愛情の記号化 夢見の悪い朝だった。まだ早く、外は暗い。起きるには早い時間だと分かったが、二度寝ができるような気分でもなかったので、フィガロはしかたなしに起き上がった。
双子達の魔法のお陰で、この家の中は一定の温度が保たれているが、それでも窓や壁の近くは少し冷える。フィガロはさっと着替えて暖炉のある居間へ向かった。すると、先客がいるようで部屋の前がうっすら明るかった。
中を覗くと、廊下よりも少し暖かい部屋の中でスノウが揺り椅子に座っているのが見えた。彼の体格にはあまり合っていない大人用の揺り椅子だが、彼もホワイトもこれを気に入っているようだった。
しかし、部屋の中にホワイトの姿は見当たらない。起きてくるときも、寝ていないときや故あって早起きした日でも、二人揃っているのが常なので珍しいことだった。
「おはようございます」
「おや、ずいぶん早起きじゃな。おはよう」
「スノウ様も。……ホワイト様は?」
振り向いたスノウの機嫌が悪そうなら訊くのをやめようと思っていたが、そういったわけではなさそうだったので訊いてみると、彼は事も無げに答えた。
「昨夜遅かったみたいじゃから、まだ寝かせておる」
「そんなこともあるんですね」
「我は昨夜早かったから無駄に早起きじゃ。今朝はそなたとお揃いじゃな」
「俺は普通ですよ。無駄に早起きなのはスノウ様だけです」
「はあ……。歳かな……」
「……眠いのに起きてきちゃ駄目じゃないですか」
「二度寝は癖になるんじゃ。繰り返すと起きられなくなる一方じゃよ。覚えておくといい」
「はぁい」
機嫌が悪いわけではないが、別段良いわけでもないようなスノウの口ぶりに、昨夜早かろうがゆっくり寝ていればよかったのにと思いながら、フィガロは素直に返事をしてみせた。
「それで、無駄な早起きには理由があるのかのう?」
「別に。少し夢見が悪かっただけです」
「ふむ……。内容は覚えておるか?」
自分だって夢見のことさえなければもう少し明るくなるまで寝床のなかで過ごしたかったと思ったところで、スノウがそう尋ねてきたので、フィガロは忘れる前に整理しておいた夢の内容をすんなり話した。無駄な早起きの理由を訊かれることも、それに対する自分の答えから続く話の流れも予想できていたのだ。
スノウとホワイトは占いに長けており、その方法は多岐にわたる。夢占いも彼らの得意とするところだった。今朝のように夢見が悪いときばかりでなく、印象に残る夢をみたときも話の種のつもりで占ってもらうことがあるが、今朝の夢はどうだろう。
「疲れの暗示じゃな。気になることも多く注意力散漫、それ由来の疲れかもしれんのう」
「特に何かを気にしてるつもりはないんですけど」
小さな違いはあってもおおむね同じような日を繰り返す生活なので、負担に感じることに心当たりはない。双子による魔法の指南も、厳しく激しいが怪我等への処置も手厚いので疲労を残すこともあまりない。
そんな生活のなかで気になることといえば、明日の天気と双子の機嫌とオズの様子くらいのものだが、それが夢にまで干渉してくるほどのものだろうか。あまりそういったことに明るくないフィガロは首を傾げたが、スノウはそういうものだと言わんばかりにうんうん頷いている。
「そういうのは無意識じゃから。気疲れというのもあるかもしれぬし、まあ、ゆっくり過ごすことじゃな」
「わかりました。ありがとうございます」
そういうことらしいので、今日は指南がゆるめになるのか、それともなしにでもなるのだろうか。これも彼とホワイトの気分次第なので分からない。しかし、起き上がってきて少し経つとまだやはり眠いような気もしてきた。短時間になるが寝直すか、ホワイトとオズが起きてくるまでどうにかしてやり過ごすかフィガロが悩んでいると、スノウがなにか思い付いたような様子で揺り椅子から降りた。
「よし。では早速、ひとつ我といいことでもせんか」
「いいことって?」
「朝ごはんまだだけど菓子を食ろうてやるのじゃ!」
「あはは……。それはいいですね」
それは果たしていいことなのか、そしていいことをするのはゆっくり過ごすことのうちに入るのか?何にせよ、スノウが「いいこと」と言えばそうだし、なにか口にすれば目も覚めるかもしれないので、断る理由はあまりなかった。
「昨夜早かったせいか、我、もうお腹ぺこぺこなんじゃ!でも朝食は皆で食べた方がよいじゃろ?ホワイトとオズが起きてくる前に、早くいくぞ!」
「騒ぐとばれますよ」
騒ごうと騒ぐまいと、彼らはお互いの考えていることが分かるそうだから、いまこのときホワイトが目を覚ましかけていればもう予感くらいはしているだろうに。しかし、ホワイトにばれて怒られても、スノウが平謝りするだけだ。それを分かっていながらの提案だろう。
フィガロは微苦笑を浮かべながらスノウの後を歩き出すのだった。
懐かしい光景だった。年数にすれば数えているうちにわからなくなってすぐに投げ出すほど前の出来事だ。しかも夢なので、本当にあったことなのかどうかは定かではない。もしかすると、いくつかの記憶を切り張りしてできたはりぼてのようなものかもしれないけれども。
しかし、心象風景として残っていたのだということに、幾ばくかの驚きを感じながら続きを見られしないかと思い目を閉じてみたが、次に目を覚ましたときには続きどころか曖昧になっていた挙げ句、眠気を再び呼んでしまったようで瞼が重い。瞼だけでなく、体も重い。昨日の疲れが残っている―といった感じではない。もっとはっきりとした、物理的な重さである。
「……」
「フィガロちゃん、おはよう!」
「……おはようございます」
おはよう、ではない。ではないが、何となく察しはついていたので、ここはおとなしく挨拶を返した。
「言ったではないか。二度寝は癖になると」
「そうでしたね……。でも、起こしてくれるって分かってると、ねえ?」
甘えちゃうでしょう?と言ったフィガロの笑みの先には、可愛い教え子ではなく、姿は可愛いが性格までもが可愛いとは言い難い師の姿があった。
師―スノウはミチルよりも体格は小さいが、それでも腹の上に乗られていると重いには違いない。
ミチルが起こしてくれることを期待して、毎朝二度寝三度寝当たり前だったのがあだになった。こんなことになるなら、一度目が覚めたところで素直に起き上がっていればよかったと悔いて、フィガロは小さく呻く。
「子どもに介護なんてさせるんじゃないのー」
「それで今朝は、スノウ様が?老々介護ですね」
「寝起き早々達者な口じゃな。あと、我は我の気分で来ただけじゃ」
あのころは、気分で起こしにきたことなどなかったような気がするが、なにしろ昔のことなのでよく覚えていない。また過去の切り張りのような夢でも見れば思い出せるかもしれないが、夢は自分の精神状態が大きく関わるものでもあるというから望みは薄いだろう。それに、切実に思い出したいわけでもない。夢に負けず劣らず儚い日の出来事を惜しむでもなくフィガロは微苦笑を浮かべてみせる。
「もっと可愛く起こしてくれたらなあ……無理でしょうけど」
「我にミチルの代わりは務まらんじゃろう。必要もないのに欲しがって見せるな」
「傷つくからですか」
「寝言かのう?」
「はぁい、そうです。むにゃむにゃ」
意趣返しも加減を間違えると面倒なことになる。寝起き早々であるのはもちろん、あんな夢を見たあとスノウと言い合うのは流石に嫌だったので、フィガロは眠りかけのふりをして引き下がった。
しかしスノウはどいてやる気配を見せず、幼子に対するような手つきでフィガロの頭を撫で始めた。
あの夢は何かの暗示だったのだろうか?予知夢だとか明晰夢だとか、様々あるようだがあまり興味はないし、何より、そんなもので観測できることなど易々こえてくる相手だ。考えるだけ無駄かもしれない。
「ホワイト様はどうしたんです?」
「いかにおぬしがしょうがない男であるかをミチルに説いておる」
「それは困るな」
「きゃー!」
茶番にいつまでつきあってやろうかと思っていたが、そういうことなら話は別だ。フィガロはスノウを露骨にどけて転がるようにベッドから降りた。目がまだうまく開かないが、スノウが言ったことが本当なら、こうしてはいられない。スノウもホワイトも一応南の国における自分の設定については知っておいてくれているが、それでも自分のイメージが他人によって損なわれるのはいただけないのだ。
「こらっ! 急に起き上がるでない!」
「すみません。スノウ様はここで寝ててもいいですよ」
「他人の部屋で二度寝はせぬ。それに、今朝はオムレツじゃからの。我もこうしちゃおれんのじゃ」
床に落ちずには済んだスノウだったが、フィガロに続いてベッドを降りると、これから口にする好物のことを思ってか、顔中に喜色を浮かべた。けれども、フィガロはオムレツは好まない。他にもオムレツを避ける魔法使いはいるし、ネロは卵の焼き方くらいなら配慮してくれるので、キッチンに顔を出して一言頼めばいいだけのことだがオムレツと聞いてフィガロは少しばかり気が沈んだ。オムレツは双子の好物にして得意料理のひとつでもあったのだが、あれはどうにも好きになれなかったのである。それゆえ、スノウかホワイト、或いは二人とオムレツの組み合わせを目にするとたちどころに気分が落ちる。
「はあ、オムレツか……。そういえばスノウ様、まだ作れるんですか?オムレツ」
「当たり前じゃろ! ……あっ、でも待って……最後に作ったの何年前じゃろ……」
「作れたとしても俺は食べませんけど。あれ嫌いなんですよね」
「えっ!? そうなの!? おいしいですって言って食べてたじゃない!」
フィガロが身支度を整えながら言ったのを聞いたスノウはそれはもう驚いているが、スノウにしろホワイトにしろ、どうして気づかなかったのかフィガロからしてみると不思議だった。オムレツはオズも苦手だったはずだし、昔のオズは取り繕うということが今以上に得意ではなかったので、気づかない方がおかしいのではないかと思うものの、双子の性格を考えれば、そんなことなど知ったことではなかったのかもしれない。
「まずいなんて言おうものなら、何されるか分かったもんじゃなかったからですよ」
「言ってよー!そういうことは言って!」
「俺の話聞いてました?あ、でも……」
ふと思い描くのは、嫌いだったオムレツのことではなく、夜明け前ともいえないほど暗い朝早くの出来事。小さいけれどもあたたかい手に引かれ誘われ共有した束の間の秘密の記憶は、呼び起こされて居間を照らしていた暖炉の火のようにほの明るく心を照らす。
「昔、食べさせてくれたあれは嫌いじゃなかったですよ」
「あれ……?って何だったかのう?」
それだというのに、本人はどうやら覚えていないらしい。フィガロは、わざとらしく残念そうにしてみせた。どちらかといえばこちらが覚えていたことについて驚かれるだろうと思っていたのだが、覚えていないなら仕方がない。自分の記憶だって、自分の頭が都合のいいように改竄して夢に見せてきたにすぎないかもしれないのだから、スノウを追及する権利はない。
「……ほんと、そういうところですよね」
しかし、それはさておきやはり意趣返しはしたい。服装を整えたフィガロは振り向き、傷ついたような目をして笑ってみせた。こんな、見え透いたことではスノウの心など動かせないだろうけれども、万にひとつということもあれば儲けものだ。
「えっ、何? 意地悪しないで教えるのじゃ!」
「まずはその小鳩のような胸に聞いてみたらいいじゃないですか。それとも、また一緒にいいことしてくれます?」
「いいこと……? 待って、ここまで出てきた気がする。もう思い出せるはずじゃ……」
先程は自分の方からここで寝ていてもいいなどと言ったが、よくよく考えなくとも彼を置いていくとホワイトがうるさいだろうし、ミチルからも問い詰められるだろう。寝坊を叱られるのは結構好きだが、常識や情についての駄目出しは堪えるのだ。
スノウが思い出すことができるかどうかは朝食のあとまで預けることにして、フィガロは長考に入りそうな様子を見せる彼を追いたてるように背中を押して部屋を出た。
「時間切れですよ。ほら、もう行きましょう」
甘くしてあたためたミルクに数滴酒を垂らして、そこにビスケットを浸して食べるという、スノウが教えてくれた背徳的なおめざは、あれから少なくとも南の国に暮らすようになってからは一度も口にしていないし誰にも教えた覚えはない。
忘れていたか、気が向かなかったか、それさえ分からないけれども、思い出せば不思議と懐かしい。けれども、スノウにとってもそうであるかは分からないし、このままずっと忘れ続けていてくれとも思う。それでも、まったく期待していないとも言い難い。難儀なのだ。
「きっかけもないのに、思い出せませんよ。諦めた方がいいんじゃないですか」
「駄目じゃ。そなた、覚えているだろうという顔をしておったからの」
「……あはは。ご冗談を」
まったく、意地悪なのはどちらだろう。結びかかった視線を先にほどいて、フィガロはスノウを早足に追い抜いた。
<おわり>