土曜日
「次の竜いるかー」
もう日が昇る。次が最後の診察だ。
音もなく入ってきたその竜はユムカ竜だった。体毛は紫がかっていて瞳は緋色。珍しいとは思ったが世の中にはアルビノみたいなのもいるんだからとそこまで気に留めはしなかった。
「一人で来たんだな?どこが辛いか教えてくれるか?」
全身を観察しながら問いかける。ここで普段であればキューやぐるぅと、何かを訴え、それをカクークが通訳してくれる。…のだが、この竜は待てどもしゃべらない。
「声出ないのか?」
意味はわかっているのか首だけ縦に振られた。
「あーんしてみてくれ」
舌圧子を使って喉の奥も観察する。
「んー、別に喉は問題なさそうだが…メンタル的な問題か…まぁ様子は見れそうだな」
声と見た目は置いておき、主症状であろう腕の擦り傷に治療を施し、帰宅を促した。
振り返り名残惜しそうな目をしていたが、残す理由もないのでごめんな、と伝えてドアを閉めた。
さて、診療終了だ。
先程から我が家のようにくつろいでいるオロルンとカクークと共に少し早めの晩飯を食べ終える。
カクークを寝かしつけて戻ってくるとオロルンは帰りの身支度をし始めていた。
「あ?今日泊まんないのか?」
寝かしつけの間中、いや、寝室が終わった直後から、心がソワソワと落ち着かなかった自分の心臓が落胆の色に染まったのがわかる。
「うん。ちょっと…用事があって」
「そ、か」
顔は笑顔を作りながらも眉が下がる。我ながらあからさま過ぎて笑ってしまうが止められない。
「来週は泊まるよ。ごめんね」
それを悟られて謝られるのもたまったもんじゃない。
「ん、…べ、つにいいけどよ」
「ふふ、可愛いイファ」
「はぁ?おらさっさと帰りやがればーか」
「ひどいな」
ふふ、と笑うオロルンの背中をドアから押し出した。
◆
日曜日
普段よりも遅い朝。オロルンがいない朝。何が足りないってすべてが足りない感じがしてしまう。目を開けた時に隣にいなくて一瞬起き上がって探してしまった自分が恥ずかしい。
「カクークはクッキーでいいか?」
「わーい!」
カクークは早起きではあるが休みの日は俺が起きるのが遅いことも知っているから布団に潜り込んできていて暖かかった。…まぁそれも勘違いの原因の一つだったんだが。
そして今二人で遅めの朝食を食べている。
コンコン
と、人間の手ではないノックの音。
「ちょっと待っててくれー」
と断りを入れ、少し残った朝食を台所に運び、カクークへはまだ食べてていいぞと伝えてドアを開く。
「あれ、今日も来たのか。うーん休診なんだが…って怪我してんのか。なら話は別だな」
その緋色の目がじっとこちらを見ていた。
この日も足の擦り傷に処置をして、その視線をみないようにドアを閉めた。
◆
月曜日
今日は朝からドタバタと忙しい日。オロルンはそれを手伝うために普段から早めに来てくれている。
「おはようイファ」
「ふぁ…だからよ…ノックくらいしてくれ…そして早いんだよ…」
「様子を見に来た」
「…誰の?」
「君の」
「俺の?大丈夫だってちゃんと飯食って寝てるから」
その答えに特に返事もせずにオロルンは微笑んだ。
よくわからんが何かを心配させているんだろうかと一瞬頭をよぎったがそんな事に思考をさいている暇はない。
診療所前の広場に集まる患者たちのトリアージを取り始めようとするとその目立つ姿がいた。
「あー…悪い今日は患者多いんだ。その傷なら後で診るから外で待っててくれ」
真っ先にその竜の元へ行き、頭を撫でてからトリアージを始めた。
◆
火曜日
昨日の疲れがまだ抜けないままに朝になる。いつも通りだ。あの仔は無事だろうかと気になっていたのもあるが。
オロルン製のサラダとジャーキーを朝飯代わりに食べようとカクークと机に付いた時、コンコンと音がなった。
「お前…火傷か?なんだってこんな…とりあえず上がれ」
ドアを開ければそこにはその仔がいた。また違う所に怪我をして。どんな生活を送っているのか心配になる。
「イファ」
まだ診察準備もできていない診察室に連れていき思考を巡らせている時にカクークから声がかかった。
「あー、飯は後で食うから。お前は先に食っとけ」
カクークから鋭い視線を感じたがこの竜の診察治療を先にしないといけない気がした。結局そのまま午前治療を始めてしまって朝食は摂り損ねたがまぁ別に問題はない。昼なんてしょっちゅう抜いてるし。
「やべ、時間押してるな…歩きながらなんか食うか…」
そう独り言を言いながら往診の準備をする。緋色の仔はその場に佇み俺を見ている。
カクークに話し相手になってやれと言ったがどうにも嫌だと言って聞かないので仕方なく緋色の仔には帰ってもらって往診に出かけた。心がチクリと痛む。
◆
水曜日
どうにも食欲がない。心配や不安が大きいとこうなることが多いが特に心当たりはない。
カクークは一人で朝食を食べている。俺はやることもないので午前診療の準備に取りかかっていた。
「…あいつ大丈夫かな」
こない。もう昼になる。普段ならもういる頃だ。どうしたんだろうか。
「…イファ、往診」
患者も少なく、カルテ記載に取り掛かるも筆が進まずにドアを見ていた俺にカクークが言う。往診バッグの準備を忘れていた。
「ん、あ、そうだな。その間に来たら…まぁ大丈夫か」
念のためにカクークの食べ残しだがクッキーをわかりやすい所に置いて出かけた。
「こんばんは。その後どうだ?」
往診バッグの片付けをしている時にオロルンが来た。
「どうって…毎日来てるけど悪化はしてないぜ」
「君のことだ。ちゃんと休んでるか」
「え、大丈夫だよ。なんもお前が心配するようなことはないさ」
往診中、緋色の仔が頭にちらついて手が止まっることがあってカクークに注意された事は秘密にしておこう。
「イファ…」
「お。」
ドアを叩く音でオロルンの言葉は防がれた。何の疑いもなくドアを開けてその緋色を確認する。
「来たか。今度はどこが悪いんだ?見た感じ怪我じゃなさそうだな」
「イファ」
「ん、あぁあとで行くよ。なんか…適当に食っててくれ。先に寝てていいぞ」
カクークの声が落ち込んでいるように聞こえたが気のせいだろう。
「もしかして昼に来てたのか?いなかったからこんな夜に来たのか?それは悪かった」
カクークがつついてくる。
「なんだよ食ってろって言ったろ?俺は仕事中なんだよ」
しばらくカクークの視線を感じていたがいつの間にかいなくなっていた。
カクークとオロルンの声が聞こえたが特に気にならない。ドア前でオロルンがすれ違った時に向けられた視線は俺にか?睨まれるようなことはしていない。
◆
木曜日
「イファ、往診」
昨日と同じ午前中。眠気と闘っていた。夜眠れない。ふわふわする。
「いや、今日は行かなくても大丈夫だ。先週見た時に元気だったからな」
それもあって往診をスキップしたかった。
「…イファ」
カクークはそれを許さないかのように怒気を含んだ声。俺だって人間だ。俺の状態をみてそれでも往診に行かせようとするなら助手としてはまだまだだな。
「昨日みたいに出かけてる間に来ちまったら怖いからな。」
緋色の仔が来るかもしれないし。家にいるのが一番だ。
「お、来たな。」
ほら、言ったろ。出かけちゃだめなんだ。
カクークがいないことに気付いたのは夕暮れ時だった。カクークが帰ってきたので気が付いた。
ちらりとこちらを見たカクークは自分で勝手に保存食を出して食べ始めた。
「お前いつになったら喋れるようになるんだろうな。今日うちに泊ま…」
「イファ!だめだ!」
「な、なんだよ…」
急な大声に驚く。その声が震えているのは怒りからか?なんで、
「何が気に食わないんだカクーク。お前少しわがままだぞ」
その言葉を聞いてカクークは目を丸くし、器を蹴飛ばして自分の寝床へ一目散に飛んでいった
「おい!なんなんだよ…なぁ?」
きれいな緋色の眼は相変わらず俺を見つめている。
「はぁ…カクークが泊めるなってよ。まぁとりあえず元気そうだし気を付けて帰れよ」
その冷たい首筋を擦り付けて出ていった。
…あれ、俺今日なんか食ったか?
◆
金曜日
土砂降り。夜中3時くらいから降り続いている。ほとんど頭が働かなくて、カクークが対応してくれている。その様子を見て、俺は要らないか、と外に出る。
雨脚が強い。地面がぬかるんでいる。ぬかるみに脚を取られたのかふらついたのでその場の階段に座っていた。
「…何してるんだ」
どれくらいたったかは忘れた。オロルンが目の前に立っていた。
「いや、この雨の中大丈夫かなと思ってよ」
「…それは僕のセリフだ。中に入れ」
オロルンの声は雨のように冷たかった。俺が何したっていうんだ。
「いや、姿見るまでは…探しに行こうかと…」
そう言って立ち上がると視界が歪んだ。
「入るんだ」
「わかったよ…」
支えられて、一人で探しに行けないことを悟り仕方なく家に戻った。
「イファ!イファ!オロルン!」
カクークは忙しなく右往左往飛び回っていた。オロルンがそれを見て援助に向かう。
あれ、俺なにしてたんだ。診察中じゃないか。そう思い出して俺も診療に加わった。
その後、必要もなくオロルンが家に居座っていたのが気不味く感じていた。
「はい」
「…あ?」
目の前に出されたのは野菜の入ったスープ。
「食べるんだ」
「え、いや別にいらな…」
「何か口にするんだイファ。食べるまで帰らない」
…それは困る。緋色の仔といるところをオロルンには見られたくない。
久々の固形物は味がしなくて食べられたもんじゃなかった。オロルンがこんな味付けのミスするなんて珍しい。でも食べ切らないと帰らないなら流し込むしかない。
ガチャ、と音がしてはっとドアを見るとカクークがいた。
「カクークお疲れ様。ほらタオル。濡れてるから。困ったこと無かったか?」
「大丈夫…薬渡してきた」
「そうか、ありがとう。ごめん。もう少しだから」
「大丈夫」
それは、俺のセリフじゃないのか。
もう少しってなんだ。大丈夫ってなんだよ。
オロルンに乾かされたカクークはカクーク用のスープを美味しそうに平らげた。
「…ほら、食ったから帰れよ」
なんだかそれが無性に腹立たしくて、追い出したかった。
「はぁ…イファ、今日は寝るんだ。隈が凄い」
「寝れてたら苦労しないんだって」
「ほら、ばあちゃんが寝れない時に使ってるお香だ。使って欲しい。」
「…さんきゅ」
使う予定はないが、そうでも言わないと帰りそうになくてとりあえず礼を伝えた。
オロルンが去ったあと、カクークとの沈黙が流れた。
待て、カクークが往診に行ったのか?いやそんなはずないよな。今日はいつだ。なんだ、何か変な気が…
そんな思いが浮かんだが、ドアを叩く音ですべて消え去った。
慌ててドアを開けると緋色。
「ほらびしょ濡れじゃないか!やっぱり探しに行けばよかったんだ…ごめんな…」
冷たい濡れた体ごと抱きしめた。
カクークには、言わなかったのに。しなかったのに。カクークは静かに部屋の奥に消えた。
しっかりと乾かしてやって、それから…何をしていたか。気付いたら緋色の仔はドアから出ていっていた。もっといればいいのに。
◆
土曜日
結局お香を使わなかったからか眠れなかった。スープ以外口にしてない。食べる気になれない。
午前中をどう過ごしたのか覚えてない。診察日じゃなかったか?患者がいなかったのか?そんな訳無いだろうが、でももう時間は夕方になっていて、きっと俺がどうにかしたんだろうと思うことにした。
コンコン
ガタガタと急いでドアを開けたのにそこにはオロルンが立っていた。
「お前かよ」
「土曜日来るって言った」
「そうか」
今はいないから特に断る理由もなくて招き入れる。
「カクークはどこ」
「え、あれ。…あ、いたいた。寝てるわ」
藁の上でぐっすりと眠るカクーク。疲れているのか?
「君、午前診療どうしてたんだ?」
「あー、いや、あんまり覚えてないんだよな。はは…」
背後から問いかけられる答えに力なく笑う。
「…僕には想像できるんだが。君にはそれができないのか」
カクークが一人で診療したって?むりだろそんなの。
ふと、玄関先においてある看板が目に入った。あれ、誰が入れたんだ。
「昨日、僕が帰る時に入れた。今日は休診日だったんだ」
「……は?おい何勝手に」
「これ以上カクークだけが働く状況はおかしい。カクークを休ませるべきだと思った。今の君では話にならない」
「おいどう言うことだよ。ここの医者は俺だぞ」
オロルンは一度口を開いたが何も言わずに閉じた。言いたいことがあるなら言えよ。
…まぁいい、一応相談しておこう。
「…なぁ、しばらく家においてもいいと思わないか?」
きっとあの仔はカクークを怖がって昨日は帰ったんだろう。だからカクークをオロルンに預かってもらって…
「…何を?」
「何って…あの仔に決まってるだろ。親もいないなら野宿だろうし昨日なんてびしょ濡れで来たんだ。医者としては色々予防しておきたいだろ?」
「…それは誰のため?」
「誰って…あの仔のためにきまってるだろ」
こんなわかりきってる問答したって無駄だ。オロルンに相談したのが間違いだったか。
「カクークと同じか?」
「え」
「それがこの家にいたいと言ったら君はカクークと同じように招き入れるのか?」
「お前な、あれとかそれとか失礼だぞ。カクークとは違うさ。ずっととは言ってないだろ」
イライラする。オロルンの言葉に。自分の声にトゲがこもる。
「…家に泊まらせるのは僕反対だ」
「どうしてだ。入院と同じだろ」
「…健康体を入院させるのか、君は」
「は?」
どう言うことだよ。衰弱してるだろ。入院に値する。帰る家もないなら保護するべきだ。
「ケガをしてきたのなんて最初の数日だけじゃないのか。あとは君がなんだかんだ理由をつけてるだけだろう」
「ちが…」
そんな訳ない。確かに目に見えるケガは始めだけだったかもしれないけど…あれ、なんかあったっけ…
「僕は今日、帰るよ」
「わかった」
唐突な帰宅宣言に拍子抜けした。怒られるのかと思っていたから。…まぁこのあと来るのだとしたら帰っててもらったほうが良いか。
「…明日また来る」
◆
日曜日
「オロルン!」
だいぶ離れた所に現れた紫色に声を掛ける。
太陽は家の目の前にとっくに消えていった。
「あいつが来ない、何かあったんじゃないか、探せる場所は探したつもりだ、でもどこにもいない」
「…元気なら探す必要がないだろう」
俺と正反対に、とてつもなく落ち着いた様子で言い放つ。
「何言ってるんだ!?」
「…君こそ自分が何を言ってるかわかっているのか」
「はぁ!?」
この前からオロルンの言葉がいちいち癪に触る。
「何故、君が、健康体の、竜の世話をしなければならないんだ。君は何者だ。医者だろう」
「そんなの良い訳だ!怪我して動けなくなってんのかもしれないだろ!?」
「君はそういう竜を今まで全員助けてきたのか?わざわざ探し出してまで?」
「ーっもういい!!」
話してても埒が明かない。一人で探しに行く。
…迷煙も、ユムカだからと懸木まで行ったがいなかった。もしかしたら家に帰ってるかもしれない。
何度転んだか分からない。足元がおぼつかない。腹が減らない。眠れない。フラフラする。疲れた…
「…いたのか」
「…いない」
玄関で待っていたのかオロルンが倒れかける体を支えながらまた癇に障る質問をしてくる。
支えられながら家に入るといい匂いがした
「…イファ、ごはん」
カクークの目の下が荒れている。目も赤い。なんだ?泣いたのか?
「…わかったよ」
全ての食材が水のような無味無臭で、どうすればこんな味付けが出来るのかがわからない。
…もしかして俺が変なのか?
カクークはオロルンの隣に陣取っていた。…と言うよりもすり寄って胸元に抱かれていた。
俺にはしてくれないのか?なんでオロルンなんだよ。
それから、ほとんど会話もなく時間が過ぎた。そろそろオロルンには帰ってもらおうと口を開けた時。
ゴンゴンと音がなった。
「来た!!よかった無事だったんだ!!…な、何する」
急に、オロルンがドアの前に立ち塞がる。
「行かせない」
「なんなんだよさっきからお前…俺を怒らせたいのか…」
「今何時だかわかってるのか」
「は?」
◆
月曜日
「今は2時だ」
冷静に伝えたつもりだ。でも内心は不安で仕方なかった。心ここにあらずで四時間近く動かずに座っていたから。ばあちゃんを呼んできてもらうにも外にいる可能性がある以上カクーク一人で行かせるわけにはいかなかったから。…僕がやるしかない。そのために準備してきたんだから。
…でもまずは。
「普通、本当の急患なら名乗るはずだろう。」
「あいつは話せないんだ!」
「でも、イファは診察しただろう。問題がないって」
「だからメンタル的に問題があったら声が出なくなることだってあるんだよ!」
その間にもノックは強くなり、もはやノックと呼べるのかも怪しくなってきている。ガンガンと何かを打ち付けるような、耳をふさぎたくなるような不快な音。背中に振動が伝わる。
「…こんなにドアを壊しそうなほどに叩けるのに来る必要があると思うのか」
「それは、なにか理由が…」
ガンガンガン!
ある程度疑問を持たせないと、繋がりを切らないといけない。
「…君は、土曜日なのに僕が帰ることに何も思わなかったんだぞ」
「は?今そんな事…」
辛かった。引き留められもせずに、早く帰れとでもいうように、『わかった 』と。
「毎週毎週、土曜日は翌日が休みだからゆっくり出来るって、楽しみにしてたんじゃないのか。僕との時間を。」
一種の賭けだった。大丈夫だと信じたかったから。…いや、もう本当は遅かったと気付いていたんだ。カクークが教えてくれた、トリアージを蔑ろにするなんて。往診に行かないなんて。ありえないんだ。君なら。
「…え、あれ…なんでだ… 」
立ちすくむイファの肩に、カクークはしがみついた。
「…頼むから、おかしいと気付いてくれ」
僕も、胸元に拳を落とし握りしめた。自分の手も、声も、震えている。
「君が、あの君が、カクークを蔑ろにしてるんだぞ」
まともに飯もあげない。シャワーも入れない。カクークに触れない君なんて。
「俺…なんで…」
胸元のシャツにしわを作っていた拳はさらに力がこもった。
「もう、僕は許せない。君とカクークに実害を及ぼさないなら、様子を見ようと思っていたけど。もう許さない。」
後ろ手でドアノブを握る。
「まっ待て…オロルン待て…っ!」
「カクーク、僕が出たらすぐに鍵を閉めてくれ」
「わかった!」
出来るだけ早く、君が伸ばした腕を挟まないように気をつけながらドアを閉めた。
「…何故イファに執着するのか、わかる気がするよ」
静かな声で。その緋色に伝える。
佇む姿はユムカそのものだ。
「優しいし、カッコいいし、自分を見てくれる。『自分』よりも優先してくれる…気持ちよかっただろう」
…でも、違う。お前は違う。
「でも、僕は、そんなイファの弱いところに漬け込むお前を許せない…」
何か、と聞かれれば正確にはわからない。でも昔から時折現れる怪異である事には変わりない。
「声が出ないんじゃないだろう。出せないんだろう?」
わざと、煽るように。
「出してみろ。ほら。いつまでそうしているつもりだ」
今のうちに、この約1週間。体内にためてきたスピリットを掌一点に集める。外せば終わり。どうなるかは分からない。今さらになってばあちゃんにも相談するべきだったかな、という思いがよぎる。下手すればここで3人とも死ぬ可能性がある。
「…抵抗せずに僕にやられたいのか」
…そんな事、させない。
直後、地鳴りのような、地を這う咆哮。まさかユムカの口から出ているとは誰も思わないだろう。同時にユムカの身体は崩れ、形を伴わない黒い霧のようなものになる。
…一瞬、見失う。
「ぁぐっ」
気付けば首元に噛みつかれそうになっていた。…顔だけユムカを保っている。
来ることは分かっていた。人間はそこを噛み砕かれれば死ぬから。だから反射的に防げた。
…脇腹は刺されたが。流れる血がぬるい。よかった、その濡れた部分は掴める。
「お前には、イファにさよならなんて言わせない」
左手の爪が食い込むほどにその部位を握りしめて。流れる血よりも体内の血はまるで沸騰しそうだ。
「消えてくれ」
躊躇いもなく、右手をその霧の中に叩き込んだ。
ドア、直さないとな…
微かに頭の隅で、ヒビの入ったドアを見て考えた。
「か、カクーク…」
「イファ…イファぁ……」
「ごめ…ごめんな……」
灯りのない部屋、月明かりが差し込む部屋で、床に座り込んで震える姿があった。
カクーク、可哀想に。泣いている。もう、大丈夫だから。
「イファ」
その月明かりを僕の形で消した。
「ーっ!?」
怯えるようにイファはカクークを抱きしめながら後退りした。…君はただの医者だ。何が出来るっていうんだ。…あぁ、イファだ。良かった。
「怪異の類だ。何故ここにいたのかは分からない。きっと彷徨っているうちに君を見つけて気に入ってしまったんだろう」
脇腹の出血をなんとか手で押さえながら、イファの前にしゃがみ込む。
イファの目は見開かれ、怯え、涙がたまっているが正気だ。
「…君は誰?」
「…イファ」
「僕は誰?」
「…オロルン」
「この子は?」
「…カクーク」
震える声で正解を紡ぐ。一つ一つに僕は安堵する。
「…今から簡単な術をかけるから言われたとおりにして。」
「…わかった」
了承得て、カクークごとイファを抱きしめた。
「僕の心臓の音を聞いて。深呼吸して。目を瞑って。」
一つ一つ、ゆっくりと、イファの呼吸が落ち着いていく。
「…キスをするよ。」
了承を得る前に、久々のその唇を奪った。
「ん、ぅ…は、ん…」
脳が痺れる。イファの体温。
名残惜しくも短時間で解放する。
「一種の催眠のようなものにかかってたんだ。しばらくしたらスッキリするはずだ」
「こ、この術…キスしないとダメなのか…?」
あぁ、本当に、良かった。赤面するイファは、いつものイファだ。懐かしいほどに心が温まる。
「それはしたかったからしただけだ」
「お前……な………」
そのままコトリと首をもたれ、すうすうと寝入ってしまった。
その両眼に刻まれた深い隈を親指で優しくなぞる。
その少し痩けた頬をなでる。
「…一晩眠ればもとに戻る。ベッドに運ぼう」
もう一度。今度は正真正銘のキスを額に落として、痛む脇腹を無視して抱えて立ち上がる。
「隣にいてやってくれ、カクーク。辛かったろう。ありがとう。」
「うん。オロルンは?」
そっと、割れ物を扱うかのように優しくベッドに下ろす。ごめん、僕の血で汚してしまったな。
「…僕は、今吸い出したものを消化しないといけないから。また明日くるよ」
早くこの場から去ろう。カクークにこれ以上心配かけるわけには行かないから。
ポタポタと垂れる血は暗闇では僕以外見えない。
「気を付けて」
ここからなら、ばあちゃんちの方が近い。なんとか、そこまで歩かないと。
ばあちゃんなら受け入れてくれる。しっかりと怒られるだろうけれど、それでも構わない。
「ありがとう。大丈夫、ばあちゃんについててもらうから」
ふらつく体を悟られないように柱に手をかけながら、一度背を向けた方を見やって。
「…お休み、イファ。大好きだよ。」
そう告げて、その場を去った。
◆
「オロルン!!」
「きゃっちょっとノックくらいしなさいよ!」
「オロルン、オロルンは!?ばあちゃん!!」
「落ち着いてイファ。オロルンは今休まなきゃいけないの。キャパオーバーなスピリットを体内にためていたし、体内に取り込んだ悪質なスピリットも浄化しないといけないし、なにより出血が多くて…」
信じられなかった。夢なのかと思った。悪夢だったのならどれだけ良かったのだろう。
目が覚めたら、腹が減っていた。身体が思うように動かなくて、カクークが腫れぼったい目のまま隣でくっついて眠っていて。ぼんやりとした記憶はゆっくりと鮮明になっていった。
だから、居てもたってもいられなかった。
「…入るぞ」
普段ばあちゃんが寝ているベッドに、上半身裸で横たわるオロルン。包帯が服のように巻かれている。
「…入る時はノックくらいしてくれよ。イファ」
首だけこちらを向いて、微笑むその姿。
「わっ痛っ」
「ばかやろう…オロルンくそ…ごめん…ごめん…」
たまらなくて、飛びつくように抱きしめる。
「ばあちゃん内緒にしておいてって言ったのに全部言っちゃったのか」
「そんなの関係ない。俺は…オロルン、ごめん」
ふふ、と。あぁ、温かい涙が僕を安心させる。
「そういう時は、ありがとうっていうんだよ」
まるで子供を諭すかのように。
「あと、イファからキスして欲し…」
いい終える前に、口はふさがれて話せなくなっていた。目の端にはニコニコと笑うカクークがうつる。
僕はその笑顔に笑顔で返事をして、さらに深く、深い口付けを返した。