星呑み小話:さとりの話それは、不可思議なあやかしであった。
やれることは2つしかない。ものの心を読むことと、声を出すことだけだ。他者の縛ってもらわねば一箇所に留まることも出来ない、幻のようなあやかしだ。
揺蕩い流離い、流れ着いたのが星を呑んだ鳥の支配する山であった。力にしか興味の無いそれが、正反対に位置するようなあやかしを配下にしたのは、恐らく一時の気まぐれだろう。
実際、あやかしに「仕事」が与えられたのは、主と出会って何十年も過ぎてからであった。あやかしが縛り付けられた家屋に住む、一人の人間の心を読み、伝える仕事である。造作もない、単調な仕事ではある。だが、その人間は少々変わっていた。最も、あやかしの主からして普通の範疇から外れた存在なので、似合いではあるだろう。
【ご用事ですか主。ワタクシに何のご用事でしょうか】
感情の乗らない声を上げる。あやかし自身がどう思い、感じ、発話しようと、それの声は決して他の生き物のように色のある声にならない。
主はまだ何も言わない。感情は勿論あやかしには見えているのだが、それを突きつけるように声に出すのは、普段良いことの方が少ない主の機嫌を損ねるだけだと知っているので実行しないようにしている。
最も、今の主の機嫌はどちらかと言えば良い方に見える。それ以上に勝っている感情が、あやかしを呼び立てた原因であろうが。
『……』
主は黙りこくっている。だが、あやかしにはその心に浮かんでは消えていく感情と言葉が全て見えている。何十年とその心を読む時間はあったが、このように多種多様な、まるで人間のような飛沫の感情を抱いている主を見るのは「仕事」を言いつけられてからのことだ。
困惑、喜び、不安、疑問、そういったものが浮かんでは混ざってゆく様は、あやかしにとっては好ましい。
『……。アイツは、何を考えていた』
暫しの沈黙の後に、主はそれだけを声にした。最も、あやかしは耳なぞ持っていないので、実際に声として聞いたわけではない。まるで声を聞いたかのように感じ取れるだけだ。
【奥方が。何時の考えをご所望で?】
『そんなの決まって……ああ、そうだった。お前は、見えないんだったな』
【残念ながら。ワタクシこのような身……と言えるものすらないもので】
耳が無ければ目もあるわけがない。あやかしの世界は、闇の中に他者の心だけが光り浮いている。
『俺の髪を、結んだんだ』
【奥方が?】
『決まってるだろう。……何を思って、突然あんな事をしたんだ、アイツは』
あやかしの主は鳥であるが、今は人間とそう変わらぬ形になっている、らしい。それを成したのが、奥方――この家屋に住んでいる人間・旋葎である。世界に有象無象の如く存在する人間と変わらぬ心の形をしているが、その移り変わりようが少々変わった人間だ。
兎に角、主があやかしに尋ねているのは旋葎が普段と違う行動、つまり主の髪を結ぶというそれの原因であろう。あやかしは今朝、昨晩と旋葎の心の移り変わりを思い返す。
【……。大変申し訳無いのですが、恐らくワタクシは主がお望みであろうような返答が出来ません】
『は? どういう意味だ』
【主がお求めなのは奥方が、主に思いを寄せていらっしゃるような解釈が出来る理由でしょう? ですが、今朝、昨晩と確かめてみましても、そのような分かりやすい心の動きが有りませんので……】
主の心が困惑に染まる。怒りにならないだけ良かったのだろうとあやかしは思った。
【勿論、何も思うことなしに結んだのではございませんが……。人間の男女によく有るような「良い人に尽くしてやりたい」というようなお考えでは無かったので】
お聞きになりたいですか、とあやかしは主に問う。また沈黙の後『止めておく』と返ってきた。
【お聞きにならないのですか】
『……いい、止めだ。あと俺がアイツをまるで好いているような物言いをするな。次は無いぞ』
【了解致しました、主】
主の物言いはまるで「自分は旋葎を好いてなどいない」と伝えたげであったが、あやかしには心が見えている。この地に縛られるまで、本当に沢山の、有象無象の心を見てきた。今の、旋葎と共に暮らすようになってからの主の心の動きは、まるで人間の男女のそれのようであった。こうしてあやかしに「仕事」を与えたのも、男女によくある「良い人に尽くしてやりたい」というそれに近いものがあったからだ。どうやら主自身には、全くその自覚がないらしいが。
では旋葎の方はどうかというと、これがどうもはっきりとしない。主を嫌っている訳ではないのだけは分かるが、ではこれは一体どのような言葉を与えるべき感情なのかがあやかしには判別が出来ない。分かるのは、初めて出会った時から特に変化がないという事だけだ。この時点で常人とは違っている。
【ああ、ですが一言だけ宜しいですか主】
『……何だ』
まるで人間のような感情を生み出すようになった主と、人間離れした揺るがない心を持ったその伴侶、どちらの事もあやかしは好いていた。主の配下に、この家に縛られて良かったと思っている。空っぽの、他者を読むことでしか存在を見いだせない幻のような己が、やっと個を得たような、そんな心地になる。
【奥方は「折角見目は良いんだから、もっと気遣えば良い」と前々から思っていらしたようです】
『お前、そういうのを報告するのが仕事だろうが!』
勿論それが「仕事」ではある。
だが、このようなものは他者から伝え聞く前に自力で気づくべし、という事くらい、あやかしとて知っているのだ。