雨 その日は、冷たい雨が降っていた。港からは人々の気配が少なくなり、今日は閑古鳥が鳴いてますよ。などと行商人は言っていた。
こんな日は、魔の気配が活発になる。魈や方士が退治してくれるとはいえ、全く気にしていない訳ではない。きっと濡れ鼠になりながらも、魈は今日も璃月の平和を守ってくれているのだろう。
雨が降っているのに葬儀を行うものもいない。簡単な事務仕事を終えた後は、自宅へ戻っても良いと言われたのでこうして帰路についている。
番傘に落ちる雨音が軽快で、まだまだ雨は止みそうにない。
ふと踵を返して、璃月港の出口へと足を向ける。自宅で骨董品の手入れをするのも良いが、疲弊して帰ってくるであろう彼に薬を持って行こうと思ったのだ。
帰離原を歩くも、小動物の一匹も見かけない。ヒルチャールは雨でも気にすることなく昼寝や会話を楽しんでいた。俺もそういう意味では肩口が少し濡れようが、靴に泥が跳ねて汚れようが、気にしてはいなかった。
こんなに雲に覆われていても、望舒旅館は見える。あそこへ帰って来ているかはわからないが、魈の気配は近くに居ることがわかった。気配を消して一歩ずつ望舒旅館へ近付く。気付かれてしまえば、否応なしにたちまち魈は旅館へ戻って来てしまうだろう。それでは意味がない。休息を取って欲しいのだ。
旅館への辿り着き、傘の雨を振り払った。霓裳花に落ちる雫はなんとも綺麗である。この風景はいつ見ても飽きないものだ。
階段を登り、オーナーに挨拶をした。すると、魈は帰って来ていると教えて貰えた。露台へ顔を出したが、そこに魈の姿はなかった。部屋にいるのかと思い、更に上を目指す。駆け足になりそうな気持ちをなんとか抑えた。
「魈……?」
部屋の前に、魈は座っていた。軽く目を瞑り、休んでいるように見える。先程までは外にいたようで、服はしっとり濡れている上に、髪の毛からの雫が肩へ落ちていた。
「……鍾離様。お待ちしておりました」
すっ、と瞼を開け、黄金の瞳を覗かせた魈がそう言った。すっかりここに来ることはバレてしまっていたらしい。
「雨足が強く、しばらく止みそうにありません。中へどうぞ」
ここに来た訳を尋ねることもなく、部屋へと通されてしまった。相変わらず物が少なく、殺風景な部屋だ。
「タオルを貰えるか?」
「はい。すぐに」
箪笥の中から大きめのタオルを取り出し、魈が一生懸命に俺の外套を拭いてくれている。
「感謝する……が、俺はお前を拭いてやりたいと思ったんだ」
「え、あ……ありがとうございます。ですが、そのようなお気遣いは不要です」
「こんなに張り付いた衣服を着ているのは目に毒だ。今すぐそこの寝台に押し倒してしまうかもしれんぞ? それとも誘っているのか?」
「ひゃ!? し、鍾離様!」
咄嗟に背中を撫で、肩甲骨をなぞり隙間に指を差し込んだ。魈はわかりやすく肩を飛びあがらせ、狼狽え一歩後ずさった。
「そ、そのようなつもりは……」
「わかっている。嘘だ。タオルを貸せ。せめて髪でも拭いてやろう。そこに座るといい」
尚も不要だと言われたが、念を押すと渋々といった呈で魈は俺にタオルを渡し、椅子に腰掛けた。魈の頭にタオルを被せわしゃわしゃと乱雑に拭いてから毛先まで丁寧に拭いてみると、魈は落ち着かない様子で膝の上に手を乗せソワソワしていた。
「そういえば、お前は待っていたと言っていたが、俺が来るのがわかっていたのか?」
「はい……なんとなくですが」
「気配は消していたつもりだったが、俺もまだまだと言うことか」
「あ……いえ、そうではありません。鍾離様に声を掛けられるまで、我は気付いておりませんでした」
「? どういうことだ?」
手を止めて魈の顔を覗き込んでみた。 少し口を曲げ、何やら言いにくそうにしている。
「その……雨が降っておりましたので……」
「雨?」
「我の勘違いかもしれませんが、鍾離様は……雨の日によく望舒旅館へいらっしゃいます」
「ほう……? 気にしていなかった」
「よく、薬をお持ちくださるので……それに、璃月港に鍾離様の気配がなかったもので……今日も、いらっしゃるのかと思ったのです」
「確かに薬は持ってきた。ふ。はは。そうか。俺は雨が降ると、お前に会いに来ていたのか」
ふとした自分の行動を、魈が記憶していたとは思っていなかった。雨が降ると、ついしとどに濡れながら戦っている魈の姿を思い出してしまうのだ。気配を消すことで、逆に望舒旅館へ赴いている目印になっていたとは盲点である。
「来るとわかっていたのなら部屋の中で待てば良かっただろう? 今日の雨は冷たい。身体もすっかり冷えてしまっている」
魈の肩に触れてみると、かなり冷たくなっていた。少し雨に濡れたくらいで風邪を引くような夜叉ではないが、あまり濡れたままというのも良くはない。
「鍾離様が来るとわかっているのに、呑気に部屋の中で待っている訳にはいきません」
「……困ったな。俺は雨の日でも使命を全うしようとするお前を労りに来たのに、これでは意味がない」
「思慮が至らず、申し訳ありません……」
「いい。謝るようなことではない」
魈に労いの言葉を掛けた所で、それを正面から受け取るような子ではないのはわかっている。魈は俺がここに来ることを知っていた事実を口にしてしまったことで、居心地の悪そうな顔をして俯いていた。突然来訪した俺をもてなすにはどうすれば良いか、一生懸命に考えているように見える。
「よし、ではこうしよう。その濡れた服を着替え、寝台に横になってくれないか?」
「は、っ? し、承知しました」
魈はいそいそと服を脱ぎ出し、夜着を軽く羽織り、寝台へちょこんと座っていた。
俺も少しばかり濡れた外套を脱ぎ、寝台へ膝をついて乗り上がる。
「あ、あの……」
「どうした?」
「我はこのまま……押し倒されてしまうのでしょうか……」
「ふ、はは。そうだな。はは」
借りてきた猫のように小さくなっている魈を見て、つい可笑しくなってしまった。魈はぴくりと肩を震わせ、ぽかんと口を開けている。確かに、これでは今から抱くと言っているようなものだということに気付いた。
「期待されているのならば……そうするとしようか」
「あっ、そういう訳では……うぁっ!?」
魈の肩を押して、ぽすん、と敷布の上に押し倒し、上から覆いかぶさった。身体の底まで冷えていそうな魈の身体を抱き寄せ、足を絡め布団をすっぽり被る。
「お前の身体をただ温めてやろうと思っただけであったのだが、労うという意味ではそれも悪くない。お前はどうしたい?」
耳元で囁くと、簡単に朱に染まる。魈は肩を震わせ更に小さくなってしまった。
「……鍾離様の身体も、冷えています……」
ぎゅっと背中に回された腕に、驚いて数回瞬きをしてしまった。自分も冷えているだろうに、懸命に温めようとくれようとしてくれている子を抱く気には、今日はなれなかった。
「では、温まるまでしばらくこうしているか。そうすれば、お互い気も休まるだろう」
元より、身体を繋げなくても、こうして他人と触れ合うこと自体があまりないのだ。身体をくっつけているだけで充分と言える。
「鍾離様も……ですか?」
「そうだな。お前を抱いていると俺の気も休まる」
瞳を閉じると、魈が生きている音がする。鼓動、息遣い、体温、それらを感じると、気分が落ち着くのを感じる。
「いや……意外と俺の為にここへ通っているのかもしれないな」
「……?」
「ふ、なんでもない」
ぎゅうと、少しだけ温まった体躯を抱き締めた。
ここを出ればまた冷たい雨に晒されに行ってしまうかもしれないが、まだ、今しばらくは、こうして居たかった。