マーシュ広い魔法舎でも、そこに暮らす魔法使いは二十一人もいて、少し歩き回れば誰かに会うのは簡単だ。ひとつ屋根のしたにいて、共同生活を送っているのだから当たり前のことかもしれないけど、その中で自分は少しひとの様子に気を配ることが美徳と思い込みすぎていたのかもしれない。
私は、自室のベッドの上で無為に時間を過ごしていた。
自分自身に対する慢心のツケがきていることにうっかり気づいたときの気持ちというのは、知らない間に作った小さな傷に気づいてようやく痛みだすそれに似ている気がする。
ひとの世話ばかりしようとして、自分の世話がまったくできていない。誰かにしてもらうのとは違う、自分の手でするべきことを疎かにしていた―とひとりになってみて少なからず軽くなった心に思う。
何となく気が重くて、晩ご飯も普段に比べるとあまり喉を通らなかった。私に限ってそんなことが……と思っていたけど、いまになって小腹が減ってきた気がする。最悪だな。正直誰にも会いたくないけど、この時間のキッチンは誰かと遭遇する確率がそこそこあるし、こんなときに限って隠してたお菓子もない。
お腹が空いたなんて、気のせいだって思い込むことにして寝た方がいい……と思っていると、ドアがノックされた。
「……はい」
慌てて起き上がり身構えて返事をするけど、何か声が変な気がする。別に寝てたわけじゃないけど、起きた直後みたいに喉の通りが悪い。
「私です。ルチルです」
「……」
瞬間的に「まずいな」と感じたのは、心配させたんだという思いに繋がったからだ。気を遣わせてしまったことへの罪悪感で返事をしなければよかったとさえ思ったけど、それでも無視はできない。誰にも会いたくはない気分だけど、少なからず私のことを思って訪ねてきてくれたんだから。
「いま開けます」
普段は寝るまでかけない鍵も、今日は外界からこの部屋を切り離してしまいたいような気分でかけていた。いつもなら誰か来ても「どうぞ」のひとことでいいときもあるのに、我ながら心を閉ざしすぎじゃないかと思う。
一度深呼吸してからドアをそっと開けると、いつもより少し離れた位置にルチルが立っていた。炭色のカーディガンを羽織った姿で、昼間と印象が違って見える。
「遅くにすみません。賢者様」
「こんばんは、ルチル。起きてたので大丈夫ですよ」
「よかった!これからキッチンにお茶をいれにいくところなんですが、ご一緒しませんか?」
なんという、渡りに船。人に会うかもしれないと思うと憂鬱極まりなかったけど、いまルチルと顔をあわせたことと彼が誘ってくれたことでぐんとハードルが下がった。単純すぎる自分へのちょっとした嫌悪感とじわじわ迫る空腹感なら、空腹感の方がどうにかしやすい。私は頷いて、ルチルの同伴に預かることを選んだ。
夜中というほど遅くはなく、けれどもうみんな自室に戻って好きに過ごすころ。キッチンに向かう道すがら、明日の朝の仕込みが終わったらしいネロとすれ違った。晩ご飯をあまり食べなかったことについてなにか言われるかなと思ってたけど、そういったことは特になく、「腹減ってたら鍋の中のスープ飲んでもいいから」とだけさらりと言って彼はさっさといってしまった。
「明日の朝用のスープでしょうか」
「どうでしょう。もしかしたら、夜にお腹を空かせたひと用のかもしれませんね」
実際、そういうことは少なくない。朝用に作っておいたスープを夜のうちに飲まれてしまい足りなくなったことがあって、それ以来小さめの鍋にちょっとなにかが作ってあることがたまにある。
今夜はどうだろう。キッチンにやってくると、なかは廊下より少しあたたかくて、ネロが煮ていたのであろうスープのにおいが残っていた。
「いいにおいですね」
「はい」
キッチン台の方を見やると大きな鍋の隣に小鍋がひとつあったから、ネロはたぶんあれのことを言ってたんだろう。お腹が空いたなんて気のせいと思い込もうとしていたけど、やっぱりいいにおいに包まれたらそんなのは無理で、私は鍋の中身が気になってしかたがない。
なかを見てみようということになってルチルが蓋をあけると、ほわっと湯気が立ち上るなかに白い表面が見えた。
「クリームスープですね」
「おいしそう……」
ルチルがお玉を持ってきてなかをかきまぜると、やわらかく煮込まれた具が白いスープの海でふわりと踊り、クリームとブイヨンのにおいが湯気と共に漂ってくる。やさしいけれど、特にお腹が空いてなくても食べたくなってしまう罪なにおいだ。
「ちょっとだけ、いただきましょ」
「はい……!」
お茶をいれにきたつもりが、予想外の幸運だ。あんな気分でも外に出てみるものだなあと思いながら、私はルチルと一緒にカップに一杯ずつスープを入れて作業台兼テーブルの席についた。
ネロが作っておいてくれたスープを飲んでいる間に、やっぱりというか何というか、ルチルは今日の私の様子が変だったことを心配してくれた。自他ともに認める食いしん坊が、ろくに食べないでいたらすぐ気づかれるに決まっているし、ルチルが気づいているということはたぶん全員気づいているだろう。
「体調が優れないようでしたら、フィガロ先生に見てもらった方が……」
「いえ、体調は大丈夫だと思うんですけど……」
話すか話さないか、迷ったけど妙に語尾を濁してしまったらやっぱり何でもないとは言えない気がして、私はそのまま話すことにした。やましいことではないし、隠さないといけないようなことでもない。ただ、少し言いにくいだけだ。
でも、ルチルにだったら大丈夫という根拠のない自信が何となくあった。それは甘えというのかもしれなくても、明日の朝別の誰かに詰め寄られたり代わるがわる訊かれるよりは、いまふたりでの方が落ち着いて話せる気がしたのだった。
「何だか急に、ひとりになりたくなっちゃって……。みんなのことが嫌いになったとか、そういうわけじゃないんですけど」
「そうだったんですね……。でも、そういうこともありますよね」
「ルチルでも……?」
「しょっちゅうですよ。自分ひとりでやりたいこととか、自分ひとりじゃないと入れない世界があって……手をつけないでいると荒れちゃうんです」
意外だった。ルチルみたいな、誰にでも優しくて穏やかで、気配りも上手なひとのくちからそんな言葉が出てくるなんて。
けれど、だからだろうか。何だか許してもらったような気がして、ほっとしていた。心配かけたかもしれないとか、気を遣わせてしまったかもしれないとか、そういうことを考えれば考えるほど怖くなって誰にも会いたくなくなっていた、そんな私をルチルは肯定してくれたから。
「でも、こもるだけこもったらまた外に出かけていきたくなるんですよね。会いたいひとや話したいひとがいるから、落ち着いてきたら今度はそちらが気になってくるんです」
そう話すルチルの表情はいつもと変わらず穏やかで優しく、ゆっくりと口にする言葉はいつも以上に私に寄り添おうとしてくれている。……そんな気がした。気のせいかもしれない。自惚れてるだけかもしれないけれど、そう信じたかった。
「お部屋や庭も、荒れ放題になるとお手入れが大変ですもの。賢者様も、賢者様の世界を大事にしてくださいね」
「そうします。ありがとうございます」
「私は、……私たちは、いつでもお待ちしていますから。大丈夫です、ちゃんとここにいます」
そういってくれるひとがいる、なんて幸せなことだろう。自分の世界の世話は今夜中に済ませて、そうして明日の朝は、またみんなに、ルチルに会いに行きたい。私はそんな思いでスープの残ったカップを両手に持ったまま頷いた。