月のない夜(あなたのいる夜) 出島は景観整備がほとんどされていないから、夜にマーケットを歩くとほとんど空に月はない。星もないし、店から登る湯気や、煙草の煙なんかで薄くけぶっている。けれど俺はその風景が好きだった。それこそが彼が日本に戻ってきた理由のような気がして。
狡噛が日本に戻って再び寝るようになった時、彼はここでは月は見えないのだなと、少し寂しそうに言った。そりゃあそうだろう、彼が道を作るように進んでいた発展途上国には夜には明かりはない。みな早くに寝て、早くに起きて仕事をする。こんなふうに夜を楽しむのは、電気が通っているところだけだ。
「飲んで帰るか?」
「今日はそうするか」
花城と離れたら本当はすぐにでも官舎に戻らねばならないのに、俺たちは彼女の監視がルーズなのをいいことに聞きなれない言葉を話す店主に勧められて、読めもしない文字が書かれたビールを二本頼んだ。狡噛はそれを温かい夜にぐいぐい飲んで身体を暖かくして、俺の指先に、ベンチに手を置くふりをして触った。俺もそれに同じように触った。あたりにはまだ人がいて、月はなくて、通りに掲げられたぼんやりとした明かりだけが夜市を照らしていた。美しい夜だった。
「日本を出てた時、夜だけは安寧だった。夜だけは休戦協定が結ばれていたから」
その時にいろんな本を読んだ、老婆からいろんな話を聞いた、そう狡噛は言った。そこに自分が知らない彼がいるような気がしたけれど、俺にはどうにも出来なかった。狡噛が知りたい。狡噛が何を見て、何を考えて、何を思って生きてきたのか知りたい。死と隣り合わせの中で、何を持ってたのか知りたい。
「婆さんたちは俺に嫁のことを聞きたがったから、お前の話をしたよ。男とは言わなかったが、だから女を勧められることもなかった。ギノザを捨ててくるなんてひどい男だってみんな言ってた」
ビールを飲み干す時、狡噛はそう言った。俺は海外でも側においてもらえたのだと知って、どうしようもなく嬉しくなってまたビールを飲んだ。ビールは苦かった。空に星はなかった。月もなかった。ただ、狡噛だけがいた。