星呑み小話17賑やかな宿場町を後にし、関所を抜ける。
後もう少しだと言う石動に、一重は意を決して聞いた。
「さっきの、おかしくないの」
「お、どうしてそう思った」
一重は少し考えるような、戸惑うような間を置いて答える。
「……手形が白紙だった。僕たちみたいな庶民なんて大抵通れるって叔父さんも言ってたけど、それでも白紙なんて持ってこないより怪しいよ」
出女でもない限り、関所は厳しい審査をしない。男なら無手形でも通れるが、その代わり検査が煩雑になってしまう。普段は荷運びをしているという石動がそれを知らぬはずもない。だというのに石動は荷から白紙を取り出し、受け取った役人はまるでそれに文字が書いてあるように目を上下させていた。
「よく見ているな」
『コイツはいつもそうだぜ。どうでもいいことまで何でも見てやがる』
馬の形になって一重を乗せている沽猩が笑う。そう言う沽猩も、一重からするとどうでもいい事まで目ざとく見つけてはあげつらってくるじゃないか、と思うのだが、このようなものは本人は無自覚なものである。
「そうやって何でも見る姿勢はいい。……だが、今からお前を連れて行く所は、見えるものだけが全てじゃない。手形を手配したのもあちらさんなんだが……お前が言ったとおり、俺達が見る分には白紙だ。だがお役人達にはどうも御大層な文章がつらつら書いてあるご立派なものに見えるそうだ」
そうなんだろう、と石動は横を歩く晶へ振った。晶は何時ものように柔和に微笑んでいる。
「ええ、石動の言う通り。見えるものが全てではなく、全てを見ようとするのも……お勧めはしかねますね。恐らく、見すぎる前に止めてもらえるとは思いますが」
ねえ、と晶は沽猩を見て言ったが、沽猩はあからさまにそっぽを向いた。どうも沽猩は晶の事をあまり良く思っていないらしい。そもそもとして他人を好いていないようだが、それでも理由の分かる焼火のようになにかされた訳でも無い筈だ。己の事のように申し訳なくなる一重だが、ここで口を挟むと沽猩が臍を曲げて面倒になりそうだと何も言わない事にする。
『つまり碌でもねえヤツしかいねえとこってことさ。一重ェ、オマエが行くのは奉公じゃなくて島流しなんじゃねぇのか?』
「な……っ。お前、流石に言いすぎだよ」
『大体なあ、オマエは何にも分かんねぇだろうが……どんどん臭うのさ』
「臭う?」
『俺やそこのデカブツ、猫なんかと同じモンがいるニオイだよ』
「それって……」
『そもそも、オマエまだ気がついてねえのか? 関所出てから、何ともすれ違ってねえだろ』
「!」
確かに沽猩の言う通りであった。あの宿場町の賑わいと全く噛み合わない程道は狭く、人っ子一人向かいからやって来ない。気がついてしまうと、只の平坦な道行きがまるで黄泉への道のように思えてくる。一重の背を嫌な汗が伝っていく。
「帰るか?」
石動が短く問う。
「……ううん、帰らない」
「別にここで引き返しても、誰も文句は言わんさ。俺も晶も、汽一さんも」
嘘ではないだろうと一重は思った。うっすらそう思う程度に、この二人には世話になり、緊張も解いた。ちら、と沽猩の顔を見る。気がついたのか首を少し捻って一重と目を合わす。
一度は己を食おうとした、決まった形を持たぬ化け物。恐ろしくない筈がないのに、何故か今は、何の形をとっても変わらぬ赤色が酷く安心できた。
「他のところじゃ、きっと沽猩付きで奉公なんてさせてくれないよ」
「それは確かに。……ああ、ほら、あれですよ」
晶の声に前を見る。
何やら前方に黒い塊が見えた。屋敷や、その壁のようには到底見えない。
言い切ったものの得も知れぬ不安を抱えながら、段々とそれに一行は近づいて行く。
そうして暫く後に辿り着いたのは、屋敷でも街でもなく、只の焼け跡であった。
どういう事だろうと思いつつ、一重は沽猩から降りる。即座に沽猩は蛇の形をとり、一重の首に巻き付いた。
『どうもどうも、長旅ご苦労さまです』
さくさくと足音をさせて、一人の男が近づいてくる。顔に火傷らしき痕が目立つ、若い男であった。
『晶サン、こちらのお坊ちゃんがお話の?』
「ええ。……良い子でしょう?」
男はじろじろと一重を見ると、にいと笑った。
『ま、それを判断するのはオレではないんでね。坊っちゃん、くれぐれも若に失礼のないように。……さあて、ではお通ししましょうか』
突如男の腕の中に鏡が現れる。男の火傷のようにひび割れのあるそれに、一重らが映っている。男がそれを傾ける同時に、
「!?」
焼け跡は消え失せ、突如大きな屋敷が現れた。言葉を失う一重の肩で、沽猩は笑っている。耳には人が集まり生きているのだろうと感じられる程度の騒音まで届いてくる。
『ようこそ、人でないものの集まる、鏡の町へ。……どうです、驚きました?』
男が得意げに笑う。
人間とはある程度の恐怖と驚愕を通り越すと、何だか楽しくなってくるらしい。一重は感情の整理のつかないまま、それでも思う。
此処ならばきっと、何でも学べるに違いない、と。
『オマエは大したタマだよ、全く』
それを知ってか知らずか、沽猩はそう呟いた。