月鯉 薔薇が咲いた街の外れの一軒家に男が越してきたのは、今から四年ほど前になる。
住む者がいなくなって久しい家屋はすでにボロ家と呼べるほど傷んでいたけれども、男の手で根気よく少しずつ修繕され、しばらく経たない内に元の持ち主が手離す前よりも小綺麗に整えられた。
自分のことを退役軍人だとしか語らない男は、「月島」と名乗った。背は小さくとも元兵隊さんと言うだけあって体躯を覆う筋肉は厚く、なるほどひとりでも大工仕事をこなせるのも頷けた。ただ、戦争で大きな怪我でもしたのか、脚を引きずるようにして歩く癖があった。
特に足場が悪くなる冬は、杖をついている姿を見かけたこともある。
それが原因かはわからないけれども、とにかく寡黙な男は家に引きこもっていることが多く、近所の住民たちとも馴染む様子は一切なかった。
おそらく、歳は四十を超えているだろう。嫁もおらず生業を持つでもなく誰とも交友を深めることもなく、ただ家に引きこもるだけの男を街の人間も流石に不気味に思い、しばらくすると近づこうとする者は誰もいなくなっていた。
さて、かくいう私はこの街の郵便配達員であり、月島さんの住まれる家は私の担当区域である。前置きが長くなってしまったが、一度も郵便物を月島さん宅に運んだことのない私が、ひょんなきっかけで彼と縁を持つようになった話を今からしようと思う。
その日は朝から小雨が降る、足元も視界も悪い日だった。
こういう時は悪い輩に出くわすことも多い。残念ながら悪い予感は的中し、人気の少ない街はずれで私は郵便強盗に襲われた。護身用の拳銃を持たされてはいるものの、そう気安く撃てるものでもない。三人ほどを相手にどうにか郵便鞄を守りながらぬかるむ道路に足を取られまいと必死に駆けていると、大八車を引く背丈の小さな男の姿が見えた。月島さんだった。
この時ばかりは月島さんの小さな背丈も、私の目には山のように大きく見えるほど頼もしく映った。瞬時に状況を察した月島さんは荷台から鋤を担ぎ、脚の不自由を感じさせない勢いで空気が割れるほどの雄叫びをあげ、こちらに向かって駆けてきてくれた。
その迫力に強盗達は怯んだものの、ここで逃げたところで警察に通報されれば逃げることも叶うまい、とでも考えたのだろう。数の多さを有利と判断し、月島さんに挑みかかっていった。
決着はすぐに着いた。強盗達は月島さんの手で一網打尽にされ、そのまま騒ぎに駆け付けた警察に引き渡された。
月島さんの手際は、まさに鮮やかのひと言に尽きた。襲い掛かる荒くれ者たちを終始圧倒し、何の危なげもなく向こうが反撃不能になるまで追い詰めた。私はその様をただ大八車の影に隠れて見ているしかできなかった。目の前で繰り広げられる有無を言わせない暴力に、これがあの旅順帰りの兵隊さんの強さなのかと興奮する反面、あまりにも淡々と人を打ちのめしていく月島さんの冷徹な眼差しに、雨とは違う冷たい汗が背に流れるのを感じた。
これほどの活躍をすれば表彰のひとつもされようものだが、月島さんはそういったものをすべて断り、そっとしておいて欲しいと頑なにこの一連の大捕り物を大事にしないよう振るまっていた。
後日、ひたすら固辞する月島さんに何とかお礼をしようと、私は手土産を持参して約束もなく彼の家を訪問した。
「こんにちは!月島さん!郵便屋です!」
覚悟はしていたが、何度呼んでも一向に応える気配はなかった。
失礼を承知で更に声をかけていると、やがて戸の向こうから脚を引き摺り近づく物音が聞こえてきた。
建て付けが悪いのか、ガタガタと揺すってからようやく木戸が開く。
現れた月島さんは着流しを腰で端折った格好をしていて、野太い脚がどっしりと露わになっていた。
何か野良仕事でもしていたのだろうか。
首から下げた手拭いで頬についた泥を拭う顔は憂鬱そうで、あからさまに歓迎されていないことがよくわかった。
「いきなりお邪魔してすいません」
「……いや、俺こそこんな格好で、」
気まずそうに目を逸らす仕草に、私はこの人がそれほど偏屈な人ではないとすぐにわかり、思わず頬を緩めて言った。
「いえ、こちらこそいきなりお邪魔してしまったので」
そこでようやく月島さんは私の身なりと手にした包みで全てを察したのか、「こんな所で立ち話もなんだから、」と招き入れてくれた。
広い土間の奥の板間に上がるよう勧められ、遠慮なく上がらせてもらった。
「ちょっと待っててくれ、茶でも淹れるから」
そう言って、手際よく急須と湯呑みを用意してこちらが遠慮する暇も与えずお茶まで淹れてくれた。
「――急に押しかけるような真似をしてすいませんでした。月島さんにどうしてもあの日のお礼が言いたくて、」
「……それは、どうも」
早速土産に持ってきた街でも有名な団子屋の串団子を、月島さんはしばらくじっと見つめていた。
「私が言うのもなんですが、美味いですよ。局でも人気でお土産にいただくこともあるんです」
「そうですか」
相変わらずの憂鬱そうな顔のまま、串を手にした月島さんはそのままガブリとひと口食べた。
「……美味い、です」
「良かった!」
それは本心からの声だった。この会話の続かない強面の元兵隊さんとの時間を少々息苦しく感じていた私は、やっと息を継げた心地で力を抜いて、いつの間にかガチガチに体が強張るほど緊張していたことに気づいた。
「……耳が、悪いんだ」
大仕事をやり遂げたように喜色満面になった私を怪訝な顔で見つめいた(いや、観察と言った方が適切だろうか)月島さんの唐突な話題を、すぐに咀嚼することはできなかった。
「訓練中の事故で……、手投弾が至近距離で爆発して、左側の聴力はほとんどありません」
「――それは、」
お気の毒に、という言葉を続けるのは躊躇われた。
「では、郵便受けを置いていただければ、月島さんに届いた郵便は、そちらに入れるようにしますね」
私の言葉に月島さんはぱちぱちと目を瞬かせ、それから「ハァ、」と心底面倒臭そうな顔を隠そうともせずに坊主頭をガリガリと掻いた。
なんだ、そんな顔もできるのか。
私はこの得体の知れない元兵隊さんの、血の通った人間らしい反応をようやく見ることができた気がして無性に安心した。
「ところで、月島さんは花でも育てられてるんですか」
団子をひと串食べ終えたころを見計らい、ずっと気になっていたことを思い切って訊いてみることにした。
土間の隅、囲炉裏と程よく距離を取った場所に草花の苗を植えた木箱がいくつか並べられていたのだ。
小さくとも巌のような体躯と顔面の月島さんからは想像もつかなかった存在に、つい好奇心が勝ってしまった。
「………………あー、」
月島さんは、明らかに「しまった」という顔で気まずそうに顔を逸らした。帝国陸軍の元軍人が軟弱な趣味を、だとか思われやしないかとでも考えているのだろうか。であれば、とんだ誤解だ。
「私の妻も、花を育てるのが趣味なんです。最初は寒さの所為で花を咲かすのもままならなくて。試行錯誤をしながら世話をする妻を見て、私も興味が沸きましてね」
「……そう、なんですか」
「もしよかったら、お庭を見させていただけませんか?」
急に押しが強くなった私に、月島さんは遠慮なく渋い顔をした。面倒くさいとかそういう顔つきだったが、根負けをしたのか仕方なさそうに「どうぞ」と重い腰を上げてくれた。
もうこの頃には、私はすっかり月島さんのことが好きになっていた。
人と関わることを極端に避けているようだが、それでも月島さん自身は決して悪人でも冷たい人でもない。
この人が育てる庭がどんな庭なのか、俄然興味が沸いたのだ。
「頭、ぶつけないでくださいね」
「ありがとうございます」
勝手口から庭に通された瞬間、私は口を開けたまま言葉を失い、その場に立ち尽くした。
これから短い夏を迎えようとしている空の下、色とりどりの花々の、活き活きとした姿が広がっていた。
ツツジの生垣に囲まれた庭は、小さな池の周りをアヤメにキンギョソウなど鮮やかな花々が彩り、可憐なスズランがそよぐ風に花を揺らす。
地植えを中心に、野趣を感じさせながらも丁寧に世話をされていることがよくわかる、月島さんの人柄が溢れているような庭だった。
「……なんと、薔薇も育ててらっしゃるのですか?」
中でも圧巻だったのが、池から少し離れた場所に植えられた木立ちの薔薇だ。
数株の薔薇はどれも胸の高さくらいまで育ち、赤に橙に白と、大輪の花を咲かせていた。
これには流石に感服するしかなかった。寒冷地では育成が難しいと言われている薔薇を、ここまで見事に育てる人がこんな近くにいただなんて。
薔薇は一年中手のかかる花で、寒さに弱いものも多い。冬は雪に覆われるだけまだマシだろうが、それでも本州と違い越冬は難しく、育て方も違うと言われている。ここで暮らし始めるまで花など育てたこともなかっただろうこの人が、ここまでどんな苦労をしてこの見事な薔薇を咲かせたのか、その苦労は想像に難くない。
「ええ、今年やっと。花を咲かせてくれました」
「……………………、」
華やかで甘やかな香を振り撒きながら、豪奢に咲き誇る姿を見つめる月島さんの表情に、私はこの庭のすべてが腑に落ちた気がした。
目尻に刻んだ皺を深くして細めた目に、薔薇を通して何かを、誰かを見ている。
「……どうして、薔薇なんて手のかかるものを育てようと?」
慎重に、言葉を選んで、この人の深い部分に土足で踏み込まないように細心の注意を払いながらどうにか言葉を捻り出す。
「――……私にとっての恩人の……、上官のご生家にも、咲いていたそうです。この家に初めて入ってこの庭を見た時、ふとその話を思い出したのです」
「それで、育ててみようと」
「はい。美しいものが好きな方なので、きっと悦ばれるだろうと」
「……はぁ、」
そうだろうか、となんとなく引っかかった。
世話になった上官の、思い出深い花を育てることだけが、この人の慰みになるのかと。
「あの、」
「さて、少し話しすぎたようです。そろそろ冷えてきましたね」
「あ、あぁ……、そうですね。こちらこそ突然お邪魔して、長居が過ぎました」
わざとらしくさえ言いながら踵を返す月島さんに、私も慌ててその後を追いかけた。
そこでようやく、好奇心に負けて一線を踏み越えかけていたことに気が付いた私は、恥ずかしさに唇を噛み締めた。
最後にひと目、どうしてもこの目に焼き付けておきたくて振り返った先で、小さな花園は傾きかけた陽射しの中で満足そうに花びらを揺らしていた。
それから数日、何となく夢の中にいるような心地で過ごしていた私は、配達中に思わぬ出会いに巻き込まれる。
「おい、そこの郵便屋よ。つかぬことを訊ねるが、このあたりに月島基という男は住んでいないか?」
従軍経験のない私でも背筋に竹竿でも突っ込まれたかのように、背中がピンと伸びるような声で、背後から呼び止められた。
ぎこちなく回れ右をして振り返った先にいらしたのは、これまでの人生の中で見たこともないくらい、美しい顔立ちをした将校様だった。
軍帽をかっちりと被ったそのお姿は、妻が好んで読む『少女世界』に登場しそうな貴公子様のようにも見えた。
ただ、真っ直ぐ注がれる視線はキリキリと引き絞った弓矢のように鋭く、答える私に嘘偽りや誤魔化しなど決して許さない厳しさを感じさせた。
確かに、月島さんのことは知っている。知らないと白を切りとおせないほどには、知っている。
退役軍人なら、当時の関係者が訪ねてくることもなくはないだろうが、どう見てもこの将校様は、月島さんより遥かに若い。
肩章の星の数は中尉だ。まだお若そうなのに随分と立派な方らしい。
そんな御身分の方が、どうしてわざわざこんな田舎に引きこもる退役軍人に用があるのだろうか。見たところ、従卒も伴っていない。
もし何か、月島さんにとって不利益な相手だとしたら……。
ぐるぐると心配が頭を巡り、軍人さんを目の前にした緊張感も相まって、私は情けないことに言葉が出なくなってしまった。
すっかり固まってしまった私に気付いたように、将校様はなんと帽子を取ってその美しいお顔を益々良く見えるようにした。
初夏の風が、青く濡れる黒髪を撫でるように強く吹いた。
――ああ、この方だ
私は瞬時に理解した。
この方こそ、月島さんが仰っていた「御恩のある上官」なのだろうと。
簡単に方角を伝えると、将校様はそれまでの怜悧な表情を一変させ、真夏の日差しも霞むような笑顔で「ありがとう!」とひと言礼を残し、私のことなど忘れたかのような軽やかさで駆けだしていった。
その背中が見えなくなるまで見送っていると、風に乗って「月島ァ!」と間違いなく将校様のものであろう声が聴こえてきて面食らった。
私と月島さんの話は以上である。
その後、将校様と月島さんがどのように再会されたかまでは追いかけることは憚られた。
それでもその後、月島さんが局まで訪ねてこられ、「先日のお返しにご細君に」と、小さな花籠をいただいたので、おそらく喜ばしい再会になったのだろう。
頂いておいて図々しいのだが、あの薔薇が入っていなかったことを残念がった私に、妻が案の定食いついてきた。
赤と白と橙の、見事な薔薇であったことを伝えると、妻は「まぁ、」と目を丸く見開き、そして恥じらうように微笑んでいった。
「月島さんというお方は、随分と情熱的なお方のようですね」