キスを送る 俺たちは花城の命令を断れた試しがない。それは彼女の強引さによるものものも大きかったが、俺たちが、いや俺がどうも彼女に弱いところがあるのが原因のように思える。今夜薄暗い中もこうやって飛行場で飛行機が飛ぶのを見上げながら殺人事件の捜査にあたっているのも、そもそもが俺が彼女の命令を断りもせず(それが公安局に捜査権があったとしても、だ)、しずしずと車を駆ったのが理由の一つだった。
今回、高濃度汚染水で溺死した男の捜査にあたったのは、彼が外務省の職員だからだった。公安局に任せればいいものを、もし彼が担当していた事件の秘密が漏れてはまずいと、上層部が花城に声をかけたのである。そういうことならば、彼女も俺と同じで、上の命令を断れない人種なのだろう。それがいいのかどうかは分からないが、そういう性質を持つということだけは確かだった。
「寒いな、ギノ」
狡噛が懐中電灯をさしながら言う。彼の言う通り、明日の最低気温は、出島ではめずらしく氷点下だった。このまま風呂を浴びて、暖かなベッドに入りたいと思う。だが、俺たちには仕事があり、あろうことかそれは俺が引き受けたものなのだった。
「それで、被害者に不審な点は?」
「今の所なし、情報漏洩をしていた様子もなし。血中から基準値以上のアルコール濃度が検出されたことからも、酔っ払っての事故だろうな」
俺は狡噛の質問に答えながら、水面を照らす彼を見つめて言った。事件は簡単だった。外務省の職員が酔っ払っていたことは彼の追跡調査でも飲み屋を梯子していたことからも分かっていたし、酒で火照った身体を冷ましに空港に来ていてもおかしくはなかった。だが、問題は彼が潜入捜査官だったという点だ。今のところ情報漏洩はないと分かっていても、それがいつまで続くか分からなかった。
「それで、この被害者はいつ家族の元に?」
狡噛が言う。哀れな被害者は遺体袋に入れられ、外務省の護送車に載せられる。俺はそれを眺めながら、この寒い夜に災難だったな、と思った。被害者には妻と娘がおり、彼女らは外務省で待機している。死んだ男は指折りの潜入捜査官だったらしく、彼の損失は痛いものになるだろうと花城は言っていた。
「公安局の捜査は入れないそうだから、身元確認が終わったらすぐに葬儀に回されるだろう」
俺はぽつぽつと降り出した雨を頬に受けながら、狡噛にそう返した。俺たちの仕事なんて、結局はほとんどなかった。被害者が持っていたデータチップがコピーされた形跡がないか復元し、彼の行動をトレースして終わり、それだけだった。これくらいの仕事だからこそ、俺は花城の命令を断れなかったのだろうし、花城だってそれが分かって俺に命じたのだろう。
「雨だな。みぞれになりそうだ」
狡噛がつぶやく。俺はそれにそうだな、と言い、ここまで乗ってきた、古い型式の自動車にへと乗り込んだのだった。
仕事を終えてから、俺たちはクリスマスが近い、マーケットに寄ってビールを何本か買った。グロサリーの主人は、人がはけてきた中寄った俺たちがめずらしいのか、つまみにとジャーマンポテトをサービスしてくれた。俺はそれにたっぷり洋酒が染み込まされたシュトレンを買い、店を後にした。
花城への連絡は終わっていた。彼女と話した時、被害者の親族が身元確認を終えたとの報告があった。潜入捜査官は水死だったが、早く発見されたことによって(航空機マニアたちが東京に飛び立つ貨物輸送機を写真に撮っている最中、彼が高濃度汚染水に落ちるのを眺めていたのだ)、膨れ上がることもなく遺体はきれいなものだったという。それでもすぐには触れることは許されず、遺体は洗浄されてから家族の元に帰されるのだという。
「美味いな、これ」
乗り込んだ車の助手席で、ジャーマンポテトをかじりながら狡噛が言った。シュトレンは昔ながらの作りで、ワックスがけされた袋に入れられていた。俺はそれとビールを後部座席に置き、狡噛が口にしているビール以外を置き、ポテトの黒胡椒の香りが充満する車内で腹を鳴らしそうになった。
「ギノも食うか?」
「遠慮しておくよ。今から食べたら明日胃がもたれる」
「そんな年でもないくせに」
狡噛が笑う。俺はそれにおじさんだからなと答えようとして、自分と同い年の花城がどう思うか悩んで、何も言わないでおくことにした。俺は早く年をとって父のようになりたかったが、花城はそうではないだろう。彼女は美しく年を重ねてはいるものの、年齢に逆らおうとするのが女というものらしいから。
車のナビゲーターに表示されている時計は、午後十一時を示していた。そろそろ日付けも変わる。その瞬間、俺はこの男といるのだろうか? 狡噛は俺の誘いを断るだろうか? それとも、断きれず、俺の誘いに乗って一日の終わりをともにしてくれるのだろうか? 俺はそんなことを考えて、車のエンジンを入れる。古い型式とはいえ電気自動車のそれは静かに動き出し、出島のマーケットを縦断した。行動課のオフィスまではもう少しばかり時間がかかる。それは俺たちにとってはいい旅だったが、あそこで待つ花城にとっては焦ったいものだろう。それに被害者家族と面会せねばならなかった彼女のことを思えば、早く帰ってやりたくもあった。
「なぁ、狡噛。この後うちで飲まないか?」
そんなことを考えつつも、口から出たのは気楽な言葉だった。俺はそれを自分でも笑いそうになって、けれどそうはせず、ハンドルをにぎった。
「もちろん、俺はそれだけで済ますつもりはないがな」
狡噛が笑う。どうやら彼は俺の提案を断らない、断れないらしい。これから報告書を書いて上にあげなければならないというのに、俺たちはビールを買って、シュトレンまで手に入れてしまった。甘いものは花城にやるとして、ビールで酔っても海には落ちないよう気をつけなければな、と俺は不謹慎なことを思った。被害者は家族の元へ帰る。俺たちには家族はいなかったが、それ以上のものはあった。俺はそれを嬉しく思い、二重の生活をしていた潜入捜査官の捜査は難航するだろうなとも思った。情報の漏洩は確認されていないものの、彼が得た情報が失われたとも限らない。
けれどそれでも今夜はともに過ごそう。クリスマス前のこの大切な時期を、彼とともに過ごそう。俺はそう考え、ハンドルをにぎる手を強くした。たった一人の愛しい男に心の中でキスを送って、それ以上の数をもらおうと、彼に断りも入れずに考えたのだった。