晩御飯は君のとなりでおい、ウツシ。お前あんまり食ってないじゃないか。
同僚から言われて、ウツシははたと気がついた。確かに自分の皿に乗せられたぶんを食べていない。
5月、新たにやってきた新入社員たちと春の異動で別の部署に移った面々への歓送会という名目で、同僚たちと飲み屋に来たウツシであったが、どうにも箸が進まない。同僚たちはうまいうまいと食べているけれど…。
どうした、お前いつもバクバク食ってるじゃないか、これ美味いぞ、体の調子でも悪いのか、などと口々に言われるけれど、自分でもとんと理由が分からない。
なんとなく、料理に手を伸ばす気になれなかったのだ。確かに出されたものに不味いものはないし、美味しい部類に入ると思う。だが箸を進める気にはなれなかった。
歓送会の客たち、新たにやって来た新入社員や異動してきたものや、去り行くものとの話をし、一通り話し終えたところでようやく空きっ腹にものを入れようと一口食べてみた結果が以上のとおりである。
誰かと食べるご飯は何よりも美味しいと思っていたけれど、存外そんなことなかったのかなあ。今までこんなことなかった気がするんだけどなあ、年のせいかな?とウツシは頭をかしげていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、お疲れ様でした」
宴会を終え、二次会の誘いを何とか振り切って帰ってきた。家には恋人が待っていた。三か月前から一緒に住み始めている。
「夕飯は召し上がったんですよね、お風呂これから温め直しますから、どうぞ入ってください」
夜も遅いというのに、俺の帰りを待っていたんだろう。先にお風呂に入ったのだろう、この子はパジャマ姿になっていた。
「ああ、うん。ありがとう。俺が帰ってくるまで待っててくれてたの?先に寝てて良かったんだよ?」
「はい、俺はその、やることがありましたので」
ご飯の仕込みをしていたらしい。テーブルの上には保存容器に入れられた漬け野菜や切られた野菜、味付けをした肉などが袋ごとに分けられておいてあった。
これからのご飯が楽しみだな。でも、あまり無理をしてはいけないよ、というと、なんとなく、眠れなくて。ウツシさんのお顔を一目見たくて。と恥じらいながら返事が返ってきた。ああもう、この子はどうしてこんなにかわいいことを言うんだろう。
抱きしめようとしたらぐう、と腹の虫がなってしまった。
「あれ、今夜は宴会だったんじゃ…」
不思議そうな顔を向けられて、気恥ずかしくなってあははと笑って答えた。
「ああその、あんまり食べてなくてさ」
「えっ、なにかお体の調子が良くないとか」
さっと不安な色を顔ににじませた恋人を安心させようと慌てて答えた。
「ああいや!そうじゃないんだ。元気だよ!本当に!…ただその、お店の味がどうも俺に合わなかったみたいでね」
「そうでしたか…」
身体の不調ではないとわかってほっとしてくれたらしい。
「だから今お腹減ってるんだ。なにか作ってもらっていいかな?」
夜遅くまで帰りを待たせておいてわがままを言っている自覚はあるが、自分でこしらえた食事で満足できるとは思えなかった。というより、自分はあまり料理が得意ではないので居酒屋の二の舞に、いやそれ以下になる。
「わかりました。お風呂に入っている間簡単なものを作っておきます」
この優しい恋人は二つ返事をしてくれた。この子なら断るまいと思っていたのもあるけれど、こうして言われるとやっぱり嬉しい。
ひと風呂浴びて脱衣所から出るとふんわりと美味しそうな匂いがした。
「ちょうど出来たところですよ」
匂いの元は恋人の手の中にあった。どうやらお粥のようだ。
「わあ、ありがとう!美味しそうだね」
「夜も遅いので、消化にいいものが良いかと思いまして」
「助かるよ、いただきます」
小ネギを散らしたお粥。真ん中には温泉卵が乗っていた。
ひとさじ口に入れると出汁の香りとほんのりめんつゆの味がして美味しい。刻み生姜を入れてくれているようで、シャキシャキとした食感と辛み、そして爽やかな香りが鼻に抜ける。
「温泉卵なんていつ買ったの?」
温泉卵を割りながら尋ねた。とろりと中身が流れ出した様子がまた食欲をそそる。
「買ったんじゃなくて作ったんですよ」
「うそ、温泉卵って作れたの?温泉無いのに」
「はい、簡単ですよ。今度一緒に作りましょうか」
いいね、ぜひご教授お願いするよ、と話すと
そんな大袈裟なものじゃないですよ、とあの子は笑って返した。
足りないかもと思っていたけど、お粥と、一緒につけてあったたくあんを食べ終えると存外満腹感があった。
「ああ、美味しかった。ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
「いや本当に美味しかったよ、また食べたいな」
「お口にあったようで何よりです、また今度ご用意しますね」
食器を洗いながらリクエストしてみたら了承を得た。またあれが食べられる。楽しみが増えた。
「しかし君はすごいね、いきなりだったのにあんな美味しいものをさっと作れるなんて」
「そんな、大袈裟ですよ。たまたまあったもので作ってみたら上手くいっただけです」
食器の片付け中に話しかけたら謙遜した答えが返ってきた。
俺よりもひとまわり年下な恋人だけれど、俺の知らないことをたくさん知っている。料理に関して俺はからきしだから、特にこういう時に思う。日頃から情報を集めたり実践してみたり努力をしているだろうなと想像はつく。プロの料理人ならいざ知らず、家庭料理だというのにあの子は絶えず努力を重ねている。褒める度にあの子は謙遜するけれど、君は偉いんだよと何度でも伝えてあげたい。
と、思ったところではたと気がついた。
そうか、俺はこの子に。
「俺はもう、君なしじゃ生きていけないなあ」
「えっ」
あの子がこっちを見た。
「と、突然何を」
「いやなに、君に胃袋を掴まれてしまったってことさ。外食しても満足出来ない程度にね」
自分の中で凄く腑に落ちる正解だったと思うけれど、あの子はぷいと顔を逸らしてしまった。
「まだ酔ってらっしゃるんですね」
「俺飲んでないよ」
「そんなことありません、もう今夜は遅いですしお水飲んではやくおやすみください」
そう言ってリビングから出ていってしまった。耳が赤かった恋人を追いかけようと、急いで後片付けを済ませて寝室に向かった。
おしまい