「……あのさ」
「はい……?」
喉から出た声は掠れてみにくかった。
けほ、と咳払いをすると、となりのおとこはぎょっと目を開いて、あわてて起き上がると水差しに手を伸ばした。……甲斐甲斐しいことだ。
寝転がったまま、緩慢な動きで首を傾ける。あわい間接照明が、おとこの背をぼんやり照らしている。発達した筋肉で覆われて、山みたいに凹凸のあるそこに、細く伸びる引っ掻き傷。
「……ごめん、無理させたね」
「いいえ……、私も、背中を」
起き上がるのにも手を借りなくてはならぬ体たらく。水の中にいるかのよう、芯の芯まで、身体が重たい。
差し出されたグラスの中の水はぬるかったが、痛む喉にはちょうどよかった。
飲み干してやや体裁をととのえた声で指差し言うと、自覚がなかったらしい、首を回してみとめて、「ああ」と笑った。
「こんなのは男の勲章、みたいなモンでしょ。痛くもないし、大丈夫だよ。……残るもんでもないし……」
「……に、しては、浮かない顔をされていますが」
声もなぜだか、進むにつれて覇気が失われていったし。
そういえばさっき、呼びかけた声もなんだか重々しかった。
なんだ。さっきまで熱に浮かされていた頭はどうにもうまく動かない。だるい。それもこれも、はじめてだというのに好き勝手貪られたせいだ。
(もしかして)
……まさか、なにか、わたし、変だったのだろうか。
仮にそうだとして、そんなこと言われても困る。こちらも経験のないことだから事前にいろいろ準備をして臨んだのに、そんなのぜんぶひっくり返して進めたのはそちらじゃないか。
それともなにか、まさか抱いたこと自体を後悔している? やっぱり女の身体とは違った? そもそもおまえに抱いた感情は『これ』ではなかった? ……もうこういうのはやめよう、とか――そんなことを言い出した日にはドレミして昨日までの記憶に巻き戻してやる。
裸のまま、雑に張り替えられたシーツの上にふたり座って。先を促すように睨みつけると、察してモクマさんは乱れた髪を掻いて眉根を寄せて、
「言いたくなかったら、いいんだが……、
……その、目元の。傷を隠すためって言ってたよね」
「……。ええ」
それが何を指しているかはすぐわかった。左目の下、腰が抜けて動けないのを横抱きで連れて行かれたシャワールームでじゃぶじゃぶ洗われようと、身も世もなく泣かされようと、変わらずそこに鎮座する紫紺のきらめき。遠い日にできた、醜い傷の上書き。
頷けば、さらにたっぷりとした沈黙のあとで……、
「…………刺青、なの?」
意を決したように、重たい石を飲み込むみたいに。
問われたのは、そんなことだった。
……。
「アートメイクですが」
「あっ」
あーと、めいく?
端的な答えをまぬけに繰り返す声は、さっきまでのシリアスな雰囲気を一瞬でかき消して、
はじめてきいた!
……という文字が、まるい背中の後ろに見えた。
……セックスの話では、なかった。それはよかったが、代わりに別の理由で頭痛がしそう。
「……まァ、モクマさんのような方には馴染みはないでしょうね。原理としては刺青に近いですが、皮膚のごく上部に色材を入れるので、肌の新陳代謝によって薄まっていきます」
「……なるほど。……つまりは」
「ええ、いつかは消えます。ミカグラに来る直前に入れ直したので、もうしばらくはこのままでしょうが」
という淡々とした解説を、さいごまで聞いて。
「……。……そっかあ……」
はああとため息じみた声と共に、目の前のおとこの身体の力が抜けて表情があからさまにほっとしたものに変わるのを、わたしは見た。
……なるほど。
「――いつまでも、過去の男の痕跡は見たくない?」
形、どう見ても仮面だしね。しかも顔の片側だけ覆うとなれば、どうしても繋がるのは、オペラ座の怪人。幻想の男。
わざと直裁に問うてやると、しかしモクマさんは動じずに、
「……ちがうよ」
静かに否定した。
じっと見つめるけれど、亜麻色の瞳の中には、嫉妬の炎はひとかけらもゆらめかない。
「……それは、俺にとっちゃただの、お前を彩る綺麗な宝石だよ。だが、技術としちゃあその傷、消すことだってできたろうに、それも選ばずに。
終わった後も残り続けるとしたら、仮に本懐を果たしても、見るたびに思い出して痛んじまうんじゃないか、って……」
そして、苦し紛れのごまかし……にも、残念ながら聞こえなかった。
痛みを内包した声。憐れみとも違う、苦々しげな顔。
……きっと、あの夜のことを聞いてから、ずっと考えていたのだろう。その傷は、痛みは、わたしひとりのものなのに、勝手に乗っかって、苦しんで。
お優しいことだ。いつだってこの人の感情の、行動の真ん中には、自分以外の誰かがいる。
受けて、ク、と、唇の端が釣り上がる。
「フフ……センチメンタルですねェ」
うす笑いを浮かべながら、目を閉じる。
……成人を迎えた日のこと。趣味の悪いパーティ会場で、澄んだ演奏は濁り、銃声と共に子ども時代の夢の終わりを告げられた、今でもありありと蘇るエックスデー。
ついに明かされた真相、わたしに似せたその声音は、けれど侮蔑も冷徹さもなく、いっそ恐ろしいほどに耳慣れた、いつも通りの平坦さだった。
思い出すたびに、胸が燃えるようだった。憎らしくて、恨めしくて、きっと哀しかった。
薄い上掛けを手繰り寄せて、膝を立てて座る胸元に押し付ける。
「……私を濁したのはファントムです。あの燃えるような怒りを、屈辱を……、同じものを、与えてやりたかった。
その怒りを忘れぬように、ここに」
まぶたを開いて。空いた手で、そっとまなじりの星屑をなぞる。その向こうに、真剣な瞳。
「……残そうとした。確かにそういう感情も、なかったとは言い切れません」
「……、」
チェズレイ。
たまらない、とばかり。呼ぼうとひらいた口を遮って。
「ですが、……一生を捧げる気はありませんでしたよ。復讐を果たして、濁りを濯いだら、それでお終い」
本心だった。
ぴしゃりと告げると、モクマさんは二度瞬きして、それから眉を下げて、「……そうだねえ。お前はいつだって前を見てるもんね」と、しみじみ言った。
そうだ。わたしはいつだってわたしの為に生きている。
あなたのような死にたがりではない。
(……とはいえ……)
「……まァ、実際、ひとりで復讐を果たしたとして、狙い通りになったかは怪しいですが……。彼にはそもそも、屈辱に濁る心がなかったのだから。
それに、仮に彼がみっともなく追い縋って命乞いしたとして、気持ちは少しばかり晴れるかもしれませんが、あの日々がすべて嘘だったことは変わらない……」
掠れた喉から絞り出される声は本当に醜くて、まるで感傷に傷ついたようでいやになる。
……穏やかな日々。すべてが期待通りに進み、感情のぶつかりあいもなく、おもちゃ箱の中で眠っていた幼い心。
あれは、それこそ幻想だった。意思と感情のあるひととひとが触れ合う中で、あんなふうに心地よく、丸くとじることは不可能なのだ。
たった一年の夢。感謝などはしていないけど、まんまとだまされた滑稽な己に嫌気はさすけれど、もう振り返っても、かつてのような激情はどこにも存在しない。
衣摺れの音。だるい身体でシーツの水面を這って、たどり着いた裸に、そっと指を這わせる。
守り手を体現する、死にたがりには到底見えない身体。筋肉は力が入らなければ意外とやわらかい。
視線を合わせる。あわく微笑んで、
「あなたと出会わなければ、濁りを受け入れ、この情念を自らの幸せのために使う、そんなふうに生きていこうなんて、思えなかったでしょうから……」
そう。大切なのは、ただひとつ。わたしの小指には、今、思い通りにならなくて、下衆で、酔いどれの守り手のおなじものが絡みついている。
だから、もう、いいのだ。過去の話も、選ばれなかった選択についても。
噛んで含めるように、ゆっくりと告げると。
その目から、感情の花火がわっとあふれて弾けるのが見えた。
「……チェズ、レイ……ッ!」
手が伸びる。強い力で抱きすくめられて。
服いちまい隔てるもののない、ひたりと密着した身体から、心臓の音がダイレクトに伝わってくる。
ああ、なんて力強いリズム。共鳴して、奏でるユニゾン。落ち着いてしまうのが癪に触るし、それで初めて、自分が振り返った過去に揺さぶられていたことに気付かされてくやしい。
「それよりも……、モクマさん? せっかくの初夜なのに、他の男の話とはいただけないのでは……?」
「わ〜ゴメンね!? ちと気になっちまって……」
「ここまで弱らせないと聞けないだなんて、相変わらずの下衆ですねェ……」
くやしかった、ので。
悔し紛れに抱き締められた腕の中から目を潤ませていじめてやれば、下衆な相棒はひいん、とかわい子ぶった断末魔をあげた。ほんのすこし溜飲が下がる。
「……まァ、というわけで、このアートメイクももう一年ほどの命でしょう。その後は……それこそ新生詐欺師として、整形手術できれいにしてもいいのですが……」
すこし力が抜けたのを見計らって、太い手首をむんずとつかむ。無骨な指の腹を、こちらの目尻に這わせて、
「あなたを思い出させるものをここに、代わりに彫るのもいいかもしれませんね。
……今度はアートメイクではなく、生涯消えない刺青として」
しずかに、囁く。
さきほどと似たスローなテンポで、けれど、こんどはまるで毒を流し込むような、含みを持った笑みとともに。
……すこし、言葉の咀嚼に時間がかかった。
「――」
飲み込んだ瞬間、目が、これ以上ない程に見開かれた。
……それから、間近で見つめあったまま、ずいぶんと長い沈黙があった。
「…………」
動いたのは彼だった。掴んでいた手を解かれて、そっと、肩を押される。近かった身体に、隙間ができる。
「…………だ、めだ」
続く声はうめくような、低いひびき。
聞こえたのは、つたない拒絶。
じっと、耳を澄ます。
「おや、どうして?」
「……だっ、て、俺はお前より、どうやったって先にくたばる可能性のが高いだろう?
それで、その後に、遺されたお前に、そんなもんが残るなんて……」
「……。おやおや、随分と気が早いことで」
血を吐くみたいな声色で切れ切れに続いた台詞に、思わず笑ってしまう。
飛躍した内容だった。
……が、表情と声から、というか彼の性格から、こんな風に返されるだろうことはだいたい予想はついていた。適当に躱せばいいのに、どこまでも真面目で遊び心のない男だ。……まあ、守って早死にするかもとか、言わなかったのは進歩か。
そう。彼とわたしの間には、どうしたってひとまわりの歳の差がある。とはいえ子と親ほどではない。誤差と、言えるかもしれない。
(だが……)
予想、していたけれど。何十年後の未来の話なのに。改めて突きつけられると、しかも本人に……、それは、どうしようもなくわたしの胸を軋ませた。
未来を共にする願いは早々に叶ってしまった。そうしたら今度は、走り切ったゴールテープの先を考えてしまうなんて、人間とはどうして、こんなに欲深い生き物なのだろう。
(センチメンタルなのはどちらだか……)
「すみません、意地悪を言いましたね。それよりモクマさん――」
反撃にしてもやりすぎた。自分まで痛めつけていたら世話がない。それに性行為は達したら終わりではなく、ピロートークも大事だと学んだというのに。
不穏な空気をいちど断ち切ろうと、口を開いたそのとき。
「……だが、」
ぶしつけに割り込んできたのは、それこそピロートークには相応しくない、ひどく重苦しい声だった。
はっと顔を上げる。
だって、そこにあったのは、わたしの耳をくすぐったのは、聞き間違えでなければ――、
(欲の、色……?)
「!」
驚く。
まるで罪から逃れるよう、お天道様の光から隠れるよう、顔を覆う手のひら。ごつごつと大きなその隙間から覗く目が、ぎらぎら輝いてわたしを射抜いている。
……気のせいじゃ、なかった。ごくり。唾を飲んで、荒れた喉に沁みて痛む。
これは……、捕食者の瞳だ。わたしを抱いている時ですらついぞ見せなかった、けものの光。
――ぞく、と、背中に電流がはしる。
「……そう、言わにゃならんのは、よくわかる。なのに……ッ」
声は唸りにちかく、次の行動は素早かった。
拒絶のために乗せられていた肩の上の手に、力が入る。
ぐっと引き寄せられて、けれど、今度は抱き締められるのではなく……、
引き寄せた首筋に、髪のかかる感触。つぎにかたい髭、かさついたくちびる、
――それから。
「ひっ、ぃ、……ッ!?」
……まるで、ライターで炙られているようだった。
ぢゅう、と、肌を吸う水音とともに、『そこ』が燃えるように熱くなる。身体が強張る。身を捩るけれど、びくともしない。
永遠のような一瞬だった。満足したのかようやく離れた首元は、見えないけれど真っ赤な痕が生まれていることだろう。それが何かを知らないほど無知ではない。吸引性皮下出血、つまり、キスマークというやつだ。
……ごめん、チェズレイ、でも。
それをまた、あのぎらつく瞳で見つめながら、より一層切羽詰まった表情と声でもって、謝罪の言葉は上滑りして部屋の中に消えていく。
はあ。ため息ももう、獲物を前にした舌なめずりの獰猛さを孕んで。
それで。
いま一度、胸の中に迎え入れられて。
「……それ以上に、お前に消えない俺の跡をのこしたい、だなんて……、
おじさん、欲張りになっちゃった……」
耳に、その、熱い塊のような言葉が注ぎ込まれた、瞬間。
「……!」
心臓が、ふるえる。
腰が、あまくしびれる。
風のように捉えどころがなく、誰に求められても靡かずに、忠義を胸に死を望み続けたこの男の。
明確な、欲望。その優しさも臆病さもかなぐりすてた、なりふりかまわない獣の本能。
(あ、あ……)
それらを一心に向けられて、弾んで沈んで自嘲に欲求、はちゃめちゃなリズムの鼓動を浴びせられて、ああ、もう、どうにかなってしまいそう……!
震える指を、心臓の上に乗せる。はあ。溢れる吐息が、はしたなく甘い。
「モ、ク……」
「〜なあんてねっ! 頭冷やしてくる!」
媚びた声でもういちど、を、懇願しようとした手は……、むなしく宙を掻いた。
濃密なムードを衣替えする場違いな明るい声。を、置き土産に。まばたきひとつの間にモクマさんは風のように消え去ってしまい……、
「…………は?」
そうして、広い広いシーツの上に置き去りにされた詐欺師という滑稽な絵面ができたのであった。
初体験の恋人を放置してどこかへ行くなんて! ……と、いつもだったらまたあのお決まりの顔でちくちく虐めてやるところだけれど……。
「……、」
どきどき。まだ心臓がうるさい。
ひっぺがされた上掛けですっぽり身体を包んで、そっと、目の下の星に指を這わせる。
……正直、逃げ出してくれてよかった。あの昂りのまま二回目になだれ込んでいたら……、たぶん、ふたりともタガが外れて思い返したくもない乱れ方になっていただろうから。
(それに……、)
「……柄、考えないと……」
ひとりっきりのベッドルーム。時間はもう、月すら眠る深い夜。
あわい照明だけがぼんやり注ぐその中で、ぽそりと取りこぼしたその声ときたら、あんまりにも甘ったるくって、夢みがちで……、自分のことながらおかしくって、ああ聞かれなくてよかった、と、わたしは心底思ったのであった。
おしまい!