星呑み小話:悪食塀の上で沽猩がくあ、と欠伸をする。視線の先にいる2つの人影は、沽猩を見ることもなく本を読み上げ、書き写し、疑問と返答を繰り返している。眺めている沽猩は始まってすぐに飽きているのだが、二人は毎日のようにそれを繰り返している。
――沽猩と視線の先の1人、一重が暮らす町・照魔はあやかしの町である。人には見えぬひっそりと隠れた、けれど広大な町を治めるのは、宇界地聡という名の人間である。町を知らぬあやかしは、必ず最初にこう言う。
「人があやかしの上に立てるわけがない。あやかしが人の下につくわけがない」と。最もな言い分である。あやかしという強大な力を持ったものが、非力な人間に従う、町という庇護下に入る必要性が見当たらない。沽猩自身も、最初はそう思っていた。
だが、そんな心は地聡を一目見た瞬間に吹き飛んだ。あれは、人間というには悍ましすぎる何かだ。ばけもの如きでは触れることすら叶わず、あやかしとて気分次第でどうとでも出来る、けれど人間の身体を持つ形容し難い者である。それを少しも知覚することなく、今のように向き合って座りその教えを請うている一重は幸運だと沽猩は思う。
「さて、今日はここで終いにしよう」
「はい。ありがとうございました」
二人が本を閉じる。主人と使用人の関係であるが、地聡は随分と一重に肩入れしているように見える。それもあってか、来てすぐの頃は睲壡の当たりが強かった。だが、もうこの地に来て5年が過ぎている。一重が何の力もない只の子供だと分かったのか、それとも単に地聡に叱られでもしたのか、今や睲壡は一重の二人目の師とでも呼ぶべき位置にいる。人のように群れ、人の真似をするあやかしが暮らすこの町ですら、睲壡ほど人を理解しているあやかしはいない。それ故に、一重から見れば睲壡はいっそ地聡よりも「普通」に見えるのだろう。それがあやかしからすれば「異質」であることを、沽猩は一重に教えていない。何事も己等人間を基準に考えるのは、人間の悪癖だ。それを指摘してやるほど一重に優しくしてやる気はない、と沽猩は伸びをしながら思う。今日は猿の形をとっていた。一重が立ち上がり縁側へと出てきたので、沽猩が塀から飛び降りその肩へと乗る。
『毎日ご苦労なこったな』
「はいはい」
沽猩から見れば、金を貰っても御免だが、一重は日々が楽しいらしい。この後は地聡の夕餉の準備にかからねばならない為、やや早足で厨へと向かっている。
一重の仕事は、地聡の身の回りの世話であった。具体的には、地聡の衣服と食事の用意、そして部屋の清掃だ。何故それをわざわざ人間にやらせるのかというと、地聡の少々行き過ぎた綺麗好きの為である。曰く「あやかしは汚れに対して鈍感すぎる」とのことだ。実際、あやかしは大なり小なり血生臭い素性な為、どれだけ身を清めても取り切れない穢れがある。触れたものにそれを一切残さないのは不可能といえるが、このような町を治めておきながらそれを言うのか、と沽猩は内心呆れている。その汚れや穢れが人の、幼い一重にはないということで一切を任されているのだ。最初は包丁の扱いすら覚束なかったが、今はもう慣れたものである。
「今日はどうしようかな……」
『別に何だって良いだろうよ。あの若様、綺麗好きの割には砂の残った貝でも食うしな』
「またそれ言う……」
地聡に砂の残った蒸し貝を出したのは、ここに来て半年も経たない頃だった。地聡が眉一つ動かさず食うのでやっとまともなものが作れた、と胸を撫で下ろした一重が口をつけた際の顔を見て沽猩が文字通り転げ回って笑ったのも、今や懐かしむ記憶である。
『何度だって言うさ。面白いからな』
「……沽猩って暇そうだよね」
『何だとォ?!』
一重の肩から飛び降りて、犬の姿になる。それの威嚇で腰を抜かしていたのを最後に見たのは、何時だっただろうか。人の成長は早く、全てがほぼ変わらないこの町で一重1人だけが着実に歩みを進めていく。
「もう。僕は忙しいんだから」
するりと横を抜けていく一重を慌てて追う。年々自分の扱いが雑になってきてやしないか、と沽猩は訝しむ。あやかし相手に随分と命知らずな振る舞いであるが、矯正してやろうとは何故か思えない。
『それさ、まだ気付いてないのかよ』
以前、こちらに顔を出した冥猩がそう言って呆れていたが、沽猩には何が何だか分からない。生意気な口を利きやがって、と振り上げた前脚は冥猩がそこから抜け出した為空振りに終わった。
冥猩は沽猩のように自在に姿を変えるのではなく、この国の全ての猫の身体を使うことが出来る力を持っている。それを使って、しばしばこちらの様子を伺ってくるのだ。そうしないと汽一が坊が坊がと煩いのだそうだ。
『忙しいならよ、お勉強の時間を減らせば良いだろうが』
「それは無理」
きっぱりと切って捨てられる。最初に呑み込んだ時からそうであったが、一重は知識に貪欲であった。貪欲の権化、欲しがりのあやかしだと呼ばれた沽猩ですらたじろぐ程に。
『一重、オマエよォ』
また猿の形となって肩に戻る。
『何をそんなに、知りてぇんだ』
段々と子供ではない形になってきた輪郭を眺める。
「全部」
迷いなく、緑の目が言う。
『……全部ってのはまた大雑把な』
「そうだね、例えば……。そう、水は上から下に流れるけど、下から上には流れない。でも人間は山を登って降りるどっちも出来る。その違いは何か? 水が全て上から下にいくのなら、山は干上がるんじゃない? そもそも、雨は空から降るけれど、高い空にどうやって水が溜まるの? 他にも鳥のような翼をつけても人間が飛べない理由とか……そういう、全部が知りたいんだ」
『そりゃあ……』
不相応な願いだな、と沽猩は思った。本の中身を全部知りたいどころではない、もっと大量の、人には過ぎた領分の知識が欲しいとまっすぐに言う。
「みんな、そういうのはそういうものだって言うから……。ここの人達も、妖術とかそういうのを使う人は何人もいるけど、でもどうしてそうなってるのかは分からないって」
『そりゃそうさ。俺達はそういうモノなんだからよ』
「でも、全部に理屈はあると思うんだ」
こりゃ誰も持て余すわな、と沽猩は呆れた。だが同時に思う。
『全く、面白いヤツだよオマエはさ』
それに付き合えるのは、同じ底無しの自分だけなのだと。