優しいあなた 夏の夜、魔法舎に大きな花火が上がった。俺はそれを偶然厨房の窓から見ていて、相変わらずよくやるものだと、寸胴鍋を洗う手を止めてため息をついた。食堂から歓声が聞こえたから、多分そこにあのきらきらと消えてゆく炎を作った者(きっとムルだ)と賢者や、素直な西と南の魔法使いたちがいるのだろう。
俺はそんなことを考えて、汗を拭いながらまた洗い物に戻った。魔法をかければ一瞬の出来事なのだが、そうはしたくないのが料理人として出来てしまったルーティーンというものだ。東の国では人間として振る舞っていたから、その癖が抜けないのもある。
しかし暑い。北の国とも、東の国とも違う中央の暑さは体力を奪い、俺は鍋を洗い終える頃には汗だくになっていた。賢者がいた世界では、これを熱帯夜というのだという。賢者がいた世界に四季があるのは中央の国と一緒だが、涼しい顔をしたあの人は、ニホンよりずっと楽ですよとどこか訳知り顔で俺に告げたのだった。——しかし暑い。賢者がいた世界ではこの暑さは程度が知れているのかもしれないが、北の国生まれの俺には酷だった。夕食どきに汲んできた井戸水もぬるくなっているし、これのどこが楽なんだろう。信じられない。
「酒もぬるくなっちまってるだろうな……」
俺はワインボトルを戸棚から取り出し、やはり常温になっていたそれを冷やすべく井戸に向かうことにした。まだ花火は続いているし、歓声も続いているが、今はさすがにともにはしゃぐ気持ちにはなれない。
つくづく、俺はこの魔法舎に似合っていないように思える。無邪気な賢者や、自分よりずっと若い魔法使いたちはまぶしく、見ていられなかった。
俺は大いなる災厄の怖さをまだ知らない。だから怖い。料理屋の真似事をしていられる時間が消えてしまうのではないかと思うと、あの男がふらりと飲みに現れる時間が消えてしまうのではないかと思うと、ただその時が来ないことを祈るばかりだった。
井戸に着くと、天に昇った月が水面に映っていた。もうそんな時間なのかと俺はまたため息をつき、紐をつけた桶を下ろす。滑車を回しながら引き上げると、そこにはやはり月とその周囲を飾る花火が映っていて、俺は思わずそれに惹かれて触れてしまった。こんなではムルと同じだと思うのに、美しいものに惹かれる心が残っていたことが不思議で、俺はワインを冷やすのも忘れて、ぼんやりと映し出されたそれを見つめる。
そんな時、後ろからひょいと引っ張られて声がかかった。当然こんな夜に俺をからかいに来る人種は限られているわけで、当然、それはブラッドだったわけで。
「お、いいもん持ってるじゃねぇか、ネロ」
ブラッドはどこで手に入れたのかフライドチキンを齧っていて(多分厨房の残り物を漁ったのだろう)、唇を油でつやつやさせながら桶の脇に置いたワインボトルを眺めた。俺はそれにようやくここに来た本来の目的を思い出し、冷えた水がたゆたう桶にボトルを入れる。
「いいもんなんかじゃねぇって、安酒だし、まだぬるいし……」
「でもてめぇが仕入れた酒だろ? きっと美味いって」
ブラッドがフライドチキンを噛みちぎる。垂れた肉汁と衣のかけらは井戸の周囲の芝生に落ち、これでは野良猫が出るではないかと俺はひやひやした。猫が出たらファウストや賢者たちなどは喜ぶかもしれないが、調子に乗った彼らに料理に手を出されては困る。それに、二十人以上が住むこの魔法舎に、さらに住人が増えるのはよしてもらいたかった。食事の世話をするのは、どうせ厨房を仕切っている俺に違いないから。
「ネロ、なぁ早く開けろよ。一緒に飲もうぜ。……アドノポテンスム」
ブラッドは呪文を唱え、手吹きのワイングラスを二脚出す。俺はそろそろと息を吐きつつ、「冷やした方がうまいと思うぜ」と言ってエプロンから小さなナイフを取り出し、それでコルクを引き抜いた。夏にふさわしい少し辛口の、爽やかな匂いが漂う。それはブルーベリーの味がする赤で、ちょうどフライドチキンに合うものだった。無意識にそれを選んでいたと思うと彼に一途なようで癪だったが、多分俺はとっくの昔にそういうものだったんだろう。
しずくひとつ落とさないように慎重に、ブラッドが出したグラスにワインを注ぐ。すると彼はそんなこと気にせずに井戸に寄りかかって赤を口にし、上がり続ける花火を見つめた。ここまで長く続くと力の消費も激しいだろうに、ムルは楽しんでいるのか、それとも周りに乗せられているのか暗い空にきらきらと消えてゆく、花の形に消える色とりどりの花火を上げ続けていた。
「暑い夜には酒に限るな」
ブラッドが言う。確かに彼に酒はよく似合っていて、こんな自然な姿でも様になるものだと思わされた。そう、ブラッドは美しいものにふさわしい男なのだった。かつて多くのお宝で彩られていたように、今も彼は俺がのぼせ上がる存在だった。
「確かに今日は暑いな。これは熱帯夜って言うんだろ? 賢者さんの世界では」
北の国では考えられない暑さだな、俺がそう続けると、ブラッドは笑ってワインをぐっと飲み干した。たくましい首筋の喉仏が、派手に上下する。俺はそれに見入ってしまって、下心を気取られやしないかとひやひやした。
「お前、あいつに入れ込んでるのか?」
けれどそんな俺に冷や水をかけるように、ブラッドは低い声で言った。ほどほどにしておけよ、とも。
そうか、俺は賢者についてほとんど知らないが、ブラッドは前の賢者がどうなったか知っているのだ。そしてそれは、今の賢者が元の世界に帰ろうと思考錯誤するさまを見ているのが、馬鹿らしいほどの結末だったのだろう。俺はそれに、あの純粋な人にどう伝えればいいのか分からなくなる。ブラッドは大いなる災厄により傷を負った。俺よりもずっと強い彼がそうなったのだ、こちらの世界でほとんど力を持たない賢者がどうなったのか、それを暗に示された気になって、俺はぼんやりとワインの水面を見つめた。
「ほら、お前も飲めよ」
ブラッドが静かに言う。いつの間にか空からは花火は消え、月だけが明るく浮かんでいた。俺は彼の赤い瞳を見つめて、自分の甘さをさとられた気になって、それを誤魔化すためにワインを飲んだ。
俺もずいぶん甘くなってしまったものだ。賢者を気にかけて、自分が大いなる厄災と戦う立場に置かれたことを忘れて、あの人が元の世界に戻れたらと願ってしまうなんて。
喉が熱く焼ける。度数はそれほど高くなかったが、案外腹が空いていたのかもしれない。そういえば今日は料理をしながら味見をしただけで、それほど食事を口にしなかったのだった。後で腹が空くとは分かってはいるものの、厨房の香りにやられると食欲が失せてしまう。それを酒で思い出すとは笑えてしまうけれど、まぁ、そういうこともあるだろう。
「確かに、あの人に入れ込んでるのかもな。俺も突然賢者の魔法使いにされちまってさ、何にも知らねぇから」
月を眺めながら芝生に座り言うと、ブラッドは神妙な顔をして俺を見た。
なぁ、先の賢者はどうなった? 今の賢者が思っていたように、無事に元の世界に戻れたのか? じゃないとしたら、どうしてそれをあの人に言わない? 賢者がいないと困るからか? それとも、それはあんたなりの優しさなんだろうか。
「お前が知りたいなら全部話してやるぜ」
夜も長いしな。ブラッドが言う。俺はそれを笑って、手酌でワインをグラスに注いだ。知りたいような、知りたくないような、そんないびつな気分だった。これから先に待ち受けているものを知ったとして、未来は変えられないだろう。偉大な南の国の魔女がそうだったように、どんなに素晴らしい力を持つ魔法使いでも未来は変えられない。人間たちはそれが可能だと思っているが、俺たちにそんな力はない。寂しいとは思わないけれど、もし未来が変えられたら、とは思った。思うように未来を変えられたなら、俺はきっとこの男との凡庸なそれを望んだだろうから。
「いや、いいさ。どうせいつか分かることだしな」
俺はそうつぶやいて、ブラッドを眺めた。彼は月の光を受けて黒と灰色の髪を薄く輝かせていて、俺はそれに見惚れた。この男は優しくて、だから賢者に真実を告げないのだろう。
平凡な生活に慣れた俺は、あの人の未来もそうであれと願う。賢者なんて、賢者の魔法使いだなんて碌なものじゃない。でも幸せを希うことくらい許されるだろう。
わざと未来を秘密にしたブラッドの優しさを感じながら、俺は辛口のそれを口に含んだ。空にはもう花火はなかった。そこにあるのは、見慣れた月と暗闇だけだった。