唯一の恋射日の征戦の中盤、雲夢江氏が姑蘇藍氏と同じ戦場で戦うことがあった。
このときも江厭離は、弟たちについて戦地へおもむき、修士たちのための食事の用意や傷の手当といった支援に加わった。
日中、江厭離が大きな鍋を両腕に抱えて外を歩いていると、白い人影がさっと近づいてきて言った。
「姉上、私が運びます」
江厭離の弟たちは「姉上」なんてかしこまった呼びかたはしない。すこし不思議に思いながら人影を見上げ、目を丸くした。声の主は含光君だった。
「えっと……」
思わず藍氏の第二公子の顔をまじまじと見つめたが、すました表情からはなにも読み取れない。彼とは江氏がこの戦場へ到着した際、簡単に挨拶したきりだった。
とはいえ江厭離は、江氏宗主の長女としていろいろな立場の人と話してきたおかげで、成人するころには物怖じしない性質になっていた。
「じゃあ、お願いしようかしら」
と笑みをつくると、藍忘機が彼女の手から鍋を持ちあげた。
「どちらに?」
そう聞かれ、江厭離は山のほうを指し示した。
魏嬰が、割り当てられた二階の一室で笛を磨いていると、外に江厭離の小さな後ろ姿を見つけた。大鍋を抱えてどこかへ行こうとしている。魏嬰はあわてて笛を帯に挿すと部屋を出た。
「姉ちゃん!」
息せき切って追いつくと、後ろ姿へ大声で呼び掛けた。江厭離が振り向く。同時に、その隣の背の高い男も振り向いた。
「どっか行くのか? 一人で出歩いちゃ危ないから、護衛がいないときは俺か江澄を呼んでって言っただろ」
「あら、一人じゃないわ」
と江厭離が微笑むので、魏嬰は彼女の隣の男へ目をやった。藍忘機が、先ほどの大鍋を抱えていた。
「藍湛じゃないか! 悪かったな。あとは俺が」
「いや、重い物は私が運ぼう」
二人のあいだの空気がぎこちないものに変わるのを感じ取ったのか、江厭離がとりなすように説明した。
「焦げた鍋があったから、川で洗おうと思ったの」
「そんなの、焦がしたヤツに洗わせればいいだろ」
「なら私が洗ったっていいでしょ」
「けど、こんなでかい鍋、乾坤袋に入れて持ち運べばいいじゃないか」
「阿羨、汚れたものを乾坤袋に入れないの」
「はあい。なんにせよ、俺も行くよ」
「阿羨も来てくれるなら、ついでも蓮根も洗いましょう!」
江厭離を先頭に、三人は山道へと向かった。
小柄な娘が、焦げた大鍋を持った含光君と、泥だらけの蓮根が入った桶を提げた夷陵老祖を従えているので、途中ですれ違った修士が目を剥いていた。それに気がついた魏嬰はいたずら心がうずいて、天帝の行進にでも参列しているかのように、背筋を伸ばして大真面目な顔で藍忘機の隣を歩いた。
やがて一行は、ゴツゴツした岩の並ぶ河原へたどり着いた。江厭離が言った。
「いつもこのあたりで洗い物をしているのよ。戦いで下流は濁っちゃったから」
清流は細いものの勢いがあり、白いしぶきを散らしながら、涼やかな音を響かせていた。川幅は、魏嬰や藍忘機なら一足でまたぎこせる程度だ。
藍忘機は川をまたぐと、白い手甲を外し、袖を上げた。魏嬰は、焦げた鍋をたわしでこする藍家の公子という図に違和感を覚え、声を掛けた。
「藍湛、運んでくれただけで充分だよ。鍋は俺が洗うよ。慣れてるから」
「そうね。阿羨は鍋を焦がしてばかりですもんね」
江厭離も言ったが、藍忘機は頑として言った。
「かまいません。私がやります」
棕櫚(しゅろ)の樹皮の繊維を束ねたたわしを彼が手に取ったので、江厭離と魏嬰は、それより川下の位置で、なるべく平らな岩を選んでしゃがみこんだ。
「あ!」と魏嬰が小さく歓声をあげ、澄んだ水に手を差し入れた。「姉ちゃん、見てみて、カニがいる!」
江厭離へすくったカニを差し出す。一寸ほどのほどの小さなカニが、陽光を浴びて淡い紅色に光り、白いてのひらの上で右往左往していた。
「かわいいわね」
「食べられるかな」
「うーん、どうかしら」
藍忘機はその様子を見て、なにか口を開きかけたが、結局はなにも言わず、鍋底をこする作業に戻った。
江家の姉弟は桶から蓮根を取り出し、まずは桶をきれいに洗いはじめた。しばらくして藍忘機が顔を上げた。
「江殿、これくらいでいいでしょうか」
江厭離が立ち上がった。
「あら、今度は姉上と呼んでくださらないの?」
茶目っ気に満ちた言いかたを聞いて、魏嬰は内心で笑ってしまった。魏嬰もいたずらっぽいところがあるが、それは生来のものかもしれないし、姉に似たのかもしれない。
藍忘機はそれには答えず、ばつが悪そうに視線をさまよわせている。
「姉上ってなに?」
魏嬰がたわしで蓮根の泥を落としながら尋ねた。
「さっき含光君が、姉上って呼んでくれたのよ」
「藍湛が? 姉ちゃんを姉上って?」魏嬰が手を止め、状況を理解しようと眉をしかめる。「ハッ、まさか姉ちゃん、沢蕪君と婚や……」
「阿羨、話をややこしくしなくていいのよ」
江厭離が釘を刺したので、魏嬰は今度は藍忘機へ話しかけた。
「藍湛は兄ちゃんだけじゃなくて、姉ちゃんもほしいのか?」
回答はない。
「まあ、藍湛なら姉ちゃんを姉ちゃんって呼んでもいいよ」言って、魏嬰は藍忘機が手にした鍋に目をやる。「あ、それじゃダメだって。鍋、こっち貸して」
魏嬰が手を伸ばすと、藍忘機が鍋を引っ込めた。
「もう一度やる」
「いいよいいよ。こういうのにはコツがあるんだから」
「ならばそのコツを、きみが教えてくれたらいい」
「はあ、藍湛には蓮根を洗わせてやるから、それでいいだろ」
二人のやり取りを聞いていた江厭離が、クスクスと笑いだした。
「ほらほら、兄弟でケンカしないの。含光君には私からお教えします」
三人で黙々と洗いものを続け、泥の落ちた蓮根が桶にすべて収まるころ、江厭離がふと顔を上げて言った。
「あら、あけびだわ」
反対岸にいる藍忘機の後方で、細い枝に紫色の実がなっていた。一つ一つの実はおとなの握りこぶしくらいの大きさで、果皮はつやつやとして張りがあった。
三人がそれを見上げたのと、魏嬰と藍忘機が邪気を感じ取ったのは同時だった。
魏嬰が立ち上がった。
「姉ちゃん、そろそろ行こう。宿営まで送るよ」
「藍湛」と声を掛けると、彼が魏嬰に鍋を手渡した。魏嬰は左手に桶を提げ、右手に鍋を抱え、「ほら」と江厭離を促す。
江厭離はまだなにも気が付かない様子で、「でも」と藍忘機のほうを見た。
「あけびは藍湛が取ってきてくれるってさ。そろそろ戻らないと、飯の支度が遅れちゃうだろ」
「そうね」
江厭離がうなずいたので、魏嬰は藍氏の修士へ声を掛けた。
「あとで手伝いに来る」
「うん」
江家の姉弟が去りかけたとき、清流と同じくらいに涼やかな声音が、「待って」と二人を呼び止めた。
魏嬰が振り返ると、藍忘機が両手を差し出していた。
「きみと姉上たちに」
大きなてのひらには、形の美しいあけびが三つ並んでいた。
傾きかけた陽が、藍忘機の頬をあざやかに照らし、黒髪と抹額が風にたなびいていた。ふだんは感情を表に出さない黒い瞳も、今は温かい色に光っているように見える。
魏嬰は、その真っ直ぐな眼差しに、不意に胸を突かれたようになる。
「あ、うん……」
急にうまく話すことができなくなって、いったん桶をおろすと、口のなかでもごもご言いながら実を受け取った。
江厭離と連れ立って山道を下りる。
先ほどの邪気はまだ遠くにあり、強いものでもなかった。放っておいても害はないかもしれない。対処するとしても、藍忘機なら一人で充分だろう。江厭離を送り届けたあとで様子を見に行けば、きっと事足りる。
魏嬰がそう考えを巡らせていると、「弟たちが仲良しでうれしいわ」と隣から声がした。
結局あのあけびは、江厭離が両手で裙を広げ、そのなかに入れて大事そうに運んでいる。
「そんなこと言うの、姉ちゃんくらいだよ。最近じゃ仙門のヤツらはみんな、藍湛と俺が仲が悪いと思ってる」
「その噂は聞いてる。でも、百聞は一見にしかずね」
その言葉に、魏嬰はひとりでに口元がゆるむのを感じた。
「そっか、姉ちゃんから、仲が良いって見えるならよかった」
「でも、兄弟の仲の良さとは違うかも」
「なにそれ?」
魏嬰がぽかんとした顔で尋ねると、江厭離がにっこり笑った。
「なにかしらね」
「思わせぶりなこと言わないで、教えてよ」
「それじゃあ、三歳の阿羨に手がかりだけ教えようかしら」梢の鳴るかすかな音に、優しい声が重なった。「あけびの花言葉よ」
了