5 鏡の城 オランチアが戻ってくると、葡萄畑の家は大騒ぎになりました。
ホルマティウスとの戦いで通りじゅうのオートモービルやモトを爆破してしまったので、もう目立つ目立たないとかの次元じゃありません。反逆者たちに派手に宣戦布告したも一緒です。
この葡萄畑は危険だから移動しよう、いや移動するといってもどこを移動するのか、と意見を交わし合いますが、一向に答えは出ません。ブルーノたちが固まって動けば、どうしたって目立ってしまいますし、第一、反逆者たちの正体も人数もわかっていません。ホルマティウスを失った以上、もう彼らもなりふり構っていられないでしょう。
いきなり難しい状況になってしまって、オランチアは気まずそうに隅っこで頭を抱えていました。
「僕は、オランチアはすべてにおいて立派な仕事をしたと思いますよ」
ジョジョはそんなオランチアを励ますように言いました。
「それにこれだけの騒ぎになれば、王様も『敵に知られた』ことを察するでしょう。安全な移動方法を指示してくれるはずです」
「お前になにがわかるっていうんだ、新入り」アバティーノはジョジョに突っかかりました。彼はまだジョジョが気に食わないのです。
その時、ミシェレが隣の部屋から飛び出して叫びました。
「おい、無線に連絡がきたぞ!」
みんなは隣の部屋にある無線電信機の前に集まりました。どうやら、王様からの連絡のようです。王様からの連絡はおおむねこういったものでした。
ポンペアノルムの古城にゆけ。
『孔雀の間』に鍵が置いてある。
鍵を見つけ、手に入れろ。
その鍵は、娘を連れて安全に移動できる乗り物の鍵である。
次の行き先は、鍵を手に入れればわかる。
「乗り物って何のことだ?」アバティーノはききました。
「わからん。この電信機はこちらからは連絡ができないんだ」ブルーノは首を振りました。「ともかく、ポンペアノルムの古城に行くしかないな」
王様から指示されたポンペアノルムの古城へは、ジョジョとフラゴラ、そしてアバティーノの三人で行くことになり、他の三人は引き続き葡萄畑でトリシアを守ることになりました。
ポンペアノルムの古城は、葡萄畑からオートモービルで二、三十分のところにある古いお城です。大昔この地を支配していた王族の城で、屋根には一面に銀の瓦が葺かれ、空の色をよく映しましたので、『鏡の城』とも呼ばれ大繁栄しておりましたが、一夜にして廃墟になりました。神の怒りに触れただとか、悪魔に呪われただとか言われていますが、詳しいことはわかっていません。銀の瓦が葺かれていた屋根は無残に崩れ落ち、目を見張るような宝物の数々も燃え尽きてしまいました。今では焼け残った壁や床にかつての姿を偲ぶしかありません。
しかし、その古城には『孔雀の間』という部屋があり、今でも素晴らしい壁面モザイク画を見ることができました。王様は、その『孔雀の間』に何かの『鍵』を隠したというのです。
古城の中はひっそりとしていて、三人の他には誰も居ませんでした。上空を飛び回るカラスの鳴き声が、いちめんに響き渡るばかりです。三人は、まっすぐに『孔雀の間』に向かいました。とにもかくにも、鍵を取らないことには動けません。
『孔雀の間』に近い広間に来たところ、フラゴラはふと、前方の壁に鏡がかかっていることに気がつきました。鏡には首輪のついた一匹の黒猫が映っています。柱に隠れて、三人の様子を伺っているようです。黒くて長い毛並みは、ツヤツヤと輝いていて、首回りには紫色のリボンをいくつもつけています。毛に埋もれかけてはいますが、首輪には赤く光る宝石がついていました。ただの黒猫ではなさそうです。きっとホルマティウスの仲間でしょう。フラゴラは声を低くして、鏡を見たまま二人に言いました。
「二人とも、後ろの柱の影に黒猫がいます。宝石のついた首輪をしているので、オランチアと戦ったイタチの仲間とみていいでしょう。やっぱり移動すると見つかりやすくなるんだ」
「一匹ですか?」ジョジョがききました。
「今のところはね。あまりキョロキョロしないで。警戒して逃げられるかもしれないから」
「今は鍵を手に入れるのが最優先だからな。その目的は勘づかれるなよ」アバティーノも声を低くして言います。
「柱って、どの柱です?」ジョジョがまたききました。
「柱は一本しかないだろ。角度で見えないの?」フラゴラはいらいらした様子で言いました。鏡の中の黒猫は依然、柱の影からこちらの様子をうかがっています。
「だが、フラゴラ。俺にもその猫の姿が見えないんだよ」と、アバティーノが言いました。
すると、柱の影から黒猫が出てきて、優雅な足取りで近づいてくるのが見えました。
「出てきたぞ! 向こうもコソコソするのはやめにしたようだ! ほら、後ろだよ!」
フラゴラは、勢いよく振り返り、黒猫のいる柱を指さしました。
ですが、黒猫の姿はありません。
「えっ?」
口をぽかんと開けるフラゴラを、ジョジョとアバティーノが不思議そうに見ています。フラゴラが何のことをいっているのか、全然わからないようです。でも、フラゴラは確かに黒猫の姿を見たのです。妖しく光る赤い宝石を見ました。
「本当にいたんだ! 黒猫が鏡に映ってるのが見えたんだよ!」
フラゴラはまた鏡を見ました。
鏡には確かに黒猫の姿があります。さっきよりも近くまで来ていました。
「ほら! すぐそこに!」
フラゴラはまた振り返ります。でも、黒猫の姿はありません。
フラゴラはもう一度鏡を見ました。やはりこちらには黒猫の姿があります。
「一体何なんだ!? いや、そもそもこの古城に真新しい鏡があるのがおかしかったんだ!」
ジョジョもアバティーノも、やっぱりフラゴラの言うことがピンとこないようです。すると、ついに三人の真後ろまで近づいて来た黒猫が、精霊を出しました。黒い布に金の鋲を打った服を纏う精霊です。
「ついに精霊を出したぞ! 誰が戦う!?」
あわててフラゴラが叫ぶと、アバティーノがこう言いました。
「待ってくれ、フラゴラ。さっきから何を言っているのか、全然分からないんだ」
「鏡があるのはわかりましたが、この鏡がどうかしたんですか?」
フラゴラは愕然としました。二人には最初からこの鏡に映る黒猫の姿が見えていないのです。つまり、敵の姿を二人はまったく認識できていないのです。そんな二人を、これ以上鏡の前に立たせるのは危険だとフラゴラは判断しました。
「鏡から離れるんだ、二人とも!」
フラゴラは咄嗟に二人を突き飛ばします。その瞬間、身体の表面を何か薄い空気の膜のようなものが滑っていく感触がしたかと思えば、アバティーノとジョジョの姿が、月が欠けるように消えて行くではありませんか! フラゴラは必死に手を伸ばして二人をつかもうとしましたが、虚しく空を切り、フラゴラはべちゃりとすっころんでしまいました。
フラゴラは顔を上げ、周囲を見回します。アバティーノの姿もジョジョの姿も、どこにもありません。
「アバティーノ! ジョジョ! いるなら返事をしてくれ!」
フラゴラは声の限り叫びます。しかし、声は廃墟に反響するばかりでした。フラゴラは鏡を見ました。鏡の中の猫も消えています。そのうちに、フラゴラは違和感を覚え始めました。周囲の風景が、先ほどと妙に変わっている気がするのです。
「ここ……にゃ!」
女の声が聞こえたのと同時に、フラゴラの身体が吹き飛ばされました。黒猫の精霊が、フラゴラの頬を思いっきり殴りつけたのです。フラゴラの身体は壁に当たって跳ね返り、口から血が溢れ出ました。視界がぐわんぐわんと揺れる中でどうにか頭を持ち上げると、黒猫が赤い目でじっとこちらを見ていました。黒猫は女王様のように顎を上げてこう言いました。
「ブルーノの部下のフラゴラだな。お前のことは調べ済みだ。ナープラの裕福な家の生まれで、幼少期から天才だった。十三歳で大学入学を許可されたが、そこで教授をボコボコにして退学。家からも追い出され、野垂れ死にしそうなところをかろうじてブルーノに拾われたそうだにゃ。他の二人は元憲兵のアバティーノと……ジョジョって奴は誰にゃ? 新入りか?」
首をかしげる黒猫に、フラゴラは怖い顔で言いました。
「二人をどこへやったんだ! お前、二人に何をしたんだ!」
しかし、黒猫は優雅に毛繕いをするだけで答えようとしません。すると、フラゴラは壁のレリーフに気がつきました。そのレリーフに刻まれた文字が、左右反転しています。来ている服の合わせも逆になっています。ここがどこなのか、フラゴラは即座に理解しました。
「ま、まさかここは、『鏡の中』!? 消えたのは二人じゃなくて、僕だったのか!」
「さすが、理解の早い奴だ。そうだよ。ここは鏡の中。生きているものは私とお前だけ。お前の声が、二人に届くことはない。取り調べにはうってつけにゃ。そういうわけで、王の娘をどこに隠しているかを聞きたいところだが、なんでわざわざこんな廃墟の城に来たのかも聞かなくちゃあな。この城になにかあるのか? 例えば、この先にある『孔雀の間』とかは有名だが……何かを受け渡す目印には最適だ。そこに王の娘を守るために役立つ何かがあるのか?」
フラゴラはごくりとつばを飲み込みました。猫のくせに、異様に頭が冴えています。黒猫は、フラゴラの態度を見て自分の推理が当たっていることを確信しました。
「お前達は何をとりに来たのか? 教えてもらおう!」
「断る!」フラゴラはきっぱりと言いました。
「じゃあ死ねッ」黒猫の精霊が、フラゴラに向かってきます。「最後の一人に教えてもらえばそれでいいんだからな!」
「いや、死ぬのは僕の能力を見るお前の方だ! 来い、パープル・スモーク!」
フラゴラはそう叫ぶと、自身の精霊を呼び出そうとしました。
――出ないのです。いくら呼んでも、出てきてくれません。いいえ、フラゴラ自身は精霊が出てきたのを感じているのです。でも近くに現れてくれないのです。そんなフラゴラに、黒猫は半笑いで言いました。
「ふうん、お前の精霊はパープル・スモークっていうんだ。せっかくだから冥土の土産に教えてやるにゃ。知っての通り、ここは私とこのミラー・マンが支配する『鏡の中』だ。何を入れて何を出すかは私たちが自由に決められる。お前が家主だとして、自分の家にナイフを持っている奴をそのまま入れるかにゃ? 入れないよなあ? お前の精霊も、外に置いてあるのさ!」
ミラー・マンが飛びかかり、フラゴラの身体を何発も拳で殴ります。フラゴラは全身に痛みを感じながら、どうにかして反撃することを考えていました。
さて、今頃鏡の外に残されたジョジョとアバティーノがどうしているのか、皆さんも心配になってきたでしょうね。二人は突然消えたフラゴラの姿を捜していました。まあ、どんなに探しても無駄なことは、皆さんもご存知の通りです。しかし闇雲に探しているわけではありません。ジョジョはフラゴラがしきりに『鏡』について何か言っていたことを思いだして、鏡の周りを探していました。鏡に触ってみたり、鏡の裏側を覗いてみたりしましたが、これといっておかしなところはありません。何の変哲も無いただの鏡です。でも、彼らにとってはそれがわかっただけでも収穫と言えるかも知れません。
ジョジョはふと、背後に異様な気配を感じました。見知らぬ何者かが蹲っています。古代の騎士のような兜をかぶっていて、怒ったようなうなり声を上げています。
「こ、こいつは!?」
身構えるジョジョの腕を、アバティーノが掴みました。
「ジョジョ、そいつは敵じゃあない! フラゴラの精霊だ! こいつがいるってことは、フラゴラはどこかで戦おうとしているんだ。だがそいつは放っておけ! もっと離れるんだ!」
仲間の精霊だというのに、アバティーノは何故か近寄りたくないような態度で言うので、ジョジョは少しむっとして、
「何故ですか? フラゴラは『鏡』について僕たちに忠告をしました。きっと彼には何かが見えていたんです! その謎を解かないと、消えた彼を助けられません!」といいました。
すると、アバティーノは目を剥きます。
「黙れ! アイツの能力は俺たちにも危険なんだ! ああ、動き出したぞ! いいから離れるんだ!」
パープル・スモークがゆっくりと立ち上がります。そして、何もないところを殴り始めました。アバティーノは顔を真っ青にして、ジョジョを引っ張るようにして後ろに下がります。
「一体、何だって言うんです? フラゴラを見捨てるんですか?」
「口答えするな! いいか、お前は何も知らないだろうが、仲間だろうが誰だろうがアイツに近づいてはいけないんだ! あいつの拳には……ああ――ついに殴ったぞ!」
パープル・スモークが傍の壁を殴ると、壁は砂糖の塊みたいに簡単に壊れ、破片があたりに飛び散りました。確かにものすごいパワーです。ですが、真の恐ろしさはここからでした。パープル・スモークの身体の周りに、うっすらと紫色のもやのようなものがかかりました。そして、パープル・スモークのすぐ上を飛んでいたカラスが、木から落ちるリンゴのように、真下に落ちてきたのです。
フラゴラが鏡の外にいるパープル・スモークに壁を破壊させると、黒猫は感心したように言いました。
「なるほど。鏡の外で精霊を使ったな。確かに、鏡の外で壁を壊せば、鏡の中でも壁は壊れるからな。だが無駄なあがきにゃ!」
黒猫はミラー・マンに破片を全て弾かせて、その中のいくつかをフラゴラの方に飛ばしました。硬い石の塊が身体を打ち、フラゴラは頭を守るので精一杯でした。
「お前の精霊がどんな能力を使っても、直接この私に攻撃することは決してない! とどめだ!」
その時です。黒猫の後ろにカラスが落ちてきて、黒猫はカラスに気を取られました。生きているものは黒猫が許可しないと鏡の中には入れないので、このカラスは『死んでいる』ことになります。それは黒猫自身がよくわかっているのですが、黒猫としては『何故死んでいるのか?』『何故このタイミングで、この場所で死んでいるのか?』が気になるところでありました。
黒猫がカラスの死体の前で首をかしげていると、また一羽別のカラスが落ちてきました。ケーキを高い場所から落としたように、身体がグズグズに崩れています。
「な、なんにゃ!? この死体は!」
黒猫は尻尾を膨らませてのけぞります。しかし、目はカラスの死体を注意深く観察していました。カラスの死体には襲われたような怪我ははありません。しかし皮膚の表面で、たくさんの水ぶくれのようなものが、水が沸騰した時の水面みたいに膨らんでは弾けていました。よくわからない人は、ホットケーキを焼いたときのことを思い出してください。フライパンに生地を流し込んでしばらくすると、表面にプツプツと泡が出てくるのを一度くらいはみたことがあるでしょう。それを百倍にしたような現象が、カラスの皮膚に起こっているのです。さて、イメージ出来たところでホットケーキのたとえはきれいに忘れてください。次にホットケーキを焼くときこのカラスのことを思い出したら、悲しくなってしまいますからね。
とにかく、黒猫は、二羽のカラスは『身体の中から崩れている』のだとわかりました。
「このカラス達は、病気のようなもので死んだのか? 『細菌』とか『ウイルス』に感染して、それで同時に、同じ症状で死んだのか?」
黒猫は、床に見覚えのない、丸いカプセルの破片のようなものが落ちているのを見つけました。壁とはまったく違う不思議な素材でできていて、状態からして新しいもののようです。
「お前の精霊がやったのか? このカプセルの中にあったもののせいで、カラスが死んだのか?」
黒猫がフラゴラの方を振ります。黒猫の推理は実に冴えきっていました。パープル・スモークの拳には、三つずつカプセルがついています。そのカプセルが破れると、中から殺人ウイルスが噴き出るのです。そのウイルスは、呼吸や皮膚接触で感染します。体内に入り込めば一気に増殖し、三十秒ほどで発病し、感染者を死に至らしめます。人間は勿論、精霊すらも感染させるのです。ですから、アバティーノがあれほど怖がるのも無理もないことなのです。
「……だとしたらどうする?」
フラゴラがそういうと、壁にかかっている鏡が勢いよく割れました。パープル・スモークに割らせたのです。
「今度は鏡を割ったのか。でも、あの鏡は『ただの鏡』で、割ったところで何も変わらないのにゃ!」
フラゴラも猫の言うことはわかっていました。今フラゴラに出来ることと言えば、外にいる二人に「鏡に映るな」というメッセージを伝えることだけでした。それで鏡を割ったのです。フラゴラは、自分はここで殺されてしまっても、残りの二人が無事に鍵を取って皆のもとに戻ってくれることを願っていました。フラゴラにミラー・マンの拳が迫ります。自分の命を終わらせる痛みを前に、フラゴラはぎゅっと目をつむりました。
「にゃ?」
突然、ミラー・マンの拳が止まったと思えば、黒猫は耳をぴんと立てて何かを聞いていました。それは、足音でした。よく見ると、床の上でほこりや小石が舞っています。誰かが急いで走っているのです。
「『孔雀の間』の方向に誰かが走って行くぞ。フラゴラ、仲間はお前を見捨てて、『何か』を取りに行くことを優先したようだな?」
黒猫は哀れみの視線を向けると、にやりと笑いました。足音は『孔雀の間』のある廊下を曲がりました。黒猫は興奮して叫びました。
「やっぱりにゃ! フラゴラ、お前はもうやっつけたも同然にゃ! その『何か』はこの私がもらうにゃあ!」
黒猫は『孔雀の間』に向かっていっさんに駆けてゆきます。フラゴラは「待てッ!」と手を伸ばしましたが、さんざんに痛めつけられた傷が痛み、その場にくずおれてしまいました。
アバティーノもジョジョも、フラゴラを見捨てたのでしょうか? いいえ、そうではないのです。二人ともフラゴラを助けたい気持ちは一緒でした。アバティーノはまず鍵を手に入れて、王様の『命令』をやり遂げることを主張し、ジョジョはフラゴラを助けるため、フラゴラが残した謎を解くことを主張したのですが、どちらも譲らなかったので、アバティーノは鍵を取りに行き、ジョジョは謎を解くためその場に残ることにしたのです。
アバティーノは走って『孔雀の間』に向かいました。アバティーノは素晴らしいモザイク画には目もくれずに、部屋の中を見回します。すると、床の亀裂に、何か光るものがありました。金色に光る『鍵』でした。
「あった、これだ!」
アバティーノが手を伸ばしたとき、傍の壁に大きな鏡の破片が立てかけてあることに気がつきました。でも、さっき見回したときは鏡なんてなかったのです。一瞬目を離した隙に出現したようでした。しかもアバティーノを映そうとする角度で置かれていて、何者かの明確な意志を感じます。なんとも不気味な鏡に、アバティーノの首筋に冷たい汗がくだりました。すると、鏡に黒猫が映りました。
「猫!?」
アバティーノが後ろを振り返ると、黒猫がいるはずの場所にはネズミ一匹いません。アバティーノは先ほどのフラゴラの奇妙な言動のわけが、やっとわかりました。鏡の中の黒猫が口を開きました。
「それは『鍵』か? なるほど、お前達はその『鍵』を取りに来たってわけだな!」
黒猫の背後から精霊が出てきました。アバティーノは咄嗟に鏡の破片を蹴り飛ばします。鏡は立てかけられていた壁と反対側の壁にぶつかって粉々に砕けました。
「そうか、あの猫は今みたいに鏡の中から攻撃したんだ。それでフラゴラは引きずり込まれて消えたんだ。その上、精霊と分離させられて……だが、鏡を割った今なら!」
自分を映す鏡を砕いたところで、アバティーノは鍵に手を伸ばしました。しかし、腕の先がどんどん消えてゆきます。小さな破片がアバティーノの腕を映し、そこから引きずり込まれているのです。
「さっき鏡を割ったのは逆効果だったな。お前を映す破片がたくさん増えたってことだ! お前を鏡の世界に引きずり込む出入り口がな! アバティーノ、お前本体だけ鏡の中に入ることを許可するにゃ!」
黒猫は勝ち誇ったように言いました。アバティーノの身体はどんどん引きずり込まれていきます。でも、これこそアバティーノの狙い通りでした。
「にゃっ!?」
突然、黒猫は悲鳴を上げました。見えない手に首を掴まれて、身体が空中に持ち上げられてゆきます。アバティーノの手がミラー・マンの首を掴んだのです。でも、人間が精霊を直接触ることはできないので、これはおかしなことでした。もし、引きずり込まれたアバティーノが、アバティーノ本体だったらの話ですが。
「鏡を割ったのは逆効果じゃあないさ。鏡が小さくなったんで、誰を引きずり込んでいるのか、よく見えなかっただろ? ああ、喜んで引きずり込まれてやるぜ!」
アバティーノは顔を上げました。そのおでこにはフラップ時計が埋め込まれています。アバティーノそっくりに変身した彼の精霊でした。
「ムーディー・ジャズ!」
アバティーノの精霊、ムーディー・ジャズがミラー・マンに手痛い一撃を与えると、ミラー・マンと黒猫は壁まで吹っ飛んでいきました。
「フン、猫のくせに背中からぶち当たってんじゃあねえよ。お前が鏡の世界を作ってるってんなら、お前をぶち殺せば外に出られるってことだな?」
ムーディー・ジャズは一気に黒猫に詰め寄ります。黒猫は口から血を吐きながらよろよろと立ち上がりながら、ミラー・マンに迎撃態勢を取らせます。ですが、ムーディー・ジャズの敵ではありませんでした。ミラー・マンは『鏡の世界』を作り、支配できる代わりに、単純な膂力(パワー)はあまり強くないのです。一方的に痛めつけられながらも、黒猫はなんとか逃げようとするかのように部屋の中を這いずり回ります。
「立てよ、立ってかかってこい。いや、猫にはそんなことはじめから無理な話か?」
アバティーノの挑発に、黒猫はぎろりと怒りのこもった目でにらみ返しました。
「私が今立たないのは……その必要があるからにゃ!」
「ああそうだろうさ。お前は蹴飛ばされやすいように、そうしてくれているんだよな!」
ムーディー・ジャズの脚が、黒猫を古城の外まで蹴飛ばそうとした時でした。黒猫の持っていた鏡の破片から、アバティーノの手が猫の手に掴まれて出てきました。
「何ッ!?」
「この鏡の破片を拾うために立たなかったんだよ。映るものであるならばそれはすべて出入り口! だからこうやって別の鏡でお前を映せばそれもまた出入り口になる。引きずり込まれているのは、お前自身の腕にゃ!」
抜け目のない黒猫は、部屋の中で鏡の破片を拾い、鏡の外にいるアバティーノの姿を映し、とらえたのです。
「お前を仕留めるまでウロチョロできないように、身体も精霊も半分ずつ許可してやるにゃ!」
そう言うと、黒猫はムーディー・ジャズの右半身と、アバティーノの左半身をパッチワークみたいにくっつけてしまいました。これではアバティーノは自由に動けません。それでも彼は『鍵』を手に入れようともがきます。『誇り』と『面子』が彼の身体を動かしていました。しかし、やっとの思いで鍵に手の届いたアバティーノの身体を、ミラー・マンが先ほどのお返しとばかりに力いっぱい蹴り飛ばします。仰向けに倒れたアバティーノの上に黒猫がすかさず飛び乗り、鏡の破片を口に突っ込みました。
「お前の言う通り、ミラー・マンにはそれほど強い力は無い。だがお前をこうやって動かなくすれば、即死させるのにどれほどの力もいらないにゃ。この破片をちょいと喉の奥に押し込んでやるのなんて、四歳の子供の力でもできることだからな」
黒猫が前足にぐっと力を込めたとき、さっきまであったはずの鍵をいつのまにか見失っていることに気がつきました。黒猫は首をかしげてあたりを見回りますが、やっぱりどこにもありません。黒猫は怖い顔でアバティーノに振り向きました!
「お前! 鍵を隠したのか!? 無駄なことを! その辺探せばすぐ見つかるんだからな!」
「隠すって、何をだ?」
アバティーノはとぼけたように言いましたが、身体は何かを隠そうとするかのようにうつ伏せになっているし、その顔には脂汗が浮かんでいます。そして右半分のムーディー・ジャズのおでこに埋め込まれたフラップ時計の数字が、パタパタと回転していました。すると、黒猫の鼻がひくりと動きました。ものすごい血の臭いをかぎとったのです。
「お、お前なにやっているんだ!」
アバティーノの身体の下からどんどん血だまりが広がっていきます。ミラー・マンに身体をひっくり返させると、アバティーノの手首がポロリと床に落ちましたので、驚いた黒猫は「にゃッ!?」と鳴き声を上げて飛び退きました。
しかし黒猫も驚いてばかりはいられませんでした。自分の手首を切り落とすなんて、何かよっぽどのことがあるはずです。黒猫は鏡を覗き、鏡の外で半分半分(ハーフ・アンド・ハーフ)になっているアバティーノ&ムーディー・ジャズを見ました。精霊が傷つけば、本体も傷つきます。ならば、精霊の手にも何かが起こっているはずでした。
「やっぱり精霊の手がない! 手はどこにいったんだ!? ま、まさか!」
黒猫は鏡を持って部屋から飛び出します。鏡の外では、鍵を持ったムーディー・ジャズの手だけがもといた場所に移動していくところでした。
ムーディー・ジャズの真の能力は『姿を化けさせる』ことではありませんでした。『かつてその場所にいた人物や精霊に変身し、起こった出来事を完全再現する』ことでした。ですから、ムーディー・ジャズは自分自身の数分前の行動を時間を巻き戻すように再現し、元の場所に自分の手を移動させているのです。黒猫がそのことに気づいたとき、既に鍵はもといた場所――ジョジョがいる場所の床にとどけられていました
既にジョジョのもとにとどけられた鍵を追いかける黒猫の後ろ姿を見て、アバティーノはほくそえみました。鍵は手に入ったのです。この後、怒った黒猫は、腹いせにアバティーノとフラゴラを殺すでしょう。でも、目的は達成できました。一人でも鍵を持ってブルーノのもとにたどり着ければ『勝ち』なのです。
ですが、そんなアバティーノの目論見は打ち砕かれました。廊下の奥から、黒猫がクスクスと笑う声が聞こえてきます。そして角からひょっこりと顔を出しました。
「なあアバティーノ、この先で、何が起こっていると思う?」黒猫は楽しそうにいいました。「なあ~んにも起こっていないのさ! ジョジョって新入りの奴、鍵を持ったまま座り込んでいるんだよ! 追いかける必要もないにゃ!」
黒猫は鏡の外の様子をアバティーノに見せつけます。黒猫の言う通り、ジョジョはさっきと全く同じ場所で、鍵を持って座り込んでいます。
「何をやってる、ジョジョ、早く行けェーッ!」
アバティーノは顔を真っ赤にして叫びますが、どんなに大声を出しても鏡の外には届きません。勿論、すぐ傍に黒猫の魔の手が迫っていることもわかりません。
「なんてこった……もうだめだ」
アバティーノは力なく頭を垂れました。
この黒猫のことです。ジョジョを鏡に引き込んだらすぐに首を掻き切って、安全に鍵を奪うでしょう。それでは完敗です。鍵を持って戻れなければ、ブルーノたちにも危険が迫ります。アバティーノにとって耐えがたい結末でした。
「ジョジョ本体だけ入ることを許可するにゃ!」
勝利を確信した黒猫は得意満面にジョジョを鏡の中に引きずり込みました。
でも、黒猫は間違えてしまいました。
ジョジョを引きずり込んではいけなかったのです。
「にゃああーッ!?」
黒猫は絶叫しました。ミラー・マンが掴んでいるジョジョの手に、あのウイルスの症状が現れているではありませんか! しかも、ジョジョの指先には割れたカプセルがありました。ジョジョは自らパープル・スモークの殺人ウイルスに感染して、自ら引きずり込まれたのです!
ジョジョは、フラゴラが残した鏡のメッセージに気がついたのです。というのも、黒猫はあの時パープル・スモークが割った鏡の破片をいくつか『孔雀の間』に持っていきました。ジョジョは本来あるはずの破片が『なくなっている』ことから、敵の能力を『鏡を通して、別の空間に引き込む能力』と推理し、あえて感染してから引きずり込まれたのでした。感染すれば三十秒で死んでしまうことを覚悟の上で。
そのことを悟ったフラゴラとアバティーノの二人は、愕然とした表情でジョジョを見ていました。
「にゃあああ~……」
黒猫が悲痛な叫び声を上げました。
ミラー・マンがウイルスに感染したジョジョの手を掴んでいることで、皮膚接触によってミラー・マン、そして黒猫自身も感染してしまったのです。右前足のピンク色の肉球には、すでに赤黒い発疹ができ、プツプツと音を立てては弾けていきます。
「よくも……よくもこんなこと……!」黒猫は患部を見ながらさめざめと泣き始めました。「でも、まだ遅くはないにゃ! このミラー・マンの世界なら……遅くはないのにゃあ!」
黒猫は近くの鏡に自分自身を映し込みました。
「ミラー・マン! 私『だけ』が外に出ることを許可するにゃ! でも、ウイルスも、ウイルスに感染した部分も許可しないにゃああ! これくらい、片手をなくすくらい、アバティーノのやつにやれて私にできないことはないのにゃあ!」
そう叫ぶと、黒猫の右前足がちぎれ飛んでゆきます。フラゴラは、傷だらけの身体を励まして、黒猫の身体を掴もうとします。ここで黒猫を逃がしては、ジョジョが命を賭けた意味が無に帰します。
しかし、フラゴラの手はすり抜け、黒猫は右前足の残骸だけを残して鏡の外に消え去りました。
「に、逃がしてしまった……これでは……!」
がっくりと肩を落とすフラゴラに、ジョジョはすかさずいいました。
「フラゴラ、あなたのパープル・スモークであの黒猫にとどめを!」
フラゴラは首を振ります。出来ないのです。この鏡の中のものは、黒猫とミラー・マンしか動かすことができません。ですから、いくらその辺に鏡の破片が落ちていても、拾って外の様子を見ることは出来ないのです。
「いいえ、フラゴラ。あの黒猫の位置ならわかります。このレンガを見てください」
「え?」
ジョジョが指さす方を見ると、床の上を、一枚のレンガがひとりでに滑ってゆきます。
「僕のゴールデン・ウィンドがこのレンガを一匹の蛇に変えました。蛇は生き物の体温を感じ取って位置を測ることができるんですよ。つまり、このレンガの動きであの黒猫の位置がわかるんです!」
フラゴラは言われたとおり、全神経をパープル・スモークに集中させます。そして、レンガが止まったところで、パープル・スモークの手が黒猫を掴みました。パープル・スモークの手ごしに、黒猫が必死にもがいているのが伝わってきます。でも、決して離すことはありませんでした。
「食らわせろ、パープル・スモーク!」
その時、黒猫のいるあたりで、鏡のかけらが光ったと思うと、ミラー・マンの上半身だけが出て行きました。向こうも必死にパープル・スモークの腕を止めようとしているのです。
しかし、仮に拳を止められたとしても、フラゴラとパープル・スモークには奥の手がありました。
『慣性』という力があります。外部からなんの力が加わらない限り、動いている物体は運動状態を続けるということです。これだけではわかりにくいので、もっとわかりやすい例をあげるとしましょう。走っている電車やバスが急ブレーキをかけると、中に乗っている人の身体は進行方向に傾きます。これは、電車やバスには『ブレーキ』という力がかかっているのに対して、中の人間にはブレーキという『停止するための力』が加わらないからです。また、食べ物に瓶の調味料を振りかけるとき、瓶を振って急に止めるとよく出るでしょう。これは中にある調味料が振られた際の動いていく状態を続けようとするので、中身が瓶の穴から勢いよくたくさん飛び出ていくのです。さて、ここまで話したからにはみなさんももうおわかりでしょうね。
勢いよく動いている拳を急にとめたら、くっついているだけのカプセルはどうなるでしょうか?
カプセルにはブレーキも何もついておりませんから、そのままの勢いで前に飛んでゆきます。そう、黒猫の方へ――。
勢いよく壁に当たったカプセルは、鶏の卵のように割れて、中身が噴き出しました。
フラゴラは、鏡の外で標的が感染したのを感じ取りました。そしてすかさず、何発もの拳を叩き込みます。三十秒もの時間をも与えません。一秒でも早く、この鏡の世界から抜け出すために。
やがて、ふっと周囲の風景が反転しました。黒猫が死んで、鏡の世界が消えたに違いありません。
「ジョジョ、黒猫は倒しました。けれど、君は僕たちのためにウイルスに感染してしまった。このウイルスは、僕でもどうすることができないんです」
ジョジョの症状はすでにだいぶ広がっていました。もう十秒と持たないかもしれません。すると、ジョジョは先ほどの蛇に近寄り、ゴールデン・ウィンドにこのように命じました。
「ゴールデン・ウィンド、この蛇から血清を取り出し、僕の身体に注入するんだ!」
ゴールデン・ウィンドの指が蛇の身体から『何か』を取り出すと、そのままジョジョの身体をずぶりと突き刺しました。ジョジョは激しい苦痛に身もだえしていましたが、症状はみるみるうちに治まってゆきます。
フラゴラはハッとしました。そもそもこの蛇は、黒猫のすぐ傍にいたはずです。つまり、ウイルスのもやの中にいたはずなのに、平然と生きていて、しかも感染している様子もありません。
「そうか。この蛇は発病していない……ウイルスに対する免疫力を持っているんだ! だから血清が獲得できたのか!」
「ええ、そうです。この蛇は、ウイルスのカプセルを割ったところから生まれさせたんですよ。だから生まれつき免疫力を持ってるんです」
ジョジョは息も絶え絶えに、しかしほほ笑んでいいました。フラゴラは目を見開きます。ジョジョは、フラゴラのメッセージを受け取って黒猫の能力を予想し、黒猫の能力とフラゴラのウイルスの特性を利用して、全ての展開を読み切って、命がけで行動したのです。彼の行動には、心の底から信頼できるものがありました。見ているこちらも、勇気が湧いてくるような信頼です。フラゴラの背筋は、自然と伸びていました。
「ジョジョ、君の命がけの行動に、僕は敬意を表します!」
しかし、ジョジョはこのようにいいました。
「いいえ。命がけの行動は、アバティーノの方です。僕は全部予想して、行動しただけですから。自分の身を顧みずチームのために動いて、僕のところに鍵を運んでくれたのは、まぎれもなくアバティーノですよ。ですから、フラゴラ。アバティーノの手当をお願いします。彼は手を切り落として、酷い怪我をしているはずですから」
「わかりました。ジョジョ、君も今のうちに身体をやすめてください。アバティーノの応急処置をしたら、すぐ移動しなくてはいけないから」
フラゴラはアバティーノのもとに走って向かいました。その時、ふと黒猫の死体が目に入りました。
「え?」
パープル・スモークの連打を食らえばどうなるか、フラゴラが誰よりも一番よく知っています。溶けきって死体なんて残るはずはないのです。
でも、ありました。石のように固まって、その場に残っていたのです。