お話交換 猫の話後編「あ、旦那、いらっしゃいまし」
応接室のドアを開けると、和寅と益田がソファに座って茶を飲んでいた。和寅がすぐさま腰を上げ、「お茶淹れてきますね」と台所へ向かう。木場はおうと返事をしつつ、テーブルにずだ袋をそっと置いた。益田がしげしげと袋を見つめる。
「木場さん、なんです、これ?」
「ああ……」
生返事をして室内の奥――榎木津の方へ目を向ける。榎木津はいつものようにデスクに脚を載せてふんぞり返っていたが、木場と視線が合うと大きな瞳がすぅっと細まり、そしてみるみる見開かれていった。
「にゃんこッ!!」
いきなり叫んでバネのように腰を上げ、大股でこちらへやって来る。無造作にずだ袋を掴もうとするので、木場は慌てて制止した。
「おいやめろ馬鹿ッ、潰れる!」
「潰れるって、何が入ってるんですか?」
益田が怯え始めた。「バケモンじゃねぇよ」と苦笑し、木場は袋に手を入れてそっと二匹の仔猫を出した。
木場の掌にちょこんと乗り、仔猫たちがみぃみぃとか細く鳴く。榎木津と益田がそろって「わぁ」と声を上げた。
「ちっちゃいなぁ……まだ目も開いてないじゃないですか」
「仔にゃんこだッ」
榎木津が興奮し始めた。しかしさすがの傍若無人も、相手が生まれて間もない仔猫となると手が出せないようである。木場の掌の上でふるふると震えている仔猫たちを、おっかなびっくり指でつついている。
「家の近くで拾ったんだけどよ……俺ぁ見ての通りで動物の世話ができる生活じゃねぇし、京極堂もしばらく留守でよ、だからここに連れてきた」
「ここで飼うのかッ!?」
榎木津が目をらんらんと光らせて叫ぶ。「手前は化け猫か」と木場は苦笑した。
「でもこんなに小さい仔猫……どうお世話したらいいんですかね?」
益田は途方に暮れている。木場も口ごもった。榎木津に至っては恐らく何も考えていない。にゃんこ仔にゃんこ、と体を揺らして踊っている。
「じゃあお父上に訊いてみたらどうです?」
茶を持って戻ってきた和寅が言った。「そりゃいいですね」と益田が同意する。
「博物学に詳しい方だから、仔猫の世話の仕方もご存じかもしれませんね」
「厭だッ!!」
榎木津が間髪入れずに拒否した。「あんな変態に頭を下げろと言うのか!?」と激怒するので、益田と和寅が苦笑いしつつ宥めにかかった。
「別にそういうわけじゃ……だってどうやってお世話したらいいかわからないんですよ、僕らじゃ。なんせ小さすぎて……」
「そこの馬鹿豆腐が世話すればいいだろうが! 連れてきたのはこいつだ!!」
「いや、だから俺もどうしたらいいかわかんねぇんだよ」
木場はらしくなく弱った。拾ったのは自分であり、しかし自分には世話が出来ないからここに連れてきたのである。そしてここの住人にも手に負えないのであれば、いささか罪悪感にも駆られた。
しばし黙っていたが、「わぁったよ」とうなずいた。
「いきなり連れてきて悪かったな。他をあたるぜ」
そう言って仔猫を袋の中に戻そうとする――と、「おい待てコラ馬鹿!」と榎木津に脚を蹴られた。
「出てけなんて僕は一言も言ってないぞ!? いいから待ってろッ!」
鬼のように怒鳴ると、榎木津は電話機をガッシと掴んで自室へと引っ込んでしまった。叩きつけるようにドアが閉まり、応接室に沈黙が流れる。
みぃみぃと響く仔猫の鳴き声の合間に、私室からはぼそぼそと話し声が聞こえた。三人は顔を見合わせる。
数分後、榎木津が私室のドアを蹴飛ばして出てきた。大きく息を吸い、「大変だ!!」と怒鳴る。
「探偵業なんかやってる場合じゃないぞ! 今から臨時休業だ!! 和寅もマスカマもにゃんこに奉仕しなさい!」
「ええっ、いきなりどうしたんですか!?」
二人の下僕は泡を食っている。榎木津は私室からごそごそと空き箱を引っ張りだし、中に自身の服を詰め始めた。
「この仔にゃんこは相当な仔にゃんこみたいだぞ! うんちもひとりでできないんだ! だから二、三時間おきにお尻を拭いて刺激してあげなきゃいけないし、ミルクも飲ませないといけない。そんな状況で探偵なんかやってられるか!?」
「えっ、あ、そうなんですか!?」
和寅と益田は顔を見合わせ、そしてそろって木場の方を向いた。木場は仏頂面になる。
「それじゃますます俺にゃあ無理だな……すまねぇがよろしく頼む」
「よろしく頼まれてやろう!」
榎木津が威張っている。そして応接のテーブルに箱を置いた。箱の中には、彼の衣服の中でも肌触りの良さそうなものが何着か敷かれている。木場は苦笑した。
「いいのかよ、汚れるぜ。手拭いとかでいいんじゃねぇのかい」
「手拭いよりこっちの方がふかふかだろ……ほぅらにゃんこ、ふかふかだぞ! そんなゴツゴツした手の上にいたら四角くなるぞ」
木場の掌の仔猫たちを、榎木津が自身の手でそっとすくい取った。普段のこの男の言動からは考えられない優しげな手つきに、和寅と益田が唖然としている。
上等な衣服の上におろされ、仔猫たちが前脚で寝床をふみふみし始めた。「お腹減ってるんじゃないですか?」と益田がおずおずと意見する。
「牛乳、あっためてきます!」
和寅が台所へすっ飛んでいく。益田も慌てて彼の後を追った。
応接には、仔猫と木場と榎木津だけが取り残された。二人は黙って猫たちを見下ろしていたが、「名前」と木場がぼそりと呟いた。
「飼うってンなら、名前が必要なんじゃねぇのか」
「そうだな」
榎木津も呟く。数秒の間の後、
「マグロとニボシにしよう」
即答した。木場は苦笑する。
「本気かよ」
「だって猫は好きだろ」
「マグロとニボシが食えるようになるにはまだ時間かかるぜ」
「じゃあみぃちゃんとぷぅちゃんにするか!?」
「……マグロとニボシがいい」
木場は仏頂面をした。が、仔猫たちを指差しながら「毛が茶色いのがマグロで灰色のがニボシ」と大真面目に説明している榎木津の横顔をちらりと見ると、自然と笑みが浮かんでいた。
榎木津が彼の父から聞いた話によると、猫たちはまだ生まれたばかりの、恐らく生後二週にも満たないだろうということだった。
探偵事務所の面々は小さな命の世話にかかりきりで――驚いたことに榎木津までもが甲斐甲斐しく世話を焼いていた――木場は猫たちを全面的に彼らに任せ、自身は足繁く事務所に通った。普段ならばひと月は空くこともある訪問頻度が、今は週に二度は顔を出している。
仔猫たちはぐんぐんと成長していった。目が開き、頼りない綿毛の塊のようであった体に少しずつ力がみなぎり、離乳し、たどたどしい動きながらも一丁前に狩りのまねごとをするようになった。
そして、木場が猫を拾ってから二ヶ月ほどが過ぎていた。
「こんばんは、旦那」
仕事帰り、いつものように探偵事務所を訪れた。九時である。益田はすでに帰宅しているらしく、応接には和寅だけがおり、室内の掃除をしていた。床には丸めた紙が散乱している。和寅が肩をすくめた。
「仔猫たちが大きくなって一緒に遊べるようになってから、先生毎日大騒ぎなんですよ。丸めた紙を玉代わりにして、一緒になって追いかけ回してますよ」
「猫以下だなあの馬鹿は」
木場が遠慮なく毒づけば、和寅はおかしそうに笑った。そして「寝室ですよ、まだ起きてます」と廊下を指差す。おう、とぶっきらぼうに答えて木場は応接を出た。
「入るぜ」
寝室のドアの前で声をかけると、「ふにゃあ」などというふざけた返事がした。あのマヌケは猫と同化しているのだろうかと失笑しつつ、ドアを開ける。
「馬鹿四角、遅い。もう九時だぞ! にゃんこは寝る時間だ!」
入室するや否や叱責された。榎木津はベッドの上で大の字になっており、腹の上にはマグロが、胸の上にはニボシが丸くなって寝ていた。条件反射でがなり立てたくなるのをこらえ、木場はとりあえず舌打ちした。
「早ぇだろこれでも。だいたい手前らは一日中寝てるか遊んでるかじゃねぇか」
だいたい職業柄、毎日決まった時間に、それも早く退勤することなど不可能なのである。榎木津が寝転がったまま木場を睨みつけた。
「にゃんこと遊びたくないのか」
「猫と遊ぶから早退しますとかできるかよ」
「僕はできるッ!」
榎木津がカッと大声で宣言した瞬間、猫たちがもぞもぞと動き出した。
「手前が起こしてんじゃねぇか」
木場は毒づきつつ、それでも腰をかがめて猫に手を伸ばした。片方ずつ順番に頭を撫でていく。ふわふわとした柔らかい毛の感触が心地よかった。ビー玉のような四つの瞳が木場をじっと見上げてくる。つい和んでしまい、両手を伸ばしてマグロとニボシの顎をそれぞれ同時にくすぐってやった。ゴロゴロ……と二匹がいっぱしの音を鳴らして目を細めた。
「おい馬鹿ッ」
突然罵声が上がった。木場は猫たちを撫でながら「ああ?」と声の出所へ視線を寄越す。腹と胸に猫を載せたまま、榎木津はご立腹だった。木場はせせら笑う。
「なんだ手前か。おとなしくそこで死体みてぇに死んでろ」
「お前という奴は、僕にはただいまのキスもしないでにゃんこを誑かして!」
「そんなことするかボケ。だいたい俺ンちじゃねぇんだよこのウスラトンカチが!」
「トンカチでその四角い顔の四隅を叩き潰してやるぞ!」
榎木津ががばっと半身を起こす。と同時に猫たちがころころとシーツの上に転がり落ちた。「あ、ごめん」と榎木津が素で謝り、木場は苦笑した。
「こいつらがいると喧嘩もできねぇな。……よっこいせ」
わざとらしくボヤきつつ、木場はベッドに乗り上げた。どっかりとあぐらをかけば、猫たちがトコトコと膝の上に上がってくる。そしてバリバリと爪を立てて上半身を登り始めるものだから、木場は笑って仰向けに寝転がった。
猫たちはみぃみぃと甘えたような声で鳴きながら、木場の腹の上を歩き、胸板までやってきた。そしてシャツの上から胸板を踏みしめた瞬間、二匹の動きがぴたりと止まり、次の瞬間には小さな前脚で一生懸命に胸をふみふみし始めた。
「……凄ぇくすぐってぇ」
つい笑みがこぼれてしまう。左右の胸にマグロとニボシがそれぞれ陣取り、前脚を交互に動かして一心不乱に踏んでいる。時折爪を立てられるので少々痛いが、むず痒くてたまらなかった。
榎木津は真顔でその光景を見下ろしていたが、やがてカッと目を見開いた。
「お前たちはもう乳離れしただろッ!?」
真剣な声で問い詰めている。猫たちは耳だけをぴくりと動かしたが、完全に無視をしてふみふみを続けている。「出ないぞ!?」と榎木津は続け、ぎろりと木場を睨みつけた。
「出るのか!?」
「出るかッ!」
木場は真っ赤になって怒鳴り返した。猫がいなければ殴りかかりたいところである。こめかみを引き攣らせつつ、深々と溜め息をつく。
「仔猫は柔らけぇモンを踏みたくなる性分なんだろ……筋肉は力抜いてると柔らけぇんだよ」
「うんそれは知ってる! 案外柔らかいもんなお前のおっぱい!」
木場のこめかみに青筋が立つ。今殴りかかれないのが本当に悔やまれる。
「僕が普段から揉んでるからな! 踏み心地がいいだろ、お前たち」
榎木津が今度は自慢げに猫に話しかけている。木場は馬鹿馬鹿しくなって脱力した。
猫たちはそれからしばらく木場の胸を踏んでいたが、やがてのろのろと動きが止まり、大きなあくびをしてその場で丸くなって寝てしまった。
胸の上にふたつのぬくもりが鎮座している。「あったけぇ」と木場は呟いた。眠るマグロの体をそっと撫でてやる。すると榎木津の手が伸び、ニボシの頭を撫でた。
「……木場修、今日は泊まれ。これじゃ帰れないだろ」
ニボシの額をしょりしょりとくすぐりながら榎木津が囁く。木場はちらりと彼の顔を見た。あまり拝むことのない穏やかな表情で、彼は猫を見ていた。「ああ」と木場は素っ気なくうなずく。
榎木津がこちらを見た。しばし視線を合わせていると、榎木津がシーツに手をついてそっと覆い被さってきた。木場は猫に掌を当てたまま、目を閉じる。
眠る仔猫たちを潰さないように間に挟み、二人は静かな口づけを交わしていた。
署を出て腕時計を見ると、針は六時半を差していた。こんな時間に退勤できるのは久しぶりである。頭で考えるよりも早く、己の脚は真っ直ぐに神保町へと向かい始めている。そのことにむず痒いものを覚えつつ、木場は仏頂面でのしのしと歩いていた――季節は初秋を迎えようとしている。日の入りも短くなり、夜風が日ごとに冷たくなっていく。ぬくもりが、なんだか無性に恋しかった。
カラン、とベルが軽やかな音を立てる。「あっ」と上がった声は、和寅のものだった。
「木場の旦那、今夜は早いですね」
木場の頻繁な来訪にもすっかり慣れたもので、和寅は嬉しそうに応接室の奥へ顔を向けて「旦那ですよ」と声をかけた。
「何してやがんだ、手前」
木場は呆れた。榎木津が探偵机の上にどっかりと座って、何やら釣り竿のようなものを垂らしている。釣り糸の先には毛玉のようなものが括りつけられており、魚釣りの要領でくいくいと竿を振っている。そしてピョコピョコ跳ねる毛玉に向かって、すっかり若猫となったマグロとニボシが狂ったように飛びかかっていた。
「猫釣りッ!!」
榎木津が叫ぶ。彼は猫たちが毛玉に触れる寸前の絶妙なタイミングで竿を振り上げ、いいように翻弄していた。動体視力と反射神経が猫並みの変態だからこそできる芸当だろう、と木場は分析する。
猫たちは一向に毛玉を獲ることができないので次第に苛立ってきたのか、飛び跳ねる動きが荒々しくなり、しまいにはシャーッと威嚇し始めた。木場は失笑する。
「おいそこの糞猫男、加減しろや。余計に鬱憤溜めてンじゃねぇのかこいつら」
「力の差を見せつけているのだ! 生まれて数ヶ月のくせに僕に勝てると思っているのか!?」
「同レベルで争うなよ」
木場は大股で歩み寄り、「寄越せ」と釣り竿を引ったくった。
「こうするんだよボケ」
竿を操って生きもののように毛玉を揺らして気を引き、猫たちの手が触れる寸前で躱し、しかし時にはぎりぎりのタイミングで掴ませてやった。猫たちは悔しさと達成感との両方を得て満足げである。そしてひとしきり釣り竿で遊ぶと、そろって木場の脚にすりすりと体をこすりつけ始めた。ようやくのご挨拶らしい。木場は屈んで二匹を撫でてやった。ゴロゴロ……と喉を鳴らし、ビー玉の瞳がうっとりと細くなる。
「おいッ!」
榎木津が怒鳴る。探偵机からどすんと飛び降り、眉を吊り上げた。
「それはなんだ、僕への当てつけか!? 言っておくが二匹とも日中はずっと僕にべったりなんだぞ!?」
木場は猫たちの顎や首筋を撫でてやりながら舌打ちした。
「だからなんだってんだよ、わざわざ嫉妬なんかするか!」
「しろ! 僕は今妬いている! のけ者にしてイチャイチャして!!」
「勝手に餅でも鰺でも焼いてろよ!! 手前が馬鹿みてぇなじゃらし方するからだろうが!!」
怒鳴り合う様子などお構いなしに、猫たちが木場の体をバリバリと登り始めた。容赦なく爪を立てられ、正直痛い。「痛ぇよ俺は木じゃねぇ」と毒づきつつ、思わず笑みがこぼれる。榎木津もつられて笑っていた。
「マグロたちにしてみればほぼ木だぞ、お前。太いからな!」
「……あっという間にデカくなりやがったな」
二匹が両肩に乗り、ニボシが木場の短髪をしょりしょりと舐め始めた。マグロは襟巻きのように肩でおとなしくしている。まだ年若いが、体つきもしなやかに身がついて重みがあり、すでに立派な猫だ。
木場は猫を乗せたまま応接室を見渡した。ソファには爪痕があり、床には玩具が散らばっている。二匹で駆け回るにはそろそろ狭そうだとぼんやり考えていると、肩の上で二匹がニャアと鳴いた。くんくんと匂いを嗅いでいる。
「夕餉ですよ。旦那も食べていくでしょう?」
和寅が盆を携えてやってきた。猫たちがあっという間に木場の体から飛び降り、和寅の足元にまとわりつき始めた。現金なものである。
応接のテーブルに食器が並べられる。鯖の塩焼きに、鶏肉の入った煮物、そして味噌汁に漬物。「悪ぃな」と木場が言ってソファに座れば、和寅は嬉しそうに笑った。
「君らはこっち」
そう言って床に皿を置く。焼いた鯖と煮た鶏肉が盛られている。マグロとニボシがわっと食いついた。
「マグロは鯖が好きで、ニボシは鶏肉が好きなんですよ」
和寅の説明を受け、木場は一瞬呆けた。が、すぐに笑った。
「なんだそりゃ、紛らわしいな。鮪と煮干しは?」
「食いません」
「じゃあもうサバとトリに改名しろよ」
「そうしたら共食いになっちゃうだろ!」
榎木津が飯粒を飛ばしながらいきなり怒鳴った。対面に座る木場の顔にぴしぴしと何粒か付着する。
「やめろ汚えなッ! そもそも手前が変な名前つけるからだろうが!」
「鮪と煮干しが好きだと思ったんだ! 猫だろッ!」
子どものようなことを喚き散らされ、木場は怒鳴り返す気も失せて笑ってしまった。すると、皿まで綺麗に舐めたマグロとニボシがニャアと鳴いて顔を上げた。食卓の上をじっと見つめたかと思うと一目散に榎木津のもとへ駆け寄り、膝に飛び乗った。甘えにでも行ったのだろうかと飯を食いながら木場が眺めていると、猫たちは榎木津の皿に手を伸ばしておかずを掠め取ろうとしていた。「やめろッ」と榎木津が怒鳴る。
「お前たちはいっぱい食べてただろうが! 絶対に僕のはあげないッ」
猫のような大きな瞳をギラつかせて手を払っている。マグロとニボシがシャーッと威嚇しつつ榎木津の腕に爪を立てて噛みついた。
「痛いぞこら! やめろ! あげないッ!」
「……どうにかしろよこいつら」
木場は呆れ果てて失笑した。和寅が苦笑しつつ、「いつもだいたいこうですよ」と説明する。
「駄猫が三匹になってンじゃねぇか。やっぱり飼い主に似るもんなんだな」
やかましい攻防を眺めて肩をすくめつつ、木場は笑みを浮かべて味噌汁を啜った。
夕食を終えて応接で猫たちと遊んでいる間に、時刻は九時を回っていた。和寅はすでに私室に下がっている。木場は猫じゃらしをテーブルに置き、「そろそろ帰るか……」とソファから腰を上げた。
ニャア、と二匹が小さく鳴く。木場は屈んでそれぞれの頭を撫でた。ふわふわで温かい感触を味わっていると、この場を辞すのが名残惜しくなってくる。
しばし黙って撫でていると、対面のソファに座っていた榎木津が立ち上がった。
「帰るのか?」
静かに尋ねてくる。木場は腰を上げ、ああとぶっきらぼうに答えた。
「マグロもニボシもお前のおっぱいをふみふみしたがってるぞ」
「おっぱいじゃねぇよ」
条件反射でとりあえず反論する。視線を下げれば、二匹はちょこんと床に座って木場の顔を見つめていた。
帰ぇる――もう一度そう告げようとした時、口づけられていた。猫のようにしなやかな腕がぎゅっと木場の体を抱きしめ、唇に食らいついてくる。侵入した舌によってこちらの舌が絡め取られ、甘く吸い上げて濡れた音を響かせた。
木場の膝が折れた。そのまま体がどすんとソファに逆戻りする。榎木津がのし掛かってくる。シャツの上から両胸を揉まれ、口づけから逃れて思わず声を漏らした。
榎木津が顔を覗き込んでくる。澄んだ大きな瞳は猫のようだった。少し頬を上気させた白皙の面で、彼は大真面目に囁いた。
「……僕もお前の胸をふみふみしたい」
「馬鹿」
木場は吹き出した。榎木津も笑う。しばし見つめ合ってもう一度唇を重ねようとすると、猛烈な視線を感じた。
マグロとニボシが床に端座したまま、じっと二人のことを見つめていた。
「……」
二人と二匹は数秒の間、黙って視線を合わせた。が、榎木津がわははと笑って体を起こした。
「やっぱり気まずいな! よしじゃあ遊ぶぞッ!」
大声で宣言して猫じゃらしを振り回し始めると、二匹が途端に俊敏に動いた。猫じゃらしを巡って馬鹿のように室内を走り回る様子を眺め、木場は逸る鼓動を誤魔化すようにガシガシと頭を掻いたのだった。
榎木津とじゃれ合い、時に本気の喧嘩をし、和寅には美味しい物を提供され、マグロとニボシは探偵事務所で健やかな日々を送っていった。木場は世話をすることは適わなかったが頻繁に顔を出して猫たちと関わった。探偵事務所に泊まることも増え、ベッドで榎木津と猫たちと雑魚寝をして過ごした翌日の夜は、独りの煎餅布団が妙に寒々しく感じられた。
木場に拾われたという記憶は、彼らにはもうないだろう。けれど猫たちは木場にもよく懐いていた。事務所のドアを開けると、和寅がまず応じ、榎木津が罵声を投げ、そして猫たちがニャアニャアとすり寄ってくる。自分の家に帰宅したかのような錯覚を、木場は時々感じるようになっていた。
家族ができたらこんな風なのだろうか――そんな浮ついたことも少しだけ考えた。
賑やかな日々がゆったりと続いていく中――
別れは、突然やってきた。
譲って貰えないだろうかと言われたんだ――榎木津は淡々とそう言った。
ベッドの上であぐらをかき、榎木津の膝にはマグロが、木場の膝にはニボシが乗って丸くなっている。マグロの背中を撫でながら榎木津は独り言のように続けた。
「なんとかの依頼でうちに来た、年配の夫婦だった。マグロとニボシを見て、必ず幸せにすると頭を下げていた。なんでも数ヶ月前に老猫を看取ったばかりで……その老猫の毛色は、マグロとニボシを合わせたような模様だったらしい」
木場は黙って話を聴いている。ニボシの耳の裏を掻いてやると、閉じていた目がうっすらと開いた。
「大きな屋敷だった。庭も広い。木も――あれは松の木か? 木登りもできるだろ。池には鯉もいた。他にも犬とか鶏とか動物がいたが、みんな毛艶がよくて活き活きしていたな。庭にはトンボが飛んでた。チョウとか、セミとかも来るだろうな。そういうの追いかけるの好きだろ、猫は」
まるで見てきたかのように、榎木津は中空を見つめながら話している。実際に視たのだろう。木場はただ一言「そうかい」とだけ言った。
「……こんなビルの中にいるより楽しそうだったからな。承諾した」
榎木津が簡潔に話を結んだ。そしてマグロの背中を見つめながら、「勝手に決めて悪かったな」と呟いた。木場は静かに首を振る。
「構わねぇよ……世話してんのは手前と和寅だからな。それに……お前は猫みてぇな野郎だからな。お前がいいと思ったんなら、その方がいいんだろ、きっと」
二匹の成長は目覚ましく、事務所の中だけでは手狭になってきていることを木場は前々から感じていた。榎木津もそうだったのだろう。型に嵌まらず、自由でしなやかな、猫のような男なのだから――
彼らにとってそれが最善なのだとこの男が判断したのなら、きっとそれに間違いはないのだろう――木場はそう思ったが、そこまでは口にはしなかった。
ちらりと榎木津の横顔を盗み見る。彼は伏し目がちでマグロを撫で続け、すっかり消沈していた。木場は榎木津の頭をわしわしと撫でた。ふわふわの、柔らかい、金茶色の猫っ毛。飴色の瞳がこちらを見た。
「今まで面倒みてくれてありがとうよ……俺には、無理だった」
「ん」
榎木津が小さく笑みを見せた。と、膝の上でマグロが目を覚ました。くあぁとあくびをし、榎木津の指をぺろぺろと舐める。木場の膝上でニボシも本格的に覚醒した。しんみりとした空気を感じ取ったのか、訝しげに二人の顔を見上げた。
木場はニボシの脇に手を差し入れて抱き上げた。びろん、と弛緩しきった体が柔らかく伸びる。そのまま胸に抱き寄せ、背中を撫でた。ぬくもりをありがとうよ、と胸の内だけで告げる。榎木津もぎゅっとマグロを抱きしめていた。
「鯖と鶏肉、たらふく食わせてもらえよ」
木場がそう言えば、二匹の猫はそれぞれニャオンと鳴いた。
別れの時は、木場は署にいた。時計を見ながら、今頃あの男はどんな顔をして二匹の猫を新たな手に託しているのだろうか――そんなことに思いを馳せた。
六時になりさっさと退勤しようとすると、見計らったかのように管内で小さな傷害事件が発生した。事件の対応と事務処理を済ませて署を出ることができたのは、夜も更けた十一時だった。
わざわざ訪問するような時刻ではない。けれど今夜は、何時になろうとも行かねばならなかった。
「あ、旦那」
応接室には和寅がひとり、ソファに座っていた。木場の来訪を待っていたのだろう、そわそわしながら立ち上がり、「寝室です」とだけ告げた。木場はおうと答えて寝室へと向かう。
入るぞと声をかけても返事はなかった。ドアを開ければ、榎木津はベッドの上で大の字に寝転んでいた。
「礼二郎」
ベッドの近くまで行き、名前を呼んで見下ろす。榎木津は天井を眺めたまま「うん」と言った。
木場は黙ってベッドに上がり、彼の隣に腰をおろした。二人とも何も言わず、ただぼんやりと放心した。胸にぽっかりと穴が空いて、ぬくもりの代わりにもの悲しさがじんわりと満ちていく。
「……やっぱり、寂しいもんなんだな」
木場は今更ながら呟いた。関わりの少なかった己でもこうなのだから、毎日共に過ごしていた榎木津ならば尚更だろう――そう思ったが、馬鹿で不器用なこの口は気の利いた言葉を告げることが出来なかった。
シーツに投げ出していた互いの手が触れた。顔を見合わせ、またたきをする。いつもは傍若無人な麗人の淋しげな表情が、たまらなく木場の胸を締め付けた。シーツに手をつき、彼の体に覆い被さる。そっと口づけを落とせば、腕が伸ばされて抱き寄せられた。抱きしめられるままに身を任せ、シーツの上でぎゅっと抱擁する。
「にゃんこがいないと、お前はもうここに足繁く通う用はなくなるか?」
四角い頬を両手で挟み、榎木津が静かに問うた。揺れる瞳を間近で見つめながら、木場は「いや……」と口ごもった。返事をする前に再び抱き寄せられ、熱いキスが落とされる。
「僕はお前に、おかえりを言いたい」
キスの合間に切なく言葉が紡がれた。そしてやはり返答を待たずに、再びキスで口が塞がれる。まるで答えを聞きたくないかのようだった。白い手が、すがりつくように木場の背中を撫で回し始めた。
「礼、二郎……っ、俺は……」
深い口づけと丹念な愛撫に翻弄され、木場の息が上がってくる。微かな喘ぎを漏らしながら、木場の脳裏に蘇るのはあたたかく賑やかな記憶だった――そして、デスクにふんぞり返って出迎える、嬉しそうな榎木津の姿。
不意に愛撫が止まる。榎木津が双眸を細めて木場の頭上を見つめ、数秒後ににっこりと顔を綻ばせた。少しだけ涙の滲んだ瞳は、猫のそれのように澄んで美しかった。
二人はもう、言葉を交わさなかった。ぬくもりを求めるように互いを掻き抱き、穏やかに慈しみ合った。
数ヶ月の愛おしい想い出を残し、二匹の猫は新しい家族の元へと巣立っていった。探偵事務所からは猫の玩具が消え、食卓に鯖と鶏肉が上がることも減った。
事務所はまた、静かになった。けれどその代わりに、今度は――
夜、十時。カラン、とベルが鳴る。榎木津はデスクの椅子から腰を上げ、
「遅いぞ、馬鹿ッ……おかえり!」
ドアに向かって朗々と声を上げた。