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    shimotukeno

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    忘れ鏡のフーイル♀ テキスト版2 ちょい校正したもの

    ##忘れ鏡

    忘れ鏡のフーイル♀ 21~40  二十一
    「申し訳ありません、シスター」
     フーゴはシスターに向かって深々と頭を下げた。子供達は寝静まっている。初めてこの孤児院を訪ねたときのような、静かな夜だった。
    「僕は組織に戻ることになりました。時折顔は出します。支援もさせていただきます。でも、今一番必要なのは人手ですよね……」
    「あら、顔を上げてくださいな」
     シスターは目尻にやわらかな皺を作って、子供達にするように笑いかける。
    「いいんですよ、こちらのことは大丈夫。それに、すぐにこんな日が来ると思っていました。あなたが帰るべき場所に帰っていく日がね」
    「帰るべき場所、ですか……」
    「ええ。ここ数日、働き者のあなたに私たちはとても助けられました。今度はあなたの高い能力を、もっとたくさんの――ネアポリスの人々のために役立ててください。あの街にはまだブチャラティさんのような方が必要です。優しく、頼りになる方が」
    「僕も努力しますが……僕では、ブチャラティのようには……僕は彼のように、根っからの優しい人間ではないんです」
     フーゴは寂しげに言った。ブチャラティの人柄は、誰かがまねしようと思ってまねできるものではない。人の悲しみを知り、身を惜しまず、組織の裏切り者と後ろ指をさされることも惜しまないような、大きな愛の持ち主だ。ブチャラティ自身も苦労人ではあるが、彼の持つ根本的な優しさは天与のものだろう。あの時『乗らなかった』自分が、彼のようになれるものだろうか。
    「別の人間ですもの」シスターは諭すような口調で言った。「誰だって、誰かと『同じ』になることはできません。あなたは痛ましいくらいに冷静な目を持ち、いつも最善を考えることのできる人です。相手のために最善を考えてあげること、気休めではなく耳の痛い意見を言ってあげること、それも優しさと愛のかたちだと思いますよ。フーゴさんはフーゴさんの優しさを持っていらっしゃいます」
    「か、買いかぶりすぎです」フーゴは顔を赤くしていった。「でも……かくありたいと思わなくては、何も始まりませんね」
    「そうですとも。さあ、明日からお忙しくなるでしょう? しっかり睡眠をとらなくては。おやすみなさい、フーゴさん」
    「おやすみなさい、シスター。お世話になりました」
     フーゴはシスターに深々と礼をすると、孤児院を後にした。空には鏡のような銀色の月が皎々と輝いていた。
     
     二十二
    「ふーん。じゃあ、組織に戻るのか」
    「ええ。組織に戻ると言っても、元々組織から抜けていたわけではないので妙な感じですけどね」
     翌日早く、フーゴはポンペイ遺跡にいるイルーゾォのもとを訪ねていた。
     白っぽい鏡の中で、フーゴはイルーゾォに組織に戻ることを報告した。報告しにきただけではない。これからパッショーネはジョルノのもと新体制となる。その中枢で働くとなればかなり忙しくなるだろう。その中でモルガナの様子も見に行くとなれば、イルーゾォのもとを訪れる時間はなかなかとれなくなる。その前にいくつか彼女に聞いておきたいことがあったのだ。
    「あー、穏便に済んだのか?」
    「何の話です?」唐突な問いに、フーゴは片眉をあげた。
    「ネアポリスに残るためなら『何でも』するって言ってただろ。それにちょいと血が流れるとかどうとか……」
    「ああ、そのことですか。いざとなれば地べたに頭を打ち付けてでもって思ってたんですが。大丈夫でしたよ」
     フーゴは前髪を上げて、「ほらね」と傷一つ無い綺麗なおでこを出した。
    「なんだ、オメーのデコの血かよ。くっだらねえ!」
     そう言ってイルーゾォは張り詰めたものが一気に流れ出すように笑った。姿勢を崩して、あんまりおかしそうに笑うので、フーゴもつられて笑い出した。
    「んで? ただ報告に来ただけか?」イルーゾォは目元を指で拭いながらきいた。幽霊でも笑いすぎて泣くことがあるらしい。
    「これから忙しくなりそうなので、今のうちに色々聞いておこうかと。あの子の父親のこととか」
    「うちのリーダーだ。もし聞かれたら世界一強くてかっこいいシチリア男だって言っといてくれ」
    「ええっ!?」
     フーゴが素っ頓狂な声を上げる。昨日、ジョルノたちからサルディニア島での出来事の話を聞いた。暗殺チームのリーダーらしき男がディアボロと交戦し、死亡していたこともきいたが、――実際に見たのはナランチャとブチャラティなので伝聞の伝聞ではあるが――見た目は巌のようにたくましく、いかにもリーダーに相応しい、厳格そうな男だったという。その巌のような男と、イルーゾォと、あのモルガナとがうまく結びつかなかった。
    「……代父(パドリーノ)だ」フーゴのあまりの驚きように、イルーゾォは眉をひそめて言った。「つっても、ちゃんと教会で洗礼受けたワケじゃあないんだがな。名前を付けて、後見人になると誓ってくれた。実の父親は死んでいたからな」
    「ああ……そうなんですか……。じゃあ、もしかして二年前に亡くなった仲間――とか?」
     イルーゾォは目を見開くと「ないない!」と笑いながら手を振った。
    「暗殺任務の標的だった男だよ」
    「えええッ!?」
     今年一番の驚きであった。イルーゾォの言葉の内容はもとより、あまりに平然と語る姿に、フーゴは驚きを隠せなかった。しかし最初に「愛の結晶とかではなかった」とイルーゾォが言っていたことを思い出した。だが、それにしたって……。フーゴはおずおずと口を開いた。
    「じゃあ、あなたが、あの子の父親を……」
    「いや、やったのは仲間。私は愛人として潜入してただけ。新興マフィアのボスでさ、なかなか羽振りよかったんだ。でもパッショーネにとって目障りになったから、部下もろとも潰せってな」
    「それは暗殺というより、抗争ですねもはや……」
    「久しぶりのでかいヤマだった……。それに、そのボスや直属の部下がスタンド使いって噂があった。だが能力は不明。そこでこのイタリア一のエキゾチック超美女が愛人として標的の懐に潜りこんだってわけ」
     艶めかしい動きで髪をかき上げるイルーゾォを横目で見ながら「盛っていくなあ」とフーゴは呟いた。石化しそうなすごい目でにらまれて、フーゴは咳払いをした。
    「しかし、そうなると長い任務になりそうですね」
    「ああ……実際数ヶ月もかかった……」イルーゾォは懐かしむような、しみじみとした表情を浮かべていた。「ソルベとジェラート、始末された二人のこともあって、私たちはいつも以上に慎重だったからな……」
    「数ヶ月も単身敵中に? しかも愛人だなんて、その――大変、でしたね……」
    「辛かったなあ……」
     イルーゾォは大きな大きなため息をつく。フーゴも無言で頷き、相づちをうった。愛人ともなると、不本意な肉体関係もあっただろう。その上一人で何人ものスタンド使いに囲まれ、さぞ心細かったに違いない――。
     イルーゾォは悲しげな顔で空を見上げ、またため息をついた。
    「猫足のバスタブ……大きなアンティークミラー、年代物のワイン、ふかふかの高級寝具、大きなアンティークの四柱式ベッド、すぐお湯の出るシャワー、空調はかけ放題だし、最新エスプレッソマシン、大きくて寝転べるソファ、マッサージチェア、高級オーディオにホームシアター……」
    「は?」
    「終わったら全部おさらばだぜ!? くっそォオ~ッ! せめてエスプレッソマシンくらいは持ち帰ってもいいよなあ!?」
     突然イルーゾォは駄々っ子のように地面に転がりジタバタと暴れ始めた。あっけにとられるフーゴをよそにひとしきり転がり回ると、まるでスイッチを切り替えたように急に真顔になって元のように座り直す。
    「で、その数ヶ月の間に身ごもってたってわけ」
    「そ……そうですか……」
     ――何だ今の? そう口から出かかったが、またにらまれそうなのでフーゴは飲み込んだ。暗殺チーム流の感情コントロール術か何かなのだろう、と思うことにした。
    「気付いたときには六ヶ月だった。あんまり腹でなくてさ……」
    「ああ……時折そういう方もいるそうですね。聞いたことがあります」
    「最初は産んだらすぐ手放すつもりでいたんだ。父親は死んでいて、母親はギャングの暗殺者だなんて、人生ハードすぎるだろ?」
     フーゴは頷く。イルーゾォの言うことはもっともだった。警戒心の高そうな彼らがそうしていなかったことが、むしろ意外だったくらいだ。
    「けど、リーダーが。この子は十中八九スタンド使いだからって。親が生まれつきのスタンド使いの場合、その子もまたスタンド使いの可能性が高い。両親ともならなおさらな。手元に置いておけば、万が一娘のスタンドが物騒な能力でも、私とマン・イン・ザ・ミラーなら押さえ込める。逆に一般人に囲まれていたら、何かの騒ぎになって、そのことがきっかけでうちのチームにたどり着かれるかもしれねえ。ちょうど、この前のボスみたいにな。――それよりは、手元に置いておいた方が安全だってな」
    「ああ、なるほど。そういう考え方もありましたか」フーゴは妙に感心した様子で言った。
    「フフ、でも本当のところは引き離したくなかったのかもな。リーダーは、身内への情が厚い生粋のシチリア男だからさ」
     イルーゾォは目を細めて、しみじみと言った。
    「それで、あの子の能力はもうわかってるんですか?」
    「能力はまだわからん」イルーゾォは首を振る。「――が、あの子はもう見えている。マン・イン・ザ・ミラーを『マンマ』と認識していたくらいだ」
    「あ、そういえば」
     フーゴはモルガナにぬいぐるみを渡した時のことを思い出した。あれはお母さんとの思い出のぬいぐるみだから出た言葉ではなくて、お母さんの形そのものだったから出た言葉なのだ。
    「お前はもう気付いていると思っていたが」
     イルーゾォは意味深な視線を向ける。フーゴがその言葉の意味を図りかねていると、イルーゾォは立ち上がって、あらぬ方向に注意を向けた。
    「お前のお迎えが来たようだぜ。ジョルノに……確か拳銃使いのミスタと言ったか」
    「そうですか」フーゴは腰を上げる。「まだ色々聞きたかったのですが……また来ますよ。できるだけ近いうちに、なんとか時間をとりますから」
    「じゃあまた――いっけね!」フーゴの意識を鏡の外に出す直前、イルーゾォは大慌てで大声を上げる。「今のうちに頼んでおきたいことがあるんだ」
    「は、はい! なんでしょうか!?」
    「冷蔵庫の中身、処分しておいてくれ」
    「ああ、はいはい」
     フーゴはのろのろと答えた。
     
      二十三
     フーゴ、ジョルノ、ミスタの三人を乗せた車は、ネアポリス市内のパッショーネ本部に向かっていた。一見するとありふれた乗用車だが、実は防弾仕様らしいと知ると、フーゴはなんだか奇妙な気分がした。乗り心地まで違う気がする。つい最近まではブチャラティ名義でレンタカーを借りたり廃車にしたりする身分だったというのに。
     ハンドルを握るミスタがふいに口を開いた。
    「疑ってたわけじゃあねーけど……本当に鏡の中にいるんだな……」
    「結構揺さぶったりしたんですが、全然気付きませんでしたね、フーゴ」
     この二人はフーゴを迎えに来た、というより様子を見に来たらしい。あわよくばイルーゾォと接触しようとも思っていたようだが、残念ながらイルーゾォにその気は全くなさそうである。
    「意識だけが鏡の中にいるんです。意識だけといっても、肉体のイメージはありますし、立ったり座ったりと動かすこともできます。でも実体はないので彼女に触れることはできません。彼女から僕に触れることもできません。通り抜けてしまうんです」
    「幽体離脱みたいなものですか」
    「平たく言えばそんなところでしょう」
    「しかし、完全に無防備になってしまうのは少し心配ですね……」ジョルノは腕を組んでうなった。「かといって、結局謎の多い暗殺チームの当事者である彼女の存在は貴重です。次からは護衛を付けましょう、フーゴ」
     フーゴは、ポンペイ遺跡でぼーっとしている間抜けな自分の姿――をずっと組織の人物に観察されている気の抜けた状況を思い浮かべて「な……なんだか恥ずかしいなあ……」と呟く。
     すると、しばらく黙っていたミスタがケケケと意地悪い笑い声を上げた。嫌な予感がする。これまでの経験上、こういう笑い方をするときのミスタが、ろくな事を言った試しがないのである。
    「デートにお母さんがついてきちゃったみてーな感じになるもんな?」
    「ばッ馬鹿ッ! 何言ってるんですかッ」
    「なんか顔赤くなってますよ?」ジョルノは年相応の、悪戯っぽい表情を浮かべてミスタに便乗した。フーゴは眉をつり上げ、悲鳴のように叫んだ。
    「知りませんよそんなのッ!」
     
      二十四
    数日後、フーゴとミスタは暗殺チームのアジトとされる場所に来ていた。無論、依然謎に包まれた暗殺チームについて調査するためである。彼らについては、ボスであるディアボロすらあまり把握していなかったようなのだ。
     事前に聞いていたとおり、彼らに繋がりそうな資料は皆無である。最後に残ったチームのリーダー、リゾット・ネエロが全て処分したのであろう。フーゴはアジト内部を見回す。このアジトは、イルーゾォの部屋とは印象がまるで違う。内装や間取りの話ではない。イルーゾォの部屋は、住人だけが一瞬にして消えてしまったような部屋だった。しかしこのアジトは綺麗すぎる。ダイニングの椅子は、まっすぐ綺麗にテーブルに収まっている。個室のベッドもみな整っている。本は美しく並び、食器類も棚に整然と入っている。モデルルームや清掃後のホテルの部屋のように、住人の生活感が感じられないのだ。
     フーゴは何か意図的なものを感じた。もちろん、チームメンバーの性格や情報を隠すため、リゾットが出立前に工作した――それはあろう。だが、メンバーの情報を完全に抹消するなら火をかけてしまえばいい。その方がよほど確実だし、楽だ。しかしそうはしなかった。フーゴはそこに意図的なもの、もっと言えば、強烈な違和感を覚えるのだ。
     ――何か、焼いてはいけないものがあったのではないか?
     このアジトに、きちんと遺しておくべきものがあったのではないか? ほとんどのものを綺麗に整えていたのは、チームメンバーの情報の秘匿だけではなく、木を森の中に隠すためではないのだろうか。
     フーゴはイルーゾォの言葉を思い出していた。リゾットを評して言った、『身内への情が厚い生粋のシチリア男』という言葉を。彼が手間をかけて遺しておかなくてはならなかったもの。それは恐らく彼の身内に宛てたもので。そんな彼に遺った、恐らく唯一の身内といえば――。
    「代子(フィリオッチャ)……モルガナ、か」
     フーゴはぽつりと呟いた。
     
      二十五
     アジトの中にはイルーゾォが使っていたと思しき個室もあったが、特にそれらしいものはなかった。他のメンバーの部屋にも、リゾットの書斎らしき部屋にもない。金庫はわざとらしく開け放たれていた。
     フーゴは奥にある小部屋をまだきちんと調査していないことを思い出し、ドアに手をかける。大きさからすると物置部屋のようだが、さっきチラリと見た感じでは、物がほとんど置かれていなかったのだ。
     すると、ミスタに声をかけられた。
    「やっぱりこの部屋、気になる? 俺も気になってたんだよなあ」
    「ええ、見てみましょう」
     ドアを開けて、灯りを点ける。
     やはりほとんど何もない部屋だ。まず目に飛び込んできたのは簡素な椅子。壁につけられた小机と上に置かれた聖書。壁龕の聖母子像。そして壁にかけられた十字架。一見すると、祈りのための部屋だった。
    「へえ~。なんつーか、意外だよなあ……」ミスタは興味深そうにしげしげと眺めながら言った。「でも、人間案外そんなもんかもな」
    「ええ……」
     フーゴは壁龕の聖母子像を見る。ミケランジェロのブルージュ聖母教会の聖母子像のミニチュアだ。フーゴは孤児院の礼拝堂で、モルガナが聖母像に興味を示していたことを思い出していた。このアジトで、イルーゾォと一緒に聖母子像を見ていたのだろうか。それであの時、「マンマ」と言ったのだろうか?
     フーゴは何の気無しに、聖母子像を手に取った。材質的にそこまで重くはないだろうが、それにしては軽い――ような気がする。中になにか入っているのだろうか? 首をかしげながら、フーゴは様々な角度から像を見てみた。
    「うわっ」
     フーゴから驚きの声が漏れた。聖母子像から、カチリ、と音がしたのだ。
     よく見ると台座の部分が二段になっており、下の段が回せるようになっていた。さらによく見ると聖母の足下に逆三角形の印がつけられている。
    「それ、ダイヤル錠じゃねえか?」ミスタが目を輝かせて言う。「もし開けられたらよォー……何が入ってるんだろうなあ? 隠し金庫の在処とかか!?」
    「さあね。本当に開けてみないとわからないよ」フーゴは像に目を向けたまま答えた。「でも多分、モルガナのためのものだと思う。勘だけど」
    「じゃあ……なおさら隠し金庫のセンが濃厚だな……!」
    「見つかっても君のじゃあないからね」
    「わかってねえなあ……こういうのは開けるまでが一番楽しいんだって!」 
     ミスタはもう完全に宝探しをする少年か、古代の遺跡発掘を夢みる考古学者の目をしていた。フーゴはわざとらしくため息をつくと、改めて像の台座を観察する。
     台座には、魚の骨のような模様が刻まれていた。どこかで見たような――果たして、何だったか。フーゴは目を閉じて思い出そうとする。
    「へえ。列車で戦ったジジイの服みてえだな」
     ミスタが少年のような目のまま言った。
    「ちょっと黙って」
    「うす……」
     意気消沈したミスタをよそに、フーゴは紙に模様を書きだした。
     まず、真ん中に横線が刻まれている。その横線を基準に縦や斜めの線が刻まれ、それぞれ一本から五本と本数が違う。完全に交わった線だけではなく、上だけに数本あるもの、下だけに数本あるものもあり、全部で十種類ある。だが、数字にしては規則性がない。おそらくは『踊る人形』のようなアルファベットを変換した暗号なのだろうが……。
     ――それにしても、どこかで見たことがある。
     だが、それがどこだったのかまだ思い出せずにいた。フーゴは最初から情報を整理することにした。
     ダイヤル錠のように、正しい順番で足下のマークとこの暗号を合わせれば仕掛けが解けて、中のものを取り出せるのだろう。しかし、もしこれが本当にモルガナに残したものならば、子供のモルガナにも解けなければ意味がない。おそらく答え自体はかなりわかりやすいもののはずだ。幼いあの子にもわかるキーワード。たとえば、『illuso』とか、『morgana』とか。
    「イルーゾォか……モルガナか……モルガ……」
     ぶつぶつ呟きながらミスタを見ると、彼は壁にかけられていた十字架を手に取っていた。その十字架に、フーゴはふと違和感を覚えた。
    「ミスタ、その十字架……」
    「ああ、この裏に暗号の解読表とか刻んでないかなーと思ったんだけど、やっぱこんなわかりやすいところにはねーよなあ」
    「いえ、その妙に横木の位置が低いのが……そうか! モルガナなんだ!」 
     その瞬間、フーゴは雷に打たれたようにハッとすると、紙をひっつかんで部屋を飛び出した。
    「お、おい、どこに行くんだ!?」
    「図書館です!」

      二十六
    「お、あいたようだな。しかし、古代文字とはひねくれてるねえ……」
    「答え自体はシンプルなんですけどね……」
    一時間後、フーゴは無事、解錠に成功した。
     結論から言えば、答えは『モルガナ』であった。モルガナはイタリアでは蜃気楼のことだが、もとはアーサー王伝説に登場する人物であり、ケルト神話の女神とも同一視される人物だ。その地域で使われていた古代文字で『morgana』の綴りの順番に合わせればいいことだった。ミスタの言うとおり、確かにひねくれている。だが、モルガナが自分の名前について知っていればきっとたどり着く――そのように信じて設定されたのだろう。
    「さあて、お宝拝見!」
     ミスタは聖母子像の中を探り、中のものを引っ張り出した。
     中から出て来たのは、数枚の写真だった。
     生まれて間もない赤ん坊を抱く、イルーゾォの写真。
     ベビーベッドに眠る赤ん坊を囲む青年たちの写真。
     赤ん坊にミルクを与える銀髪の男の写真。
     みんな笑っている。うれしそうに。照れくさそうに。はにかんで。穏やかに。力強く。誇らしげに。――そして、どれも幸せそうに。
     いつも調子のいいことばかり言うミスタも、この時ばかりは神妙な顔をしていた。
    「ま、宝物には違いねえな」
    「ええ。彼らにも、あの子にとってもね」
     ――なんだ、こんなにも愛されているじゃないか。こんなにも、愛していたじゃないか。離れ難いほどに。  けれど、彼女の暗殺者という立場が、彼らのチームが置かれた状況が、それを自覚することを許さなかった。幸福な時を切り取ったたった数枚の写真を、小さな聖母子像に閉じ込めることしか出来なかった。
     彼らが遺していたのは、たったこれだけの、――かけがえのない幸福の記憶だった。
     
      二十七
     鏡の中では、イルーゾォがいつも通り、勝ち気な笑みを浮かべて待っていた。
     鏡の中に意識だけとらわれるのにもすっかり慣れたもので、フーゴは意識が吸い込まれる瞬間に自然なポーズや表情をとることが出来るようになった。最初のような間抜け顔をさらすことはもうない。現在鏡の外にあるフーゴの肉体は、一見すれば本を読みながら古代遺跡を見学する、熱心な考古学少年である。しつこく話しかけられなければそれほど不審がられることもないだろう。――多分。
     いつ来ても鏡の中は耳鳴りがしそうなほど静かで、無機質である。鳥の囀りも聞こえない。花や草の匂いも風に乗ってこない。ずっと遠くまで続いているように見えるが、実際は彼らのアジトのリビング程度の広さしかないらしい。見えている風景は舞台の書き割りのようなものだという。
     しかし、今は完全に鏡の中の幽霊となっているイルーゾォは、生きていた頃よりも敏感に鏡の外の気配に気付くことが出来るという。
    「ありゃあ誰だ? あの陰にいる、ガタイがいいの」
     そのため、少し離れたところで護衛している人間にもいち早く気付いた。
    「……部下です。一応ね。鏡の中にいるときは無防備になるのでつけろと言われまして」
    「ほー。もう部下がいるんだ。お前も偉くなったなあ」
     イルーゾォはニヤニヤしながら言った。
    「僕が偉くなったわけでは……何事も、一人じゃ限界がありますから。それより、あなたと仲間の写真をモルガナに渡しましたよ」
    「写真だあ~?」
     イルーゾォは眉をひそめる。
    「一週間前、あなた方のアジトを調査したんです。その時に見つけた聖母子像の中に隠されていた写真です。まだ幼すぎるので、今回渡したのは焼き増ししたものですが。あの子がもう少し大きくなったら、原本を渡します」
    「うへー、あれ見つけたのかよ……」
     イルーゾォは苦笑いして言った。
    「本当ですよ」フーゴも眉をひそめる。「たまたま見つけたからよかったものの……。気付かれずに処分、なんてこともあったかもしれませんよ」
     イルーゾォの言葉や、礼拝堂でのモルガナの様子を覚えていなければ、フーゴも聖母子像など大して気にとめなかっただろう。勘のいいミスタや洞察力の高いジョルノは別として、暗殺チームをほとんど知らない組織員では処分していたかもしれない。
    「リーダーが直接渡すつもりだったんだろ。ボスやブチャラティへの復讐を完遂してからな。そして引き取って、シチリアかどこかでひっそり暮らすんじゃないかな」
     イルーゾォは目を閉じて言った。目を閉じて、自分の小さな娘とリゾットとがレモン畑に囲まれた小さな家で暮らす様子でも想像していたのだろうとフーゴは思った。
    「……組織の頂点に立つんじゃあないんですか?」フーゴは口を挟む。
    「代父(パドリーノ)じゃなければなあ」イルーゾォはぼやいた。「それにリーダーは権力志向でもないし……。金にがめつくもないし……。僧侶みてーな静かな暮らしも似合う人だ。ボスも主要な幹部も消えて、グチャグチャになった組織を横目に長閑な隠居生活ってのも一つの復讐だろうよ」
     フーゴは写真に映っていた銀髪の男のことを思い出していた。かなり体格がよく、精悍な顔つきの男だった。最初に見たときは、いかにも暗殺チームのリーダーらしい男だという印象を抱いた。けれど、生まれたばかりの赤ん坊を抱く手つきには手慣れたような安定感が感じられた。口元には安らぎが、まなざしには慈しみと愛情があった。
    「もし、彼がサルディニア島に行かず、モルガナを引き取ってシチリアに行っていたら……」
     イルーゾォに視線を送ると、彼女は寂しそうな表情で静かに首を振った。
    「あの人に復讐をしない選択肢は、ないさ」
     
      二十八
    「イルーゾォさん、モルガナに会いたくはありませんか? 今度連れてこようかと思うんですが」
     やにわにフーゴが切り出すと、イルーゾォはピクリ、と反応した。そして戸惑ったように、視線を空中にさまよわせる。今までに無い迷いと葛藤があった。今までイルーゾォの奇妙な言動は色々とみてきたが、こんなのは初めてだった。
    「でも――」イルーゾォは開きかけた口を一旦つぐむ。「もう、忘れちまっただろ」
     自嘲的に笑う顔には、寂しさと諦めの色がにじんでいた。しかしフーゴには、彼女が自分の本当の気持ちを塗りつぶそうとしているのがわかる。そもそも彼女は小さな娘が気がかりでこの世に留まっている幽霊だ。会いたくないはずがない。フーゴは彼女の背中を押すべく口を開く。
    「忘れるどころか、写真にずっと話しかけてるそうですよ。『マンマ』とね」
     しかし、イルーゾォはやはり諦めたような顔つきで首を振った。
    「鏡には一人しか入れられない。あまり強いエネルギーはないんだ」
    「あのね、イルーゾォさん、僕は二人の再会を邪魔しようなんて思っていませんし、第一モルガナを抱っこしているのに意識を失うわけにはいきませんよ。最初から、あなたとモルガナ二人きりの想定で話しています」
    「だが、今の私は触れることが出来ないからな。でも――」イルーゾォは一瞬考えて、ためらいつつ言った。「ちょっとだけ、顔を見るくらいなら――」

      二十九
     フーゴがモルガナを連れてポンペイ遺跡を訪れたのは、それから二週間後のことだった。五月に入り、初夏の陽気で暖かく過ごしやすい外出日和だ。あれから一ヶ月も経つとギャング抗争だの制裁だのという噂も収まり、遺跡にも人が戻って観光客ともよくすれ違うようになった。フーゴはモルガナを抱っこして、『悲劇詩人の家』を目指し遺跡の中を進んでいく。
    「もうすぐお母さんに会えるよ」
     フーゴはモルガナに笑いかける。今日はお母さんに会いに行くということで、一番かわいい服を着せて貰っていた。お気に入りのぬいぐるみを持って、幼子はご機嫌な様子で「まんまー?」と言った。
    「うん。君のマンマ。今のマンマは、君を抱っこ出来ないけど……お話は出来るよ」
     フーゴは鏡を取り出し、鏡面にモルガナが映るように傾けた。
    「マンマ!」
     モルガナは鏡を見てぱっと喜ぶと、そのまま眠ったように体から力が抜けた。フーゴには見えなかったが、モルガナにだけはイルーゾォが見えたのだろう。フーゴは陽だまりのように温かなモルガナを優しく抱きしめる。
     今頃、おしゃべりをしているのだろうか。
     今頃、あんよが上手になったのをみせているのだろうか。
     今日ばかりは存分に甘えられるといいが。
     しかしわずか数分後、モルガナの体がびくっと震えると、ぱっちりと目を開けて、辺りを見回し始めた。
    「あれ? 随分早――」
     フーゴが言いかけるのと同時に、モルガナは顔をしわくちゃにしたかと思うと、激しい勢いで泣き始める。「マンマ、マンマ」と呼びながら。泣き声と言うより、叫びに近かった。
    「え、ええ――?」
     一体何が――。フーゴは鏡を見るが、イルーゾォは見えない。周りの観光客は驚いてフーゴに視線を向ける。
     ひとまず今はここを離れた方がいいだろう。
     フーゴはそう判断し、モルガナを連れてその場を後にした。
     
      三十
     一体どれほどの時間そうしていただろう。外はもう日が傾き始めていた。イルーゾォは鏡の中で一人、膝を抱えていた。後悔と自己嫌悪だけがあった。わかっていたのに。自分が死者で、あの子には決して触れられないことも、あの子が自分に触れられないことも。わかっていたのに。――本当に、わかっていたのだろうか? 本当にわかっていたのなら、鏡の中から見るだけで満足していればよかったものを。
     顔立ちが少し「子供」になっていたのがうれしくて、もっと近くで見たいと、愚かにも願ってしまった。
     名を呼びたいと思ってしまった。
     もっとはっきり声が聞きたいと考えてしまった。
     ――そんな資格はないというのに。
     ふと気配を感じて顔を上げると、鏡を持ったフーゴが一人で立っていた。イルーゾォはフーゴを招き入れる。
     フーゴはイルーゾォの様子に一瞬驚いた顔をして、傍らに腰掛ける。
    「モルガナは、孤児院に帰してきました。あの後たっぷり外遊びをしたので、よく寝ています」
    「そう。ありがとう」
     イルーゾォはぼそりと返事をした。ただならぬものを感じ取ったのか、フーゴは恐る恐る口を開く。
    「何があったんですか……?」
     イルーゾォは先ほどの出来事を思い出す。
     鏡の中に入ったモルガナは、イルーゾォの顔を見ると「マンマ!」と声を上げて、駆け寄ってきた。そう、駆け寄ってきたのだ。ぺたぺたと、危なっかしい足取りで。イルーゾォはとっさに受け止めようとした。だが、実体を持たないイルーゾォが幼子を受け止めることも、意識だけの幼子が母の胸に飛び込むことも出来ず、幼子の『体』はイルーゾォをすり抜けてべちゃりと地面に転んでしまう。
     状況のわからないモルガナは「まんまー?」と呼んであたりをキョロキョロと見回す。すぐにイルーゾォを見つけて「マンマ!」と駆け寄るが、やはり触れることは出来なかった。
     喜びに満ちていた顔は、次第に心細さと不安に塗りつぶされていく。母がすぐ傍にいるのに触れられない。触れようとすると転んでしまう。何度も何度も繰り返すうちに、小さなモルガナもそのことに気付いたらしい。モルガナは「まんまあ……」と悲しげな声を上げると、顔をくしゃくしゃにゆがめて、蹲るようにして泣き出した。反射的に抱き上げようと思っても、叶うはずがなく。イルーゾォはフーゴの温かい腕の中に娘を帰すことしか出来なかった。身を引き裂くような悲しみの叫びが、耳にこびりついて離れなかった。
    「僕の考えが足りませんでした。ごめんなさい」
     一部始終を聞いたフーゴは深いため息をついた。
    「いや、私があの子を鏡の中に入れなければよかったんだ。自分の欲目で、あの子を傷つけてしまった」
    「傍であの子の姿を見たいと思うのは、おかしいことじゃあないでしょう。まだ小さすぎただけです。もう少し大きくなって……色々なことがわかるようになったら、また――」
     イルーゾォはうつむいたまま首を横に振った。
    「次はない」
    「でも……」
    「触れることも出来ない死人の幽霊じゃあなく、生きている人間の温かい腕の中にいるべきなんだ。死んだ人間のことなんか忘れるくらい、愛してやってくれ」
     フーゴは眉尻を下げ、きゅっと唇を結んでいた。悲しみのこもった目でしばらくイルーゾォを見つめて、ようやく口を開いた。
    「……わかりました。でも、気が変わったら言ってください」
     イルーゾォは陰りのある曖昧なほほ笑みを向けるだけだった。
     
      三十一
     組織のトップが変われば、当然在り方も変わる。ジョルノがパッショーネのボスとなって早くも半年以上が経過していた。
     フーゴは彼の右腕として、チームの再編やら会計やら麻薬ルートの調査やらその他諸々で多忙であった。ミスタは机仕事ではあまり役に立たないし、幽霊のポルナレフは物理的にこなせないので、ほとんどフーゴの肩にのしかかってくるのである。
     それでも、既存幹部の多くがジョルノに忠誠を誓ってくれたのは幸運だった。徹底的に自らを隠したディアボロと違い、ジョルノは堂々と彼らの前に姿を現した。単なる運の良さでボスを倒した小僧であれば、従う者などいなかったであろう。「俺の方がうまく出来る」と思う者も出たかもしれない。しかし彼らをして認めさせ、傅かせる確かなものがジョルノにはあった。類い希なカリスマ性だ。正しい方向へ人を導く力があり、導かれる者も彼の力になりたいと思わせる魅力がある。そのことにどれほど助けられたかは計り知れない。
     諸聖人の日(オンニサンッティ)が過ぎるとすぐナターレだ。フーゴはナターレの打ち合わせのため、モルガナのいる孤児院へ向かっていた。孤児院はすっかり綺麗になっていた。最初に訪れた時はボロボロだった外壁も、今では綺麗に修繕され、老朽化していたトイレやシャワーといった設備も全て新しくなっている。窓にはプランターが置かれ、子供達の植えた花が育てられている。パッショーネの麻薬対策の一環として、孤児院や児童施設への援助が行われているのだ。
     亡きブチャラティは子供達にまで麻薬の汚染が広がっていることを嘆いていた。麻薬ルートそのものを遮断するだけでなく、児童福祉を整え、そもそも麻薬に手を出さないようにすることも対策の一つ、ということだ。麻薬によって得た利益を麻薬対策に使うことはブチャラティの想いに報いることにもなるだろうし、児童福祉を充実させることは、路上で野良猫のように生きていたかつてのナランチャたちを救うことにもなるだろう。
     孤児院に入ると、いつものようにシスターが温かく迎えてくれた。

     
      三十二
     ポンペイ遺跡に晩秋の風が吹き渡る。フーゴはいつも通り、鏡を持ってイルーゾォのもとを訪れていた。あれから彼女が娘の顔を見たいと言うことは一度も無かった。
     モルガナは一歳半を過ぎて、小走りも出来るようになったし、言葉もわかるようになってきた。体が大きくなって、顔も随分と赤ちゃんっぽさが抜けて、年上のお兄さんやお姉さんとごっこ遊びも出来るようになった。フーゴはできる限りモルガナの成長ぶりを伝えてはいるが、イルーゾォは話だけで満足しているような口ぶりである。あの出来事で深く傷ついたのは、むしろイルーゾォの方だったのではないか。フーゴはそう思っていた。
     赤黒いしみのある場所に立って鏡を見れば、中に招き入れられる。初めて出会った時と寸分変わらないイルーゾォがいつも通り待っていた。
    「外はもう寒いのか?」
     イルーゾォはフーゴの服装を見回して言う。
    「ええ。この頃は風が冷たくて」フーゴはトレンチコートの襟を整えながら答えた。ネアポリスの風は、結構冷たいのである。イルーゾォはにやにやしながら口を開く。
    「あんな穴あきスーツ着てたんで、寒さには強いと思ってた」
    「あー、言うと思いました」フーゴはのろのろと答えた。
    「あれ、夏は着てなかったよな。せっかく風通し良さそうなのに」
    「いえ……」フーゴは苦々しい表情になった。「孤児院の子供に手を突っ込まれたりするんで、やめたんです」
    「あはは!」イルーゾォは手を叩いて笑った。音は出なかったが。「違いねえな。子供は穴があったら手を突っ込んでみたくなる生き物だからな」
    「ええ、モルガナもね」
     イルーゾォはまた笑った。肌寒さも吹き飛びそうな明るい笑い声に、フーゴも思わずつられてしまう。
     この半年、多忙なスケジュールの間を縫うように、フーゴはイルーゾォの元を訪れ、様々なことを話してきた。モルガナのことはもちろん、彼女の仲間についての話をした。フーゴの仲間の話もした。サッカーの話もしたし、公開されたばかりの映画の話もした。フーゴにとっては楽しい時間だった。イルーゾォはいつも人を小馬鹿にするような態度で、ズケズケとものを言う。最初こそ眉をひそめることもあったが、慣れるとそこが好ましく思えてくる。
     イルーゾォの笑いの嵐が過ぎ去った頃を見計らって、フーゴは口を開く。
    「――それで、今日は相談がありまして」
    「相談? よしよし、このヨーロッパ一の美人なお姉さんが聞いてやろう」
     イルーゾォはツンと頭を逸らせた。すぐに調子に乗るのも、彼女なら不思議と好ましく思えてくるのは何故だろう。
    「では遠慮無く」フーゴはほほ笑んだ。「モルガナの、ナターレのプレゼントについて」
    「ナターレの」イルーゾォは復唱した。
     孤児院では、子供達が希望するもの――勿論、あらかじめ決められた予算の範囲内でだが――を贈ることになっている。ナターレの昼食会についての打ち合わせの際、シスターからモルガナに贈るプレゼントについて相談があったのだ。
    「せっかくなら、イルーゾォさんの贈りたいものがいいと思いまして」
    「……予算は?」
     フーゴはイルーゾォに耳打ちする。別に、他に誰がいるわけでもないのでその必要はないのだが、なんとなく出た行動だった。
    「思ったよりあるな……」
     イルーゾォも何故か声を潜めて言った。
    「今年は組織(ウチ)の支援がありますから」
    「うーん……」
     イルーゾォはうなり声を上げると、目を閉じて腕を組んだ。
     
      三十三
     礼拝堂でナターレのミサが行われると、十一時から待ちに待った昼食会である。子供達が競うように食堂に向かうと、テーブルにはタコのマリネ、ブルスケッタ、魚介のサラダ等アンティパストが所狭しと並んでいた。プリモにはボンゴレのスパゲティ、セコンドにはウナギのフリット、付け合わせにカリフラワーのマリネ、そしてドルチェにはパネットーネとストゥルーフォリ(一口ドーナツの蜂蜜がけ)が待ち構えており、既に食堂にいい匂いを漂わせている。何年もこの孤児院にいる子供達も、こんなご馳走が並んでいるのを見るのは初めてのようだった。
     子供達はそわそわしながら食前の祈りを終えると、目を輝かせてご馳走にがっついた。ご馳走を食べるにはまだ小さなモルガナには特別にプレートが用意され、白いチーズリゾットとトマトのリゾットでサンタクロースを模したものや、茹でたブロッコリーとほうれん草をツリーに見立て、チーズや星形にくりぬいたにんじんで飾り付けしたものなどが並んでいる。
     フーゴはモルガナの横に座って、その食事の手伝いをすることにしていた。子供の成長とは早いもので、モルガナはもうスプーンもフォークも使うことが出来るが、イルーゾォならきっとそうしただろうと考えたのだ。
    「美味しい?」
     スプーンを口に運びながらフーゴがきくと、モルガナは目をぎゅっとつぶって両手をほっぺたに当て、「ぼーのー」と言った。
    「本当に美味しそうに食べるね」
     フーゴも思わず目尻を下げてしまう。確か、極東ではえびす顔というらしい。相当しまりのない顔をしているだろうことは自覚していた。
     長い長い昼食会が終わり、ナターレのゲームをすると、お待ちかねのプレゼントの時間だ。子供達は自分のプレゼントの包みを破くと、互いに見せ合い、歓声を上げる。フーゴはモルガナの元に大きな箱を持っていった。赤い紙に包まれた大きな箱だ。
    「はい、モルガナの分だよ」
    「もるがなのー?」
    「そうだよ。ほら、このリボンを引っ張ってみて」
     フーゴに指し示された通り、モルガナはリボンの結び目の端を引っ張ると結び目はするりとほどける。フーゴが包み紙を破くと、可愛らしいピンクの箱が現れた。モルガナは「おー」と声を上げる。
    「ほら、開けてみて」
     フーゴに促されて、モルガナは両手でよいしょと箱を持ち上げる。すると中からふわふわで暖かそうな服がたくさん出てきた。可愛らしいくまの耳のついたふわふわのポンチョにムートンブーツ、手袋、そしてポンチョと同じ色の小さなくまのぬいぐるみ。
    「ふわふわであったかそうだね?」
    「ふあふあ~?」モルガナはふわふわのポンチョを抱きしめながら無邪気に笑う。
    「マンマから、君にだよ」
    「マンマー?」
    「モルガナが、寒い思いをしないようにって」
     ――あの時、三日ほど悩みそうな雰囲気を醸し出していたイルーゾォは意外にもすぐに答えを出した。
     少し照れたように下を向きながら、「あったかいの。あったかい服」と言ったのだ。そして「くまの耳のついたのがいい。買ってやれなかったから」と加えた。その希望をもとに、フーゴが見繕ったものだった。
    「着てみるかい?」
     フーゴはポンチョを着せて、持っていた鏡でモルガナの姿を映してやる。モルガナは、鏡に映った自分の姿を見て、きゃっと喜びの声を上げた。やわらかなベージュ色の生地が、白い肌と母親譲りの黒髪によく似合っている。モルガナはお兄さんやお姉さんにみせて回って、ご満悦の様子でフーゴの足下に戻ってきて、腕を広げてくるくると回った。
    「よく似合ってる」フーゴはモルガナに微笑みかける。「マンマにもみせてあげたいけれど……」

      三十四
     その日モルガナは、とびきりおしゃれをしてポンペイ遺跡を訪れていた。お気に入りのポンチョにムートンブーツ、そして手袋に、お気に入りのぬいぐるみたち。マン・イン・ザ・ミラーのぬいぐるみを背負い、片腕にくまのぬいぐるみを抱いて、全身をお気に入りに包まれながら、フーゴに手を引かれててくてくと遺跡の中を歩いていた。
     早春のこの日はいい天気だった。肌寒さの中に春の気配が感じられる。手袋はもう暑いと思われたが、モルガナはどうしてもつけたがったのだ。
     やがてフーゴとモルガナは、あの赤黒いしみのある場所にたどり着いた。あの後もイルーゾォから「気が変わった」という言葉は聞いていない。今日モルガナを連れてきたのは、完全にフーゴの独断だった。後でイルーゾォがなんと言おうと、今日だけは連れてこないといけないと思ったのだ。フーゴはしゃがんで、モルガナに視線を合わせる。
    「モルガナは、何歳になったかな?」
    「にしゃい!」
     モルガナは親指と人差し指――につられて中指を立てて元気よく答えた。
     今日はモルガナの二歳の誕生日だった。

      三十五
     フーゴが前触れもなくモルガナを連れてきたのは、イルーゾォにとって別に驚くべきことではなかった。とうに想定済みである。きっと後で叱られることも承知で、彼はそうしないとならないと思ったのだろう。彼はそういう人間だ。いかにもエリート風な見た目で、合理主義的で、その上感情の起伏が激しいが、根本的にやさしく、きっちりとしている。もう少しくらい肩の力を抜いてもいいだろうと言ってやりたくなるくらいに。
     だから今日という日にモルガナを連れてきたのも、何ら不思議なことではない。今日はあの子の二歳の誕生日なのだから。
     ――モルガナは、何歳になったかな?
     ――んー、にしゃい!
     フーゴが尋ねるたびに、モルガナは元気よく、指を三本立てて答える。
    「それじゃあ三歳だ」
     イルーゾォはほほ笑みを浮かべながら独りごちた。
     鏡の中から聞く声は水中のようにくぐもっていて、鏡の中から見る姿は、ぼやけた影のようだけれども。それでも、イルーゾォにはわかる。確かにわかる。フードにくまの耳がついていることが。マン・イン・ザ・ミラーのぬいぐるみを背負って、小さく可愛いムートンブーツを履いていることも。体も顔つきもすっかり子供っぽくなって、言葉もだいぶ話せるようになったこともわかる。
     ――マンマに貰った可愛い服をみせてあげて
     ――マンマ~? マンマどこー?
     モルガナはその場でくるくると回って、母親の姿を探す。フーゴはちらちらと鏡でモルガナの姿を映しているけれども、イルーゾォは娘を鏡の中に入れる気はなかった。やがて、フーゴはイルーゾォの意を汲んで、鏡を懐にしまう。
     ――マンマはー?
     イルーゾォはまだキョロキョロしているモルガナにそっと近づいて、膝をついた。
    「ここにいる。ここにいるよ」
     そしておぼろな――しかし、確かに感じられる娘の影に、頬をすり寄せる。
     ――見えなくったって、マンマはモルガナのすぐそばにいるよ。
     そう言うフーゴの優しい声が聞こえた。

      三十六
    「今日はあなたの命日……」
     空を見ながら、フーゴが呟いた。イルーゾォも空を見上げている。二人は壁にもたれて、並んで座っていた。
     あの時――彼女を殺したときは、まさかこんな奇妙なことになるとは思ってもいなかった。様々なものが終わり、そして始まりを迎えた日だった。
    「もう一年か。早いもんだ」イルーゾォは気のない様子で言った。
    「モルガナも、随分大きくなって……僕もそんな頻繁に見ているわけではないんですが、子供の成長の早さには毎回驚かされ――」
     フーゴははっとして口をつぐんだ。本当なら、あの子の成長の全てをイルーゾォが自分の目で見届けているはずだった。それを思うと、どうしてもやりきれないものがある。
    「なんだよ? 今日はしけたツラを見せに来たのか?」
    「いえ、そういうわけでは……」
     フーゴは地面に視線を落とす。地面にはまだ、赤黒いしみがあった。風雨に洗い流されることもなく、一年前と変わらない姿である。組織に回収された暗殺チームの亡骸は、あの後ジョルノによって一カ所に埋葬されたが、ウイルスをまともに浴びたイルーゾォの亡骸はほとんど残っていなかった。溶けきらずに残っていたわずかな骨と毛髪、衣類が亡骸の代わりとなったのだが、彼女は依然この現場にいる。仲間と一緒の墓地ではなく、このしみが彼女の墓標なのだと思えてくる。
     幼い娘が気がかりで死に場所に縛られてしまったイルーゾォだが、そんな彼女を仲間は今も心配しているのではないだろうか。写真に写っていた青年達の姿が脳裏に浮かぶ。
    「……けど、そう簡単に割り切れるもんじゃあないです。あなたのことも、あなたの仲間のことも。人となりを知ってしまうとなおさら」
    「だが、いつまでも立ち止まってちゃしょうがねえだろ」イルーゾォがけだるげに首を振ると、フーゴは小さく頷いた。
    「ええ。いくら考えても、死んだ人も、過去も、戻って来やしません。わかってますよ。それでも、もしかしたら別の未来があったかもって思ってしまうんです。その思いは忘れずにいたいんです」
     イルーゾォは驚いたような顔でしばらくフーゴの横顔を見つめて、「そうかい」と呟く。それから、フーゴの胸に挿してある一輪の白い花にほほ笑んだ。

      三十七
     街にさわやかな緑色の風が吹き渡る。ネアポリスは今、初夏である。そんな折だが、フーゴには一つの悩みがあった。仕事で抱えているものと比べれば小さくはあるだろうが、ある意味大きな問題でもある。
     成長著しいモルガナがあらゆることに興味を持つようになり、ついにシスターやフーゴに「パパはー?」と聞くようになったのである。
     というのも、どうやら絵本を読んで貰ううちに、マンマがいればたいていの場合パパもいることも学習したらしい。モルガナの枕元にある写真には「パパっぽい人」が現在六人写っているが、この中のどれがパパなのか、知りたいようなのだ。
    「――というわけなんですよ。あなたの意見を反映させようと思って。どうしましょう?」
    「どうしましょうも何も、パパは生まれる前に死んじゃった、写真は残っていない、でいいだろ。死因は適当に事故とかでさ」
    「まあ、そうですよね……」
     あまりに想定通りの返答に、フーゴは苦笑した。あっという間の、まさにスピード解決にも関わらず、フーゴはため息をつく。
     鏡の中は相変わらず白っぽくて、見えるものと言えば見慣れた遺跡の景色と空の丸天井くらいだ。蝶や鳥が目や耳を慰めてくれることもない。自分以外の話し相手もなく、日々の楽しみもなく、眠って時間をやりすごすこともない。彼女が味わっているのは暇、などという言葉で足りるものではないのだ。圧倒的な孤独である。
     フーゴは無意識に、胸に挿した青い花に手を這わせた。イルーゾォの命日に、フーゴは胸に白い薔薇を一輪挿していった。それは、浮ついた気持ちからではなく、ただ彼女とその仲間の死を悼むものだった。鏡の中では、手に持っているものは持ち込めないが、衣服や腕時計、ネクタイ等身につけているものはビジョンとして再現される。それを利用して、胸に挿して行ったのだ。
     あの日胸に花が挿してあるのを、イルーゾォはちょっぴり気に入ったらしい。以来フーゴはイルーゾォに会う日には胸に一輪の花を挿すようにしている。ミスタはあからさまにニヤついた視線を向けてくるが、フーゴも満更ではなかった。
     イルーゾォに会いに行くのは、いつしか楽しみになっていた。一方で、唯一彼女と接点をもつ自分が、少しでも彼女の無聊や孤独を紛らわせられていればよいのだが――。そんな不安にいつもつきまとわれてもいる。
    「その花、見たことあるな」
     不意にイルーゾォが口を開いた。
    「花には詳しくないんで、よく知らないんだが」
    「ヤグルマギクですよ」フーゴは食い気味に言った。「道端でも見られる花ですが、繊細で愛らしい花です。ツタンカーメンの棺の上に置かれた花として有名ですが、実は見つかったのはヤグルマギクだけではなくて……」
     つい、いつもの癖で話し出すとイルーゾォはクスクスと肩をふるわせて笑い出した。
    「ご、ごめんなさい。つい、つまらない講釈を」
    「いや、こっちこそ悪い。お前が水を得た魚みたいだったから、面白くて」
     イルーゾォは一瞬黙り込んでから、再び口を開いた。
    「――ありがとな」
    「え?」
     思わずきょとんとした顔で声を漏らすと、イルーゾォはふわりと笑った。随分柔和な笑みだった。
    「大した用もないのに来てくれたことにさ」
    「大した用でしょう、元はと言えば、モルガナの話で来たんですよ?」
    「でも、お前の中で既に結論が出ていたし、私も同じ考えだと確信していただろう? それに、わざわざ花まで挿してきて。嬉しいよ。ここじゃあ、見られないからな」
     フーゴはかすかに顔を赤らめた。確かにイルーゾォが喜ぶと思って挿している花だが、面と向かって言われるとやはり面はゆいものがある。
     イルーゾォは通りの向こうに視線を向ける。イルーゾォには遺跡を見学する観光客達の影が見えているのだろう。人の動きを追うように、視線が動く。
    「――それに、慣れればここも悪くねえんだぜ」視線を向こうに向けたままイルーゾォが言った。「暇は暇だが、観光客を眺めたり、くだらねえ会話を盗み聞きしたりできるし、たまに鳥も降りてくる。ぼやけちゃいるが、すげえ近くで観察できたりするんだぜ」
    「そういうもんですか?」
     フーゴは怪訝そうな顔で口を挟んだ。
    「殺される心配もねえ――ってのは冗談だが、金や飯の心配も要らねえし、陰気な仕事のことを考えなくてもいい。娘のことだけを考えていられる。本当は、生きているうちにそんな時間をとるべきだったんだろうがな」
    「イルーゾォさん――」
    「いじりがいのある話し相手も来てくれるし」
     イルーゾォは悪戯っぽい目配せをすると、また観光客が集まっているらしい方向に視線を向けた。フーゴは訝しみながらも彼女の彫刻作品のような横顔を見る。イルーゾォはいつもの涼しげな顔だった。
     
      三十八
     日は傾きつつあるが、夕闇はまだ遠い。初夏のみぎり、日は昨日よりも長くなる。フーゴは思い切ってあることを聞いてみることにした。ずっと気になっていたのだが、なかなか聞けずにいたことだった。
    「あの子の父親について聞きたいのですが」
    「なんだよ藪から棒に」そう言いつつ、イルーゾォはきちんとフーゴに向き直る。「で、何が知りたい?」
    「人柄や彼の組織、その最期、そしてスタンド能力を」
    「わかった」
     イルーゾォは他に何をいうでもなく頷いた。
    「妙なヤツだった。こんな大陸一の美女とあっさりお近づきになれたことを疑いもしねえ。落とすのは簡単だった」
    「はあ」
     今度は大陸一ときたか、どんどん盛っていくなと思ったが、フーゴは何も言わないでおいた。沈黙は金である。
    「本人はただのビジネスマンみてえな感じでさ。金はうなるほど持ってたから、基本的には金の力で穏便に済ませようとしてたな。マフィアのくせに。だが、その金の力ってのが組織(パッショーネ)にとって目障りになったんだろうな」
     イルーゾォはまた屋敷に置いてきた高級車やアンティーク家具を思い浮かべているらしく、「もらっておけばよかったなあ」と漏らしていた。そんなイルーゾォに構わず、フーゴは尋ねる。
    「組織(パッショーネ)は莫大な利益を麻薬で得ていましたが、彼は何で……?」
    「どうもそれがヤツのスタンド能力らしくてな。金の卵を産む鶏がわかるんだって本人は言ってたけど。恐らく、金に限定した予知能力みたいなもんなんだろう」
    「ああ、つまりインサイダー取引みたいなことが出来ると」
     フーゴは一人で納得して頷く。なるほど、金脈を確実に、その上合法的に掘り当てられればこれほど心強いことはない。そしてその超常的な嗅覚は、そのまま求心力にもなるだろう。麻薬密売で儲けている組織にとっては目障りになるのも頷ける。
    「んで、ネアポリスにその鶏の匂いを嗅ぎつけて、郊外の屋敷に根を張ったようだ。私はそいつの仲間の能力の有無や屋敷の見取り図を密かに仲間に知らせた」
    「でも、結果的に暗殺を実行したのは仲間って事は、あなたは調査だけだったんですね」
    「いや」イルーゾォは苦々しい表情で首を振った。「機を見て加わる予定だったんだが、出来なくなった」
    「出来なくなった?」フーゴは聞き返した。
    「コトが始まる前に逃がされたんだよ。地下室にある秘密の抜け道からな。私もつかめなかった……ヤツしか知らない抜け道だった。屋敷自体は二百年以上前からあるし、当時の貴族か何かが作らせた道で、ヤツもたまたま気がついたんだろうがな。その抜け道が長くってさあ。ようやく出られたと思ったら森の中の井戸だぜ。なんとか屋敷に戻ったら全部終わってたよ」
     イルーゾォは自嘲的な笑みを浮かべて肩をすくめた。フーゴは腕を組んで地面を見つめる。
    「なぜ、自分は逃げずにあなただけを逃がしたのでしょう……」
    「さあ? 相手が相手だからな。逃げ切れねえと悟っちまったんだろう」
    「ふーむ」
     フーゴはうなり声をあげた。逃げても無駄、と悟る頭があれば、愛人であるイルーゾォの顔もパッショーネに割れていると考えるのが自然だ。イルーゾォだけは逃げ切れると確信できる何かがあったのだろうか? それとも、イルーゾォだけは遠ざけたい理由があったのだろうか? それとも――。
     いずれにせよ、真実は過去の闇の中である。
     
      三十九
     青々と茂っていた葉を落とし、寒空の下裸を晒していた木々も、うす緑色の葉を詰め込んだ新芽を日ごとに膨らませてゆく。はやいもので、モルガナは三歳になった。
     フーゴはモルガナの手を繋いでポンペイ遺跡を歩く。既に何度か訪れたことはあるはずだが、モルガナは興味津々と言った様子で、むしろフーゴを引っ張るようにしてずんずん歩いて行く。
     お下げ髪に紫色のリボンを結んで貰ったモルガナは、もう小さなイルーゾォだった。この年頃特有のいやいや期なのか、本人のもともとの性格なのかは知らないが、気位の高さが表れ始めている。
    「モルガナ」
     イルーゾォの居場所と別方向に進もうとしたモルガナを呼び止めると、少女はくるりと振り向いた。
    「なーに?」
    「あっちに行こう」
    「えーなんでー?」
     モルガナはまあるい頬を膨らませた。フーゴはしゃがむと、モルガナと視線を合わせる。
    「今日は、マンマに会いに行くんだよ。マンマがいるのはあっちなんだ」
    「ほんとにマンマいる?」
    「いるよ。目には見えないかもしれない。でも、いるんだ。いつもモルガナのことを思ってるよ」
     モルガナは疑いを多分に含んだ目でフーゴをじいっと見つめる。
    「あーっ、信じてないね?」
    「めにみえないのに、なんでフーゴはマンマがいるってわかるの?」
     フーゴは一瞬目を丸くした。子供の成長というのは本当に早い。イルーゾォの子供なのでより賢いのかもしれないが。フーゴは感心しつつ、優しく微笑みかける。
    「『音』は目に見えないけど、モルガナは『音』があることがわかるね? 風も目には見えないけど、存在する。僕たちを生かしている空気も、太陽のあたたかさも、やさしい気持ちも、目には見えないけどあるんだ。神様だって、目には見えなくてもいらっしゃるって教わったね?」
    「うん……」モルガナはゆっくりと頷いた。
    「あの場所は、マンマにとって特別な場所なんだ。マンマがいるって信じて。三歳になったよって、教えてあげてね」
     二人は、赤黒いしみのある場所にたどり着く。フーゴが立ち止まったので、モルガナはフーゴを見上げて「ここ?」ときいた。フーゴは頷く。
    「やっぱりみえなーい」
     キョロキョロと見回したあと、モルガナは眉根を寄せる。フーゴは密かに鏡を取り出し、モルガナを映し込んだ。すぐ隣に、イルーゾォがいた。ただ、フーゴに見えているということは、モルガナに鏡を見せたところで彼女には見えないのだろう。
    「見えないね。でも、いるよ。目には見えなくったって」
     モルガナは頷くが、そのままうつむいてしまう。
    「マンマ……」ややあってモルガナはか細い声で呟いた。「モルガナね、三歳になったの……」
     鏡の中のイルーゾォの口が動いた。きっと、「おめでとう」と言っているのだ。モルガナは、たどたどしく、ぽつりぽつりと話し始めた。
    「あのね、ひとりでおクツはけるようになったよ、あのね、五つかぞえられるようになったよ。あのね、おトイレいけるようになったよ、あのね……あのね、三歳になったよ」
     うんうんと頷いていたイルーゾォは、ついに気持ちを抑えきれなくなったのか、モルガナの影をつよく抱きしめた。
     しばらくして、二人はその場を後にした。フーゴに手を引かれるモルガナは振り返る。何度も振り返る。何度も何度も振り返る。
    「フーゴ、あのね」ふいにモルガナはフーゴを見上げた。
    「ん、なあに?」
     モルガナの顔に、いっぱいの笑顔が浮かぶ。
    「マンマね、いたよ。だって、さっきね、ぽかぽかしたの」
     
     四十
     その日フーゴはちょっとした用事で孤児院を訪れていた。施設内の設備はかなり新しくなってきており、見違えるようである。礼拝堂は壁が綺麗になっただけで大きく変わっていない。昔と同じ、どこかほっとする空気が漂っている。
     子供も随分と増えた。幼い子ではなく、家に寄りつかず、街をうろついていたような少年少女が身を寄せるようになったのだ。それに伴い人員も増えたが、シスターは相変わらず忙しく働いている。
     フーゴは遊戯室に立ち寄った。まだ小学校に上がっていない子供達が数人遊んでいた。モルガナはクレヨンを握って紙に絵を描いていた。
    「チャオ、モルガナ。何描いてるの?」
     フーゴが覗き込むと、顔が三つ描いてあった。顔からは直接手足が生えている。いや、お下げ髪だろうか。モルガナは黙ってフーゴを見上げると、得意げに絵を見せて、大きく描かれた顔を指さした。
    「あのねー、これねー、マンマ」
    「やっぱりマンマかあ。すぐわかっちゃったよ! 上手にかけたねえ」
     モルガナの頭を撫でると、にーっと笑って、小さな顔を指さす。
    「これモルガナー」
    「あっ、マンマと一緒にいるところを描いたんだね?」
    「うん」モルガナはこくんと頷き、それからイルーゾォの顔より一回り小さな顔を指さす。「これフーゴ」
    「僕も描いてくれたの? 嬉しいなあ」
    「でねー」モルガナは紙の隅に描かれた四角を指さした。「マンマとモルガナとフーゴのおうちー」
    「え――」フーゴは一瞬、言葉を詰まらせる。「そ、そうか。そうなんだ……そうだったのか……」
     モルガナは一通り見せて満足したのか、箱から別の紙を取り出し、押しつけるようにしてフーゴに渡した。
    「フーゴもおえかきしてー?」
    「えー? いいけど……」マイペースなモルガナに困惑しつつ、フーゴは色鉛筆を握る。「なに描こうかなあ」
    「マンマかいてー」
    「マンマかあ。僕、あまり上手じゃないけど……」
    「マンマかいてー」
    「わかった、マンマ描いてみるね」
     根負けしたフーゴは大人しく紙に向かうと、「モルガナもかくー」とクレヨンをしっかり握って新しい紙に絵を描きだした。
     モルガナは初め夢中に描いていたが、フーゴの手元を見て目を輝かし、手を止めると、ぴったりと隣に張り付いてかぶりつくように絵が完成していくのを見ていた。フーゴは若干の描きづらさを覚えつつも、視線を気にしないようにして線を引いていく。色を付けていく。影を置いていく。思いを乗せていく。
     いつの間にやらフーゴの周りには他の子供達も集まっていた。フーゴは顔が熱くなっていくのを感じながらも、ついに色鉛筆を置いて口を開く。
    「か、描けたよ? どうかな?」
    「マンマ……」
     モルガナは大きな紅尖晶石の目に、星々より澄んだ光を湛えて呟いた。
     周りの子たちは雛鳥のように首を伸ばして「すげー」「うめー」と口々に呟く。フーゴは赤い顔のまま、背を丸めて体を縮める。子供達の視線のせいもあるが、絵の出来の方が気恥ずかしかった。目の肥えたフーゴにとってそれほど巧い絵ではないし、その割にあまりにも気持ちが注がれすぎている――ような気がする。
     モルガナは紙をしっかりと手に持って、穴が開くほど見つめている。そして、半ば夢を見ているかのような声で言った。
    「フーゴ、これちょうだい?」
    「う、うん。気に入ったのならあげるよ」
     照れくさく思うところはあるが、こんな様子で言われたらフーゴも頷くしかなかった。モルガナは嬉しそうににっこりと笑って、「ありがと」と言った。
    「どういたしまして」フーゴははにかみながら言った。「――じゃあ、モルガナがさっき描いたマンマとモルガナと僕の絵、僕にくれないかな?」
     モルガナはフーゴの描いた絵からほとんど視線を外さずに、自分の描いた絵をフーゴに渡す。
    「どーぞ」
    「ありがとう。大切にするね」
     フーゴはほほ笑んで、モルガナの小さな頭を撫でた。
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