月の魚 夏の日の夜半すぎ、コツコツと窓が叩かれる音がした。
俺はちょうどその時自室のベッドでまどろんでいて、意識があやふやだったから、最初のうちはそれを夢の中の幻だと思った。けれどその音はしつこく鳴り続けたので、俺はいよいよ目を覚まし(久しぶりに早寝をして気分がよかったのに最悪だと思った。汗はかいていたが)身体を起こし窓を見た。
あたりは月と星の明かりしかなく薄暗かったけれど、分厚い硝子窓越しに映る人影はきちんと見えた。それは紛れもない、俺の元相棒であるブラッドのものだった。どういうわけか知らないが、彼は愛用の箒に乗り、何やらリズムを刻んで不透明な窓を叩いている。鼻歌を歌うようなそれに俺はため息をついたけれど、彼が何かを思いついてしまった時にはことは全て遅く、俺に出来ることは一つもなかった。今夜も、ブラッドは空想を現実にしようとしているか、もうしてしまったのだろう。
「……ブラッド」
呆れて搾り出した声は少し枯れていて、あまり彼を咎める色はなかったのが自分でも癪だったが、破天荒なこの男の機嫌を損なってしまうのも面倒だったから、これでもよしとしておこう。俺はそう頭をめぐらせて寝汗をぬぐい、ため息をつく。コツコツ、コツコツ。ブラッドは俺がベッドから降りて窓の側に立つまでノックを続ける。そんなに急ぐようならドアから乗り込んでくればいいのに、今日はどういうわけか空から誘うことを決めたようだ。迷惑極まりない話だったけれども、かといって胡椒を振りかけてどこかにやるのもかわいそうだ。そう思ってしまうのは、昨日久しぶりに彼と昔の話をしたからだろう。死の盗賊団の首領、俺はその傍らにいるナンバーツーで血の料理人。金銀財宝を大屋敷に隠す貴族たちには恐れられ、彼らが後生大事に守っていた宝石や魔法道具をさらっては祝杯を交わしたものだ。
「ブラッド、ブラッドもういい、今開けるから……」
焦って窓を開けると、そこにはやはり箒に乗ったブラッドがいた。しかし窓を叩いていた指にはいつも以上にきらびやかな指輪がはめられていて、俺はそれを見て、どうやって北の双子の魔法使いの目を掻い潜ったのかと首を捻った。ブラッドは多分、かつて自分が盗んだが、時の政府に取り上げられた宝物を再び手にしたのだろう。月蝕の館では失敗したけれど、今回は成功したのかもしれない。まさか金目のものと交換したわけではあるまい。
「ネロ、ちょうどよかった。起きてたんだな」
ブラッドはこちらの都合など気にせず、常夜灯にしているランプの光に指輪をかざすとそう言ってみせた。金色の土台に嵌められた石は大きく、赤い色をしていた。まるで彼の瞳のように。
「寝てたよ。お前に起こされたんだって……」
俺はそう言いつつ、この時初めて喉の渇きを自覚して、小さなキッチンに置いてあるピッチャーに入れた、レモン水を金の縁取りがされたグラスに入れる。賢者によれば中央の国からの貢ぎ物らしいそれにはミントが浮かび、寝苦しい夜をわずかばかり爽やかにした。
「どっちだっていい。ネロ、どうだ、お前もこっちに来ないか?」
「え?」
今からどこに行くつもりだ? 俺は眉を顰めたものの、結局は箒を手に取り開け放った窓の外に浮かべた。そしてそれに言われるまま寝巻き姿のまま飛び乗り、生ぬるい風が吹く夜の空気の中に浮かぶ。ブラッドはそんな俺を危なっかしく見ていたのか手を差し出していて、それがまるで貴婦人をエスコートする紳士のようだったので、俺はいささか笑いそうになってしまった。
ブラッドは普段は隠しているが、彼は常識的で面倒見がよく、北の魔法使いには似つかわしくない性格をしていた。人々がおののく破天荒さは、その飾りのようなものだ。本当は沈着冷静で、誰よりも優しい性格を秘めている。俺がそれに触れられるのは彼と寝る夜くらいのものだったが、今夜ばかりはその優しさがあふれ出ているように思えた。こんな寝苦しい夜に誘ったんだ、気分転換でもさせてくれようっていうのかもしれない。
「双子に言われて奉仕活動ってやつをしてたらさ、実はがらくた屋でこれを見つけてよ」
ふわふわと空中を漂いながら、ブラッドは嬉しそうに目を細めた。
彼は指に嵌めた宝石を見つめていた。赤い色のそれはどこかで見たような気になったけれど、その既視感がどこから来るのかは分からなかった。でも、がらくた屋で見つけたというのだから、宝石は天然物ではなく偽造品なのかもしれない。貴族は本物の宝石を宝物庫に隠し、普段は偽造品を身につけている。本当の宝石を纏うのは、王や領主が開くパーティーくらいのものだった。
「なんだ、それ」
「覚えてないのか? お前の初めての獲物だよ」
ブラッドが楽しげに言う。俺はそれに頭をめぐらせ、そういえば大昔、まだ彼に拾われて間もない頃に偽物を摑まされてしまったことを思い出す。震えて宝石を差し出す貴族たちの顔を見て、何も知らなかった俺はそれが本物だと思ったのだった。喜び勇んでボス、と呼びかけた先ではブラッドが宝物庫を荒らし、本物の宝石を荒らしていたのだけれども。
「……あー、あれね。でも所詮偽物だろ? どうしてそんな後生大事に……」
ブラッドが宝石を月にかざす。するとそれは色を変え、赤が緑に変わった。鈍る頭で魔法の残滓を探してみると彼の指輪に行き着いたから、ということは幼い俺が手に入れた宝石は、魔法使いが作った贋作だったということだろうか? ……あぁ、思い出した、月の色で魔法使いの力を引き出すその石には偽物とはいえそれなりの価値があり、ブラッドは俺の初めての獲物だとも褒めてくれたのだった。どうして忘れていたのだろう。長い間、この男から離れていたからだろうか? あんなに焦がれた男と離れている間に、記憶の封印をしてしまったというってことだろうか?
「アドノポテンスム」
ブラッドが呪文を唱える。するとその宝石は数匹の魚になって、彼の周りを飛び始めた。きらきらと落ちる鱗はやがて星になり、小さな星座になる。俺はそれをぼんやりと見つめ、頬が火照っているのを自覚した。
「……思い出したか?」
ブラッドが笑う。俺は顔がわずかに赤くなっているのを夜の闇が隠してくれることを祈りつつ、小さく頷く。手下の初めての獲物をがらくた屋で見つけた時、彼はどんな顔をしたのだろう。そしてそれを俺に見せると決めた時、彼はどんな心地だったのか。
「俺もなかなか気に入ってたんでな」
ブラッドが魚を一匹つまみ、そしてそれを宝石に入れ込む。すると偽物の宝石からは光が輪になって放たれ、それは月の光より強くなる。俺は息を呑む。その宝石の贋作を作った魔法使いは、ただ石の偽物を為すことをよしとせず、月の光で色を変え、やがて魚に姿を変える物を作り出したのだった。魔法使いらしからず人に従った、その代償に。
「思い出したよ。けど、わざわざそれを見せに?」
「馬鹿だなお前」
「は?」
突然の馬鹿呼ばわりに、俺は眉根を寄せてブラッドを見つめる。しかし彼の赤い瞳は箒の上でも静まりかえっていて、どこまでも優しくこちらを見ていた。まるで夜ベッドで見せるような、少し色がついた瞳で。
「お前の顔を見に来たんだよ、ネロ。お前本当に意味が分からないのか?」
箒が近づき、彼の瞳が近づき、最後に唇が近づく。ブラッドは俺にそっと口づけると、さらに笑って俺の髪を撫でた。
「俺の顔なんて見慣れてるだろ……」
「そんな真っ赤なんて、なかなか見れるもんじゃねぇからな」
ブラッドが笑う。あぁ、やっぱり俺は顔を赤くしていたのか。
それにはなんとも言い難い感情が湧いたけれど、あんな誘うような言葉を吐き出されては、俺だって普通じゃあいられない。
俺たちは空に浮かびながら、飛び回る魚たちに取り囲まれる。魔法舎にはまだ光が灯っていたが、月を見つめるものは誰もいない。今は俺たちだけが月と、星と、再び石から湧き出た星座を作る魚たちを見つめ、二人きりで浮かんでいた。
ブラッドは時折からかうように俺を見つめ、俺はそんな彼を見ないふりをして月に向かって昇る。ブラッドはそれに魚ごとついてきて、俺たちは久しぶりに月の光の下でじゃれあった。まるで月の光に焦がれるムルのように、お互いに惹かれ合いながら。お互いしかいないみたいに、まるで何も知らない子供のように、何度も、何度もわずかに触れて、それがまるで全部みたいに。