星呑み小話3・前目を閉じて、布団を被って丸くなる。
伊呂波は昔から、こうして嫌なことをやり過ごしてきた。大抵、そのまま眠ってしまえば何もなかったのと同じになる。
けれど、今はどうだ。朝が来ても、何も変わりはしない。
「なあ、逆方向じゃないのか」
『合ってるから黙っとけ』
遥か上空でそんなやり取りをするのは、旋葎と楓星だ。二人は今、海へ向かって飛んでいた。
『この辺りだな、降りるぞ』
楓星が急降下してそのまま着地する。一言くれるだけマシだが、毎度乗り手のことをあまり考慮しないそれをどう改善させたものかと旋葎は頭が痛い。実際、一度空中に投げ出されている。それ以降声をかけてくるようになったが、速度を落とすという選択肢はどうもないらしい。
「毎度お前は……。ああ、もしかしてこれか?」
溜息を吐きつつ、辺りを見回した旋葎は、一つの祠を見つけて近寄る。
『それだ。……おい、来たぞ、開けろ』
楓星が祠に向かって叫ぶ。人の手程の扉が音もなく開いた。
その隙間に、人型をとった楓星が腕を入れる。もう片方の手で旋葎を掴むと、そのまま二人の姿は祠に消えた。
『ようこそ。楓星、旋葎さん』
出迎えたのは、鯨湦のみだった。
此処は、数ある――海神として広く信仰されているため――鯨湦の家のひとつである。気まぐれな鯨湦は度々主たる住処を変えており、今は此処であった。
「よう、……伊呂波は?」
『奥に居ますよ。……今日も調子が悪いと言うので』
「そうか。じゃあ、俺はそっちに行く。楓星、絶対に、ソイツをこっちに来させるなよ」
念押しして、旋葎は我が物顔で廊下を歩いていった。
その背中を見送った楓星は、既に不機嫌な顔をしている。
『楓星、貴方というヒトは』
『……お前に言われたくない。血の臭いが酷いぞ』
『……』
鯨湦は言い返さず、廊下を歩く。楓星もそれに続いた。
――鯨湦が旋葎達を呼んだのは、伊呂波が寝付いている所為であった。勿論病気や怪我をする筈がない。要は気の問題だ。しかし、その原因を伊呂波は頑なに話そうとしない。ならば、と呼ばれたのが旋葎と焼火である。同じように生きる彼らにならば、話せることもあるだろう、と。
「邪魔するぞ。……って何だこれは」
襖を開けた旋葎が顔をしかめる。
「旋葎、遅かったな。先に始めさせてもらっている」
「始めるって、お前。今日はそういう集まりじゃないだろう」
室内は酒気で満ちていた。焼火は上機嫌そうだが、伊呂波の方は旋葎に気づいているのかすら怪しい。
とにかく室内に入り、伊呂波の隣に腰を下ろした。
「伊呂波、大丈夫か」
「あ、旋葎……。大丈夫、これ、美味しい」
頬を赤く染めた伊呂波がそう言って盃を呷る。
「どれだけ飲ませた。というか何で酒を?」
「■■殿が、伊呂波はこうでもしないと俺達にすら口を割らないだろうと仰るのでな。こういう時にこそ、と思ってこれも持参した」
焼火がそう言って軽く叩いた壺は、覗くと並々と酒が入っていた。つまりこれは、あの戦神が持っている「戦利品」のひとつなのだろう。
手段はともかく、確かに正気の伊呂波では口を割らないだろうという見立ては正しい。それにしても飲ませすぎているが。
「そうか。俺もとりあえず貰うかね」
盃を受け取って、酒を呷る。確かに美味い。
「神ってのはこういうモンをいくらでも飲めるのか。良い身分だ」
「さあ……?■■殿は、使ったことがないと」
「飲む口がなけりゃ使う必要もないか。宝の持ち腐れだったな」
「なら、俺が、欲しいなあ」
「伊呂波……。お前はそう強くないようだし、止めとけ」
「強くなくても、美味しいから……。それに……」
伊呂波の手から、盃が落ちる。
「なんにも、考えなくていい……」
「……何を考えたくないんだ、伊呂波」
「鯨湦のこと……」
「何かされたか?」
「なにも。鯨湦は、俺には、優しいから……。俺には……俺にだけ……」
「鯨湦殿は、伊呂波にだけ優しい?」
「うん……」
「まあ、最初からああだったしな……」
鯨湦は、伊呂波を手に入れるために複数の村と街を押し流した。今はもうその土地に人は帰ってきているが、だからといってなかったことにはならない。
「鯨湦は……召使いにも、家来にも、厳しいんだ……。俺には見えないようにしてるけど……ほんのちょっとしたことで、潰されて、殺されて……今日だって……」
「……ああ、だからこの屋敷、血の臭いが酷いのだな」
焼火が呟くが、旋葎にはあまりそれが分からない。潮の香りばかりがする。
「怖い。怖いんだ。俺には優しい。それは揺るがない。変わらない。でも、怖い。優しいから、怖い」
「今更だろ」
「うん、分かってる。……でも、あの時からずっと、俺は鯨湦が怖いんだ……」
伊呂波の指が盃を探す。けれども掴めず空を切るばかりだ。
「伊呂波、もう飲むな。焼火、布団に突っ込め」
「承知」
焼火が伊呂波を手早く抱えて、奥の布団へ寝かせる。伊呂波は少し抵抗したが、かなり限界だったらしくすぐに目を閉じた。
それを見届けた二人が卓に戻る。
「全く……世話の焼ける」
「しかしこれは……吐き出しただけではどうにもならないのでは」
「そうだな……。よりによって、相手がアレじゃあな」
人間らしい伊呂波を愛したのは、人間とは程遠い鯨湦だ。
恐らく伊呂波の吐露したことを伝えたとて、鯨湦はきっと理解できない。
「精々理解できるまで苦しめばいいさ。それがお似合いだ」
旋葎は酒を呷る。焼火は曖昧に笑っている。
「それに……伊呂波だって相当だろ。怖いとは言うが、嫌いだとはあれでも言わないんだからな」
「ああ、確かに」
伊呂波は起きたら、先ほど迄のことを覚えているだろうか。
どちらにせよ、もう少し寄り添ってやらねばと二人は思うのであった。