デッドエンドサマーナイト 暑さが沈殿して瓶底に溜まったような熱帯夜だった。
熱気に眠気を追い出されて、当てもなく立ち寄った深夜のコンビニは、そこだけ外界から切り取られた世界で、冷房は寒いほど肌を冷やす。この天国のような快適さの室温こそ世界のあるべき姿で、自動ドア一枚隔てた向こうに広がる茹だった現実こそが何か間違っている。誰もがそう信じたくなる暑さだった。
来客を告げる気の抜けた電子音が鳴り響く狭い店内で、ダルそうな男の店員が一人レジに立っているほか、店内に二組の客がいた。黒髪と金髪の男ふたり連れ、もう一組はカップルと思しき男女だった。
「兄貴、いや獪岳お兄サマ、アイス買って欲しいな」
「キッショ…」
「…そこまでドン引きしなくてもいいじゃん…。いいもん、じゃあアイス分けてやらないからな」
白いTシャツ、だらしないハーフパンツ姿の善逸は、冷凍食品が収まるケースを物色し、その姿を白い目で見ながら、善逸と似たり寄ったりの恰好をした獪岳はペットボトル飲料を眺めている。
「あ、コーラも買いたい!」
結局まだアイスを選びきれていない善逸が口をはさむ。
「用もないものばっか買うんじゃねぇよ」
「そもそも用事があって来たわけじゃないし。それに夜中の散歩なんて一人で行かせるの心配だもん。不審者に襲われちゃう」
「アホかよ」
「ねぇねぇ、お酒あるよ」
「買えねぇからな」
「わかってるよ」
『これはお酒です』とわざわざ表記してある缶チューハイを指して善逸は笑う。「タバコも買えないね」
店内にいたもう一組の男女の客は、日用品のコーナーに立ち止まっていた。彼らがカゴに入れていくものは歯ブラシ、女性用のミニスキンケアセット、それから。
善逸は冷やかすようにそのカップルの買い物を斜め背後から圧をかけて眺める。しかし彼らは気にしないようで、棚の下のほうに陳列されていた、小さい銀色の箱もカゴに追加してレジに並んだ。
「何見てんだ」
「お泊りかなーって」
「下世話」
「なんか悔しいじゃん」
年若い男女は、店内に残った無害な未成年にしか見えない男二人組のことなど気にも留めない様子で、熱帯夜の闇に消えていった。
真夜中だというのに、外ではどこかでセミが一匹鳴いていた。ジ、ジーという鳴き声は切れかけの電球が出す音に似ている。
「イカれてる」
「異常気象だからかな。暑くて昼間と勘違いするセミもいるんだって」
どこまで行ってもまとわりつく暑さが身体に絡みつき、この世界の裏側は冬ですという事実より、ここはフラスコ瓶の底に熱気を溜めた箱庭だといわれたほうが信じられる。瓶の中から眺める世界は湾曲して、隔てるガラスは分厚い。その小さな世界で暑さに喘いでいる。
結局コンビニでは善逸がアイスを買っただけで、二分割できるチューブ型のジェラートを選択した。二人はそれを咥えながら瓶底の夜道を歩く。ぽつぽつと街灯が点在するほかに光源はなく、暗闇に人の歩く姿も見当たらない。コンビニで冷え切ったはずの肌はもうすでにじっとり汗ばんでいる。
周波数の合わないラジオのような、掠れた声のセミが鳴いている。
「…もう俺食べちゃった。ね、兄貴のほうのアイスも味見したい」
「同じだ」
ろ、と続けようとした言葉は生まれる前に善逸の舌先に奪われて、溶けたジェラートと一緒に飲み込まれた。善逸はそのまま獪岳の頭と背中に腕を回して、ひっかくようにしがみついて離れない。獪岳の指先だけを冷やしたチューブが、少し中身を残したまま落下する。
不意打ちに抗議するように顔を背けようとするのを、黒髪に差し込んだ善逸の指が許さない。身じろぎするたびに零れる酸素さえ逃げ出せないように、唇で塞いで口腔に押し戻し、首筋に滑り降りながら肌にしるしを刻む。
「…あっ…ちぃな。離せ」
獪岳がまとわりつく善逸をようやく引き剥がすと、うぇひひ、と彼は満足そうに笑った。
「ちょっとしょっぱい」
「イカれてやがる」
「セミが?」
「テメエがだよ」
「暑いからね」
答えになっていないことを楽しそうにほざいて、善逸はまた獪岳の背に腕を回す。Tシャツの上からでも指の位置がわかるほどに強く、汗が背筋を伝ってシミになり、不快指数は跳ね上がる。
「不審者じゃなくてテメエに襲われんのかよ」
「誰も見てないし大丈夫だよ」
何が大丈夫なんだ、と反論しようとした言葉もまた同じように舌に掬われて奪われてしまった。
唇が触れては離れる、離れては合わさる微かな音を、気が狂ったセミの声がかき消していく。
「…あのコンビニの二人と同じやつ買ってくればよかったね」
「触発されてサカってんのかよ」
酒もたばこも買えない未成年に残された大人のたしなみは、法律上は酒よりもたばこよりもハードルが低いらしい。ならばこの関係は合法か?獪岳は少し考えて、鼻で笑った。違法というより地獄のほうがきっと近い。
「なに笑ってんのさ兄貴」
「…兄貴って呼ぶなカス」
「名前で呼び合ったほうが恋人同士みたいだって?」
「んなこと言ってねぇ」
「兄貴は兄貴でしょ」
易々と常識と禁忌を食べつくしておいて、善良そうな瞳でこの金髪少年は微笑んでいる。
「『兄貴』を抱いて喜んでるテメェも大概狂ってやがる」
この世界は瓶底に詰まった箱庭で、蒸し暑い熱に浮かされてアタマが茹ってしまって、ここではもう倫理も概念も狂ってしまったに違いない。
「違うよ、愛し合ってるんだから、何もおかしくない」
獪岳が何か言うより早く、言葉は舌先に絡め取られて飲み込まれる。黙らせるように先ほどよりも、強く、長く、窒息しそうなほどに。湿気と吐息で汗が滲む。息継ぎに混ざって発音にならなかった声が、糸を引いて零れ落ちる。喉仏を舌でなぞり黒髪の襟足近くに柔く歯を立てる。
「…何が愛だ。余計なもんで俺の足引っ張りやがって」
善逸の耳元に囁きが流れ込む。互いの首筋に吸い付いて、腕は腰骨をなぞり引き寄せる。汗ばんだ肌が滑る。酸素を求めて喉を鳴らす喘ぎが鼓膜に響く。吐息ごと飲み込んだ熱が腹の底で蠢動する。絡み合う姿はきっと捕食に似ていた。腹の中に生まれた熱に食わせるために、互いの肌に歯を立てる。
愛してると言う茶色い瞳はまるで無邪気に惚けながら、軽々と未来を手放し、空いた両手で黒髪の背中を抱いて離さない。捕食の姿は落下にも似ていた。両腕にすべてを明け渡されて、黒の瞳は落下の道連れに茶色い瞳と同化してゆくことを許した。結局この手に触れるものだけが現実だ。きっともう瓶底の世界から常識の世界へは這い上がれない。
ジ、ジジ、とどこかで未だにセミが鳴く。つがいを求めて鳴いている。真夜中の命の叫び声。
昼間に鳴けばいいものを、狂った世界で命を消耗させている。
「…お前がいるから、どこへも行けねぇ」
生産性のないセミが、闇の中で永遠に鳴いている。