彼女の恋人(今はいない人) 花城が酔った時、過去の恋人について語られたことがある。とてもいい人だったの、優しくて、賢明で、人を分け隔てしなくて。私も夢中で、この人と暮らす人生も悪くないって思った。復讐なんてやめて、一人の女として過ごせたらって。でもそう上手くはいかないのよね。彼、スパイだったの。私の思考を全部理解したスパイ。最後は私の手で葬ったわ。
花城はカクテルを傾けて笑った。今日は仕事が少ない日で、狡噛と須郷は別の部署に手伝いに出ていた。それでも仕事は終わってしまって、俺たちは彼らが解放されるまでバーで待つことにしたのだ。
笑っちゃうのは、彼も私の恋人として生きる方が幸せだって思いつつあったってこと。スパイの不安定な暮らしより、祖国を裏切って私と生きる方を選びつつあった。でも私がそれを無しにしたの。いつもの拳銃でね。
花城は少し酒の飲み過ぎだった。仕事は少なかったが、最近あまり寝ていないようだった。徹夜が続いていたのだ。そして、その男を葬った日が近づいて来ていたのだ。
「あなたたちは上手く行ってるの? 順調?」
「そこそこ、かな。普通の恋人同士よりは上手く行ってると思うけど、どうなるか分からない身の上だし」
「そうよね、それが問題よね……」
花城が首を傾げる。俺たちは花城の恋人のように、お互いを裏切ることはないだろう。過去に俺を捨てた彼を信じるのは馬鹿らしいかもしれないが、二十年以上一緒にいると、恋人が次に何をするか分かったし、彼にしたってそうだった。コーヒーもキスもセックスも全て同列に、俺たちは過ごしていた。
「新しい恋をしたいって思ってもね、この歳じゃなかなかね。踏み出すのが怖いの」
「失敗したら話くらい聞くぞ、課長」
「余裕たっぷりで嫌になっちゃうわ」
俺たちは笑って酒を飲んだ。須郷や狡噛がやって来たのは、花城が酔い潰れて寝てしまってからのことだった。彼女も疲れていたのだろう。須郷がタクシーと専用のドローンを呼び、彼女は自宅に帰っていった。狡噛たちには何があったのか勘繰られたが、俺は何も言葉にしなかった。
花城フレデリカは恋をしない。それいでいいじゃないかと俺は思うのだ。