俺の秘密の幼馴染 今日は週に一回の貴重な定休日だった。でもだからといって普通に休日を過ごす日では無い。
次の新作メニューの試作品を作っては食べ、作っては食べ……と試行錯誤する日に充てようと、食材はいつもよりは大分少ないものの、普段通りに仕入れた。
この作業はいつもなら一人で黙々とやっているのだが、如何せん今日はとある偶然が重なっていた。そして、重なっていたお陰で昔からの通例というか何というか……俺が予定を伝えた相手は話を聞くや否や「決まりだな」と嬉々として通話を切られたのが昨日の出来事だ。
だからって訳でも無いが、俺は慌てて色々余計なモノまで準備して、襲撃者に備えた。あいつこれ好きだったよな、とかちょうど余ってるし呑む分だけ浸けとくか……とか。
口では迷惑がってるクセに、身体は勝手にこうも動いてしまうのだから、俺も大概だ。
まぁいつもなら忙しくてなかなか捕まらない相手が、偶然にも同じ日に休みであり、最後に顔を合わせたのが一ヶ月以上も前だったってのがデカいんだけど。
嬉しい……んだよな、素直に。だって、自分が休みって分かってから真っ先に電話掛けてくれたって事だし。忙しくても俺の事、ちゃんと意識してくれてんだなって……ちょっと幸福感を覚えるっつうか。
こいつは昔から微塵も恋人らしさというか、こんな風に自分から行動をあまりしないから、普段よりは浮かれてしまっている。
そもそも、こいつが動く前に俺が我慢出来なくなって、理由をつけて何かと会いに行ってしまうのだ。
「あっ、おいまだ出来てねぇっつうの」
皿に乗せたカナッペは、隣で昨日から浸けて置いたサングリアを水のように呷る酔っ払いに出来た傍から攫われていく。細く爪先まで綺麗に整った指先で摘まれたラスクは、薄い唇に吸い寄せられる。二口程であっという間に無くなる様を横目で見届けると、俺は思わず溜め息を漏らした。
「相変わらず食いしん坊だなお前は……出来上がるまで待てねぇのか」
「ん……お前が出すのが遅いから悪いんだ。わざわざこの俺を厨房にまで出向かせやがって」
「俺は入って良いって言ってねぇけどなぁー」
俺は残りの切った食材をラスクに乗せると、仕上げのソースを掬って彩りを添える。ルッコラの葉の上にトマトとクリームチーズ、ベーコンビッツを振り掛けて、ソースはオリーブオイルをベースにしたバジルソース。少し黒胡椒も振ってみる。なんだかんだ、シンプルなのが一番美味い。
「少し塩味効き過ぎじゃないか? 喉が渇く」
「それでいいの。お前の手元のソレ、何の為にあんだよ」
薫は一度視線を酒に持っていくと「ああなるほど」と頷いた。
「どうりで……悪いゴリラだな」
「いや普通だわ。酒も呑んでくれないと売り上げに響く」
お前みたいに食い意地ばっか張ってるヤツばかりも困ると言うと、ムッとしたのか、眉間に皺を寄せて仕返しの如くカナッペをまた摘まれる。
「あっお前またっ……」
「んっ……ふん。ふきをみへたのがわるひ……ッ」
慌てて食べたせいで、薫はソースを口端から零し、さらに摘んだ指先までソースを垂らす。
その様子には流石の俺も呆れた。
「あーあー……待ってろ今拭くも……」
「っ……、ん」
薫の薄く色付いた唇の隙間から、真っ赤な舌が伸びていた。ちろり、と探るような動きを見せた後、口端から零れたソースを拭う。それでも拭いきれなかったソースは、すでにソースに塗れた左の親指が拭う。
「勿体無いな……美味しいのに」
言いながら手首まで伸びてしまったソースの道を、薫は丁寧に下から舐め上げた。手首から親指の先にまで辿り着く頃には、広げられた舌が包み込むように舐め取っていて、照明の下で唾液が淫靡に反射する。
その一連の流れは時間にしてみたら一瞬だったかもしれない。だが、俺の目にはスローモーションのように映り、真っ赤な舌先が白い指先を離れるその瞬間まで、片時も目が離せなかった。
気付けばゴクリ、と喉奥で大きく音が鳴っていた。
「っ……」
「……ッン、どうしたんだ虎次郎……?」
薫の眦は回ったアルコールで紅く色付き、常なら鋭く小さな瞳はとろりと無防備に垂れている。
この完全に出来上がった白皙の美人な幼馴染の様子には、下半身のもう一人の俺にも……いや、赤の他人の誰が見ても、何かしらの悪影響を及ぼすに違いない。
昔からこいつのふと見せる並々ならぬ色気は、男女問わず無意識のうちに周囲の人間の瞳を変える。
「はぁぁ~…………いや、どうもしない。これ、持って行くからそっちで食え」
落ち着け、と念じながら一つ深呼吸をして、皿を持ち上げた……その時だ。
「――――虎次郎」
名を呼ばれ、首をそちらに傾けた瞬間だった。
気付けば薫の指先が俺の顎先に添えられて、唇には柔い感触が当たっていた。
息を吐き出す僅かな唇の隙間から侵入してきた悪戯な舌は、さっきまでサングリアに舌鼓を打ちながら、ソースをイヤらしく掬い取って味わっていたモノだ。塩味の効いたクリーミーなカナッペの味と、サングリアのフリーティな甘やかさと渋みが混じる様々な味が、俺の咥内へ一挙に広がった。
最後には強引に舌を引き摺り出され、ぢゅっと吸われて呻くと、その反応を機に薫は潔くスッと離れていった。
俺は首を横に振り、持ち上げかけた皿を置いて口端から零れた唾液を親指で拭うと、すぐにぶはっと横から愉快そうな笑い声が上がった。
「っぶ、くく……ははははっ」
「お前、なぁ……っ」
俺がじとりと改めて睨むと、薫は目尻に涙まで浮かべて笑っている。なんだかよく分からないが、今日はいつにも増してやけに機嫌がいいみたいだ。
(ああもう可愛すぎだろ……何なんだよ)
いや本当に……一体何なのか。いつもより酔っているにしても、大分様子がおかしい。
「こんのタチの悪い酔っ払いめ。んなことしてると襲うぞ」
眉を顰めぼそぼそと呟くと、薫は目をぱちぱちと瞬かせてまた一口、手元のサングリアを流し込んだ。
こくりと喉を上下させ、ほう、と息を吐き出すと、薫はシンクに腰を預けてグラスに残った僅かな液体をくるくると揺らした。
「……っふ、何で今日に限って急に理性的になってんだ。いつもは俺の都合などお構いなしのクセに」
「え……」
今度は俺が目を瞬かせる番だった。
「何で俺がわざわざいつもの着物で来ていないのだと思う?」
横目で俺を見る薫は、上機嫌なまま言葉を続ける。
「きっとお前は、俺の為に色々準備してくれているだろうと思った。昨日の今日であろうとな。だから俺は、お前が好きだと言ってくれていた服装で今日来たんだ……俺なりのお返し、ってヤツだ」
言葉と共に薫の白い指先が、俺の方へとゆっくり伸びて来る。さっきソースを拭った親指は、俺の唇に触れると、横へとなぞるように滑った。
「覚えているか虎次郎? この服、昔からお前エロいって言って……着たまま、お前の部屋で何度もシたよなぁ?」
「お、まえもしかして……ッ!」
(もしかして今までの仕草は全て、ワザと……なの、か?)
ああ、鮮明に覚えているさ。わざわざ言われなくても、その服……お前が大学生の時にしょっちゅうしていた格好だ。薄手の黒いタートルネックは、ピタリと薫の身体のラインに添い、モデルのような綺麗なシルエットとなって薫自身を引き立たせる。そうして細い腰がやけに強調されるが、一度剥けばその下はしっかりと引き締まったしなやかな筋肉が姿を現す。それを包むように一切陽に焼けていない陶器のような生肌は、飢えた獣にとって、より一層魅力的で淫猥なご馳走に映るのだ。
「俺はここに来ると決めた時から、どうやって労ってやろうか……ずっと悩んでいた。恐らく試作品といっても、俺の好みに最初は味付けするだろう? お前はなんだかんだ、変に真面目な男だしな」
「なんだかんだ、じゃねぇ。真面目だよ昔っからよ」
俺はがなり立てて来る心臓を必死に抑えるように、肺の中の空気を吐き出す。腰の奥でヒリつくような熱が渦巻きつつあるが、目を背けた。薫の掌にこのまま乗せられるのは、癪だったからだ。
だが薫はそんな俺に対してさらに仕掛けてくる。目を眇め、先ほど俺の唇をなぞった親指をぺろりと舐め上げると、口の端を上げた。
「そんなの、改めて言わなくとも知っている。だから悩んでいたんだ」
ここまでの一連の仕草は、分かりやすく挑発されていると嫌でも分かる。こいつは分かっててやっている。何処まで俺の理性が耐えるのか、遊ぶように試している。
だが淫蕩に塗れた幼馴染の視線は、今こうしてこちらに注がれているだけでも、脳の奥底で息を潜める本能をざらりと逆撫でてくる。そしてさらに悪戯な指先が俺の身体を繰り返しなぞっては、こちらへ堕ちろと手をこまねいて弄んでくるのだ。
長年愛しく想い続け、曲がりくねりながらも付き合ってきた男の淫らな誘惑に、一体誰が耐えられるというのか。
「っふ……まぁ、今の俺の前ではそんな真面目なシェフも、ただの男になる。なにせ……」
薫は言葉を一度切り、サングリアの残りを一気に呷った。そしてグラスを置くと、俺に何の躊躇いも無くしな垂れ掛かって来る。流されるままに受け止めると、アルコールに塗れた熱い吐息を俺の唇に吹き掛けながら、右手を下へゆっくりと伸ばしていく。
そうして緩いチノパンの上から反応しかかっていたモノを確かめられ、思わずピクリと反応すると、薫は上目遣いになりながらより一層笑みを深くした。三白眼な瞳はさらに細くなり、自分のところへと引き摺り込もうと弧を描く。
自身の呼吸は自然と荒くなり、ブチブチ……と今にも頭の何かが焼き切れそうだった。
「――――俺は、お前にとってこの世でただ一人の、最高の男だからだ。そうだろう? 虎次郎」
「か、お――――ッ!」
呼ぼうとした名は最後まで紡がれる事は無く、熱く滑る淫らな口腔内へと再び吸い込まれていく。
いつの間にか伸ばした俺の左の五指は、薫の艶やかで繊細な頭髪へと絡み、一方は細い腰へと吸い寄せられていった。
口付けを深くするにつれて髪を梳いていた指先を隠れた無防備な首裏へと這わせ、腰へと撫で伸ばした手を臀部へと下ろして揉みしだく。
「っふ、んん……ぁっ」
控えめに喘ぐ声は俺の口の中へと消えて、お互いの唾液がくちゅりと鳴る音と、舌を啜る下品な水音だけになる。
太腿で薫の足を割り開き押し上げ、腕の中で跳ねたその拍子にキスは解けた。
俺との間に引いた淫靡な銀の糸が切れた頃、俺は改めて薫を見た。目に掛かった邪魔な前髪を耳に掛けてやると、薫もまた俺を見つめて来る。
「ここから、っ……どうする? 虎次郎……?」
薄く色付いた唇の隙間から、独特な低い声で名を呼ばれ、俺はそっと薫を引き剥がした。
そしてシンクに手を着き、深く息を吐き出して……目の前の前菜を手に持った。
「…………上、先行ってろよ。片付けたら行くから」
俺はすぅっと目を眇めて目の前の男を睨みつけると、睨まれた方はゆらりと立って一言「ああ」と漏らした。
そして俺の後ろを颯爽と抜けて行ったのだった。
俺はその後姿を恨みがましく睨みつけながら、姿が見えなくなった瞬間に抑え付けていた衝動を少しでも発散するように、右手で後頭部をガシガシと掻いた。
「ったく、全部お前の言う通りだよ。ほんと……今も昔も、最高の男だよ……お前は」
すれ違ったその時の幼馴染の表情はまるで、仕掛けた悪戯が成功した子供のような……そんな無邪気な笑みを湛えながらも、俺の劣情ごと視線で絡め取っていく女豹のようだった。