贖罪と包帯 煌びやかなパーティー会場を包んだ一閃。続く轟音。瞬時に判断した――閃光弾だ。
本能的に顔を背け、腕で顔を覆う。天井裏ですら耐え難い光量が刺した次は、一転して会場が闇に包まれた。
思わずその名前を呼びそうになって、ぐっと堪える。“チェズレイ”という人物はここにはいない。
勢いあまって出た呼吸音は、豪奢なシャンデリアが落ちた音にかき消された。氷のようなガラスの粒が、銃撃戦の火花を反射して瞬いている。
悲鳴と怒号。硝煙と血の臭い。
瞬間に、押し入って来たテロリストを上空から鎖分銅で穿ち、その行く末を確認せぬまま阿鼻叫喚の会場から相棒を連れ出した。
***
連日、政党パーティーを狙ったテロとその犯人についての報道がされていた。
リビングに置かれた薄型のテレビから、当時の様子と既に確保された犯人の詳細、事件の背景についての憶測が流れている。
それをチェズレイは、窓側に向けられた一人がけのソファに座って聞いていた。
しばらくしてその報道が終わると、チェズレイは手に持ったリモコンで電源を落とし、それを机に置こうとする。
チェズレイの手は二、三、空を泳ぎ、リモコンは机の縁に当たって音を立てると、床に落ちた。
「やっとくよ。ちょっと待って」
「あァ、手間をかけますね」
チェズレイはモクマの声に振り返ると、リモコンを床に落としたままソファから立ち上がる。
そのまま隣のダイニングへ着こうとして、モクマは慌ててキッチンから飛び出し、チェズレイの手を取った。
「間取りや家具の位置などは把握しておりますのでご心配なく。
ここまで甲斐甲斐しい介助は必要ありません」
「……分かっちゃいるが、気になるんだよ」
言葉の通り、モクマの介助を必要としなくとも、チェズレイは椅子を引いて座る。
モクマは頭を掻きながら、先ほどチェズレイの落としたリモコンを定位置に置いて、再びキッチンへ戻った。
席へ着いたチェズレイは、行儀よくそこへ座り食卓の準備がされるのを待っている。
モクマはダイニングに自分の作った夕飯の皿を並べていくと、定位置であるチェズレイの向かい側――ではなく、チェズレイの座った隣へ腰を降ろした。
「食欲はどう? 普通?」
「ええ。特に変わりはありません」
ならよかった、とモクマは皿から料理を摘まむと、こちら側へ向いたチェズレイの口元に近づける。
「はい、どうぞ。かぼちゃの煮物」
モクマの言葉に、チェズレイは控えめに口を開けた。
その中へモクマは箸を運び入れ、舌の上にゆっくりと料理を乗せる。
箸の存在がなくなったのを感じ、チェズレイは舌の上のものを咀嚼した。
「かぼちゃ……ですか」
「素材が分かりやすい方がいいかなって。人参もあるよ」
「ふっ、なんでもいいですよ」
ごくりとかぼちゃを嚥下して、チェズレイは笑う。幼児ではないので、とモクマに断り、次の料理を所望した。
モクマもチェズレイの言葉に苦笑いしながら、次は魚でいい? と、焼き魚の身を割る。
「だから何でもいいと言っているじゃないですか」
「でも、見えない食べ物は不安だろう」
モクマは言いながら、箸をチェズレイの口元へ運ぶ。
香ばしい匂いと箸の鋭利な先端の気配がして、チェズレイは口を開ける。まるで餌を欲する雛鳥のようだと、自嘲が漏れそうだった。
―――
――
数日前。
とある議員の黒い噂と、それに繋がる裏組織の関係性を洗っていた際に潜入した政党のパーティー。
チェズレイは政党を支援する青年実業家として会場へ、モクマはその護衛として会場の天井裏に潜んでいた。
恙無く進むパーティーは想定内。仕入れた情報も構築した人脈も想定内で、後は誰にも訝しがられることなくこの場を去るだけだった。
チェズレイの計画に狂いはない。用意周到にヒトもモノも動かし、全ては彼の手中で動く。
しかし、それはあくまで「彼の目的のための計画」に対してだ。他人による別の目的のための異分子までは、さすがに想定できない。
そう、例えば、個個人の思想によるテロリズム行為などは、顕著な例だ。
チェズレイ達が潜入していたパーティーは、正にその個個人――思想犯たちの標的となっていたようだ。
死人も出ず、事件後すぐに犯人らが確保された点から鑑みれば、さほど綿密な計画をもとに行われたものではないことが伺える。つまりお粗末な犯行であったのだ。しかし、そのお粗末さが逆に、チェズレイの綿密な計画の網に引っ掛からなかった。自分が明日、事故に遭うことを予測できる人間がいるだろうか。つまり、そういうことだ。
避けようのないテロリストらからの攻撃に、チェズレイは負傷していた。
会場へ押し入った際に投げられた閃光弾だ。その強烈な発光を一瞬でもまともに食らったチェズレイの目は、光を感じなくなってしまった。
ただそれは、一時的なものであるらしい。
1日2回の点眼薬と、極力光に触れず安静にしていれば数日で回復するだろうと、医師は診断した。
チェズレイ自身も、そこまで深刻な事態だとは思っていなかった。避けようのないことではあったが、瞬時に対処できないことではなかったし、この程度の異分子など、自身の計画を揺るがすものではない。少し手直しは必要だが、そんなことは日常茶飯事だった。
だが、想定外であったことがチェズレイには2つあった。
1つは、視覚が使えないことが想像よりも不便であること。しかしこれは慣れの問題でもあるし、数日には解決する話であるので、それほど重要視はしていない。
もう1つは、相棒モクマの自責である。
モクマは耐え難い程の自責に苛まれていた。チェズレイの目が一時的にでも見えなくなってしまったことへの狼狽えようは、見ていられないほどだった。いや、実際にはチェズレイは見れないわけだが。
何度も何度も謝罪を繰り返し、それこそ過ちを犯すのでは(そんなことは絶対にあり得ないし、させるわけもないが)という憔悴具合を見せるモクマに、チェズレイは1つの提案をした。
「それほどまでに自身を責めるのであれば、私の視力が回復するまでの間、生活の介助をしてください。
どうせ私が戦力にならない今、事を進めることはできません。
計画を一時停止しなければならないことも含め、責任を取っていただけるのですよね?」
病床で天井に視線を向けたまま、チェズレイは言った。
正直、現場で動くことはもちろん、情報収集といった類のことすらままならない現状では、回復するまでの間、拠点で療養する他ない。自分が動けなければ、モクマにもできることは限られてくる。ただでさえトリガーに指を引っ掛けている状態のモクマを、下手に現場に出して、ようやく手懐けた希死念慮を誘発しても困る。いっそのこと、2人で拠点に籠って束の間の休息を取った方がいいだろう。
そしてその中でモクマの贖罪を赦してやればいい。数日あれば十分だ。この男は強くなったのだ。
モクマは、ああ、とチェズレイの提案を飲んで、臥せられていたチェズレイの手を取る。
その手を握り返したチェズレイは、そのまま自身の頬へ誘導し、こめかみを通る包帯に触れさせる。
「ではまず、今あなたがどこにいるか、教えていただけますか?」
チェズレイは穏やかに笑った。モクマは目を見開き、ここだよ、と両の手のひらでチェズレイの顔を包んだ。
――
―――
親鳥と雛のような食事が続く。
普段より静かで、数倍も時間のかかるこの行為を、チェズレイは幾分か煩わしく感じていた。
それに口内を晒すことは、ちょっとした恥辱のように感じられた。それが食事中であれば、なおさら見苦しい。
その中で、チェズレイはひとつの新しい知見を得た。
視覚情報のない食事は、意外にも味覚を鈍感にする。
よほど素材自体の味が強くない限り、調味料などに紛れて何を食べているのかが分からない。
それは一種の恐怖だ。得体のしれないものを口内に運び、舌に触れたものが一体何なのか、逐一身構える。
モクマの料理を疑うわけではない。一種の防衛反応のようなものだ。チェズレイのそれは、一般のそれよりもやや過剰なのだ。
この知見をモクマに伝えた際、モクマも意外だといった反応だった。
それ以来、モクマはなるべく薄味で、素材の味が強いものを食卓に並べるようになった。
今日のかぼちゃや焼いただけの魚なんて、まさにそういったものだ。
モクマはチェズレイのことを律義者だというが、チェズレイはモクマこそ律儀な男だと思う。
こういった心遣いを、たとえ自責の念からだとしても、やってのけてしまうのだ。
再びチェズレイの口元に箸が接近する。
煩わしさと、恥辱と、恐怖。天秤にかけた、モクマの贖罪。
チェズレイはモクマの声を聞いて、口を開けた。
***
食事を終えた後、チェズレイはテレビ前のソファに座っていた。
照明は最小まで絞り、テレビはつけていない。テレビから得られるような情報はたかが知れていて、そんな情報は既に把握済みだ。
そこへ食卓を片付け終えたモクマが、チェズレイの点眼薬を持って、隣に座ると一言声をかける。
こういった声掛けだって、もう必要はないと何度も伝えたが、モクマは止めることはなかった。
つくづく律義者はどちらだと、チェズレイは思う。
「薬、持ってきたよ。包帯、取っていい?」
「自分でやるので大丈夫ですよ」
「俺にやらせてほしいんだ」
懇願するような言葉で、その実拒否権のない声だ。
モクマは薬を渡すことなくチェズレイのこめかみあたりに手をかけると、チェズレイに下を向かせ、するすると包帯を解いていく。
「……上、向けるかい」
「ええ」
モクマの言葉に、チェズレイが目を閉じたまま上を向く。
モクマは顔にかかった髪を払い、最小にまで絞った照明も消す。
包帯に隠されていた左目の装飾は、いつものようにそこにあった。
「目、開いて」
チェズレイはゆっくりと目を開く。数日前よりは視界はクリアになっていた。
それでも今のように真暗の中では、目を閉じているのと何ら変化はないように思う。
開かれた目は、瞳孔が調節されず虚ろだ。
それでも暗闇の中で僅かな光を反射する紫の目を、宝石のようだとモクマは思った。
モクマは点眼薬の蓋を取り、焦点の合わないチェズレイの目に流す。
得も言われぬ違和に、チェズレイは瞼を閉じる。
一粒落ちた水滴は、涙か、薬か。二人ともそれは分からなかった。
零れた水滴を拭き、モクマはその目に包帯を巻く。
紫の宝石も、紫の装飾も、白い布に包まれて見えなくなって、モクマは顔を上げさせた。
「モクマさん」
「ん、どうした」
「触ってもいいですか」
「え、あぁ。もちろん」
チェズレイの申し出に一瞬驚きを見せたモクマだが、すぐにチェズレイに向かって手を差し出す。
チェズレイは手袋を外すと、探るように空を叩く。そのうち指先がモクマの手に触れ、手繰り寄せるようにそれを掴んだ。
手のひら同士を重ね合わせた後、チェズレイはモクマの手首を掴む。
撫でるように手を滑らせ、腕、肩、顔、とその手を伸ばしながらモクマ側に身体を寄せた。
「あァ、ちゃんといますねェ」
「なあに、どうしたの」
ぺたぺたと顔中に触れるチェズレイの手に、モクマは思わず笑いを漏らした。
くすぐったいと、耳や鼻、目や口に触れる指にモクマは身を捩り、それでもチェズレイは顔から手を離さない。
「ねぇモクマさん。私にも触れてください」
チェズレイはモクマに触れたまま言う。
モクマからは笑顔が消え、一拍の沈黙の後、律儀に「触るよ」と声をかけた。
モクマの手が包帯に触れる。そこを撫でて、先ほどは触れなかったチェズレイの素肌に触れる。
ざりざりとした特有の布感と、素肌との境界線が、モクマの表情を歪ませた。
「モクマさん、これは不慮の事故です。あなたのせいじゃないんですよ」
「分かっているさ。……それでも、俺は守り手だと、約束したじゃないか」
消え入りそうな声でモクマは言う。そのままチェズレイの顔にかかる前髪を優しく撫でてて、その手が離れていく。
しかしチェズレイはそれを逃さなかった。モクマの手を掴み、再び自分の顔に触れさせる。
「モクマさん、きちんと私に触れてください。私はここにいるでしょう」
包帯の目を伝って、耳に、頬に、鼻に、口。
輪郭を導くようになぞらせて、モクマの手のひらにチェズレイは唇を寄せた。
「……俺はお前の目がいっとう好きなんだ」
モクマの手がチェズレイから離れる。その手はチェズレイの後頭部に回って、自身の体側へ抱き寄せた。
「だから、守るよ。
チェズレイ、お前を。これからも、ずっと」
ぎゅうと、モクマの腕と胸に挟まれたチェズレイは、一瞬の驚きの後、その身をモクマに預ける。
暗闇の視界の中、触れあった肌と、声、そして心音だけが、チェズレイの世界の全てになった。