溺れる者が掴む藁「おねぇさん、これと同じのもう一杯!そ、このワイン。あ、メルルのは…まだ空いてないか」
ポップはかなりのハイペースでグラスを空けている。へろへろにこにこと上機嫌だ。この国では自分たちの年齢でも飲酒可能ということで、ポップは遠慮なく杯を重ねている。いつものようにこの酒場の上で部屋をとっているだろうから、多少は飲み潰れても問題は無いだろう。メルルもいつものようにポップとは別に部屋をとっている。
それに、ポップが飲み潰れてくれるほうがまだいい。ふわふわとした笑顔を浮かべつつ、ポップの目は少しも笑っておらず、目の下の隈は濃い。おそらくまたポップは眠れない夜が続いている。それらにメルルは気づかないふりをする。気づかないふりをしていることに気づかれているのも間違いないが。
ポップが心の底から笑えるわけがないのだ。ダイがまだ見つかっていない。あれから3年も経ったのに。
ポップがダイの捜索を1人で行いたいと言い、マァムやメルルと別れたのはもうかなり前のことだ。
マァムは最後までポップが1人で旅をすることに反対していた。ポップが1人になれば更に無理をするのではないかとマァムが考えるのは当然のことだ。そのマァムを説得したのはメルルだった。
ダイが見つかるまではポップは倒れるようなことはしない、ダイを探すためにマァムやメルルの力が必要のときはきちんと申し出るであろうと。マァムへの説得の言葉は、半ばポップにも向けられているものだったが。
メルルの説得に嘘はないが、伏せていることもあった。ポップは誰かといるかぎり、他者を気遣い、道化を演じてでも場を柔らかくしようとする。だから今はマァムやメルルと共にいることすらもポップには負担だということだ。
マァムも気づいていたのかもしれない。でももし気づいていないのなら、彼のために彼の心配りを伏せたままでいたいと考えたのがメルルだった。
テーブルの上には酒と料理と、それから先ほどメルルが置いた水晶玉が並んでいる。水晶玉の中にはダイの剣がぼんやりと映っている。メルルの遠見の術によって。
ポップは談笑しながらも常に視界の端に水晶を、ダイの剣を留めていた。ダイの剣の宝玉の光が消えていないことを、ダイが生きていることをずっと確認している。どんな状況で生きているかわからない以上、安心なんてできるわけはないが。それでも。
ポップの口からつらつらと繰りだされる言葉は、ここ最近のダイ捜索での出来事だ。やれこんな街で何があっただの、ここでこんな魔法具を得ようとしたが外れだったの。そういうことを面白可笑しく話している。しかし、その内容は新しいグラスがテーブルに運ばれるたびに露悪的で痛々しくなっていく。行儀の悪い裏通りで情報を得るために破落戸と一緒に怪しげな草を嗜んだこと、賭博にイカサマ行為、怪しげな神を祀る集団の乱交騒ぎに参加したこと。ポップが捜索のためにそういったことも行っていることにメルルは薄らと気づいていたが、細やかに話をされたのは初めてだ。今のポップはよほど煮詰まっていることが窺い知ることができた。
メルルが顔しかめたことに気づいたのか、ポップはフォローにもならない説明を更に陽気に添える。
「心配ねぇよ。解毒呪文のおかげで依存症とか病気になんねぇし。あとさ、体を薄い魔法力で覆うってのあるだろ?あれの応用というか発展で、薄くキッチリと覆っちまってからやればガキはできねぇし。旅に出る前に師匠にその辺は教わったんだ。あ、おねぇさん同じやつをもう一杯!」
それはメルルも知っている。旅先で出会った壮年の大男からそういったことができるという話を聞いたことがある。その壮年の大男はディードックという魔法使い崩れで、片目を眼帯で覆っていた。体の一部を魔法力で丁寧に保護するのは高等な技術ゆえにメルルには難しいだろうが、解毒呪文を含めた簡単な回復呪文の幾つかは扱えるほうが良いとも強く勧めてくれたのだ。旅先で厄介ごとに巻き込まれた時のために。
「あとさ、動物の腸や魔法具でも避妊はできんだけど、魔法力で薄く覆っちまうほうが確かにイイんだよな」
それも確かにディードックは言っていた。
裏通りで店を構えていた彼は、戦乱の中で祖母と2人で旅をする彼女の身を案じたのか、身を守る様々な術を丁寧に教えてくれたのだ。
祖母との旅を続けるなかで、気弱に見える外見のメルルに下卑た言葉をかける者は多くいた。時々、ディードックもメルルに下卑たことを言っていたが、彼のそれは彼女を和ませるための下手な話術で、実際は彼女の身を心の底から案じていた。今にして思えば、その大男の不器用な優しさは、ポップや彼の師匠に似ていた。
「でさ、そんな風に誰かとシて出すもん出してから寝ると、あ、寝るときは流石に一人で寝るけど、不思議なもんで寝付きやすいんだよ。男だな、おれも」
水でも飲むようにグラスのワインを軽く空けながら、ぼそりとポップは告げる。その言葉にメルルの心が少しえぐられる。嫉妬が理由ではない。ポップが誰かと交わっても、それは体を強張りから解き放つためだけの行為であり、心は癒されてはないということが苦しい。
それにポップが露悪的な言葉を綴るのは、おそらくメルルへの警告も含まれている。今、近づかないでくれ、と。
「だからさ、最近はたまにちゃんと眠りてぇなって時はさ、情報が欲しいとか関係なくそんな感じで出会える酒場とかでさ……。メルルはもうおれが眠れてねぇんじゃないかなって心配しなくていいから。なんならこの後、お開きにしてから行くかもしんねぇし。あ、おねぇさん、もう一杯よろしく!」
わかるだろと言わんばかりにポップはメルルにウィンクをする。そんな仕草はあの頃と変わりなく茶目っ気に溢れているのに、メルルに無形の刃を向けているようにも見えた。今の自分はかなり追い込まれているから距離を取れ、と。こんなどうしようもなく不道徳な男への想いなど断ち切ってくれてと言うかのように。
メルルは少し苛立つ。こんな時ぐらい、誰かに八つ当たりのような感情をぶつけてもいいのに。発散してもいいのに。ポップはそれをしない。
では少し揺さぶれば吐き出すだろうか?
「そろそろ疲れたので水晶玉の光を消しても?」
「え……おう」
「大丈夫ですよ。何か異変があればちゃんとポップさんに知らせるようになっているでしょう?」
以前、ポップがメルルに水晶玉による遠見の術を教えてくれと頼んできた時があった。ダイの剣の様子を遠くにいても確認したいから、と。ポップならきっとすぐさま習得することはメルルには容易に想像できた。同時に、事あるごとに水晶を覗いてダイの剣を確認し続けるであろう事も想像に難くなかった。眠る時間を削ってでも。
だからメルルはレオナに相談し、ダイの剣に異変があったときに確実にポップに知らせが行くような仕組みを構築してもらった。ダイの剣に見張りをたて、異変があればポップの持つ魔法具に知らせが届くという仕組みを。手のひらに収まる水晶玉から成る魔法具には、知らせがあれば文字が映り、僅かに熱も帯びる。連絡手段としては申し分がない。魔族の鏡文字を応用した技術だ。しかもその魔法具は月に一度の交換を必要とする。交換をすることで、誰かがポップに魔法具を渡すことで、ポップの現況を直接確認できるようにもなっている。それは、自身の不調を隠しがちなポップへの配慮でもあった。
そしてこのことに限らず、ポップはいくつもの配慮に囲まれている。それらの配慮は「自分は恵まれている。たった一人でいるかもしれないダイに比べ」という実感をポップにもたらしていた。
テーブルの上の光を失った水晶を、ポップは名残惜しそうに見つめ続けている。女将が新しいワインをテーブルに置いたが、気にも留めない。剣の異変の有無にかかわらず、ポップはダイのことを目に映していたいのだろう。よすがが消えたせいか、酔いのせいか、自身から茶目っ気も笑顔も取り払われていることに、ポップは気づいていないようだった。
「変わらないですね」
「なんだよ」
「そういうところも好きですよ」
ポップが向けていた無形の刃をそっと包むようにして、メルルは変わらない想いを告げた。最初に思いを告げた時よりは簡単に、けれど当時と変わらない想いを込めて。自分の存在がどれほどポップの慰めになるかは判らないが、それでも彼の生き方を肯定している人間がいることをメルルは伝えたかった。疲れているのなら、たまにはその刃で突き刺してみても構わないと。
「あんたさ、もう諦めろよ。おれはあんたみたいな女の子が好きでいていいような綺麗な人間じゃねぇし、何かを返せる余裕もねぇよ」
「どうしてですか、ポップさんが諦めていないのに?」
「ダイは必ず見つかるから。諦めるとか可能性とかそういう話じゃねぇんだよ」
ほんの少しだけポップは声のトーンを落として目をすがめる。メルルは竜の尾を踏んだような錯覚に陥る。周囲の空気が僅かに乾いたようにも感じられる。そのことにメルルは安堵もする。そんな風に怒りや哀しみをもう少し誰かに吐いてくれればいい。
それに、ポップの根底の意思は揺らいでいないことも確認ができた。
メルルは、ポップが諦めないのは何のことか、誰のことかをあえて言わなかった。けれどポップが口にしたのはダイのことだけだった。
あの日、真っ青な染料がぶちまけられたかのようなポップの心。かろうじて何も被らなかった僅かな箇所に彼の想い人を含めた仲間やメルル達が小さく片隅に座すことが許されている。彼がそれらを余計だと思えばあっさりと摘まみだされる程度に。
疲れ果てて、心を染めた青を拭おうとするポップならメルルは失望するだろうが、まだその気配は無い。
「私がポップさんに応えてもらう可能性はずっと低いでしょうね」
「だから」
「もし、もしもですよ。ダイさんが見つかる可能性が低いとしてポップさんは諦めることができるのですか」
ポップは何も答えない。答えるまでもない。諦めるなどという選択は彼には無い。
「返してもらうとか諦めるとか、そういう話ではないんです。わたしが勝手にあなたを好きなだけなので。それにポップさんが綺麗じゃないなんてこと、本当に今更ですね。ダイさんを探すために何も惜しまないあなたに私が失望すると思いますか?もしもダイさんを探すことを諦めたといえば失望しますけど」
ポップは深くため息をつき、グラスの中のワインを一気にあおる。目の前のどこまでを自分を肯定してくれる女と距離をとらねばならない。そうしなければ、きっとすがりたくなる。だからポップは頭に浮かんだ言葉を酔いに任せてそのままメルルにぶつけてしまう。
「じゃあ、おれがダイを探すためにもちゃんと眠りてぇからやりてぇと言ったら、あんたおれの相手できんのかよ」
メルルはポップに何を言われたかを咀嚼できないまま、しかし何故かするりと返事をする。
「私は構いませんが」
ポップは口を二度三度開き、何も発することなく口を閉じる。ポップから余裕も何も取り払われていくのがメルルには見て採れた。今ここでポップに助け舟を出せばきっと乗り込んでくれる。そのことがメルルにはどうしようもなく嬉しい。
「嘘ですよ。今日はそろそろお開きにしましょう」
ポップはその船に乗ることにした。このままメルルがどこに向かうのか、眺めてみたい気分にもなった。
「それからですね、予備の連絡用の魔法具が私の部屋にあるのです。そちらもお渡ししたいので立ち寄ってもらえませんか」
ポップは頷く。
今夜のポップは自分の部屋では眠らない。そんな予感を二人は同時に覚えた。