薔薇の秘密 温暖な気候とはいえ二月のモンドは寒い。
ここ数週間でモンドでは風邪が流行し、そしてそれは、西風騎士団も例外ではなかった――
体がだるいような気がする。
ただの疲労とは違う気怠さを自覚しつつ、騎兵隊長ガイアは一人黙々とペンを走らせていた。流行り風邪のせいで執務室から一人、また一人と騎士団員が姿を消し、常に人手の足りない西風騎士団は今なら本気で猫の手を借りたいほどに忙しい。何なら今からキャッツテールに行って仔猫を借してくれとお願いするのも有りかもしれない。誰かさんが常日頃から『騎士団は仕事の効率が悪い』と毒づいていたが、いやこれはほんとにまったく、その通りだとしか言いようのないくらい、効率が悪い。
ふいに目元が霞んで顔を顰めた。ペンを置いて目頭を揉み解すも、数日ベッドで寝た記憶の無い体にはもはや何の効果もない。眠気覚ましにとノエルが淹れてくれた紅茶もすっかり冷たくなり、これはこれでまぁ眠気覚ましと言えるかもしれない。
室内はシンと静まりかえり、時計が時を刻む音だけがコチコチとやけに際立つ。山積みになった書類は一向に減らない。これ以上人手が減ったら騎士団は壊滅するのではなかろうか。いやその前に壊滅するのは自分自身か。一度置いてしまったペンをもう一度取る気力が戻って来ない。
誰もいないのをいいことに、珍しく本気のため息を一つ。それから机に突っ伏して、五分だけと誰にともなく言い聞かせて目を閉じる。ひんやりとした机が頬と瞼に触れるのが心地好い。時計の音がだんだんと遠くなる。意識がどこかへ持っていかれる自覚はあったが、目を開ける気にはなれなかった。五分だけ、五分だけでいいんだ。そう心の中で呟いたところで、ガイアの記憶は完全に途絶えた。
◇◆◇
『お前はカーンルイアの最後の希望だ!!』
実父はその言葉を残してガイアを置き去りにした。モンドにスパイとして潜り込めと、そう何度も繰り返し、置いて行かないでと縋るガイアを突き飛ばして姿を消した。
目の前には大きな屋敷が一つ。周囲をぐるりと植物――葡萄というらしい――の畑に囲まれた、こういう景色を見慣れないガイアですら「金持ちの家だ」とわかる豪邸。ここにじきに嵐が来るのだと聞かされた。そうしたらいかにも可哀想な子どもを演じて屋敷の者に助けを求めろ、と。ここの屋敷の主人は慈悲深いことで有名だから、きっと手厚く保護してモンドの孤児院なり養子縁組先を紹介してくれるだろう、と。
人を騙さなければ生き延びられない希望とは一体どういうことなのか。幼いながらに聡明さを兼ね備えた思考は迷いを生み、やがて本当に嵐が来ても屋敷の扉を叩くことが出来なかった。近くにあった農具置き場の屋根の下で木箱と共に蹲り、ただ時が過ぎるのを待った。もしかしたら様子を見に父が戻って来るかもしれない。そうしたら素直に出来なかったと謝る。怒鳴られるかもしれない。殴られるかもしれない。それでもまた父と旅を続けられたら何だって良かった。知らない土地で一人孤独に生きるより、たとえ無理難題を押し付けられようとも、父はガイアのただ一人の肉親だったから――しかし。
待てども、待てども……父の姿はどこにも見当たらない。激しい雨と風に気温は下がり、ここに来るまでは暑いとすら思っていたのに、今のガイアの体はすっかり冷え切ってしまっていた。服も、靴も、外套も……どこもかしこも雨でぐっしょりと濡れてガイアの体から熱を奪う。先程から震えが止まらない。寒い。お腹が空いた。寂しい。それでも、ガイアの足は屋敷に向かう事を拒んだ。騙すくらいなら、一人になるくらいなら、ここで果ててしまった方が早く楽になれる。生きるか、死ぬか。二桁にもならない子どもの抱えた天秤が後者に傾いた。
(ここから出て、もっと濡れれば……)
抱えた膝から手を解いて、立ち上がる。けれど、その時にはもう体は言うことをきかなくなっていて。視界がぐらりと傾いて、顔から派手にぬかるみの中に突っ込んだ。思えばそれが、仕事を終えて屋敷まで戻って来たクリプスの耳に届いた、言わばきっかけだった。
寒さがいつの間にか消え、今度は体中が熱くて目が覚めた。頭も、喉も、どこもかしこも痛み、左目だけが捉える視界がぐらぐらと揺れる。誰かが早口に何事かをまくしたてるように言い、ついで腕に痛みが走った。口に何か甘苦い液体を流し込まれ無理矢理に飲みこまされる。何もかもが億劫なのに、周りにいる者達はガイアが静かに眠ることを許してくれない。早く楽になりたいのに、苦しみがいつまでも終わってくれない。痛みのせいか、それとも苦しさからなのか、涙が溢れてなおさら視界が歪む。
「おとう……さん……たすけて……」
ひどくかすれた声で父を呼べば、誰かが力強く手を握った。
◇◆◇
握られた手の温かさにふと目が覚めた。
かすかに身じろぐが、体がだるくて、何より眠気が強くて頭が働かない。
頬に触れ、頭に触れる温もりが心地好くて、再び意識が遠のく。
「大丈夫だから、もう少し休みなさい」
まるで魔法にでもかかったように、ガイアは再び思考を眠りの世界へと沈めた。
自身を襲うあらゆる苦しみを脱したガイアを迎えたのは、奇しくも実父が望んだ「希望」として生きる道だった。
「私はクリプス・ラグヴィンド。こっちは息子のディルックだ」
「はじめまして」
優しさ、慈愛を絵に描いたような赤髪の親子は、どこから来たのかもわからぬ異国の子供を快く屋敷に迎え入れ、孤児院どころか養子として同じ姓を与えて家族にしてしまった。
特に息子のディルックは義理の弟が出来たことに大喜びし、まるで大切な宝物でも扱うかのように甲斐甲斐しくガイアの世話をした。隙あらばガイアの寝ている部屋に忍び込み、採れたての葡萄だのりんごだのを運び込む。しかし一方のガイアはそれを素直に喜べなかった。ラグヴィンド家の者として迎えられたガイアの待遇は、あの嵐の夜から一変した。質の良い寝具と衣類。栄養のある豪華な食事。体調が優れなければすぐに医者が呼ばれて適切な処置を施された。拾われる前から枝のように細く痩せていた手足に、だんだんと肉が付いて行くのがわかった。健やかに生きる。その真の意味をまざまざと見せつけられる。実父が望んだ生き方。しかし、それは人を騙すことによって得て、そしてこれからさらに誰かを騙していくことになる。
誰も騙したくない。けれどディルックやクリプスの笑顔と優しさが温かくて……。ガイアの天秤がまたぐらぐらと大きく揺れた。
「ガイア、ホットチョコレートを持って来たよ。これなら飲める?」
控えめなノックの後、ディルックが湯気の立つマグカップを二つ持って部屋を訪れた。
夏も終わりに近づいた頃、揺れ続けた幼いガイアの天秤は、罪の意識に耐え切れず再び解放を求める方に傾いていた。
食事の量が徐々に減り、今では一日にわずかな粥と水を口にする程度。医者に何度も診せられ、そのたびに栄養剤を打たれたが、精神的なものから来る食欲低下はどうやら医者にも治せないようだった。クリプスが、アデリンが、そしてディルックが、屋敷の者のほぼ全員が心を痛め、ガイアの力になろうと手を尽くす。けれどガイアは「食欲がない」と「わからない」を徹底して貫き通した。そうすれば大半の者は「血を分けた肉親がいない寂しさ」ゆえと思い込んでくれたから。だがしかし、絶対に諦めようとしない人物が一人だけ、いた。
「これはチョコレートって言ってね。とっても甘くておいしいんだ。これを飲めばきっと元気になるよ」
優しく諭すような喋り方はクリプスによく似ていた。差し出されたマグカップの中身は泥のような色をしていたが確かに甘い香りがした。ディルックに悲しい顔をさせたくはなかった。でも、それよりも己が楽になりたいという思いの方が強く、重い頭を枕に預けたまま小さく首を横に振る。
「ありがとう。でも、ごめんなさい……。代わりに義兄さんが飲んで」
か細い声に、明らかにディルックの顔が曇る。流れる沈黙が気まずくて、ガイアはふと目線をそらして窓を見た。夏の終わりが近づいた夕暮れ時。窓の向こうに見える景色に、ああ、この夏が終わる頃に自分は死ぬのだろうな、と、そう思った。
「ガイア……?」
「義兄さん、窓を開けてもらってもいい?」
ガイアの心の変化に敏いディルックを誤魔化すように、外の景色が見たいと強請って窓を開けてもらう。体を起こすのも助けてもらって、二人掛けのソファーまで移動して外の空気をゆっくりと吸った。地上の、緑の濃い香りが胸にすぅっと入って来る。
夕焼けに染まる葡萄畑と、近くに建つ小さな家。夕飯の支度をしているのか、煙突から細く煙が上がっている。そのずっと向こうには夏だというのに大きな雪山が見えた。
「ドラゴンスパインって言ってね、ずっと雪に覆われた山なんだよ」
あっちに見える滝と川はドラゴンスパインから流れてきているだとか、その向こう岸は璃月という国に繋がっているだとか、ディルックは物語を読むようにガイアに色々なことを教えてくれた。モンドの名所、植物、生き物。それらが沁み込むようにガイアの記憶の中に刻まれていく。
「秋にはここの葡萄が収穫されてね。葡萄ジュースやワインが作られるんだ」
ちょうどこの辺に樽が積まれるんだよ、とディルックが窓のすぐ下を指さす。
「窓のすぐ近くまで樽が積まれるんだ。一度、それを登れば二階のこの窓から家に入れるんじゃないかって思ってね、試そうとしたらすぐ父さんに見つかって、すごく怒られた」
「たくさん出来るんだね。……僕もそれ、見られるのかな」
それまで生きられるだろうか。という意味から零れた言葉だった。けれどディルックはそれをガイアが見たいと思ったらしい。力いっぱいガイアを抱きしめ、
「大丈夫だよ。必ずよくなるよ」
そう励ました。
その夜。衰弱により鈍っていたガイアの思考は研ぎ澄まされていた。
部屋から見えた景色。ディルックが教えてくれた地理。秋に作られ積まれるというワインの樽……。その話の一つ一つが、まるでパズルのピースのようにガイアの脳裏でカチリカチリと音を立てて組み立てられていく。
夏の終わりに死ぬ。死ねば解放される。でもそうなると、死に顔をディルックに見られ、悲しませてしまう。そして、この国では人間を弔うのに『葬式』をすると教わった。それには少なからずの金が必要になるとも。きっとこの屋敷で自分が死ねば、優しい養父は自分なんかのためにその『葬式』とやらをするだろう。誰の迷惑にもなりたくなかった。幸せはもうたくさんもらった。だから、一人で、誰にも知られずに死にたいと思った。
秋になれば……。秋になるまでは……。
消えかけていたガイアの心に、小さな、けれど仄暗い光が灯った。
「気をつけて運べ!!」
「こら、大声出すなよ、ガイア坊ちゃんが起きちまう」
「大丈夫だよ。もう起きてるから」
秋になり、ようやくガイアの待ち望んだ日がやって来た。ディルックと一緒に積まれた樽を見る。その目的を果たすため、ガイアは必死で命を繋いだ。この日まで生きられる必要最低限の食事と体力づくり。けれど体型はあくまで細く、一人で歩ける事も隠し、移動は全てディルックや他の者に手伝ってもらった。医者も誰も、ディルックですらガイアの計画には気付かなかった。ゆえに今朝も、ディルックの手を借りてソファーまで移動し、窓を開けてもらい、従業員達がワイン樽を積む作業を仲良く見守る。
「ほんとにたくさん積むんだね……」
「成人したら僕らもワインが飲めるようになるよ」
成人の日まで共にあると信じて疑わない顔。そのキラキラと希望に満ちた笑顔に心の中で謝った。
「ワインって、どんな味がするんだろうね……」
ああ、ごめん。ごめん、ディルック。きっとその頃にはもう、俺はお前の隣にはいない。
夕方。仕事を終えた従業員達が皆帰った頃。ガイアは静かに静かに準備を始めた。部屋の扉の前に椅子を置き、少しでも時間を稼げるようにした。服はなるべく動きやすく、目立たないものに着替えた。ラグヴィンドの者とわかるものは全て外す。
窓を開けると秋の冷たい風が頬をかすめた。辺りに人がいないのを確認し、そっと窓枠に足を乗せる。チャンスは一度きり。これを逃したらもう二度目はない。逸る心臓の音を聞きながら、慎重に足を運ぶ。樽に足が届いたら、後はもう楽なものだった。するすると滑るように地上に降り立ち、人の気配を確かめながら葡萄畑に身を隠すように屋敷を離れる。少し歩くだけでくらりと眩暈がしたが、気のせいだと無視して歩を進めた。緩やかな坂道を下って、いつも窓から眺めていた川を目指して道を抜けて行く。
ディルックは向こう岸が隣国璃月だと言っていた。川を渡りきりさえすれば、もう誰も騙さなくても、隠さなくてもよくなる。そう思えば何でも耐えられる気がした。
窓から見た時はすぐ近くに感じた川だったが、いざ歩いてみるとなかなか遠い。途中で誰かに見つからないことをひたすらに祈り、暫くしてようやくディルックの言っていた川へとたどり着く。どこか渡れそうな所はないかと見回せば、川の中に二本の柱が立っているのが見えた。何かの目印だろうか。不思議に思って近づくと、周辺には荷車が通ったのか車輪の跡がいくつも残されている。
(そうか、ここは水が浅いんだ)
ここからなら渡れる。迷わず川水に足を突っ込んだ。秋の冷たい水が容赦なくガイアの体温を奪う。それはまるで数カ月前の嵐のようで、近づく死の気配にガイアはようやく安心して眠れるのだと確信した。
膝丈を超えるほどの水深を、残り少ない力を振り絞って漕ぐように渡る。息が苦しい。眩暈が気のせいなどと言い訳の出来ないものになって来た。心臓が警告のように早鐘を打ち、痛みすら訴えて来る。唐突に、足の力が抜けたのは痛みに歯を食いしばった次の瞬間だった。
全身が水に浸かる感触。続いてゾッとするほどの冷たさがガイアを包み容易く飲み込む。息切れした口から、鼻から、容赦なく冷水が入って来る。息が出来ない。苦しみから反射でもがくが、身を起こすだけの力がもうガイアの腕には残っていなかった。
(ああ、ここで終わるのか……)
ここで死んだら、皆はどう思うだろうか。父を探して屋敷を抜け出し、川で溺れ死んだ哀れな子ども。そう思ってくれたらいいなと、薄れる意識のなかで願う。親切にしてくれた人の顔を一人一人思い浮かべ、ありがとうとごめんなさいを心の中で繰り返した。
ディルック……。成人の日まで一緒にいられなくて、ごめん。
ガイアの小さな唇が僅かに動き、その最後の空気を秘めた泡が、まるで涙のひとしずくのようにこぽりと零れた。
◇◆◇
つぅ、と頬を伝う涙の感触に、再びガイアは目を覚ました。
見慣れた執務室の風景が九十度ほど傾いて見える。
「お目覚めですか、ガイア様。えっと、何かお飲み物を用意しますね!」
元気なノエルの声に目をそちらへ向ければ、いつからいたのだろうか。執務室の空いた椅子にちょこんとノエルが座っていた。どうやらガイア自身はソファーに身を横たえているらしい。机に突っ伏しただけのはずがいつの間に? いや待て、そもそも五分だけと思っていた時よりも窓から差し込む光が明らかに弱いんだが……。
「いま何時だ?」
おそるおそるノエルに尋ねると、五分が二時間ほど延長された時間が返って来た。
「すまん、寝すぎた……」
「いいえ、それだけお疲れなのです。もう少し横になっていてください」
お飲み物を用意します。ノエルはもう一度そう言って席を立つ。何やら作業をしていたようだが、心成しか顔が赤い。彼女まで風邪を引いたのだろうかと一抹の不安がよぎる。これで騎士団メイド様にまで倒れられたらガイアはもうお手上げだ。
騎士団崩壊の図がありありと目に浮かび、ガイアは先程とは違う眩暈を覚えた。いや、こうしてはいられない。仕事を片付けないとどちらにせよ、終わる。
少しまとまった時間寝たおかげか幾分軽くなった体を起こす。肩から滑り落ちた毛布からふわりと懐かしい香りがしたような気がした。ん? と首を傾げたところで、今度は別の懐かしい香りがガイアの鼻孔をくすぐる。
「疲れた時は甘いモノを摂るといいのですよ」
にこにことマグカップを差し出すノエル。その中身は——ホットチョコレートだった。
あの日。ガイアは結果的に脱走に失敗した。
夕飯の時間より少し前、今日は顔色が良さそうだったからとディルックがいつもより早い時間にホットチョコレートを持ってガイアの部屋を訪ねたのだ。子どもとは言えディルックは力が強い。ガイアがやっとの思いで扉の前に置いた椅子はディルックには何の意味も成さず、逆に不審に思った彼は、以前話した思い出話からすぐにガイアの行動が読めてしまった。人を集めて、屋敷周辺を探させ、自らも捜索に出て、そして誰よりも早く川の中ほどで倒れているガイアを見つけたという。
発見が早かったのが幸い。応急処置も間に合い、ガイアは一命を取り留めた。命の危険を脱すると、クリプスはまるで我が子の如くガイアを叱り、そして無事でよかったと、涙を流してガイアを強く抱きしめた。肩に触れる大きな手に、いつかの実父の姿を思い出す。
『お前はカーンルイアの最後の希望だ!!』
まるで呪いの言葉だと、そう思った。嵐の夜も、そして今回も、ガイアの天秤が死へと傾くたびに、その命はこの世に繋ぎ留められてしまう。死を許されない体。嘘を抱えて、生き続けるしか出来ない体。こんなの、呪いでしかない。
クリプスの腕の中で、ガイアは泣きながら「ごめんなさい」と、壊れた人形のように何度も何度も繰り返した。それが心配をかけた事への謝罪か、それともこの先もずっと彼らを騙し続けて生きる事への謝罪か、今となってはもうガイア本人ですらわからない。
香りで何となく気付いてはいたが、一口飲んで間違いない味だと確信した。
甘いモノより酒の方が好きなガイアだが、だからと言って甘いモノに疎いわけではない。そこは曲りなりにも元ラグヴィンド家の人間。チョコレート一つでもその味の良し悪しはわかる。ノエルの作ってくれたホットチョコレートは騎士団には少々手の出しづらい高級品の味がした。ノエルの腕がいいのもあるが、この高級品の味には間違いなく覚えがある。
脱走騒動で散々心配をかけた後、ガイアはディルックに「絶対に元気になる」という約束を強要され、それを呑んでしまった。そして言わば仲直りの印として、一緒にホットチョコレートを飲んだのだ。疲労、空腹、憔悴、あらゆる心の不健康を抱えた体に、アデリン特製のホットチョコレートは衝撃だった。甘い、おいしい、あったかい……この世の幸福というものを形にしたらきっとこういうものになるのだろう。そう思えるほどおいしくて、あまりのおいしさにまた大泣きしてディルックをおろおろさせた。あれ以来、疲れた時や元気の出ない時にアデリンが度々出してくれたホットチョコレート。これは明らかにその味がする。
そしてガイアの記憶に狂いがなければ今日は……。
「美味い。ノエルは本当に腕がいいな」
「あ、ありがとうございます。お役に立てて嬉しいです」
笑顔で作業を再開するノエルだったが、相変わらず頬が赤い。元気そうではあるから具合が悪いとかそういう類のものではないのだろう。まぁ、それはいいとして。
「俺が寝落ちる前は、結構仕事が残っていたと思ったんだがなぁ……」
「そう、でしたでしょうか……」
ちらりと見たガイアの机。山と積まれていたはずの書類が半分以上消えている。ノエルの顔が若干引き攣った。
「それにこのホットチョコレート……。騎士団支給とは思えないくらい香りがいい」
「えっと、そちらはとある方からの、差し入れでして……」
明らかに声がうわずっているぞ、ノエル。
「ほぉ、とある方……」
「あの、えっと……」
視線をあっちへこっちへ逸らすノエル。その手には作りかけの赤い薔薇の花が一輪。
彼女の作る薔薇には意味がある。
『口の堅さ』
誰にも言えない秘密を抱えた時、その秘密を閉じ込めるかのようにノエルは赤い布で薔薇を作る。つまりは……。
(口止めしやがったか……)
消えた大量の書類。高級ホットチョコレート。夢うつつに感じた手の温もり。そしてなにより、毛布に残る香水の残り香。これだけ証拠を残しておいて、口止めすれば隠せると本気で思っているのだろうか。
可哀想に、ノエルは純粋なんだぞと心の中で苦言を呈する。呈したところで直接本人に言わない限り伝わりはしないのだが。
ホットチョコレートを飲み終えるタイミングでノエルの薔薇は完成した。どこに着けようかと思案するノエルの手から、ガイアはするりと薔薇を奪う。
「ノエル、この薔薇は俺が持ってた方が良さそうだ」
もらっていくぜ? 小首をかしげてやれば今度こそノエルは顔から火を吹く勢いで真っ赤になった。