幸福な日々「ごめんな、チェズレイ」
「いえ、もういいのですよ」
体術でこの無敵の武人に敵う者はいないのだが、昨晩の敵はモクマとの相性が悪かった。精神を攻撃する相手だったのだ。
チェズレイが情報を得るために潜入した部屋。部屋の外で見張りをしてたモクマが倒れたのは、チェズレイがちょうど、敵が使う薬物や暗示についての調査を終えたところだった。
意識を曖昧にする薬物を混ぜた空気を吸わせ、暗示をかけることで敵を無力化する。
――幸福だった過去の夢に囚われろ、と。
遠い過去に囚われている者ほど、眠りは深く濃くなる。もう戻らない幸福に焦がれ、無意識に現実に戻ることを恐れ、長い間目覚めなくなる。
幸福な夢? 知るものか。そこがどれほどに甘美な世界であろうと、チェズレイを置いて、一人だけ夢の中に逃げ込むなど許さない。許してなるものか。
モクマが身に着けたマイク越しに部屋の外の状況を把握したチェズレイは、すぐさま、換気装置を作動させて薬物を排出させた。そうして、動揺した敵をチェズレイが返り討ちにしている間に、予想外に早くモクマは意識を取り戻した。あとは何と言うこともない。
目的を果たして無事拠点に戻り、モクマに薬物の影響が残っていないことを確かめて安堵する。
短い時間とは言え、敵の策に落ちたことにモクマはすっかりしょげて、チェズレイへの謝罪を口にした。心配させてごめんな、と。
入手した情報をモクマと共有する、即ち、暗示の種明かしをする前に、モクマがどんな夢を見ていたのか、チェズレイは知りたかった。
「意識を失っていた間、夢を見ませんでしたか」
「ああ、そういえば……」
「どんな夢だったか、教えていただけませんか」
モクマにとっての幸福。マイカで暮らした幼少の時だろうか。それとも親愛なるボスたちと過ごしたミカグラか。願わくばそこに、僅かでもチェズレイの居場所があったなら、と思う。
「夢っちゅうか……おじさん、時間が巻き戻ったんだと思ってたよ」
「巻き戻る……ですか。どれくらい?」
「1日」
「1……日……?」
「ほら昨日の夜、極東から取り寄せたカニを一緒に食べたじゃない。お前さん初の鍋料理。外にいたはずなのに、気づいたらまたあれ食べててさ。最初から、ありゃ、おかしいなーとは思っとったんだが……」
ついつい完食しちゃった。気づくの遅れてごめんな、と再び頭を下げられる。
「フフ……フフ……はははっははは!」
「お前さん、どしたの、大丈夫?」
あんなことが、たったあれだけのことが、あなたの幸福か。
昨日は初めて、一つの鍋を共有した。
食卓の真ん中に置かれた鍋。モクマは気を遣って、できあがった最初にチェズレイの分を取り分けてくれたが、興がのったのでお代わりもした。
加熱するとはいえ、二人の食べかけにご飯を入れてまた煮る、など受け入れがたいことだったはずなのに、モクマがあまりにも美味しそうに食べるものだから、ついつられてチェズレイも締めのおじやを口にした。
モクマが幸せそうに目を細めていたのを覚えている。確かにあの時、チェズレイも幸福を感じた。
けれど、毎日更新されてしまうような、そんな些細な、チェズレイと過ごす日々が、モクマにとって何よりの幸福だというのか。
笑い続けるチェズレイに、最初は怪訝そうだったモクマが、よくわからんがお前さんが楽しそうならいいか、という表情になる。
明日もしまた暗示をかけられたら、モクマが夢に見るのは、今この瞬間のことなのかもしれない。
「お許しを。あなたがあまりにも可愛らしいことをおっしゃるもので、笑いが止まらなくなりました」
「えっ、おじさん可愛かった? どれくらい?」
「今すぐハグしたくなるくらいに」
「そりゃ大歓迎」
モクマが笑って、大きく腕を広げる。
幸福な日々は、あなたと私が生きている限り、更新されていく。