Dom/subユニバースなモクチェズ***
「私たちもそろそろ、パートナーになることを考えませんか」
二人が生活するセーフハウスの一室でなされたチェズレイの提案に、モクマは思考も動作も停止した。
夕食を終え、二人は並んでソファに座っている。時折晩酌に付き合ってくれる相棒に、今日は酒は無し、と言われていたので、何か大事が話があるのだろうと思ってはいたのだが。
パートナー? 俺たちは、すでに唯一無二の相棒だと思っていたのだが、違ったのだろうか。落胆しかけてすぐに、いや、違う意味なのだとわかった。
「……おじさん、これでもDomなんだけど」
「それが何か問題でも?」
「へっ? ってことは――お前さん、subだったの!?」
「ええ」
男や女という身体的あるいは精神的な性別の他に、人間は第二の性別をもつ。それが、DomとSubだ。一般的に、Domは支配したい性、subは支配されたい性、と理解されている。欲求が満たされない状態が長く続くと、Domもsubも抑うつ症状などの体調不良を起こすため、特定のパートナーがいない場合は、一時的なパートナーとの行為に及ぶか、抑制剤を服用する場合が多い。
これまでのチェズレイの言動を見る限り、相手を支配することを好み、相手に支配権を握られるのことは許せないように見受けられたため、まさかsubとは考えもしなかったモクマであった。
「あなたにもDomだと思われていたのは光栄ですね。誰かに縛られる気はありませんでしたので、これまでは自分自身に暗示をかけ、Domとして振舞っていましたから。Domと関係を持ったことは一度もありません。あなたは、どうなんです? 特定のsubと関係をもったことは?」
「しばらく、ないねぇ……。俺は、もともと支配への欲求が薄いんだ。お前さんと組んでからは、守り手として十分すぎるくらい、働かせてもらっちゃってるし」
がんじがらめに相手を縛り付け、相手のすべてを自分の思うままに支配したい。そんなDomもいるが、モクマは過剰な束縛には居心地の悪さを感じるタイプだった。
Domの欲求には、守ってあげたい、信頼がほしい、というものもあり、チェズレイの世界征服に付き合う今、モクマは守り手として働くことで欲求が満たされていた。
美しく輝く鳥は、鳥かごに囲って愛でるより、何者にも囚われず空を自由に飛び回れるようにしてやりたい。鳥が自由に飛べる空を守るのが守り手の仕事であって、飛ぶ姿を地上から眺めるだけで満足だった――以前なら。
今は、自分の目の届く範囲にいて欲しいし、飛び回ったあとでできることなら、自分の肩にとまって休んで欲しいとも思っている。
敵の包囲網から脱出する時、チェズレイはモクマが必ず来ると信じて、どんな高い場所からでも迷わず飛ぶ。チェズレイを空中で掴まえるあの瞬間。確かな信頼を感じて、モクマは満たされるのだ。
「今までも問題なかったんだし、このままでよくない? お前さん、人に直接触られるのは苦手だろうに」
「ええ、あなた以外は」
――あ、いかん。今のは、まずい。
モクマの本能が、覚醒する。チェズレイの信頼が嬉しい、と鳴く。もっと、もっと欲しいと思ってしまう。例えば――。慌てて、浮かんできた妄想を振り払う。
「い、いやあ、日常生活の範囲内でしょ、それは」
思わず上ずってしまった声に、チェズレイが気づかないはずはない。
「今までは、ね。ねえモクマさん。私は、あなたがどんなDomとして振舞うのか、興味があります。もしも私が、あなたのSubだったら、と想像してみたことは、一度もありませんか? 私にしてみたいことは、何一つないと?」
「……っ」
前者は、無い。だが、チェズレイがSubだと知った今、思い浮かんでしまうことは、ある。
「私は、ありますよ。モクマさんに、されたいこと」
さらりと告げられて、息が止まる。見事に仕留められた。もうモクマは、この男が欲しくて欲しくて仕方なくなっている。
「……あのね、久しぶりすぎて、うまくできるか、おじさんわかんない……」
「最初はお試し期間ということで結構ですよ。相性もありますし」
「お試しねえ……もし合わなかったら?」
「あァ、モクマさん……。まさか……私から逃れられるとお思いで?」
「そっか、お別れはないのね」
「もちろんですよ。何があっても、約束は継続ですから。私たちが死ぬまで、ね」
「わかったよ」
「では、もう少し、話し合いましょうか。これからの、私たちのことを」
「その前に、ちゃんと言わせてくれ。俺は、チェズレイが欲しいよ。俺に、お前を愛させてくれるかい?」
「……はい」
チェズレイの輪郭が柔らかくほどけた気がした。この男も緊張していたのだとわかり、モクマは微笑んだ。
***
セーフワードやNG行為について話し合った後で、少し揉めた。「今から早速試しましょう」と言ったチェズレイに「今日の今日で!? せめて明日にしない!?」とモクマが抵抗したのだ。
明日のことなど知るものか。どれだけ自分がこの日を待ちわびていたことか。
チェズレイは内心、舌打ちをする。いや、モクマは知らなくていいことなのだが。
チェズレイは、モクマがDomであることに早くから気づいていた。一方のモクマは、チェズレイがDomだと思っており、チェズレイに直接的な欲求や言葉を向けたことは一度もない。
しかし、チェズレイがモクマだけに許す行為――例えば晩酌や、両腕に抱かれての跳躍――を受け取る時の様子、そして「あなただけ」と告げる時の満足げな表情から、もしチェズレイがsubだと告白したら、受け入れてくれるのではないか、という予感はあった。
モクマは時に、チェズレイの予想外のことを仕出かすので、最後まで気は抜けなかったが。
問題は、チェズレイの方にあった。
自分はDomだという暗示は解けていないのに、モクマに構われると、誉められると、他の誰からも得られない昂りに、どうしようもなく心が沸き立つ。日常的なやりとりでさえこうなのだ。もしモクマが、チェズレイだけに特別な言葉を、命令を与えてくれたなら、どれ程の歓びだろうか。モクマと過ごすうちに、そんな想像をするようになった。
だが、長年本性を捻じ曲げてきた自分が、今更、subとして生きられるだろうか。
裏社会で生きる者として、subであることは明確な弱味だ。ファントムに撃たれた時、もしもsubの本能を利用され、stay――動くな――と命令されていたら、生命の危機にあっても体は硬直し、確実に命を落としていた。
モクマ相手であっても、明確な弱味を自分から曝すことに、耐えられるだろうか。それが一つ目の懸念だった。だからチェズレイは、自己催眠の中で、何度もシミュレーションを繰り返した。
しかし何よりの懸念は、モクマに支配されたい、望まれたい、自分だけを強く思って欲しいという欲望は、チェズレイが厭ってきた濁りそのもの、ということだ。際限なく濁っていく己を許せるだろうか。――受け止めてもらえるだろうか。
共に歩むことは許された。けれど、濁りに濁った自分から、モクマは逃げ出さないだろうか。怖くて足が竦む。
それでも、チェズレイは覚悟を決めた。手を伸ばすと決めた。
暗示は、モクマと話す前に解いた。詐欺師の矜持にかけて平静を保っていたが、もうこれ以上、焦らされるのは御免だった。
モクマはベッドルームの扉の前まで逃げたが、結局折れた。
「……ちょっとだけだからね……」
「あァ! あなたがどんな風に私を辱めるのか、楽しみですねェ!」
「ちょっ……! そういう欲求はないって言ったよね!? チェズレイ、ステイ!」
「はい」
ステイは、静止を指示するコマンドだ。咄嗟にモクマの口から飛び出した命令に、チェズレイはドアの脇に直立したまま動きを止めた。懸念していた不快感は、薄かった。それ以上に高揚する気持ちがある。
モクマが命令し、チェズレイが従う。これはもう、プレイだ。
モクマは呻いた後で「……少し、待ってて。楽にしてていいからね」と告げ、バスルームに消えた。
水音とモクマの気配に耳を澄ませながら、チェズレイは、モクマへの想いがひたひたと腹の内に満ちていくのを感じる。きっとモクマも同じだ。今、モクマははチェズレイのことを想っている。
subを囲い込み縛り付け、一方的に独占するのがDom、と考える者もいる。
しかし、誠実なDomなら「subは今、己の告げた命令を守っているだろうか?」と、離れている時こそsubを想う。そんな時、Domの心を独占しているのはsubだ。決して一方通行ではない。
小ざっぱりとしたモクマは、バスタオルを手にして戻ってきた。チェズレイの綺麗好きに配慮してか、いつもの烏の行水に比べれば、長い時間の沐浴だった。その間ずっと、チェズレイは指先ひとつも動かさずに、同じ姿勢で立ち続けていた。
モクマは、そんなチェズレイに気づいて大きく目を見張り、困った子だね、というように笑った。覚悟を決めたようだった。チェズレイの前を通り過ぎてベッドルームに入ると、扉を開けたまま、ベッドに腰かけ、
「チェズレイ、おいで」
と、言った。先ほどの、勢いに任せた命令ではない。穏やかな優しさの中にも、強い意志を感じる声音だ。
ただそれだけで、チェズレイは血が沸き立つような興奮を覚えた。
急ぐ必要も焦る必要もない。モクマはチェズレイの一挙一動をもらさずに見つめている。チェズレイは時間をかけ、一歩ずつゆっくりと距離を詰めた。
モクマの前までたどり着くと、チェズレイは小首をかしげてモクマの顔を覗き込んだ。さて、これからどうします? モクマは無表情に近い真面目な顔を見せている。
モクマは、落ち着き払った仕草で足元にバスタオルを敷くと、一言、告げた。
「Kneel」
「……っ」
おすわりを意味するコマンドが、チェズレイの脳を撃ち抜いた。
日常的なやりとりでも発生するStayやComeと比較して、Kneelは明確に上下関係を意識させる命令だ。
Domを演じてきた身に染みついた感覚から生まれる抵抗感と、心を預けたいと思うDomからの命令にすぐに従いたい気持ちが、ない交ぜになって餓えた心と体を駆け巡り、しばし身動きが取れなくなる。やたらと喉が渇いた。
早くも乱れ始めているチェズレイと違い、モクマは無表情のままだ。しかし、モクマの瞳はチェズレイだけを映している。
視線を絡めあったまま、チェズレイはバスタオルの上にゆるりと膝をつく。まだモクマに反応はない。当たり前だ。これだけではまだ命令に従えていない。モクマは命令を重ねることはせず、ただチェズレイを見つめ、待っている。チェズレイは唾を飲み込むと、とうとう、ぺたりと腰を落とした。
その瞬間――モクマが破顔した。同時に、モクマの温かな掌がチェズレイの頭部を包みこみ、
「いいこだ! よくできたね」
そう言って、両手で何度も繰り返し頭を撫でてくれる。モクマの手が触れた場所から、さざ波のような震えが走り、震えは全身に広がって、チェズレイは息が詰まった。うれしい! と、細胞一つ一つが叫び出すようだった。
たかがKneelの命令一つだ。けれど、モクマはチェズレイが差し出したものの重みをわかってくれる。
チェズレイの方から、もっと撫でてほしいと頭を擦り付けると、モクマは「撫でられるの好き? いいこだねえ」と言ってまた誉めてくれた。
しばし幸福感にひたっていると、不意にモクマがチェズレイの顎に指を添えて、軽く持ち上げてきた。顔を上げる。熱を帯びた真剣な視線が、チェズレイを絡めとった。
「チェズレイ。お前はこれから先、俺以外の命令はきいちゃいけないよ。いいね? もし守れなかったら――その時はお仕置きだ。どんな姿になっても、どれだけ時間がかかってもいい。必ず俺のとこに来るんだ。逃げても、必ず追いかけて捕まえるからね」
チェズレイは震える。命令の姿をした言葉の本質は、subのチェズレイを外敵から守る籠だ。チェズレイのsubとしての本能が、裏社会を生きる上で障害とならないよう、チェズレイの命を奪わぬように、守ろうとしている。
他のどんなDomに、どれほど強く、理不尽な命令をされようとも、今日のこの言葉を思い出せば耐えられる。耐えてみせる。どれほど無様な姿を曝そうとも、モクマがチェズレイを手放さないというのならば。
「それ、は、いつまで……?」
「そりゃ当然、俺たちが生きてる限り、だ」
涙が一筋、零れ落ちる。
この人がチェズレイの、チェズレイにとって唯一無二のDom。チェズレイは、モクマのsubだ。そう、実感できた瞬間だった。
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