Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    shimotukeno

    @shimotukeno

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 89

    shimotukeno

    ☆quiet follow

    白鳥フーイル 途中まで

    白鳥歌行 途中 ノラ猫のような男だと思っていた。 
     神出鬼没で、気ままで、気位が高く、媚びるということを知らない。何本にも結われた髪は、黒猫の尻尾を思わせた。眼光は肉食獣のようで、手脚はしなやかだった。 彼と出会ったのは行きつけの書店で。同じ本に手を伸ばしたのがきっかけだった。彼は「表紙を確認したかっただけだから」と笑ってあっけなくその本を譲ってくれた。フーゴが彼と出会ったのは、そんな物語(ロマンス)のような出来事がきっかけだった。
     それから、その男とは何度も会っては、毒にも薬にもならない会話をした。彼はいつも表紙を見ては本棚に戻して、会う度に違う名を名乗っていた。奇妙でいい加減で、自由な男だと思っていた。付近のCD屋やビデオ屋もうろついているようで、時折店の中にあのわかりやすい姿を認めることができた。いつしか彼は街中の気高いノラ猫のように――日常の中にぽつんと在るささやかで好ましい非日常的存在になっていた。
     彼の正体を知ってみれば、あれは暗殺者としての情報収集の一環だったのかと思うこともあるが、任務とはまったく関係ないただの趣味だったのかもしれない、と思うこともある。何が好きで何が嫌いなのか、何をして生きてどんな家に住んでいるのか、結局のところ、彼のことはよくわからなかった。
     ただ、ノラ猫のような自由な男だと思っていた。 
     ――ポンペイの廃墟で出くわすまでは。 


     彼は自由なノラ猫などではなくて、首輪に繋がれた狗の一匹だったのである。 
     ポンペイ遺跡で左腕を失った彼は、パープル・ヘイズの気配にいち早く気づき――鍵の奪取は不可能と判断したのだろう――その場を後にした。その時、何かの拍子で一瞬意識が途切れたのか、鏡の世界が解除されたのは、こちらにとって幸運としか言いようがなかった。 
     それから、彼――組織ではイルーゾォと名乗っていたらしい――はどこに行ったのか、足取りを追うことは出来なかった。闇医者が『左手を失った長髪の男』の応急処置をしたと吐いたこと以外、何も知ることができなかった。暗殺チームは、何も残すことなく闇の中に消えてしまったのである。
     イルーゾォも自分の仲間が全員死亡したことはおそらくどこかで知ったであろう。仲間と共に鎖を噛みちぎり、主人に牙を剥いたというのに、一人生き残ってしまった彼の心境はいかばかりか。
     彼は今も生きているのか。それともすでに死んでいるのか。生きているとしたら、復讐の機会を窺っているのか。それとも、失意のうちに全てを捨て去ったのか。
     知りようのないことを考えても仕方がないのはフーゴもわかっている。だが、あの時買った本を見る度に、どうしても彼を思い出してしまうのだ。姿を見せなくなったノラ猫の安否を心配してしまうように。そのノラ猫が、せめて善良な人間のもとで不自由なく暮らしていればと淡い願いを懐いてしまうように。
     そうして、イルーゾォのことも、あの時戦ったチームのことも、何もわからないまま十年以上が経過していた。 街中にパスクアの気配が漂い始めたある朝のことである。
     その日も、フーゴはいつもと同じ時間にパッショーネ本部に入っていた。本部に流れる空気も組織員の様子もいつも通りだが、フーゴはなんとなく『何かがある』ような気がしていた。そして大抵、そういった予感は――大概面倒な形となって――的中するもので、案の定、執務室に入るなりジョルノに呼び出されたのである。ジョルノのもとに向かうと、彼は一通の手紙を前に思案顔であった。
    「何か奇妙な手紙でも?」
     フーゴが聞くと、ジョルノは曖昧に首をかしげた。パッショーネにとどけられる郵便物は全て『検査(スキャン)』済みで危険物が入ったものがそのままジョルノの手に渡ることはない。となると、ジョルノが首をかしげているのは手紙の内容についてであろう。
    「とりあえず、読んでみてください」
     ジョルノに差し出された手紙を手に取ると、差出人は北イタリアの聞いたこともない村の神父で、内容はどうやら訃報らしい。
    「……その手紙に書かれている、アンドレア・アンジェロッティという人物ですが、組織の記録にない人物なんですよ。何かの間違いかと思ったのですが。どうも気になりまして。君ならもしやと思ったんですよ」
    「アンドレア――アンドレア・アンジェロッティ……」
     フーゴは記憶をたぐり寄せるようにその名を呟く。口に出してみれば、確かにどこかで覚えた記憶がある。しかし、聞き覚えがあるのに、うまくその人物の姿と結びつかない。フーゴはうなり声を上げて頭を抱えた。霧を掴もうとするような、陽炎に触れようとするかのような、そんな感覚があった。
    「君にも覚えがないのならいいのですが……」
    「いえ! どこかで聞いた覚えがあるんです。ただ、いつ、どこで聞いたのか……」
    「大丈夫ですよ、フーゴ。すぐに思い出せ、とは言いません。君の知る人物か、確認したかっただけだから……」
     ジョルノは苦笑して言った。その時、ほんの一瞬ではあるが、フーゴの脳裏に、ある男の笑顔が過った。フーゴはそれを見逃さなかった。
    「イルーゾォさん……?」
     確かな記憶がたぐり寄せられる。本棚の前で、彼はそう名乗った。さっきまで手にしていた本から思いつきでとったような、適当な名前を。次に会うときには彼自身も忘れてしまうような、気まぐれな名前を。その時の状況が、鮮やかに蘇ってきた。遠い昔に無くしたと思っていたおもちゃを見つけたような喜びと共に――。
    「そういえば、君はあのポンペイで戦った彼と、何度か話したことがあると言っていましたね」
    「ええ、アンドレア・アンジェロッティというのは彼が適当に名乗った名で……」フーゴは一瞬言葉を詰まらせた。「彼が……死んだ?」
     
     
     三日後、どうにか都合をつけたフーゴは、手紙に示された北イタリアの小さな村に向かった。ネアポリスと違い、村の建物の影や山の斜面には雪が溶け残っていて、肌寒い冴えた空気にも冬の名残があった。
     教会は小高い丘の上にあって、そこにゆくには車一台が通れるほどの幅しかなく、舗装もされていない田舎道を通るしかなかった。
     たどり着いた教会は、いかにも田舎の古びた教会と言った様子であった。あのイルーゾォが、こんな田舎に隠れ住んで生を終えたのかと思うと、フーゴは今でも信じられなかった。
     車を駐めると、四十かそこらの神父がちょうど建物の外に出てきたところだった。見慣れない青年の姿に、神父は一瞬意外そうな顔をしたあと、穏やかに声をかける。
    「もしかして、あなたがアンジェロッティさんの」
    「ええ。パンナコッタ・フーゴと言います。イル……アンジェロッティさんのことを知らせていただき、ありがとうございました」
    「いいえ、こちらこそ遠いところをありがとうございます。しかし、本当にパッショーネに知り合いがいたとは……それもこんなお若い方で」
     神父はまた意外そうな顔をした。どうやら、もう少し年嵩の人間を想像していたようだ。彼は車に花束が積み込まれているのを見ると、「ご案内しましょう」と言って歩を進めた。
    「彼を知る人間は、パッショーネ内ではもう僕くらいのものです。僕も、十年ほど前にほんの少し関わった程度で、詳しく知っているわけではありません」
     墓地への道すがら、フーゴはそう前置きした。この村の人間が、イルーゾォについてどれくらい知っているかわからない。下手に余計なことを話して、イルーゾォの死後の安寧を妨げるような事態は避けたかった。
    「彼は、この村でどんな暮らしを?」
    「ワイナリーで働いていました。片腕が不自由でしたが、体格もいいし、ハンデを感じさせない働きぶりで。パソコンもよく扱えたので、この田舎では重宝されてましたよ。当教会にも日曜日にはほとんど欠かさず来られて、いつも最後列の椅子に静かに座っておられました。寡黙な人で、あまり自分の話はしない方でしたが……村人の話では、元傭兵らしいとのことでした」
    「そ――そうですか……」
     アンジェロッティという男は、本当にイルーゾォなのだろうか? 神父の話からは、寡黙で、真面目な働き者で、その上毎週ミサに参加する敬虔な人物像が浮かび上がる。話を聞く限り、ネアポリスの街中や、ポンペイ遺跡で出会ったイルーゾォとはまったく別人のようである。ここまで違うのなら、もしかしたら本当に別人という可能性もある。そうであれば、イルーゾォは今も生きているかもしれない。
     そのうちに、真新しい墓石が見えてきた。多少朽ちかけてはいるが、多くの花が手向けられている。その花に埋もれるように、男の写真が置かれていた。フーゴは花をかき分けるように、その写真を手に取る。
     はたして写真に写っているのは、――フーゴの淡い期待を打ち砕くような――穏やかな顔をしたイルーゾォその人であった。


     白い墓石には、四十にも満たない人生であったことが刻まれていた。せっかくあの戦いを生き残ったというのに。せっかく裏社会から足を洗って生きてきたというのに。命とははかないものである。フーゴは花束を手向けると、深いため息をついて、神父を振り返る。
    「彼は、事故か何かで……?」
    「いえ、病気でした。ここ一年ほどでしょうか。肺を病んでいたのですが、折悪く、この冬の寒さと流行り風邪で――」
     神父はイルーゾォの臨終の床に立ち会い、秘蹟を授けたという。その際に、彼の口からパッショーネに知り合いがいる旨を知り、あの手紙を書いた――という次第らしい。
     それにしても、沈黙を貫いてきた彼は何故死の直前になってパッショーネのことを話したのだろうか。大きな秘密を抱える人間というものは、得てしてそういうものかもしれないが……。それに、パッショーネのことを話しながら、パッショーネで通じそうな『イルーゾォ』という名は明かさなかった。単にそこまで気が回らなかったのだろうか? ――そうかもしれない。そうかもしれないが、「そうに違いない」と簡単に片付けてはいけない気がする。もしそこに彼の何らかの意図があるのだとしたら、生きている者が意味を見いだしていかねばならない。
     ひょっとすると、死に別れた仲間――暗殺チームのことで、何か言い残したいことでもあったのだろうか? 
    「アンジェロッティさんは、他に何か言っていませんでしたか? 昔の仲間のこととか……何でもいいのですが」
    「ふーむ、あまり昔の話はしませんでしたからねえ」
     神父は静かにうなった。
    「ですが、そういうことなら、ニコロが詳しいでしょうね」
    「ニコロ?」
    「あ、ご存じないのでしたね。彼はアンジェロッティさんの甥で、十二年前、二人一緒にこの村に来たんですよ。今は全寮制の高校に入っていて、パスクアの休暇には帰ってくるはずですよ」
    「……甥?」
     

     墓石に置かれている写真には、イルーゾォにもたれかかる栗毛の子供が写っていた。この少年がニコロらしい。最初に見た時、フーゴはごく自然に村の子供だと思い込んだ。彼の血縁者という可能性を当たり前のように排除していたのだ。
     しかし、本当に甥なのだろうか。イタリア人は一般的に家族を大切にする――と言われているが、イルーゾォは親兄弟と繋がりを持っているようなタイプには見えない。まして、組織を裏切った身で親戚の子供の面倒などみようと思うだろうか。甥というのは方便だろう。
     だが、少なくとも写真からは無理矢理誘拐したようにも見えない。相当親しい間柄のようで、少年は心の底から保護者に甘えているようだ。
     この村に来るまでに、両者の利害が一致し、行動を共にすることにした――と考えるのが自然だろう。
     兎にも角にもニコロ本人に確認したいところだが、彼が村に帰ってくるのは数日後、フーゴも一度ネアポリスに戻らなくてはならない。その前に、村人達から情報収集をすることにした。
     フーゴは村の中心部へと向かった。丘を下ると、石瓦(スレート)がふかれた家々が寄り集まっているのが見えてくる。メインストリートは小型車がやっと通れるほどしかなく、人口も二百を越えない。中心部には小さな川が流れており、石壁に涼やかな音を響かせている。村の付近には史跡や山が点在し、それらを目当てに歴史愛好家やハイキング客が訪れるが、裏を返せばそれ以外の目的で訪れる者はほとんどおらず、個人経営の小さな宿や飯屋があるばかりである。
     フーゴは村唯一の床屋に入った。床屋のおやじは、
    「彼が初めて来た時のことはよく覚えてるよ。その時は綺麗な長い髪でね、無造作に『伸びた』髪じゃあなく、こだわって『伸ばした』髪だったからさ、『本当に切っちまっていいのかい』って何度も確認しちゃったよ」と言った。
     それから、フーゴは村のあちこちを回って、イルーゾォを知る者に声をかけた。村人達の言うことには――
    「スゲエいい体してたなァ。いや、そっちの意味じゃなくて。左手の欠損が目立ってたけど、所々古傷もあってさ、動きも隙や無駄がないっていうのかなァ~、多分、傭兵だったんだろうな」とは、同じワイナリーで働いている青年の言葉である。
    「彼に部屋と仕事を紹介したのは私だ。私の父も、戦争で片腕を切断してね、苦労したものだ。彼も養わなくちゃあならん子供もいたし、なんとかしてやりたいと思ったんだ」と、老人が言った。
    「無口な人だったなあ。あまり昔のことは言わなかったけど、テレビでネアポリスの映像が流れた時には、ちょっと目つき変わってたな。寂しそうっていうか。昔住んでいたのかな?」若者はパニーノをかじりながら小首をかしげた。
    「結構綺麗な顔してたでしょ? 無口で謎めいた雰囲気もあるし、若い娘(こ)は気になってたみたいよ。でも、浮いた話は全くなかったわねえ」おばさんはなぜか声を潜めて言った。
    「ニコロはよく懐いてて、zio Andy(アンディおじさん)って呼んで彼について回ってたよ。小さい頃から聞き分けはよかったなあ。遊ぶときも彼の目の届く範囲にいたし」肉屋のおやじは目を細めて言った。
    「十二年前、ローマでテロ事件があったろ? 二人はその日ローマにいて、巻き込まれたらしいんだ。ニコロの両親は、そのテロで亡くなったそうでねえ。アンドレアもその時左手を失ったと思ったんだけど……あれ? 違ったかな?」集会所でたむろしていた男たちは顔を見合わせた。
    「彼はよく働いてくれたよ。仕事柄、肉体労働が多いけれども、あの腕でも問題なく任せられたしね。私らみたいな老いぼれじゃなくてまだこれからって人を……酷なこともあるもんだ」ワイナリーのオーナーは深いため息をついた。
    「ニコロが最期に間に合ったのはせめてもの救いよね。アンドレアは、息を引き取るまでずっとニコロを見つめてたって。そりゃあ心残りよねえ、たった一人になってしまうんですもの」
    「だから私たち、できる限りの手助けはしようねって決めたの」売店にいた二人の女は目尻を光らせながら囁き合った。
     帰りの飛行機の中で、フーゴは村で買ったワインボトルをながめながら、村人達の証言を思い出していた。村人は誰一人としてイルーゾォを悪く言わなかった。誰の目から見ても最初に神父から聴いたとおりの模範的な人物であったらしい。写真の人物はイルーゾォに間違いない。だが、魂は本当にイルーゾォだったのだろうか? イルーゾォのことを深く知っているわけではないが、やはり、あまりにも違いすぎる。ただ、彼があの日のローマにいたとすると、ポルナレフ氏の『レクイエム』による現象に遭遇した可能性はある。何らかの理由により別人の魂と入れ替わったまま今まで生きてきたのだろうか? ――いや、それはない。仮にそうだとすると、最期にパッショーネのことを話したのと整合性がとれなくなる。それにニコロという少年についても謎が多い。ただ、二人がローマで出会ったのは本当のことだろう。十二年前、少年はまだ四歳の幼子だった。四歳の幼子に、複雑な嘘をつき通させるのはリスクがある。嘘は『叔父と甥』という一点のみに絞ったのだろう。それにしても、少年の懐きようは奇妙である。
     フーゴは疲れた頭を預けるようにシートにもたれかかった。イルーゾォは謎の多い暗殺チームの謎めいた男だった。彼やチームについて何かわかるかと赴いたのに、さらに多くの謎を残してゆくとは。
     フーゴはものうげな手つきで手帳をめくり、パスクアの予定を確認する。徹夜覚悟で仕事を片付ければ、なんとか都合をつけられそうである。
     視界の端で、ワインボトルが光った。だが、当分開ける気にはならなかった。

     
     パッショーネ本部に帰る頃には夜もすっかり深まっていた。フーゴの報告に、ジョルノとミスタはは静かに耳を傾ける。
    「そうですか……」ややあってジョルノが口を開いた。「お疲れ様でした、フーゴ。でもその様子じゃ、また村に行くつもりでしょう?」
    「ええ、ニコロ少年に話を聞いてみようと思います。でもご安心を。業務には支障がでないようにしますから」
    「それについてはご心配なく。今は調査を優先させてください。僕たちとしても、彼らについては把握しておきたいですから。……これは多分、君にしか出来ない仕事です。彼と少しでも縁のあった、君にしか、ね」
     世界の裏側に消えた彼らは、別に、自分達のことを誰かに知ってほしいなどとは思っていないだろう。そもそも彼らとは確執があったわけでもなく、偶々会敵し、殺し合っただけの関係だ。チームの外に彼らの実情を知る者もなく、情報部も彼らの核心に迫る情報は手に入れられていない。現体制(自分達)のために、彼らを欲に塗れた極悪に仕立て上げるのは簡単だし、現に『そうあってほしい』『そうに違いない』と思う者も一部にはいる。そうした方が何かと都合がいいこともわかっている。
     だが、彼らにも物語があったはずだ。
     運命の歯車がひとつ違っていたら、彼らとは逆の立場であったかもしれない。戦うことなく、肩を並べていたかもしれない。そうしたら、今この場にいる顔ぶれも、違っていたかもしれない……。
     これは運命に導かれるまま彼らを斃し、生き残った側の意地の問題だ。心にケリをつけるための自己満足と言ってもいい。
    「しかし、謎が多いよなァー」ミスタがぼやく。「イルーゾォの変貌ぶりといい、その子供といい。イルーゾォって、二重人格だったのかなあ? それにこのイタリアを支配する組織を相手に逃亡する身で身内でもねえ四歳児を連れてくのって、相当ハードだし……そのニコロって奴、相性ピッタリのスタンド使いとか?」
    「彼の性格を考えれば、それが一番自然ですね」ジョルノが同調する。「こうしてスタンド使いに囲まれていると忘れがちですが、スタンド使いは本来稀です。もし少年がスタンド使いで、周囲に理解者が誰一人いなかったとしたら……強烈な仲間意識を覚えるのも、そうおかしくはないかと。ま、その辺をフーゴに調査して貰うのですが」
    「ええ、諸々含めて調べてみますよ」
     
     数日後、フーゴは再び村を訪れた。世の中はパスクア一色だ。村の家々のドアには卵をあしらったリースが飾られ、庭先の木の枝に色とりどりの卵を飾っている家もある。ネアポリスと違って、ゆったりとした時間が流れていた。フーゴは以前教えられたイルーゾォの家に向かう。村の奥にある、絵本に出てくるような小さな家だ。玄関脇にはスポーティーなクロスバイクが置かれている。以前見かけたときにはなかったものだ。
     ドアに手を伸ばすと、彼が来るのを待っていたかのようにドアが開き、中から少年が出てきた。写真と同じ、栗色の髪で、優雅な巻き毛である。目は氷の浮かぶ北海のような灰色で、涼やかな柳眉の少年だ。若い鷹のような目つきで、フーゴをにらみ付けている。
    「あんたか。僕たちのことを嗅ぎ回ってたのは」
     ニコロは吐き捨てるように言った。
     予想通り、歓迎ムードではない。この村は小さい。遠方から来た人間の話はあっという間に広がるだろう。既に顔見知りとなった村人達からは敵意のようなものは感じなかったので、彼らがフーゴのことを悪く伝えたということはなさそうだ。留守にしていた彼へ報告しただけなのだろう。その報告を聞いたニコロが警戒したということのようだ。
    「そう思われても仕方ありませんね。初めまして、僕はパッショーネのパンナコッタ・フーゴです。君がニコロ君ですね?」
     フーゴが友好的に手を差し出すと、ニコロは大儀そうにその手を握り返した。
    「そう、僕がニコロだ。あんたに話すことなんてないんだけど、神父様に言われて来たんだろ? 少しだけなら話してあげてもいいよ。……けど」
    「けど?」フーゴが聞き返す。
    「パッショーネのお偉いさんが、わざわざこんな小さい村に来て、一体何のために探っているのか? まずはそれを聴かせて貰わなくっちゃあいけないだろ」
     少年の物言いに妙な懐かしさを感じて、フーゴは思わずほほ笑んでしまった。
    「ええ、勿論。君には知る権利がありますから」
    「……じゃ、入って」
     ニコロは顎で促すと、フーゴを招き入れた。
     
     
     外から見るよりも中は広いな、というのが家に入った時の第一印象であった。暮らすのに必要な設備はこぢんまりとまとまっている。裏庭には簡易的な屋根付きキッチンやテーブルもあるし、デッキチェアまで置いてある。窓からは針葉樹の林や高い山々が望めるし、喧噪も無く、空気は澄み渡っている。これはこれで贅沢な暮らしと言う者もあろう。フーゴはニコロに促されるまま、ダイニングの椅子に腰掛ける。家の中には写真が飾ってあった。ほとんどがニコロを撮ったものだが、イルーゾォが写っているものもある。何も知らない者が見れば、誰もが彼を物静かで穏やかな人物だと予想するような、穏やかな表情である。
     ニコロはキッチンに向かって黙々とコーヒーを淹れていた。あたりにコーヒーの香りが漂い始める。フーゴは写真を眺めながら静かに彼を待つ。
    「一応客人だからな」
     ニコロはぶっきらぼうに言いながらも、焼き菓子を盛り付けた皿とコーヒーをテーブルにコトリと置いた。所作は丁寧だが、警戒心が痛いほどに感じられる。ニコロはフーゴを下からにらみ付けて口を開いた。
    「……で、何のために探ってたんだ? パッショーネの裏切り者の墓を掘り起こそうっての?」
    「裏切り者って……」フーゴは一瞬、目を丸くした。「君、知っていたんですか? アンジェロッティさんがパッショーネにいたって……」
    「パッショーネの暗殺者で、仲間と共に裏切って逃亡の身なんて、そんなのはじめから知ってる。イルーゾォって名乗ってたのも」
    「そうですか……それならば話が早い」
     イルーゾォの過去を知っているなら、彼の敵意にも近い警戒心にも納得がいく。今になってパッショーネの人間が来れば、裏切り者に何かしらの『罰』を与えに来たと考えてもおかしくはない。それにしても、裏切り者の暗殺者という過去を知りながら、彼の眠りを守ろうとするとは。よほど精神の深いところで結びついているようだ。
     フーゴはイルーゾォとの関わりや、この村に来た経緯を率直に、ざっくりと説明した。自分と戦ったことでイルーゾォが左手を失うはめになったことも、正直に。彼には偽りやごまかしは通用しないであろうし、そんなもので塗り固めたくはなかった。
     薪ストーブの炎が揺れ、少年の横顔を照らす。少年の警戒心は少しずつほどけていったようだった。ニコロはいつしか真剣な表情で話を聞いていた。
    「イルーゾォさんのことを知りたいのも、僕らの自己満足なんだ。あの時、彼らに何があったのか……。知ったところで、僕たちはどうこうしようとは思っていない。でも、君が、君達が望むなら、君達に何かしてあげられるかもしれない。ただ、それだけです」
    「……本当に? 信用していいの?」
     年相応の子供の表情でニコロがきいた。フーゴは無言で頷く。ニコロはおずおずと口を開いた。
    「僕は、あの人からギャングの世渡り術とか嘘の見抜き方とかは教えて貰っていないけど……あんたのことはちょっと聞いてた」
     ニコロはぎこちなく笑った。ぎこちないが、写真と同じ人懐っこい笑顔だった。きっとこちらが彼の本来の表情なのだろう。
    「……失礼な態度をとってごめんなさい。あなたは信じてもいい人みたいだ。それで、何から話したらいい?」
    「僕こそ、不躾に嗅ぎ回って……君が警戒するのも当然です。まだ彼が亡くなって日が浅い。話しにくいこともあるでしょう。話せそうなところから……ゆっくりで構いません。急いではいませんから」
    「うん……」
     少年は席を立ち、窓辺に手を伸ばす。写真立てがひとつ伏せられていて、彼はそれを立てかけた。写真に写っていたのはイルーゾォではなく、ローマの名所をバックにしたひと組の家族だった。
     

     フーゴは息をのんだ。写真の日付は二〇〇一年四月五日。アバッキオの命日であり、この晩、ボス・ディアボロ親衛隊のチョコラータによって、ローマは地獄絵図と化したのだ。村人の言う通り、彼の本当の家族は、チョコラータによる無差別攻撃によって死亡したのだろう。
    「君の家族は……やっぱり、ローマの事件で」
     ニコロは頷き、ゆっくり口を開いた。
    「朝、ホテルのベッドで目を覚ましたら、家族が『無くなっていた』んだ。粉々に砕けた陶器人形みたいになってた。母さんは、左手しか残ってなかった……。怖い夢だと思った。だから、この場から離れれば、いつか夢が終わると思って部屋を出たけど、夢なんかじゃあなかった。ホテルのあちこちに、崩れた『人だったモノ』が転がってた。エレベーターの中にもね」
    「そうか――」
     事件当時ニコロは四歳だった。チョコラータのカビは、現在の位置よりも少しでも低いところに移動すると増殖し、体をグズグズに崩壊させる。夜、幼かった彼は『ベッドで眠っていた』ので移動しようが無く、体が崩れることはなかったのだ。だが、起きていた人たちは――。
     街の状況を確認しようとしたり、あるいは、建物から脱出しようとしたりしてかえって被害に遭ったのだろう。
    「ロビーで膝を抱えていたら、鏡に不思議な気配を感じてね、鏡の中から、男の人が出てきたんだ。左手をなくした男の人がね」
    「ん?」
     フーゴが眉を寄せると、ニコロは悪戯っぽく笑った。
    「四歳の頭でも、鏡の中は現実とはあべこべってことは知ってたから、僕は彼を母さんだと思った。鏡の世界の母さんだってね。……だから僕は彼についていくことにしたんだよ」
    「ん……?」
     フーゴはふくろうのように首をかしげた。左手の有無だけで、すぐに母親に繋がるだろうか。いくら反転した鏡の世界から来たからって、いささか飛躍している。
     その疑問は後にして、とりあえず話を先に進めることにした。
    「イルーゾォさんは、すぐに君を受け入れたの?」
    「ううん」少年は肩をすくめた。「最初は、『勘弁してくれ』って言ってたよ。でも僕はどうしても彼といたかった。彼にくっついて離れなかった。そのうち、彼も小さい子連れの方が、都合がいいと考えたんだ。誰も他人の子供を連れて逃亡しているとは思わないでしょ? イルーゾォを知る人なら、なおさら。それに『小さい子供を連れた保護者』は大人の男一人でいるよりずっと警戒されにくいからね」
    「ああ、確かにそれはあるかもしれないけれど……」
     フーゴは釈然としない表情で呟いた。なるほど、手負いの男が一人でうろついているのと、幼い子供を連れているのとでは周囲に与える印象が大違いだ。「ローマから来た」と言えば、あの大規模な「テロ」の後である、周囲の者は手負いの理由を察してくれるだろう。包帯を巻いておけば、素人には本当はいつその傷を負ったのか、判断しようもない、というわけだ。
     しかし、本当にそれだけだろうか。
    「君は、スタンド使いではないのかい?」
    「違うよ。僕にはおじさ――イルーゾォの『鏡の力』を見ることはできなかった。本当にただの子供だったよ」
     フーゴは目を丸くした。てっきり、ニコロもスタンド使いで、イルーゾォと相性がいいため行動を共にしたものだと、そう思い込んでいたし、彼が「カムフラージュ」目的のみで子供を連れて行くとは思えなかった。だが、事実イルーゾォは、ただカムフラージュのためだけに子供を連れて行ったのだ。それに、ニコロがイルーゾォに「ついていくことにした」理由も気になる。スタンド使いへの仲間意識などではなかったのだ。左手の有無だけで母親と強固に結びつけるには、少し無理があるように思えた。
    「意外? ……だろうね。イルーゾォが、そんなことするわけないって、そう思うだろうね」
     疑問が顔いっぱいに浮かんだフーゴを見ながら、ニコロはもの悲しげな表情で言った。
    「でも、彼は僕の泊まっていた部屋から、両親の指環と、カメラを持ってきてくれたんだ。それからずっと北に移動して、この村にたどり着いた。大体の経緯はこんな感じ」
     ニコロはそう言うと、口をつぐんで手元のコーヒーカップに視線を落とした。もう湯気は立っていなかった。
    「ありがとう、話してくれて……ローマのことはつらい記憶だったろうに……」
     フーゴはチラリと家族写真を見た。その時、一瞬何か頭に過った気がしたが、フーゴは見逃してしまった。そして、そのことに関してあまり深く考えなかった。
    「……それにしても、驚きました。本当にイルーゾォさんが、そんなことしていただなんて。最初、神父様から話を聞いたときは別人か、と……」
     何気なく言葉を続けていたフーゴは、ニコロの様子を見るとそれ以上続けられなくなってしまった。いつのまにか少年は酷く不安げな、むしろ泣き出しそうな表情になっていた。
    「やっぱり、イルーゾォなわけがないんだ」
    「ニコロ君……?」
    「こんな鄙びた村の小さな小屋で、規則正しい生活をして、毎週きちんと教会に通うだなんてね。僕がいなかったら、彼はそこまでする必要もなかった。もっと自由に、好きに生きられたのに」何かに急きたてられるようにニコロは続ける。「あのクロスバイクだって。高校の入学祝いにって、体調崩してたくせに、あんなもの、買うお金があるんだったら……。僕がいなければ彼はもっと生きられたし彼は彼のままでいられたんだ。彼の人生を歪めて終わらせたのはやっぱり僕なんだ」
    「ニコロ君!」フーゴは叫び、ニコロの肩を掴んだ。「そんな風に言っちゃあいけない。イルーゾォさんは、確かに勝手気ままな、ノラ猫みたいな人だった。でも、ここで君と暮らすのも、入学祝いを贈ったのもその彼が選んだことなんだ。君のせいなんてことはないよ」
     イルーゾォが十年以上自分を偽り秘密を抱えてきたように、この少年もイルーゾォの秘密を抱えてきた。だが唯一の秘密の共有者であるイルーゾォが死に、彼は一人で抱えなくてはならなくなった。その秘密を共有しうる人物が現れて、抱えてきたものが溢れてしまったのだろう。ただでさえ難しい年頃である。
     ニコロの目から涙が溢れ出た。だが、不安や孤独がほどけて流れた涙ではない。灰色の目に、安堵の色はなかった。
    「彼が亡くなるとき」ニコロは声を詰まらせながら言った。「ずっと僕を見つめてたんだ。きっと僕を恨んで……あの目が忘れられないんだ」
     
     フーゴはしばらくニコロの傍に留まることにした。とてもじゃないが、この少年を一人にしておけない。平生ならこの少年をよく知る人々が寄り添う方がよいだろうが、今は彼の秘密を共有できる自分の方がよいと判断したのである。
     空のコーヒーカップを洗い始めたフーゴの背中を見ながら、ニコロが眉をひそめて口を開いた。
    「いいよそんなことしなくて。それより、パッショーネのお偉いさんが、帰らなくていいの?」
    「最初からしばらく滞在する予定でしたから。それに君を放っておけないよ」
    「別に死んだりしないよ」
     ばつの悪そうな表情でニコロは言った。目はもうすっかり乾いている。
    「だとしても。こういう時ってのは一人でいない方がいい」
    「叔父さんみたいなこと言うんだね」ニコロは目を丸くした。「それとも、ギャングっていうのはみんなそうなの?」
    「そんなことはないと思うけど……。ひょっとすると、イルーゾォさんも過去に言われたことがあるのかも。彼のリーダーとかに。僕たちの目から見ても、とても結束力の強いチームでしたから。イルーゾォさんから、仲間の話は聞いていませんか?」
     ニコロははっきりと首を振った。
    「仲間と裏切ったことは話してくれたけど、どんな仲間だったかまでは。この村に来て最初の頃は、僕と二人きりの時だけは出会った時の『イルーゾォ』だったんだけど、いつからか家の中でも『アンディおじさん』になっていっちゃったし」
    「そうだったのか……」
     フーゴは呟きながら、素直に感心した。なるほど、暗殺という仕事上、メンバーがどこかへ潜入したり演じたりということもあっただろうし、彼にも別人に「なりきる」経験くらいはあっただろう。それにしても、完全なプライベートな空間でも演じ続けるとは。そうでもしないと「素」のイルーゾォが出てしまうのを恐れてのことだろうか。ニコロが「歪ませた」と気にするのも理解できるほどの徹底ぶりである。
     だがそうなるとかえって「いつからか」というのがフーゴは気になってきた。最初こそ徹底してなりきった方が安全なように思えるのだ。ベテランの役者のように、瞬時に『イルーゾォ』と『アンドレア』を切り替えられるまでになったならともかく、正反対の人物を演じ始めた時期に油断しているとボロが出かねない。イルーゾォの能力を見るに、彼は安全を求めるタイプだ。そしてその安全のために入念に準備をする。自分が絶対優位と確信できる状況ならばともかく、村人全員顔と名前を知っているような小さな村に新顔として入ってきたと言うときに、自分の尻尾を出すような危険を冒すだろうか?
     ――もしかして予定が変わったのだろうか。
     当初は最低限、一時的にでも素の自分をごまかせてればいいと思っていたのを、何かのきっかけで徹底して『アンドレア』になりきる方向に方針を変えたのだとしたら。それならば理解できる。
    「何か気になった?」
     ニコロは黙り込んだフーゴの顔を覗き込んだ。
    「イルーゾォさんが家の中でも『アンドレア』になったのって、いつ頃から?」
    「いつ頃から……? わからないや。僕にとっては大昔のことだし……」
    「それもそうだね。変なこと聞いてごめん」
     ほんの四歳か五歳くらいのことを細かに覚えていられる者はそうそういない。ニコロの答えはもっともであると気づいてフーゴは苦笑した。こういう時、アバッキオがいてくれればとても助かるのだが、そんなことを考えていても仕方が無い。
    「あっ」
     不意にニコロが声を上げた。
    「何か思い出したことでも?」
    「時期はよく覚えていない。けど、一緒にミラノに出て、そこでジェラートを買ってくれたんだ。大きい、四種類のやつ。フレーバー、全部選んでいいよって……でも僕一人じゃ食べきれないから、二人で食べたんだ。すごく嬉しかったから、そのことは覚えてる」
     ニコロは少し照れた様子で、だが蝋燭の温かな灯火を見つめるような顔つきで言った。幼いニコロにとってそれは嬉しく、印象的な出来事だったのだろう。直感だが、これは『アンドレア』にとって鍵になる出来事だ。
    「これから時間ある? ミラノに行ってみよう」
    「まあ、あるけど。ミラノに?」
    「ジェラート食べにさ」
     
     
     村からミラノまでは車で二時間弱。ついた頃には日が傾き始めていた。パスクアの休暇とあって、市街地は観光客で賑わっている。ニコロの記憶を頼りに、二人は市内のジェラテリアに向かった。
     ニコロが通っている全寮制の高校はミラノにあるらしいが、そのジェラテリアに行ったのはイルーゾォと一緒に行った一度きり。高校は中心部をぐるりと取り囲む環状道路の外側にあり、加えて件のジェラテリアは大聖堂(ドゥオモ)を挟んで反対の位置にあるため、ジェラートを食べにわざわざそこまで行く機会もなかったのである。
    「ここだ……」
     ニコロは感慨深げに呟く。ジェラテリアは十二年前と変わらず営業していた。立派な店構えで、大きな通りと広場に面し、中々の好立地である。ベンチでは地元住民らしき老夫婦が仲良くジェラートを味わっていた。周辺の様子はほとんど変わっていないらしく、ニコロは目を見開いて記憶の中の風景と照合させるようにゆっくりと頭を巡らせる。
    「じゃ、早速食べてみようか」フーゴが言った。「あの時と同じ、四種類ね」
     店内に足を踏み入れると、中は明るく、清潔感があり、何より新しかった。照明や什器の状態を見るに、近年改装したのだろう。ニコロは不安げな表情で店内を見回して、ショーケースを覗き込むと、しかしふっと笑みをこぼした。
    「そうだ、あの時、僕を抱っこして選ばせてくれたんだ」
    「彼がねえ……」
     フーゴはあの『イルーゾォ』が幼子を抱っこしてショーケースの中身を見せてやる光景を想像しようとした。一体どういう顔で抱っこしていたのだろうか。考えてみても出来の悪いパッチワークのような光景しか思い浮かばず、脳が困惑し始めていた。
    「本当だよ。優しかったんだから」
     そんなフーゴの様子を見て取ったのか、ニコロは苦笑して言った。
     二人はジェラートを受け取ると、近くの広場のベンチに腰掛けた。街路樹のハナズオウの冬芽がほころび、広場のボダイジュの枝からは新芽が出ている。
    「あ、そういえば……花が咲いてた」
     チョコレート味のジェラートを口に運びながら、ニコロが呟いた。
    「あの桃色の花?」
    「ううん。その木。細かくて黄色い花だった」
     ニコロは近くに生えているボダイジュを指さした。
    「ということは、初夏の頃だね」
     フーゴはイチゴ味のジェラートを口に運ぶ。甘みと酸味のバランスがちょうど良かった。
     それからしばらく二人は黙々とジェラートを食べていた。食べ盛りの少年にとって今や四種盛りなど恐るるに足らず、あっという間にペロリと平らげてしまった。
    「色々思い出してきた」ニコロはスプーンを咥えたまま言った。「おじさん、あの日の前、一日家を空けてて……その時僕は近所に預けられていたんだ。その埋め合わせでミラノに連れてきてくれたんだ。そうだ、プラネタリウムと水族館にも行って……どうして忘れていたんだろう? タコのぬいぐるみも買ってくれたのに」
    「その時君はうんと小さかったから……。それに記憶から完全に消えてたわけじゃあない。思い出せたじゃない」
    「うん……」
     ニコロははにかみながら頷いた。フーゴはまだ花が眠っているボダイジュを見た。十二年前の初夏。イルーゾォは一日家を空けて何をしていたのだろうか。その日彼が何をしていたのかを探るのは難しい。だが、彼の中で何かがあったのは確かである。
     
     
    「ああ、あの日のことなら覚えてるわ!」
    「本当ですか!」
     フーゴとニコロは同時に声を上げた。
     ミラノでジェラートを食べた翌日、二人は十二年前に一日ニコロを預かった近所のおばさんを訪ねていた。おばさんは、ミラノの有名菓子店の箱を手に上機嫌で続けた。
    「確か、ローマに残してきた家を片付けるとかなんとか言ってたわねえ。でもテロがあったでしょう、その火災で焼けちゃって何も残ってなかったって。落ち込んだような、でもちょっとほっとしているような、難しい顔していたからなんだか印象的でねえ」
     フーゴとニコロは、今度は同時に視線を交わした。おばさんは二人の意味深な視線の交差には気づいていないようである。
    「あっそうだわ! 今年はスカルチェッラをたくさん作ってみたのよ。あとで持っていくから、楽しみに待っていてちょうだいね! それとパスクエッタのバーベキューにもおいでなさいよ! 近所でぱーっとやるんだから!」
    「あ、ありがとうございます」
     ニコロはぎこちなく笑った。
    「……おじさんは、あの日ローマに?」
     家に戻って玄関扉を閉めるやいなや、ニコロは疑問の声を上げた。フーゴはゆっくりと小さく首を振る。
    「どうかな。ローマというのは方便だと思う。恐らく、実際にはネアポリスに行ったんじゃあないかな」
    「ネアポリスに? でも、それって危なくない?」
    「彼の場合、鏡の中を通れば問題ないよ。仮に通らなくても、彼の方から仕掛けてこない限り彼が危険な目に遭うことはなかったけどね」
     フーゴは写真立てを見た。写真にはこの村に来て間もない頃のイルーゾォが写っている。髪型と服装が違うだけでも、印象はかなり変わるものである。その上、纏う雰囲気も柔らかくなっている。直接相対した者ならともかく、写真や伝聞でしか知らない者は、もしイルーゾォとすれ違っても彼だと気づかないだろう。
     消息不明となっていたイルーゾォだったが、十二年前当時はパッショーネの再編やら敵対した勢力の鎮圧やらで忙しいのもあって、イルーゾォが手配されることはなかった。ジョルノが「人相と能力が割れている以上、用心深い彼がすぐに仕掛けてくることはないだろう」と判断したのもある。それにチーム以外の者と新たに徒党を組むタイプにも見えなかった。もとより一匹狼タイプの彼が暗殺チームの一員として組織を相手取って戦ったのは、ひとえに仲間とリーダー・リゾットへの信頼関係あってこそであろう。
     つまるところ、慎重かつ一匹狼タイプの彼が、たった一人で組織を乗っ取ろうとする可能性はかなり低い。ジョルノもフーゴもそう考えたのである。
    「それにしても、ネアポリスに一体何をしに……?」ニコロは腕を組みながらうなった。「十年以上も前だと監視カメラの映像も残ってないし。さすがにわからないよね」
    「憶測に過ぎないけれど、『家を片付ける』って言っていたのとそう離れてないと思う。住んでいた家に行ったか、仲間のアジトに行ったか、あるいは、仲間の墓に……? 映像は残って無くとも、何かしら痕跡はあるかもしれない。それはネアポリスで探してみるよ」
    「仲間の墓って言った? 建ててもらえてたの?」ニコロは意外そうにきいた。
    「ああ。ジョルノ……今のボスが、彼の仲間を弔ってね。彼らのことを憎んで戦ったわけじゃあないし、彼らもまた社会や組織の歪みの被害者とも言える。少し運命の歯車が違っていたら、一緒に手を取り合っていたかも……そういう関係だったから」
    「あ……じゃあ、きっと行ったよ、お墓」
    「何か心当たりが?」
    「彼と初めて会ったとき、僕は無邪気に『家族やお友達は?』ときいたんだ。ローマより遠く、北イタリアに行くと言っていたからね。僕の問いに彼は怒るでも無く、ただ『みんな殺された。墓も無い』と言ったんだ。『海がみんなの墓標だ』とも。組織の裏切り者が、ちゃんとお墓を建ててもらえるだなんて、これっぽっちも考えていなかったんだ。だから、お墓を建ててもらえているという事実は、きっと彼の心を動かしたはずだよ」
     
     
     翌日はパスクアであった。フーゴとニコロはゆで卵を入れた籠を持ってミサに出かけ、二人はイルーゾォが生前よく座っていた最後列の席に静かに腰掛けた。お世辞にも敬虔な信徒とは言えないフーゴは、物珍しそうに聖堂内部を見回した。十四世紀からあるという聖堂は古く、壁や天井はくすみ、色あせ、壁画には剥離している部分もある。聖堂と言うよりは洞窟のような雰囲気すらあった。簡素な格子窓からは春の柔らかい光が差し込み、『洞窟』内部を薄明るく照らしている。だが、荘厳で絢爛な装飾の施された大聖堂より不思議と心の落ち着く空間でもあった。
     イルーゾォは毎週、どんな思いでミサに参加していたのだろうか。フーゴは考えた。
     ただ『アンドレア』という模範的人物を作り上げるためだけに通っていたのだろうか。それとも、死んでいった仲間に対し、何か思うところあって通っていたのだろうか。
     フーゴの知るところのイルーゾォは、いかにも教会や信心などといったものとは無縁な人物だった。だが人は変わるもので、放蕩の限りを尽くしていた人物が、何かのきっかけで信仰心に目覚める話はいくらでもある。かつて「そう」であったからといって、ずっとそうであるとは限らないし、そうでなくてはならないということもないのだから。
     ミサは粛々と進んでいく。ニコロは神妙な表情で祭壇の方を見つめていた。その横顔にイルーゾォの面影が重なった。
     
     ミサが終わると、パスクアのご馳走が待つ我が家に戻る人々と道を異にして、二人は祝福を受けた卵と共にイルーゾォの墓を訪れた。墓地には十九世紀にアメリカを旅した青年が持ち帰ったとされる大きな柳の木が佇み、地面に届こうかという長くしなやかな枝を優雅に揺らして、悼惜と共に訪れる者を慰めている。
     花を手向け、祈りを捧げるとニコロは立ち上がってフーゴを見た。籠の中で卵がコロリと転がった。
    「色々とありがとう、フーゴさん。僕はもう大丈夫だよ。叔父さんは、もう死んじゃったんだ。寂しいけれど……。叔父さんの心の真実は土の下。明らかにすることは出来ないんだ。僕は受け入れてる」
     ニコロは穏やかにほほ笑みながらもどこか翳のある表情で言った。彼の心にはいまだに小さな棘が刺さっている。少年の顔は、どこまでも年相応の子供の顔だった。
    「そうだね」フーゴは白い墓石を見たまま口を開いた。「彼の口から、彼の本当の心の内を明かして貰うことはもうできない。でも、彼の生前の足跡から彼の真実に近づくことは出来る。僕はどうしても、イルーゾォさんが君を恨んだとは思えないんだ。彼はプライドが高い。だからこそ、君のせいで『生き方を変えさせられた』と考えるとは思えない。そんな考え方は、彼自身が我慢できないと思う。彼の死をもって全ては闇に葬られたと結論づけるのは簡単だけど、それは、彼のことを彼が望まない形に切り取ることになるかもしれない。自分の中に残る彼、誰かの中に残る彼、彼が残した足跡から、僕は彼の真実を彫り出したいんだ」
    「どうしてそこまで……?」
     ニコロは心底不思議そうな顔でフーゴにきいた。灰色の目には、幼い子供が母親に何でも聞こうとする時のような、素朴な疑問の光でいっぱいだった。
    「彼のことが結構好きだったみたい」フーゴはおどけたように肩をすくめた。「僕は街で彼に会うのが好きだった。楽しみだった。僕が思っている以上に。それにね、彼は『イルーゾォ』という名を明かさないまま……『アンドレア』のまま、パッショーネのことを神父様に話した。組織じゃ僕しか知らない名前だ。きっとそれには何か理由がある。僕はそれを知りたい。そうしようと思った彼のことを知りたい。それだけだよ」
     ニコロは物憂げな目で籠の中の卵を手に取り、内からは決して破られることのない殻の表面を指で撫でた。
    「僕も本当の家族だと思ってた。いや、僕にとっては本当の家族だった。だからこそ怖いんだよ。彼にとって僕はずっと『勘弁してくれ』って存在だったかもと思うと。そうに違いないと最初から決めつけた方がいくらか気が楽なんだ」ニコロは深いため息をついた。「でも、そうだね。そんな臆病で決めつけたら、彼はへそを曲げるよね。フーゴさん、わかったら教えてくれる? 僕も引き続き協力する。あなたの導き出した真実が、たとえ僕にとって残酷なものでも、僕が考えてた結論と同じだとしても、受け止められる僕でいたい。悲観して決めつけるんじゃあなくて。じゃないと……僕をここまで育てた彼の覚悟に報いることができないから」
    「わかった。イルーゾォさんと君の覚悟に恥じないように、僕も全力を尽くすよ」
     フーゴはニコロの手をかたく握りしめた。互いに頷き合う二人の間に、春のそよ風が渡った。
     

    「とまあ、こんな感じです」
     二日後、ネアポリスに戻ったフーゴはジョルノとミスタに村でのことを話した。
    「お疲れ様です、フーゴ。しかし興味深い。彼にどんな心境の変化があったのか……。それに、その少年のことも」
    「ジョルノの読みが外れるとはなァー」
     ミスタは驚きを隠せない様子でぼやいた。あのイルーゾォが、スタンド使いでもないただの幼児を、カムフラージュ目的で同行させ、その後も至極真っ当に面倒を見ていたのがよほど意外だったのである。
    「超能力か何かで全てを見通してるわけじゃあないですよ。様々な状況や条件から導き出しているだけですから」
    「ま、逆に言えば、重要な条件や状況がどこかにまだ隠されているってことか」ミスタは一人納得したように頷く。「そんで、他になんかなかったのかよ? フーゴ」
    「なんかって何?」ミスタの雑な物言いにフーゴは眉をひそめた。「ああ、そういえば、カポナータを作っていました。カボチャとかアーモンドとかクルミも入ってて、聞けばイルーゾォさんに教わったそうです。他にもクスクスとかアグラッサートとか、一般的な料理の他にシチリアの家庭料理をいくつか教わったとか」
    「シチリアですか。確か暗殺チームのリーダー・リゾットはシチリア出身という話でしたね」
    「二人は同郷だったのかなァ?」ミスタは口をはさむ。
    「いえ、彼の話す言葉にはその気配はありませんでした」フーゴは首を振る。「リゾットさんに教わったのでしょう。彼らのアジトには、寝食を共にしていた形跡がありました。彼らへの報酬は十分な額とは言えず、節約のため自炊してたようですからね」
    「あいつら一人一人の能力が強力だし、あまり力を付けさせたくないディアボロの気持ちはわからねーでもねえけど、それが巡り巡って自分を破滅させちまうんだから、皮肉なもんだよなあ」
     ミスタが大仰なため息をつくと、ピストルズたちもうんうんと頷いた。ジョルノはピストルズたちの様子をにこやかに眺めた後、ゆっくりとフーゴの方へ顔を向けた。
    「ともかく、君のことですから、次に向かう場所は決まっているのでしょう?」
    「ええ」
     フーゴはにこりとほほ笑んだ。
    ◆ 
     ドアを閉める前に、ニコロは今一度家の中を見た。ひっそりとして薄暗い、空っぽの家を。
    「……行ってきます」
     反抗期の子供のように、ぽつりと呟く。声は虚しく溶けていくだけで、返事などあるはずもない。軋むドアを閉め、鍵を差し込む。カチリ、と冷たくもの寂しい音が耳にしみる。
     いつもなら『叔父』がいて、自分で施錠する必要もなかったものを。
     ニコロは小さくため息をつき、クロスバイクに跨がると、どこか恨めしげな目で家を振り返った。
    「あんたがいなきゃ……何も意味ないよ」


     パッショーネの組織員には、身寄りの無い者も多い。家族親族がいたとしても、死亡したときに遺体を引き取ってもらえない者もいる。ネアポリスにはそうした者たちのための墓地があった。暗殺チームのメンバーは一人を除き皆そこで眠っている。
     糸杉の並ぶ道をフーゴは静かに歩く。深い緑色の糸杉は、葬列を見守る者がそのまま木に変えられたように立ちすくんでいた。道の先には小さな事務所があり、門の施錠や清掃をする管理人が常駐している。日頃訪れる者はほとんどないからとすっかり気を抜いている管理人が、人影を認めてさっと姿勢を正した様子が見えた。そしてその人影というのがボス側近だとわかったのか、白髪頭の管理人が慌てて飛び出してきた。
    「おお、これはフーゴさん! 何かご用でしょうか」
    「突然すみません。調べたいことがありまして。十二年前の日誌など残っていませんか? 初夏の頃の」
    「ええ。日誌というよりかは、入場者記録みたいなものですが……」
     管理人はそう言うと、やたらとキビキビした動きでスチールラックを漁り、埃っぽいファイルを引っ張り出してカウンターに広げた。
    「十二年前の六月から七月だとこの辺ですかねえ」
    「ありがとうございます」
     フーゴは身を乗り出すようにして、食い入るように入場者記録を見た。
     入場者記録には、その日の開門・閉門時刻や入場者名と入場時刻などが記録されていた。しかし、もとより身寄りの無い者ばかりが眠る墓地である。入場者がその日一人でもいる方が珍しい。イルーゾォが『アンドレア』かそのほかの名前で訪れていないかと思ったが、稀にいる入場者名にそれらしいものはない。そもそも用心深い彼の性格を考慮すれば、鏡の中からこっそり行ったと考える方が自然である。ダメで元々だ。こういう時こそ、アバッキオがいてくれたら――と詮無きことを思ったその時だった。ふとフーゴの目がある頁にとまった。入場者数ゼロの日の記録である。フーゴはページ内の記載を指さし「これは?」ときいた。管理人は両眉を上げ、笑顔になった。その日のことはどうやら今でも覚えているらしい。
    「その日は誰も来てないと思ったんですがね。閉門少し前に見回ったら妙なものを見つけたものですから、一応記録しておいたんですよ」
     記録によれば、Bブロック三番の小聖堂(カペラ)内にワインボトルと割れたグラスが残されていたという。その小聖堂こそ、暗殺チームの骨壺が収められている場所である。間違いない、イルーゾォだ。
    「その妙なものって……どんな様子でした?」フーゴは声に興奮を滲ませながらきいた。
    「祭壇にワインボトルが置かれていて、床に割れたグラスの破片が散らばってたんですよ。どうも置いたやつはそのグラスで一杯飲んで、グラスを床に落として割ったようなんです。ワインは一杯分減ってましたし、床には破片に混じって少量ですがワインも飛び散ってましたんでね。閉門間際に掃除が面倒だったんで、よ~く覚えてますよ」
     管理人は口をとがらせながら恨みがましい目で言った。フーゴは密談でもするかのようにそっと管理人に顔を寄せ、小声で尋ねる。
    「そのワインボトル、今もあったりは……」
    「う~ん、十二年も前ですからねえ」
    「ですよね……」
     さすがにそんなうまい話はないか――。フーゴが苦笑すると、管理人はにんまりと悪戯っぽい笑顔を作った。
    「なーんちゃって! あるんですよ、それが!」
    「はあ?」
     
     小聖堂には、確かに古いワインボトルが置かれていた。風雨や直射日光に曝されない小聖堂内にあったので、十二年前から置いてある割に状態はいい。ラベルには見覚えがあった。イルーゾォが働いていたワイナリーに飾られていたものと同じだ。
     イルーゾォがどこで仲間の墓のことを知ったのかはわからない。だが、彼は確実にここに来ていた。そして、ワインを開け、一杯だけ飲み――乾く前にグラスを割ったのだ。そうでなければ、床は汚れない。
     ――それにしてもなぜグラスを割ったのか?
     地域によっては、結婚式で敢えてグラスや花瓶を割る風習もある。その意味は様々なものがあるが、恐らくそのどれでもないだろう。重要なのは、割るという行為によって『もう乾杯が出来ない』状態にするということである。そこに意味があるはずだ。想いが込められているはずだ。
     フーゴは目を閉じ、祭壇に手を置いて十二年前のイルーゾォを思い浮かべる。彼との邂逅で交わした言葉の数々を、彼の表情を、仕草を思い出す。正体を明かさず、かといって、繕っているわけでもない自然体な彼の姿を。
    「イルーゾォさん……」
     記憶の中にいるイルーゾォは、何を語りかけてくれるでも無く、ただ気まぐれに引き出した本を手に、あの勝ち気な笑みを浮かべていた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator