるように頭が窓の外を向く。その手が、ボタンの幾つか外された襟元に伸び、下のシャツの丸襟を掴むと首もとを雑に拭った。
「蒸し暑いな」
「ちょっと、そういうことするから、シャツの襟が伸びちゃってるよ。新しいの買わないと」
「まだ着られるからいい」
もー、と言いながら、エリジウムも手の甲で顎を流れる汗を拭く。蝉に夕陽に僅かな涼風、これで麦茶でもあれば夏の情緒は完璧だな、などとなんともなしに思いながら、ふと目の前の友を見た。
額を汗で濡らした顔が、夕陽の残滓を浴びている。流れ落ちた汗が首に浮いた筋を伝わり、僅かに存在を主張し始めた喉仏を通りすぎる。伸びきった襟からは鎖骨が覗き、その窪みに汗の雫が溜まっているのが見えた。
ソーンズは、見目がいい、とエリジウムは思う。エリジウムは自分の容姿に絶対的な自信を持っているが、それとは別の方向性でもって、ソーンズは人の目を惹き付ける。それは決して、己の欲目などではない、はずだ。
その、伸びきったシャツの下の鎖骨や、そこから穏やかに服の内へと下るラインを、そういう目で見るものだってきっといるだろう。現に、ここに確かに一人、いるのだから。
無性に、喉が渇いた感覚を覚える。先程とは別の情緒でもって、麦茶が恋しくなった。
再びシャープを取り上げ、ソーンズが机に向かう。目の前のシャツが握られ、乱暴に汗を拭かれた鎖骨が見えた。
「……ねえ、それ。誘ってんの?ってくらい見えてるんだけど」
思わず本音が溢れた。こちらを見たソーンズの瞳が大きく開かれていて、あ、やっちまった、と思った。ずっと、隠してきたのに。
お互いに驚いたような顔を見合わせる。そんなエリジウムを見上げ、何故かソーンズは、少しだけ笑った。
「……そうだ、と言ったら、誘われてくれるのか?」
──え、と。エリジウムが呟いたときには、ソーンズは既に顔をノートに戻していた。
普段通りの顔でシャープを動かす友人の、そのつむじを見詰める。もう一度問い返すだけの勇気は、今のエリジウムにはまだ無かった。
遠く、蝉の鳴き声が聞こえる。夕陽はその殆どが山裾に隠れ、空だけを紅く染めている。
「……あついな……」
顎に手の甲を当て、言い訳するように呟いた。顔がやたらと熱かった。取り敢えずは、早急に替わりのシャツを用意しなければならない。
椅子に逆向きに座ったまま背を反らし、エリジウムは天井を仰ぐ。三年間もの間代わり映えのない、白い蛍光灯が瞬いている。
「……あー。早く卒業したいな……」
──そうしたら。きっと。
自分の不甲斐なさにため息を溢すエリジウムに、ノートに顔を向けたまま、ソーンズはただ、そうだな、と頷いた。