星呑み小話8約二ヶ月ぶりに見た鯨湦は酷いものだった。
人間の形を維持し続けることくらい、呼吸よりも容易いはずだ。けれど、今の鯨湦の身体は時折水と腐った肉が透けては戻っている。
「……老けた?」
少々迷ってから、伊呂波はわざとからかうようにそう言った。表情もそれに合うようにしたつもりだが、恐らく出来ていないだろう。
この地での化物退治から半月程が経過した頃、結局使うことのなかった小鳥の妖とよく似たものが飛んできた。甲高い声のそれが単語で告げたのが、鯨湦の来訪である。
嫌ならすぐ返事を返せ、ということも言っていたが、それはしなかった。明けて翌日、すなわち今こうして二人は久々の対面をしている。
『よく分かりませんが、……酷いということでしたら、きっとそうでしょう』
「……」
『貴方は、少し変わりましたね……』
そうだろうか、伊呂波は内心首をひねる。先日少し大胆なことはしたかもしれない。けれど、それとて皆――一緒に奮闘した焼火と石動、付き合いの長い旋葎――が事も無げにやっているようなものだ。
「髪が伸びたくらいだろ」
『外見は、そうですが。……伊呂波』
鯨湦がじっと伊呂波を見る。人では有り得ない、異形の目で。血のように赤い瞳の周りに広がるのは、あの日飛び込んだ夜の川にも似た色だ。
いや、違う。伊呂波がこの色を見たのはもっと昔のことだ。離れるよりも、言葉をかわすよりも昔、気まぐれで深く深く潜った時に初めて見た。
冷たい海に横たわる、独りきりの色。欲しいものに必死に手を伸ばすものの色だ。
『このまま、あの村で暮らしたいですか』
「……え?」
『貴方が望むなら、私は』
「鯨湦」
瞬間、鯨湦には何が起きたのか分からなかった。
『伊呂波?』
分かるのは、どうやら伊呂波が怒っているらしいことと、左頬に何かが当たったことだけだ。
「……アンタは、いつも、そうだ」
『何を、怒ってるんです?』
「俺のことなんか、全然分かってない。そうやって、勝手に、いつも!俺の返事なんか聞いてないくせに!そんな気なんか全然ないくせに!」
鯨湦を睨みつける目から雫が落ちる。
何時だってそうだ。そんなつもりはないのに伊呂波を泣かせてしまう。その涙も好いている……いや、きっと泣かせてしまうから、好きになるしかなかったのだろう。その源流を見なくて済むように。
『でも、そうやって貴方は悲しむから』
「悲しむから、今更只の人間に戻そうって?無理に決まってるだろ!もし戻れたとしても、一生アンタの手を振りほどいたことを後悔してろって言うのか!?」
『そんなつもりは』
「なくてもそうなんだよ!勝手ばっかり言いやがって!!」
肩で息をする項を見下ろして、鯨湦は何も言えなくなる。
ずっとそうだ。何もかも遅くて、何もかも悲しませる。手を離すことすら、間違っていると泣かれてしまう。
「でも、鯨湦」
伊呂波は顔を上げない。
「隣にいて欲しいって、海に戻ったのは、俺だよ」
『伊呂波……?』
「それなのに怖いって泣いて、勝手なのは俺の方……」
『私は、そんな風に思ったことなんて。ああ、伊呂波、私は』
どろり、と涙のように鯨湦の顔が溶けては戻る。腐った重たい、見たくもない身体が露出してしまうのが己でも分かってしまう。
『……私は、貴方に綺麗なものだけ見せていたかった』
搾取する村を沈めて、腐った身体を隠して、醜い争いから遠ざけた。己以外に何も寄り付かなかったあの海の底のように、澄んだ場所に幸福があるのだと信じていた。
けれど、それは全て鯨湦にとって心地よいだけだ。人間の伊呂波が、海の底で生きていけるはずもない。
それなのに潜ってきてくれたから、息を止めていることに気がつかなかった。
『私はきっと、これからも貴方を泣かせてしまう。貴方のことを、永遠に理解しきれない。……それでも、貴方を愛してる。愛してるんです……』
あの日と同じように、巨大な身体が伊呂波を見ている。海水も肉も剥げ落ちた、生きているのが不思議な鯨が泣いている。
「……まだ、俺が只の人間に戻ればいいって言える?」
『いいえ、嫌です。……でも、私は貴方を穏やかに微笑ませる方法が分からない』
「難しく考えてるんだな」
『旋葎さんにも、言われました』
顔を上げた伊呂波の目からは、新たに落ちる涙はない。
「鯨湦」
伊呂波が肉に触れる。
「俺もアンタのことがきっと永遠に分からない。怖いってまた泣くと思う。……それでも、やっぱり、隣にいて欲しい……」
それだけでいいよ、と伊呂波が笑う。
制御の利かなくなっていた身体が、漸く元通り人の形をとる。
『ええ、ええ。お願いです、私と一緒にいてください』
「……うん」
『思ったことは、ちゃんと言ってください。……理解できないかも、しれませんけど』
「うん」
『伊呂波、伊呂波』
伊呂波を掻き抱いて泣くように叫ぶ。背に腕が回ってくるのが、これほど嬉しいのだと思ったことはなかった。