星呑み小話:凪の夜――こんな事になるなんて思わなかった。
朝日が差し込むにはまだ早い、薄暗い寝床で旋葎は思う。本当は今すぐにでも起き上がりたいのだが、そうもいかない。理由は2つある。
先ず、身体が怠い。次に、身体が重い。痩躯の割に大した怪我や病気と縁がない旋葎としては、あるまじき事態である。何故そうなったかと言えば、――楓星のせいであった。
『……』
前兆は無かったと、旋葎は思う。むっすりと黙ったまま、布団に転がる旋葎を見下ろしている。
「……あー、お前」
『言われなくても、分かってる』
被せるように早口で投げられた言葉に、旋葎は目を見開く。楓星の表情は何時もと大して変わらず不機嫌そうで、状況と親睦性がない。
「分かってて、俺を?」
『……』
「物好きだな」
『……お前こそ、変に大人しくしやがって』
ぎち、と奥歯を噛む音が聞こえる。見開いた赤い目が旋葎を睨んでいる。それだけで、楓星は何もしない。いや、何も出来ないのだろう。
楓星は決して旋葎に危害を加えることが出来ない、というのは出会った時、いや恐らくそれ以前から決まっている事実である。正しくは「危害を加えようとすると楓星自身の力が跳ね返ってくる」とでも言うべきだろうか。どういう理屈か呪いかは不明だが、かすり傷一つだろうと故意につけようとすると、旋葎の後ろに楓星の影法師のようなものが出てきて大げさな反撃を食らう。これが見境なく行われるのなまだ納得もできるんだが、と旋葎は呆れたことがある。双方不本意ながら生活を共にするようになったばかりの頃は、どうにか旋葎の縛を逃れたい楓星はそれを掻い潜れないかと四苦八苦しては吹き飛ばされたり傷を負っていた。
その経験を踏まえると、恐らく楓星が行おうとしている行為はそれに引っかかる。どちらかが女の形でもしていれば、まだ一瞬、一撃で済むのだろうが、どちらも男の形なのが現実だ。初回では、加害と大して変わらないものにしかなりようがない。楓星もそれを承知しているので動かないのだろう。
「楓星」
旋葎が名を呼ぶと、ほんの少しだけ顔の強ばりが解けた。赤い瞳には旋葎だけが映っている。
――恐らく、自分達以外は皆知っていたのだろう。晶は「もう十分そうなっている」と言い、楓星の配下の毛玉達は旋葎を『奥方』と呼んだ。傍から見れば寧ろこうなっていないことが不自然だったのだろう。けれど片や自分以外は等しく下に見ていた楓星、片や他人に踏み入らない旋葎である。只の人間同士であればまた違ったのだろうが、このような関係なのだから仕方ない。
「一つだけ聞きたいんだが……どうしてだ?」
『……。……別に、理由なんて無い』
理由なしでする事じゃないだろう、と言いたいをの飲み込む。そもそもの始まり、旋葎が晶の頼みに頷いた理由とて無いに等しいのだから、一方のみに求めるのも変な話だ。寧ろ、理由が無いのが一番の理由なのかもしれない。言語化出来ない何かだけが、楓星にこんならしくない事をさせている。そうして、旋葎自身にもだ。肩を押し返すような気は、髪の毛程すら湧き上がりはしない。何故か、考えても明確な理由は浮かばない。
やはり、自分達はそういうものなのだろう。
「そうか。うん、そうだな」
楓星の首に腕を回す。重なった唇に歯が当たったが、何も起きない。例え痛みがあろうとも、これは害ではないのだ。
風の吹かない、夜だった。
つまり、行為自体は双方納得済みであった。旋葎が想定外だったのは、身体の不調と――楓星が己を抱き込んだまま寝入っていることだ。
身体の不調の方は、短時間とはいえ寝たのだから回復しているだろうと高をくくっていたところもある。そうは行かなかったということは、明日の朝までこのままなのだろう。久方ぶりの人間らしい痛みや怠さは懐かしくもあるが、好んで負いたいものでもない。
「……おい」
呼んで肘で小突いてみるが、楓星が起きる様子はない。どんな顔をして寝入っているのか見てやりたいところではあったが、寝返りすら打ちたくない身体状況である。溜息を吐いて、耳を澄ますが楓星の寝息しか届かない。何時もならば、溜息を吐き終わる前に枕元に湯呑がある筈なのだが。恐らく厳重に楓星が人払いをしたのだろう。
以前旋葎が捕まえた毛玉三匹の他に、この家にはもう一体姿のないあやかしがいるのだが、それの声すら聞こえない。望む間もなく瞬時に物が現れる仕掛けの中核はそれである。人の心を読む性質をもったそれが、旋葎が望む前に毛玉に伝え用意させていた……というのが事の真相だ。昼間は家にいない楓星に旋葎の様子を伝えていたり、旋葎に認識された今は話相手になったりもしている。
楓星も流石に、夜の事を事細かに把握なぞされたくはない、と思ったのだとすると、少し面白かった。
「おい」
もう一度、少し強めに小突く。変わらず反応はない。
普段の、今までの楓星なら絶対に楓星の前で眠ったりはしない。共に膳をつついてる以外に一体何をして過ごしているのかすら分からない程度には、旋葎に気を許してなどいない筈だ。それがこの一晩でこれである。極端すぎやしないか、と旋葎は呆れるしかない。
「ま、俺も大概か……」
目を閉じる。億劫なだけで、緩い拘束から抜け出せない訳ではない。それをしない理由は、旋葎にも分からない。
只、起きた楓星がどんな顔をするのかだけはしっかり見てやろうと、そう思った。