星呑み小話3・後生きるのは苦しいことだと、鯨湦は知っている。
腐った重い身体を引きずっていれば尚更だ。捨ててしまえば楽になれることも、勿論知っている。
けれども、鯨湦にそれを選ぶことは出来ない。
今日もとっくに死んでいる身体を引きずって、しがみついている。
「――お前の方が死にそうだな」
そう言ったのは旋葎だった。
『……ああ、来てたんですか』
「招き入れておいて何を言うんだか。しかし、まあ……」
旋葎の目に映るその部屋は、一面赤く染まっていた。佇む鯨湦も着物を赤くしている。
それでいて染めたモノの残骸は一つも見当たらないのだから器用なものだと、旋葎は感心する。口に出すと後ろの楓星が呆れ果てそうなので黙っていたが。
『酷いな。……一人取り上げられたくらいで』
『貴方がそれを言います?……けれど、ええ、否定は出来ませんね』
はは、と鯨湦が力なく笑う。その顔に普段のような余裕はない。
――現在、この屋敷には鯨湦しかいない。伊呂波は療養の為、という名目で彼の元から離れていた。今頃は焼火、石動と連れ添って山道を歩いているだろう。晶が見つけてきた人里に、戦神の社を移すのだという。
『場所くらいは移しましょうか。何処も、似たような有様ですけれど……』
足取りの覚束ない鯨湦に二人が続く。廊下に面した襖や障子は大抵汚れており、結局腰を下ろしたのは縁側となった。座る足先に触れるのは土や石ではなく、水だ。鯨湦の住まいはどこも海の上に建物がある。
『伊呂波は……』
「まだひいひい言いながら歩いてるんじゃないか?さっさと音を上げて石動に背負われているかもしれないが」
『そうですか……』
『……何かあったら俺に知らせが来る。飛ぶのだけはそれなりに速いのをつけてあるからな』
旋葎にせっつかれ、伝令役として小鳥の妖を提供させられた楓星が言う。仕方なく、という風ではあるが、そうして頼られること自体は悪く思っていない。
『こうして殺してばかりいるのが良くないのは分かっているんです』
鯨湦の声は掠れている。
『けれど、私が生きている限りこれは続く』
「……癇癪が?」
『そう見えるかもしれませんね。私が殺しているのは、私の力と地位が欲しい阿呆ばかりですよ。貴方達か思うほど、海は穏やかじゃないんです』
曰く、大昔は海を表す妖はもっと多くいたらしい。その分領海もそれぞれ小さかったが、奪い合いの果てに今のような形になったという。各地で別物を指していた海神という言葉が鯨湦のみを指すようになったのは、星を呑んで以降のことだ。
『海の奴らは本当に馬鹿ばかりだな』
『海に住んでもいないのに、私に喧嘩を売ったのは何処の何方でしたっけねえ』
「へえ?」
旋葎が視線を送ると、楓星はばつの悪そうな顔をする。
『……今その話はなしだ。馬鹿共の所為なら、そう言えば分からん奴じゃないだろうに』
『……』
「言いたくない理由でもあるのか」
『どうでしょう……。私は、ただ……』
追う己から、必死に逃げていた伊呂波の姿を思い出す。恐らくあの時と、何も変わっていないのだ。心と身体は確かに通じた筈なのに、どうして手を伸ばしても届かないのか。鯨湦には分からない。
『ただ……穏やかに暮らして欲しいだけなのに……』
彼を食い物にする村を、彼を捨てた村を、前世の彼を殺した村を、全て全て押し流した。
後悔はない。罪悪感もない。理由があって、行うだけの力がある。だからした、それだけだ。
『それだけなのに、どうしてこんなにも生きるのは難しく、苦しいのか……』
重い身体を引きずる理由は、伊呂波だけだ。彼がいなければ、鯨湦はとっくにこの身体を捨てて、正しく神になっていただろう。
けれども、それをしたが最後、伊呂波に触れることすら出来はしない。だから、まだ生きている。
「お前は随分、難しく考えるんだな」
旋葎が海を見つめながら呟いた。
『そうですかね』
「そうだ。あんだけやっておいて、伊呂波が穏やかに暮らせるもクソもあるか。その癖、一人で抱え込んで……まあ、これは伊呂波にも言えるがな。とにかく全部、伊呂波にぶち撒けて許しを請うくらいしろ。本当に伊呂波が大事ならな」
『……』
「伊呂波は……お前のことを、嫌いとは言わないんだ」
酔って、泣いて、寝て、観念して。
それらの何処に置いても、一切その言葉は出てこなかった。
「だから、信頼してやれ」
『……はい』
海は凪いでいた。
『世話のかかる魚だ』
行きと同じように旋葎を背に乗せた楓星がぼそりと呟いた。
「お前が言うか?……まあ、反省は多分しただろう。それでも当分は伊呂波とは離れておいたほうがいいだろうな」
お互いに、心の整理が必要だろうと旋葎は思った。
元に戻ってからも、全てが上手く運ぶわけではないだろうが、それでもきっとマシになるはずだ。
『お人好しめ』
「……なんだ妬いたか?」
図星だったのか、楓星の身体が傾いた。