勧誘は五年間断ったけど。小学校というのは理不尽の溜まり場だとつくづく感じる。入学して半年、井浦少年はすっかり学校生活というものにうんざりしていた。
学習内容が幼稚なのは言うまでもない。入学して早々、まさか挨拶の練習からやらされるなんて夢にも思わなかった。その次はひらがなと数字、そしてようやく計算らしい学習が始まったとしても、まさか小さな数字の足し算を細かなブロックを使ってやらされるなんて夢にも思わなかった。国語の学習で読まされるのは幼児の読むような平易で中身のない物語ばかり。
三つの頃にはとうに読み書きができていた井浦少年にとって、学習時間はただただ苦痛でしかなかった。
では学習以外の時間が苦痛でなかったかといえばやはりそんなことはない。強制的に教室外に追い出される休み時間。無意味に校庭を走り回って、いったい何が楽しいんだ。だいたい鬼ごっこをしたって井浦少年を捕まえられる相手などおらず、隠れん坊をしたって見つけられる者もいない。逆もまた然りだ。
これなら、一日中好きな本を読んでいられた保育園時代の方がよっぽどましだった。もちろん無理矢理外に放り出される時間はあったけれど、ファーブル昆虫記に出てきた虫を園庭で探したり、園で世話をしているウサギやニワトリの生態をシートン動物記と照らし合わせたりしていれば十分に時間をつぶせた。
しかもだ。
入学してすぐ、休み時間に図書室に籠もっていたら親を呼び出されたときには辟易した。「お休み時間、誰とも遊んでいないんです」そんな理由で激務の両親を職場から呼び出したあげく、担任の若い女が涙ながらに語ったのは「もっとお友だちと仲良くできるように、学校もお手伝いしますね」だ。
バカバカしくて反吐がでる。両親は苦笑して、その日はせっかくだからと家族四人で外食したけれど、申し訳なくて涙が出そうだったし、五つ上の姉には「もっと上手くやんなさいよ」なんてバカにされた。
そんなわけで井浦少年は今日もうんざりとしながらクラスメイトにならって運動場で昼休みを過ごしていた。
声の大きい奴が言うに、今日はドッヂボールをするらしい。へろへろに曲がった線が引かれ、体育の紅白に分かれてコートに入る。
すぐにボールが飛んでくる。女の子がキャアキャアと甲高い声を上げるが、騒ぐほどの勢いがある球でもない。いつものことだ。なので井浦少年はいつもなら、適当によけて、適当に受けて、適当に投げて時間をつぶす。
しかしこの日は違った。なぜなら、少しだけ、普段よりもいっそうイラついていた。あのボケた担任が井浦少年を呼び止め「お友だちと遊んでる? 楽しい?」なんて寝ぼけたことを聞いてきたのだ。楽しいわけがない、こんな刺激のない日々。だが井浦少年はにっこり笑い「みんなとドッヂボールしてきます」と答えたのだ。姉が教えてくれた、上手くやる方法で。
なので井浦少年はサッとボールの前に飛び出ると、ふわふわと飛んできたやわらかい球を両手で受け止めた。そのままノールックで投げつける。回転をかけカーブを描いたボールは、やんちゃな奴、元気な奴、それから、クラスで一番ボーッとしている奴に当たって外野に飛び出す。
はずだった。
ところが。
「まーくん、セーフ!」
やんちゃな奴の肩と、元気な奴の腹に当たったボールは、ぼーっとしてる奴の足元にあたるはずだった。
ところが、ぼーっとしているそいつは、よけたのだ。井浦のボールを。
「すげー、まーくん!」
「けーくんのボール、やべー!」
両方のコートから歓声があがる。ぼーっとしてる奴、そうだ、王城くんだ。勉強も体育も音楽も図工も特に目立つ訳じゃなく、何ならワンテンポ遅れてるくらいの、いつもボーッとしている奴。
そいつが、井浦の投げたボールをよけたのだ。
まあ、まぐれだろう。井浦少年はすぐに思い直す。
けれど、この大人びて斜に構えたところのある少年は、どうにも負けず嫌いの性質も持っていた。すぐに外野から戻ってきたボールを素早くキャッチすると、今度は明確に、確実に、王城くんめがけてボールを投げつけたのだ。もちろん正面から投げるなんて事はしない。さっきよりも強めにカーブをかけて、わき腹を狙って投げる。
だが。
「まーくんセーフ!」
「うおおおおお、けーくんのボール、マジヤベー!」
また両方のコートから歓声が上がる。調子のいい奴が井浦少年の肩を強く叩いたが、そんなことに構ってはいられない。
井浦はみたのだ。王城が、最小限の動きでボールを避けたところを。他の奴らがするみたいに、大げさに飛び跳ねたり走り回ったりしない。ただ半歩、身体を後ろに引いただけ。他の子どもの目から見たら、井浦のボールは最初から当たらなかったようにしか思えないだろう。
「……マジか」
入学して、いや、もしかしたら生まれてから初めて、井浦慶は他人によって興奮した。そして他人に対して、悔しさを覚えた。
それから何球投げてもボールは当たらず、その日のドッヂボールは終了した。
「おい、まーくん!」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。のたのたと後者に向かう小柄な腕を、井浦少年はぐいと掴んだ。
「なあ、おまえ」
「ふえ?」
やっぱりぼーっとした顔をしているそのクラスメイトは、井浦少年の呼びかけに、ぼんやりした声で返事をした。
「なあに?」
「おまえ、なんのスポーツやってんだ」
野球やサッカーの動きじゃない。かといって、格闘技をしているような体躯にも見えない。
「なんかすごいの、やってるんだろ」
井浦の問いかけに、彼は、王城は、ほんの一瞬だけ表情を変えた。
それは普段のぼんやりした顔からは想像できない、ゾッとするほどーーー楽しげな顔だった。
「カバディ」
「かば……でぃ?」
「そ」
王城少年が、にんまりとわらった。
「せかいでいちばん、かっこいいスポーツだよ」