霧のなかで2--
森での行方不明者について調査することが目的だった。しかし、そのために組まれた部隊は、濃い霧によって分断されてしまった。
ぴりぴりと身を包む不穏な予感にエルモートは双眸を険しく細めた。
霧は足元を覆い隠すほどに深く、ほんの先も見通すことができない。さらに、姿が見えない仲間は近くにいるはずなのに、その声が聞こえないという厄介な状態でもあった。ルリアがせめてカタリナかグランと一緒にいることを祈るよりない。
はるか頭上には雲を透かすようにして陽光が鈍く輝いている。おかげで方角は分かるが、それ以上のことは窺い知れない。いかにも不自然な霧で、それがなんのためのものかと考えれば、この幾重にも覆う白いヴェールの隙間に魔物が潜んでいることが予測された。
(こっちに徒党を組まれると対処できない、その程度の魔物っつう可能性もなくはないが……)
そんな楽観主義になれるような人生を送った覚えはエルモートにはない。
ちらりと振り返れば、幸いにもはぐれずに済んだ生徒がいる。これ以上の分断は避けたいため、手を繋いで行動することを選んだ。思春期のショウには大人と手をつなぐことは恥ずかしかったようだが。
エルモートは小さく息をついた。空気が肌にまとわりつくような湿度の高さに顔をしかめる。湿気は苦手だ。
この状況で能力を十分に引き出せないおそれは心身に響く。騎空士としての仕事を全うできないことも、身を守ることすらできないことも、どちらも不安として付きまとった。
そのうえ、この霧の濃さ。手をつないでいるはずのショウが、ふと振り返った時には魔物とすり替わっているのではないか――そう思わせるほどに視界を危うくしている。
「……ショウ、疲れたりはしてねェか?」
「ああ、問題ない」
返ってくる聞き慣れた声に安堵する。
「あんたは?」
続けて投げられた言葉にエルモートは息を呑んだ。子供に不安視されるような情けない顔でもしていただろうか。
「大丈夫だ」
それだけ答えると、ショウが言葉を探すような気配を窺わせた。彼はゆっくりと口を開く。
「……今の俺じゃァ頼りにならねェかもしれねェが、なにか出来ることがあったら言ってくれ」
少年がなにを気にしているのかを察して、エルモートは足を止めた。振り返って、繋いでいた手をいったん離す。
「頼りにしてるさ。この霧じゃァ、俺の炎はどこまで使いモンになるかも分からねェしな」
ショウは少し驚いたような顔をした。
「……霧の影響があるのか?」
「少なくともいい影響はねェなァ」
エルモートは顎を撫でながらそう答える。ショウは表情を引き締めた。
「分かった」
エルモートは優しく双眸を細めた。力不足を気に病むこともあるだろうが、それ以上にショウはしたたかだ。広い世界で経験を積んでいけば、いずれ彼の目指す夢を叶えることもできるだろう。
「ショウ」
声を掛けようとして、エルモートは不意に少年の背後で木の葉が揺れるのを見た。風は吹いていない――。
「ショウ! 後ろだ!」
ショウが咄嗟に振り返るよりも早く、茂みの奥から植物の蔓のようなものが飛び出す。その蔓が跳ねるようにして彼の首筋を打った。ショウが小さく呻いてその場に膝を突く。
「クソッ」
エルモートは蔓の繋がる先に向けて杖を振るった。姿の見えないグラン達を考慮して火力は抑えざるをえない。火の玉が木の枝を包む。ぎゃっという鳴き声とともに蔓が絡み合ったような姿をした魔物が地面に落ちた。今度こそエルモートは魔物のみにめがけて掛け値なしの魔力を放った――霧の水気を押しのけるほど火柱が立つ。
「燃えろォ!!」
業炎が魔物の影すら焼き尽くす。それ以上は魔物に構わず、エルモートはショウのそばに駆け寄った。
「大丈夫か!?」
ショウは打たれたうなじを左手で押さえてうずくまっている。もう一方の手は痛みを堪えるためなのか、自身の胸元を握り締めていた。
傷を確認しようとエルモートが屈むと、ショウが小さく呻いた。
「先公……」
「痛むのか?」
「離れてくれ」
告げられた言葉にエルモートは息を呑んだ。助けを拒まれた――、一瞬脳裏を過ったその考えを否定するように、薄青い瞳がエルモートを見た。
「早く……!」
その眼差しと言葉にこめられた意味を理解して、エルモートは後ろに下がろうとした。だが、ショウの左手がエルモートの腕を掴んだ。逃がすまいとするその力強さにエルモートは眉を寄せる。
エルモートを映した双眸が赤く揺らめいた。不穏な気配が肌を刺す。
「ショウ……!」
『混乱』か『魅了』か、いずれか魔物の毒がショウを蝕んでいる。打たれたときに浴びせられたのだろう。
ゆらりと立ち上がり、ショウは胸元を握り締めていた手を開いた。その掌に試験管のような小瓶が転がる。エルモートは悔しげにそれを睨んだ。
出発前に治癒が得意な団員から渡された瓶だ。快気の薬草から作られた飲み薬――行方不明者はひょっとすると魔物の毒に侵されているかもしれない。そのような魔物であれば、救助のためにも、身を守るためにも必要になるであろうと配られたものだった。
ショウは手にしていた瓶を無造作に投げ捨てる。
エルモートは自身のベルトポーチに意識を向けた。彼が預かった薬瓶が収まっている。
(確実に飲ませなきゃならねェ)
おいそれと取り出して、奪われたり、瓶を割られたりしてはならない。
エルモートは腕を掴まれたまま、じりと足を下げた。
まずはショウの動きを封じる必要がある。だが、炎ではそれが難しかった。対象を焼く炎は相手への危険が大きい。エルモートは舌打ちした。
「あとで補習だかンな! ショウ!」
エルモートは掴まれている腕を力いっぱいに引いた。それで相手がたたらを踏めば儲けものだったが、そう都合よくはいかなかった。それでも踏み止まろうと動きを止めたショウに拳を振りかぶる。
打ち抜いた拳はショウの腕に防がれた。間近に赤く染まった双眸。エルモートは眉を歪めた。生徒をこんな危険な目に遭わせるとは、なんとも不甲斐ない。反省が必要なのは自分のほうだろう。
「ショウ! しっかりしろ!」
声を掛けるが返事はない。こちらに伸ばされる腕を躱す。エルモートは片腕を掴まれたまま腰を落とした。アーソンを構える。炎で相手を怯ませる――そう次の手を考えた瞬間、今度はショウがエルモートの腕を引き寄せた。
「くっ……!」
腕力では到底かなわず、そのまま引きずられる。相手の攻撃をいなすべく体勢を整えようとする。だが、ショウから攻撃が繰り出されることはなかった。
エルモートは引き寄せられたすえに、彼の懐に抱き締められていた。
「なっ!?」
なにが起きたのか分からずエルモートは混乱した。ショウが正気に戻ったのだろうか。
「先公……」
耳元で低い声が呻くように呼ぶ。花のような甘い匂いが鼻孔に触れた。
「……ショウ?」
少年の手がエルモートの背を撫でる。ぞわりと悪寒が走る。身を捩って見上げた先、ショウの視線とぶつかる。見下ろしてくる双眸は赤い。
「クソ……ッ」
エルモートは拘束を解こうと身を捩った。片腕をお互いの身体の間に滑り込ませ、押し返そうとする。しかし、その抵抗を阻むように両手首を掴まれた。痛むほど強く握り締められ、アーソンを取り落とす。
「ぐぁ……ッ……」
付き飛ばされるようにして木に押さえつけられる。大木の幹に縫い留められた格好だ。
うつろな双眸がエルモートを見つめる。
「先公」
やはり甘い匂いがした。魔物の毒の香りだろうか。エルモートは訝しげに思いながら、反撃の策を練るべく視線を巡らせた。濃い霧、地面に落ちたアーソン、灰と化した魔物、ショウが捨てた薬瓶――こちらを見つめる正気を失くした眼差し。
ふと、その視線が近づいてきていることに気づく。はっと身構えたときには、ショウの唇が重ねられた。
「う――」
咄嗟にエルモートは目を閉じた。相手の舌が口内に差し込まれ、身が竦む。
「ふっ……ん」
舌を絡め取られ、肩が小さく跳ねた。動揺して身動きも取れず、エルモートは耳を伏せて身体を強張らせる。唾液の絡む濡れた音が耳の内側から響くようだった。心臓がどくどくと脈打つ。
「ん、ん…」
ショウの太腿がエルモートの足の間を割り、両腿の内側を押し上げられるように擦られる。
「ひっ…」
いやらしい動きに、エルモートはびくりと身体を震わせた。怯えの滲んだ金色の瞳を見て、ショウが唇に笑みを刷く。
「先公、可愛いな……」
うっとりと呟いてから、ショウは不意に首を振った。苦しげに目を閉じ、もう一度エルモートを見つめる。
「我慢できない。もう、我慢できねェんだ」
熱にうなされるように告げて、ショウは短く口づけた。唇が触れ合うほどの間近で囁く。
「あんたを滅茶苦茶にしたい……」
その言葉にエルモートは瞠目した。遠慮がちに、こちらの手に手を伸ばしてきた少年を思い出す。己に出来ることはないかと訊いてきた――。
魔物の毒が生徒の心を踏みにじっている。
エルモートは奥歯を噛んだ。怒りに毛が逆立つような気がした。身の内の炎が渦巻いて溢れそうになるのを抑える。
ショウは両手で押さえていた相手の手をその頭上でひとまとめにした。睨みつけてくる金色の双眸に、それすら楽しみのひとつだというように、あいた片手で目元を撫でる。
首筋に唇が寄せられ、ショウの背が屈められた瞬間、エルモートは相手の腹部にめがけて膝を蹴り上げた。
「ガハッ」
ショウが呻いて腹を押さえる。エルモートは緩んだ拘束から手首を引き抜いた。後ろ手にベルトポーチを開け、薬瓶を手早く取り出す。瓶の栓に歯を立てて引き抜くと、快気の薬を口に含む。
よろめきながら後ずさるショウに向かって足を踏み出し、その顔を両手で捉えた。飛び掛かって来た相手を拒もうと、ショウの手がフードを掴んだが、フードが脱げただけだった。霧の中、赤い髪が舞う。
エルモートは伸び上がって、ショウに口づけた。細身の体躯を引き剥がそうとしていた手がびくりと震える。流し込まれた薬を嚥下してショウの喉が上下した。
「はっ……」
甘い匂いが薄れるのを感じて、エルモートは唇を離した。ショウを見上げる。きつく閉じられた瞼が震え、うっすらと持ち上げられた睫毛の奥に青い瞳が揺れる。
「ショウ」
「……先公?」
ぼんやりとした疲れた声が響く。エルモートは眉を下げて目元を緩めた。
「あァ、もう大丈夫だ」
「……そうか」
ショウはよく分かってないような声音で頷いて、再び目を閉じる。彼はそのままエルモートに寄りかかるようにして気を失ってしまった。エルモートはその背を優しく撫でてやった。
風に木の葉が揺れる音を聞いて、ショウは目を覚ました。視界が白く曇っていて、霧の中を歩いていたことを思い出す。はっとして身体を起こそうとすると、肩に寄りかかる重みがあった。視線を動かすと赤い髪が見える。
(先公!?)
どういう状況なんだと胸中で騒ぐ。よくよく確認すれば、木を背にしてエルモートと凭れ合って座っていた。アーソンはエルモートの肩に掛けられている。魔物避けなのか、二人の前では焚火が燃え盛っていた。
休憩を取っている最中だっただろうか。ショウは眉間を押さえて記憶を探ろうとしたが、頭にモヤが掛かったように思い出せなかった。
ただ、エルモートの様子を見れば、とりあえず今はこのままでいいのだろうと思えた。静かな寝息が耳に届く。ショウは落ち着かない気持ちで、エルモートを起こさないようゆっくりと片膝を抱えた。
見るともなしに焚火を見つめる。ゆらゆらと揺れる赤い炎。火が焚いてあって、自分の記憶がないとなれば、おそらくなんらかの形でエルモートに助けられたのだろう。ショウはせめてこのまま起きて火の番をしようと思った。
濃い霧には体温を奪うような冷たい気配がある。焚火の炎がそれを遠ざけてくれるようだった。
そして、隣に寄り添う存在はなによりも温かいような気がした。
終わり