今はこのままで 昔からではなかった。思い返してみても、イタリアンを好んで自ら口にすることは恐らく小さい時から無かった筈だ。家庭料理はもっぱら和食が多かったし、大人になってからも和食がメインだ。会食といったら料亭で懐石料理で和食、酒の類もそれに合った日本酒がメインだった。
だから、そんな自分が和食よりもイタリアンが口に合っていて、ワインの方が好みなのは、きっと何かの間違いなのだと思う。
「なぁ〜に難しい顔してんだよ守銭奴メガネ」
上から降り注ぐ、無遠慮な声が俺を現実へと引き戻す。
その方向へと首を傾けると、腐れ縁の幼馴染が訝しげに片方の眉を吊り上げてカウンター越しに俺を見下ろしていた。
「別に……何もない」
俺の返答に虎次郎は目を見開き、がばっとカウンターに両手を着いて慌てた。なんでそんな顔をする。
「えっ……もしかして、不味かったか?」
虎次郎から飛び出た言葉は見当違いも甚だしいものだった。どこをどう切り取ればそういう返しになるのか。
「何故そうなる? 本当に何も無いんだが」
一口、また運んで舌の上に乗せる。濃厚でクリーミーな、優しい味。それでいて後からピリッとブラックペッパーの鋭い刺激が脳に届いた。初めて食べた頃より少し違うが、それも当たり前だ。味覚も年齢につれて変化したし、何より目の前の男は素人からプロになった。俺の好みに合わせて鍋を振るえるのは当然だろう。
「いや二言目には悪態しかつかない書道家先生が、俺の嫌味に何も返さないんだぞ。具合悪いのかと思うだろ」
その言い草には流石に苛立った。俺のことを何だと思っているのか。
「相変わらず脳みそが猿人で止まっているな。食事中は目の前の料理に専念しているのは当たり前だろう。それとも、俺が構わないとそうやって寂しい声で延々鳴くのか? ここはレストランじゃなくてジャングルだったのか?」
「俺はそこまで言ってねぇだろ……一言ったら十は返してきやがって」
そう言いながらも虎次郎は何処かホッとしたような表情を浮かべた。相変わらず分からない男だ。
この幼馴染は、イタリアから帰国するとびっくりするほど様変わりしていた。筋肉も二倍どころか三倍になっていたし、平気でその辺の女を引っ掛けるようにもなっていたし、時折俺のことを……なんとも言えないような顔で見つめていたり。本人は別に、と誤魔化すばかりでそれ以上は何も言わないのが気持ち悪い。どことなく……その視線は俺の想像も出来ないような何かが孕んでいるような気がして、その度に俺を落ち着かない気分にさせた。
「……おい」
「なんだよ」
俺は最後の一口をフォークに巻きながら、問い掛ける。
「俺は何で、イタリアンが好きなんだと思う?」
俺にとっては何てことはない言葉だった。自分では分からないから幼馴染に聞いた、ただそれだけだった。
だが虎次郎の方はそうではなかったようで、目に見えて動揺していた。
「えっ……あ、いや……それ、俺に聞くのかよ?」
「自分では分からないから聞いたんだ。いつも俺に言っているだろう? 鈍感だと。癪だがいつも女を侍らせている誑しゴリラなら、俺のこの好みについても分かるんじゃないかと思うのが合理的だろう」
「えぇー……なぁんか棘がイチイチあるような言い方するよなぁお前。けどまぁ、思い当たる節が無いわけではないけどさ」
「それが知りたい。お前の見解を」
最後の一口を口内に運び、側にあったグラスに入った水で、口の中に残るソースと共に流し込む。コクリ、と嚥下する音と共にナプキンで口元を拭った。
その一連の流れを虎次郎は横目に見ながら、困ったように眉を顰めて太い指先で頭を掻く。心臓がらしくもなく逸るのを感じて、これ以上はと一呼吸置いて質問に応えた。
「薫の好きな食いもんって、イタリアンの中でも何?」
「はぁ? カルボナーラなのはお前がよく知ってるだろ」
「ああそうだな。でもそれって、何でなのか考えたことはあるか?」
「何で? 何でって……それは好きだからに決まっている」
何を抜かすのかこのゴリラは。とうとう人の言葉ですら話せなくなったのか?
「そうじゃなくってだな……好きになったキッカケだよ。何で、それが好きになったのかだよ」
虎次郎にそう言われながら呆れられ、俺はすぐに沸点が上がる。
「類人猿のクセに回りくどい言葉を使うな脳筋ゴリラ! 何で好きって……何で、だ?」
よくよく考えれば、この料理自体家庭で出されていたものでは無かった。先程も言ったように、家庭料理はもっぱら和食中心であったし、口にする機会があるとするならば外食程度だ。仮に外食がきっかけで好物になったとしてもだ、真っ先に浮かぶ料理がコレなのだから、それなりに何か記憶なりなんなりがあってもいい気はする。
問われて、考えて……そういえば、初めて食べたイタリアン料理は────
「…………忘れてくれ。さっきの質問は無しだ」
俺は言葉と共に席を立ち、虎次郎に対して背を向けた。
「あ、おい薫っ」
「ご馳走様。またな」
ちらりと虎次郎に一瞥しながら一言だけ言って出口へと繋がる取手に手を掛けた時だった。
「なぁ待てっての」
後ろから伸びた大きな手の平が、店の出口を抑えて行く手を阻む。さらにその手は俺が手を掛けたその上に移動し、重なった。
そうして驚いた拍子に肩が跳ね、ドクンと心臓が嫌な音を立てた。
「は、なせ……お前と違って俺はこれから用があるんだよ」
背中に逞しい虎次郎の胸板が密着し、首筋に吐息がかかる。あり得ないほど、近い。
「……カーラ、この後の薫のスケジュールは?」
「あ、お前っ……!」
『予定では、マスターはこれより30分後に虎次郎の店を出る予定です』
虎次郎の声に、彼女は軽やかで淡々とした発音で返事を返す。分刻みのスケジュール管理が、まさかここで仇になるとは。
「なんだよまだ時間あるんじゃねぇーか。ってかもうこの後は帰って寝るだけだろうが」
耳元でそう囁かれ、吐息が耳殻にかかる擽ったさに変な声が出そうになる。そして何より、何故そんなに急に甘い声音になるんだお前はっ……!
「明日の準備とかっ……俺には山ほどあるんだよ。それにいい加減離れろクソゴリラ暑苦しいんだよっ!」
これ以上はごめんだと重ねられた手を跳ね除け振り返り、虎次郎の胸を押し返そうとして……無理だった。鍛え上げられた筋肉の前には成す術もなく、脱出出来ずに逆に真正面から抱き合う形になってしまい、虎次郎の顔を間近で見ることになってしまう。
俺を真っ直ぐと見下ろす虎次郎の瞳は、前にも感じたような別の何かが孕んでいるような気がして、思わず目を伏せた。本能が警鐘を鳴らしているのか、ゾクリと背筋が震えてしまい、両手を密かに握り締めた。
「で? そうやって慌てたってことは、何で自分がカルボナーラを好きなのか、答えが出たってことだろ?」
「……出てない。分からない」
心臓がやけに五月蝿い。緊張? いや、それとも気恥ずかしさから来るものなのか。
一方虎次郎は、そんな薫を見つめながら、頭の中でどう追い詰めようか、計画を立てていた。フルコースの順番を考えるような、そんな心持ちで。
「ふぅん……ま、別に分からなきゃ分からないでいいさ。だって、これから俺が、お前に教えてやるし」
おもむろに顎を持ち上げられ、一方の手でガッチリと腰を逃げられないように固定される。視線は強制的に虎次郎へと縫い付けられ、虎次郎の瞳に戸惑い不安に揺れる自身を見付けた。
(何だよこれ……なに…………?)
五月蝿い。心臓が、耳の傍でがなり立てて、口から飛び出そうだった。
「……薫」
ちろり、と虎次郎の白い犬歯が視界の端に見えて、その隙間からやけに真っ赤で分厚い舌が踊るように顔を覗かせたところで、俺は本能的に目を瞑った。
「────ぃ、だああああぁぁぁっ!!」
間もなく響くは虎次郎の絶叫で。俺はふらつく虎次郎から身を離すと続いて膝裏に蹴りを入れて床に転がした。
そう、俺は思いっ切り頭を振って虎次郎の顔面に頭突きを入れたのだった。
「ゴリラ如きが、人様に勝てるとは思わんことだな」
俺はそう言いながら虎次郎を見下し、袂から取り出した扇子で火照った顔を仰いだ。そうすると床に転がった虎次郎はガバリと起き上がり、涙目で怒鳴り散らす。
「こんっの腐れ凶暴狸!! 俺のこの美貌が歪んだらどうすんだっつうの!!」
「ふん……別に。そっちの方がかえって男前に整形されていいんじゃないか?」
「ほんっとに可愛くねぇ!! 大体お前は昔っから────」
桜屋敷薫という男を考えてみれば、この先も自分からは絶対にその答えを認めないのだろう。仮に認める日が来るとするならば、それは……まぁ、そんな先のことを考えても、今は仕方が無いけどな。