勝手丼を食べる曦澄「……思ったよりも寒いな」
「そうだね。雪も少し残っているし、芯から身体が冷えそうだね」
「さすが港町だな。ところで、目的の市場はここからどのくらいなんだ?」
「あ、目的地は駅から徒歩5分もかからないみたいだよ?」
「なら早く行こう。腹も減ったことだしな」
只今の時刻は午後14時。
江澄と藍渙は、初めて北海道に訪れていた。
目的は江澄の卒業旅行として、この北海道を七日間旅行するためである。
初めはここ、北海道の道東である釧路で一泊した後に、帯広、富良野と移動して一泊。その後は札幌と小樽で一泊ずつした後、最後に函館にて一泊をする予定である。
初めて訪れる北海道は、他の都道府県に比べて当然ながら広い大地であり、旅行しながらであれば横断するだけでも結構な日数がかかるらしい。
江澄の大学卒業は問題なく就職先も決まっていたので、これだけの日程を確保することはさほど難しくはなかった。
しかし藍渙は既に社会人であるため、役職にもついていることもあり、本当にこれだけの日数を休めるか不安だったが、この時のために先日の出張に行ってきた、との事なので問題はないとのことだった。
元々はこの卒業旅行も魏無羨と二人で卒業旅行に行く予定だったが、藍渙の弟である藍忘機と魏無羨が付き合うことになり、彼らが二人で卒業旅行にいくと言いだしたのだ。
最初は氣ままに一人旅でもいいかと思っていたが、江澄は江澄で、以前より想い人であった藍渙とあれよあれよという間に付き合うこととなり、こうして江澄も無事恋人との二人旅をすることになった。
──まずは初日の釧路を堪能しなくては。
そう思いながら歩を進めていくと、目的地の市場にたどり着いた。
市場の扉をくぐると、そこは海鮮市場独特の匂いを漂わせ、たくさんの海の幸が其処彼処と並んでいる。
江澄は普段、こういった場所に足を踏み入れない為、初めての体験に心なしか氣分が高揚していた。
隣に並ぶ藍渙も『これはこれは』と感嘆のため息を溢している。
「市場というのには初めて訪れたけども、こんなにも活氣がある所なんだね」
「そうだな。賑わっていて、美味しそうな物がたくさんあるな」
にやりと笑う江澄とそれに微笑みを返す藍渙は、事前に調べていたこの市場の名物『勝手丼』を食べる為、市場の中へと進んでいく。
藍渙が調べていた内容と現地の位置状況を確認しながら、江澄に勝手丼の作り方を伝える。
「どうやらまずは、ご飯を先に買った後に、さまざまな魚介の切り身などを専用店で買って盛り付けていくみたいだね」
「それなら……あ。あそこでご飯を売っているみたいだな!」
二人は市場の一角に構えられている、ご飯と汁物を売っている店の前に立ち並んだ。
「いらっしゃい!おや?お兄さん達格好いいね!俳優さんかい?」
「いえいえ。一般市民ですよ」
「そうなのかい?あまりにも格好いいから芸能人かと思ったよ!そしたらこの市場に来るのは初めてかい?」
「そうなんです。釧路名物の勝手丼を食べにきました」
「店主、ここではまずご飯を買うんだよな?」
「そうだよ!通常の白米でもいいけど、プラス50円で酢飯にする事もできるよ!」
「なるほど……」
江澄は店主の言葉に普通の白米にするか、酢飯にするか悩むが、藍渙が「阿澄はお寿司が好きですから酢飯にしては?」という助言ももらい、酢飯にすることにした。
「サイズはどうする?お茶碗一杯分でこのくらいだけど、お兄さん達は……もしかして結構食べるかね?」
「ふふ、そうですね」
「どうせならたくさん食べたいからな!この茶碗二杯分のサイズで!」
「ではわたしも同じサイズで」
「あいよ!まいどあり〜!」
そうして店主からどんぶりほどの大きさのご飯を手に入れた二人は、次に市場内で勝手丼用のネタを売っている店に足を運んだ。
「あらあら!これはまた別嬪さんが来てくれたもんだね!お兄さん達は役者さんかい?」
「……その質問は二回目だな」
「おや?違うのかい?この市場に来るイケメンは大体芸能人が多いからね!ほら、ウチの店に来てくれた人達の色紙がここに飾ってるもんでさ!」
そう言われて視線を上の方にある看板に移すと、端から端まで芸能人のサインが書かれた色紙が並んでいた。
「これはすごい。よほどこのお店は繁盛していらっしゃるんですね」
「ほんと有難いことにね!それにお兄さんたちみたいに別嬪さんが来てくれるだけでも十分ウチの宣伝になってるからね!」
『そう言われてみれば……』と江澄と藍渙は、周りから何やら視線を集めている氣がしないでもなかったが、二人にとってはいつもの事だと特に氣にも止めずに、目の前に並べられた魚介類を眺めていく。
「これは凄いな……。どれも食べたくなる」
「本当にどれも美味しそうですね。お姉さん、此方は産地のものですか?」
「あらまぁ、お姉さんだなんて!このバランが付いてるものが釧路産のものだよ!口の上手い別嬪さんにはサービスしちゃうわね!」
「ふふ、ありがとうございます」
藍渙がそう微笑むと“お姉さん”は顔を真っ赤にさせていた。
この男は天然でこういう事をするから困ったものだ、と江澄は溜息を吐いた。
「そうそう!ちなみにこれはトキシラズと言ってね。産卵前に獲れた魚だから通常の秋鮭よりも三倍くらい脂が乗ってるんだよ!よかったらどうだい?」
「それはいい!これをまず頂こう。藍渙は?」
「えぇ、わたしも」
そうして元気な“お姉さん”のおかげで、初めは酢飯しか入っていなかった丼の中には、次々と旬の魚やおすすめの魚介類でいっぱいになっていく。
トキシラズにトロサーモン、生ホタテ、ボタンエビに大トロ、本マグロにメンメ、やりいか、八角にウニとイクラ……まさに魚介類の宝石箱のようになっていく丼を見て、江澄と藍渙の目が輝いていく。
そうして全ての合計金額を見たときにはさすがに盛りすぎたかと思った江澄だったが、せっかくの旅行だし食べたいものを食べた方が良い経験になるだろうと、自分の財布を取り出そうとした時──
「阿澄、わたしが出すから」
「は?いや、これくらい自分で出せるが?」
「この日のためにわたしも仕事を頑張ったので」
「どういう……」
と、問答しているうちに、藍渙は会計を済ませてしまった。
それに呆気に取られていると、藍渙は出来上がった二つの丼を乗せたお盆を手に取り、食べる場所を確認し、お姉さんにお礼を伝えると先に進んでいく。
それに慌ててついて行く江澄は、後ろの方で「ありがとうございました〜!」と元気な声が聞こえてきたが、藍渙に氣を取られ、お礼を言いそびれてしまった。
「さて。このパティオというところで食べるみたいだね。さぁ、阿澄座って」
「……」
市場の中央に設けられているパティオと呼ばれている其処には、パイプテーブルとパイプ椅子が設置されている簡素なスペースだった。
そこに向かい合うように座る二人だったが、江澄は先ほどの藍渙に対して腑に落ちず、なかなか勝手丼につけられないでいた。
「阿澄?食べないのかい?」
「……なぜ、勝手に会計を済ませたんだ?」
「何故って、わたしがそうしたかったからだよ」
「そ…っ!……それは、俺がまだ学生だからか?」
江澄はまだ、まともな稼ぎのない学生だ。
一緒に暮らしているが、家賃や生活費はほとんど藍渙に出してもらっている。
藍渙は氣にしなくていいというが、江澄も自尊心はある。
江澄は元々一人暮らしをしていて、自分のバイト代と自分の貯金で上手くやりくりもしていた。実家から毎月仕送りされるお金もあったが、それにはほとんど手をつけていない。
だからこそ今回の旅行では、今まで使ってこなかった分を存分に使おうと決めていたのだ。
江澄の様子に笑みを溢した藍渙は、テーブルの上で握り拳を作っている江澄の手に自身の手をそっと添えると『違うよ』と首を振った。
「……どういう、ことだ?」
「阿澄を氣遣ったのではなくて、本当にわたしがそうしたかったからなんだ」
「え?」
尚更わからないと首を傾げる江澄に、藍渙は少し照れたように笑った。
「阿澄のためにお金を使うことが、わたしのこの旅行中の楽しみで喜びになるから」
──だから、わたしの楽しみを取らないでもらえると嬉しい。
「……そんな風で言われたら、怒るに怒れないじゃないか」
江澄は耳を真っ赤にして顔を背けるも、藍渙は笑顔のまま真っ直ぐに江澄を見つめていた。
甘い雰囲気を漂わせる二人だったが、ここが公衆の面前だという事を思い出した江澄は、慌てて藍渙から手を離した。
「と、とにかく勝手丼を食べるぞ!」
「ふふ、そうだね」
氣を取り直した江澄は目の前にある勝手丼を手に取り、自分の選んだネタを口に運ぶ。それに続いて藍渙も自身の勝手丼に手を伸ばし、江澄と同じように一口目を口に運ぶと、二人とも同時に顔を見合わせた。
「んっ!!トキシラズは初めて食べたがこんなにも美味いのか!本当によく脂が乗っている!」
「これは……本当に美味しいね。あっという間に口の中から無くなっていくね」
「食べるのが勿体ないくらいだ!きっと焼き魚にしても美味しいな!」
「阿澄、このボタンエビもとても美味しいよ。身がすごくぷりぷりしてる」
「うん!美味い!!藍渙!このメンメや八角も美味いぞ!初めて食べたが歯応えもいいし、シンプルに美味い!」
「ウニもとても甘いよ。新鮮なものはこんなにも甘くて、すぐ溶けてしまうんだね」
「あぁ!大トロも凄いな!トキシラズにも負けず劣らずこんなに脂が乗っている!」
江澄は目を見開きながら、勝手丼のネタを次々と口に入れては一つずつ食べた魚介の感想を嬉々として語っていき、それに釣られるように藍渙も自身の食べたものの感想を述べていく。
藍渙は幼い頃の教育により、食事中に会話をすることが殆どないはずが、あまりにも美味しい魚介類に感動を溢さずにはいられないようだった。
「ふふ。阿澄、本当に嬉しそうだね」
「そういう藍渙こそ、普段よりもお喋りだな?」
江澄と藍渙は互いに笑い合い、少し遅めのランチに氣持ちもお腹も満たされていた。
「旅行初日から良いものを食べられたな」
「どれも新鮮で本当においしかったね」
二人はあっという間に平らげてしまった丼を眺めながら一休みしていると、隣のテーブルに座っていた年配の男性が突然声をかけてきた。
「お兄さん達、勝手丼は美味しかったかい?」
「っ!?」
「えぇ、とても美味しくいただきました」
突然声をかけられてびっくりしていた江澄に代わり、藍渙はにこやかに返事をした。
「それは良かった。わしは地元の人間だが、月に一度は此処に来て勝手丼を食べてるんだ」
「それは、とても羨ましいですね」
「こんな美味しいものを毎月とは。いつからそのような習慣を?」
江澄がそう声をかけると、その男性は優しく笑みを返した。
「そうさねぇ。わしの生まれた年にこの市場ができたから……50年以上は此処に世話になってるのぉ」
「そんなに前からこの市場はあるんですね」
「市場としてはそうだが、この市場の歴史はもう少し前からなんじゃよ」
「と、言うと?」
江澄と藍渙は男性の話に耳を傾けた。
六十数年前、一台のオンボロリヤカーを引いて生きるために商いを始めた一団がいた。それがこの市場の先覚者である。
当時は店舗を構えて商いをする資力もなく、露店商いで身を粉にして働くも、警察の取り締まりや保健所の厳重注意を受けながらなんとか商いを続けていた。
そんなさまざまな苦難を経て【和して商う】という意味でこの市場が作られたと言う──
「……そしてこの市場に勝手丼が名物としてうまれたのは、バイクで貧乏旅行中だった若者に、ご飯だけを買って来させて、鮮魚店の店主が海産物を少しずつ載せてやったことが口から口へ広まっていき、今の勝手丼がうまれたのさ」
「……なるほど」
「そういう話を聞くと、尚更この勝手丼を食べられたことが幸運に思えるな」
男性はまたにこやかに笑みを溢すと、席を立ちながら二人に「もう一つの名物も教えてやろう」と言う。
「もうひとつの名物、ですか?」
「この市場から歩いて15分くらいのところに釧路川に掛かる橋があるんだが、そこから見える夕日は絶景なんじゃよ」
「夕日……日の入りまでは少し時間があるな」
江澄は腕時計を確認すると、日の入りまでまだ1時間ほどはあった。
「もし都合が合えば見に行くといい。これまた釧路の夕日は、世界三代夕日と呼ばれていての。その昔、外国船の船乗りが"バリ島やマニラの夕日に匹敵する美しさだ"と言ったことが広まったんじゃよ」
「それは是非とも見てみたいですね」
「そうだな」
「わしも若い頃は船乗りでな。水平線に沈む夕日は本当に感動的じゃったよ」
そう言って席を立った年配の男性を見送った後、江澄はこの後の予定をどうするのかと藍渙に訪ねた。
「せっかくだから世界三代夕日を見に行こう。日の入りまでは少し時間があるから……。一度、今日泊まるホテルに行って、先に送っておいた荷物を受け取ってチェックインを済ませたらちょうどいい時間になるよ」
「あぁ、そうだな」
この後の予定が決まった二人は、空になった丼の器を片付けた後に先程のお姉さんのところに行き、改めてお礼を伝えてから市場を後にした。
■ ■ ■
「……まさか今日泊まるホテルが橋のたもとにあるとはな」
「ホテル最上階の露天風呂から見る夕日も良さそうだったけど、せっかくなら橋から夕日を見たいよね」
「まぁな」
二人はホテルにチェックインをした後、先程の年配の男性から勧められるままに、釧路川にかかる橋まで来ていた。
日は良いくらいに傾いており、あと十数分で太陽は水平線に沈んでいくだろう。
「しかしこれは、本当にいい景色だな。寒いが空気もなんだか澄んでいる氣がする」
「そうだね。それに、夕日がこんなにもきれいに赤く染まるなんてね」
「あぁ。まさにマジックアワーだな」
こんなふうに夕日をゆっくりと眺める時間なんていつぶりだろうか。
江澄や藍渙の日常は、共にいることで満たされているとはいえ、2人でゆっくりできる時間がなかなか作れないでいた。
ましてやこんな風に、良い景色を二人でゆっくり眺めるなどはしたことがなかった。
「阿澄」
「ん?」
「良い、旅の始まりだね」
「……そうだな」
今、この橋には何故か二人しかいない。
いつもならもう少し観光客もいるらしいが、江澄は不思議と、この時だけは藍渙と二人だけの世界にいるような氣がした。
二人で水平線に沈む夕日を眺めながら、どちらともなく隙間を埋めるように肩と肩を触れ合わせる。
「綺麗だね」
「あぁ、本当に……」
「違うよ」
「え?」
江澄は顔を藍渙の方に向けると、いつの間にか夕日ではなく江澄のことを見つめる藍渙と目が合った。
あまりにも真っ直ぐに見つめてくる藍渙に動けずにいると、一瞬何かが江澄の唇を掠めた。
「なっ!?い、いま……っ!!」
「一瞬だったから誰にもバレてないよ」
「そういうことじゃない!!」
藍渙は悪戯が成功した子どものような顔して肩を揺らす。
それに対して江澄は、顔を赤くしながら藍渙から離れようとするが、しっかりと肩を抱き寄せられる。
「ら、藍渙……っ」
「まるで、世界に私と阿澄だけのようだね」
「……っ」
まさか同じ事を考えていたとは思わず、江澄は口をつぐんでしまう。
「ん?どうしたの?」
「……俺も、同じ事を考えていた」
「阿澄……」
照れたように顔を背けていた江澄の顔を自分の方に向けた藍渙は、その少し冷えて赤くなっている両頬を自身の手で包み込むと、ゆっくりと顔を近づけていき……
──バサバサバサっ!
「うわっ!なんだ?!……カ、カモメ?」
「……これは、随分とふくよかなカモメだね」
江澄と藍渙の間に立つように突如として現れた一羽のカモメは、不思議そうに顔を左右に振って、こちらの様子を伺っている。
「ふ、……ははっ、あはは…っ!」
「ふふ」
「あははは!……あぁ、なんか拍子抜けしたな」
「はは、そうだね」
「おいカモメ。お前は随分と良いものを食べてるんだな?」
江澄はそう声かけると、また首を左右に振り、そのまま夕日が沈む水平線の方へを飛び立っていった。
「まったく。アイツに邪魔されてしまったな」
「本当だね。でも、夕日も水平線の向こうへ沈んでしまったし、体も冷えてきたからそろそろホテルに戻ろうか」
「ん。そうだな」
江澄は返事をすると藍渙の一歩前に行き、くるりと後ろを振り返って藍渙に手を伸ばす。藍渙は目を瞬かせると笑みを溢し、そのまま江澄の差し出された手に自身の手を重ねた。
「阿澄、手を繋いでもいいの?」
「……まぁ、ホテルまでの短い距離だし、辺りも暗くなってきたからな」
こちらを見ないまま、恋人繋ぎをする不器用で愛しい江澄に、藍渙は一人ほくそ笑む。
「……今日は旅行初日だから控えようかと思っていたのだけれど」
「ん?何か言ったか?」
「ううん。それよりも早く戻って暖まろう」
寒さで鼻を赤くする愛しい恋人を『この後どうやって暖めようか』と、顔には出さずに悶々としている藍渙の様子に氣がつかないままの江澄なのであった。