桃娘・魏嬰のおはなし藍忘機は桃娘を一人引き取った。
桃娘と言っても、十一歳になる少年だ。魏嬰といって、藍忘機より六つほど歳が下だった。
出会ったのは、藍忘機がある町へ夜狩で訪れたときだった。
邪祟を退治するまでのあいだ、大きな屋敷で部屋を借りた。桃娘を育てることを生業とする屋敷だった。少年少女が何人か育てられていて、魏嬰はその中の一人だった。
そして数日が経ち、藍忘機が屋敷を離れるころには、魏嬰から一緒に連れて行ってくれと散々せがまれることになった。
魏嬰は、書で読んで仙門や修士に興味を持っていたらしい。藍忘機が部屋を借りてからは、屋敷中彼を付け回した。藍忘機が邪祟の調査のために町へ出ようとしたときも、魏嬰はなんとか屋敷の者を説き伏せて付いていこうとした。
屋敷の主人はついに根負けして、行ってもいいが桃以外のものは食べるなときつく言い渡した。桃娘の血には薬効があると信じられている。せっかく人の役に立つ力を持っているのだから、みすみす捨てるなと主人から叱られると、魏嬰はうつむいていた。
道中、藍忘機が剣や琴を使って妖魔と戦うところを、魏嬰は間近で見ることになった。そして自分も不思議な技を使えるようになりたい、修行がしたいと藍忘機に頼みこんだのだ。
藍忘機が屋敷の主人に聞いたところ、魏嬰はもともとは孤児だという。菓子や肉を食べたがるし、屋敷でいたずらはするしで手を焼いているようだった。
藍忘機は考えた末、魏嬰を姑蘇へ連れ帰ることにした。
とはいえその屋敷では、売り物にするために桃娘を育成してた。藍忘機は屋敷を発つときには、主人になかなかの額の手切れ金を払った。
旅がはじまった最初の夜、二人は宿の一階の食堂で夕食を摂ることにした。
藍忘機は「これから修行をするなら、力がつくように米や野菜を食べたほうがいい」と好きなものを注文するよう言った。魏嬰が、もう桃を見るのもうんざりしていると知っていたからだ。
だが魏嬰が、店の奉公人に桃があるか尋ねたので、藍忘機はすこし眉をひそめた。
結局、藍忘機が質素な食事をするかたわらで、魏嬰はお茶をすすりながら山桃を漬けたものをいくつか口にしただけだった。
その夜、寝支度を整えると、魏嬰が藍忘機の寝台まで寄ってきた。
「魏嬰、きみはあちらの寝台だ」
と藍忘機は隣の寝台を指し示したが、魏嬰は藍忘機の寝台へ腰かけた。
「俺、本当に甘いのかな」
魏嬰がぼそりとつぶやいた。
「ほかの人たちが食べるような飯を食べたら、桃娘じゃなくなる」
「気にすることはないだろう。きみは修士になることを選んだ」
と藍忘機が答えると、魏嬰がさらに言った。
「気にするよ。俺の体に本当に薬効があるなら、桃を食べながら修行をする道もある」
「それでは体に障るように思う」
「あのさ、俺、桃娘の血を飲んだ人たちの噂をいろいろ聞いたんだ。病が良くなった人もいれば、そうじゃない人もいた。桃娘なんて迷信じゃないかって、ちょっとだけ疑ってるんだ」
「ならば明日から、米と野菜を食べればいい」
「だから」と魏嬰はなかば怒ったように言った。「その前に、みんなが信じてる通りに桃娘が甘いのか確かめたい」
藍忘機は眉をひそめた。まだ手足も細い少年が、そのようなことを気に病んで、目の前にある食事にすら手をつけなかったのかと暗い気持ちになった。
魏嬰が藍忘機へずいと詰めよった。
「俺のこと食べてみてくれない?」
藍忘機は、まったく意味がわからないという気分でため息をついた。その後、いろいろと魏嬰を諭しておとなしく寝てくれるよう試みたが、どれもこれも反論にあい、ついに藍忘機は返す言葉がなくなってしまった。
そして結局、「わかった」と言うしかなかった。
「きみが甘いか確かめよう。しかし……」
どのように確かめようかと、考え始めたまさにそのときだった。魏嬰が藍忘機の寝間着の胸ぐらをつかんで、ほとんどぶつかる勢いで唇を合わせたのだ。
少年のあまりの大胆さに、藍忘機がしばらく言葉を失っていると、かすれた声で「早く」と聞こえた。魏嬰が唇を合わせたまま「早く確かめて、味!」とせかすのだ。
藍忘機はほとんど混乱していたが、とにかくさっさと、この子どものお遊びを終わらせようという気になった。魏嬰が変に動き回らないよう、華奢な肩をそっと両手で支えると、彼がとても緊張していることがわかった。
藍忘機は舌を伸ばした。小作りな唇をなぞってから、唇の隙間からすこしだけ舌を差し入れ、味わいを確かめた。そしてゆっくりと少年から体を離した。
「甘い?」
魏嬰が息せき切って尋ねた。
藍忘機は口を開いたが、答える前に思いとどまった。
甘かったのだ。飴や蜜と近かった。しかも肌の香りまで甘かった。
口づけのほんの短い時間、藍忘機の鼻先は彼の肌に触れたが、満開の花を嗅いだときのように、甘く豊かな香りが胸に入ってきた。
藍忘機は、息を止めてその香りをいつまでも胸に留めておきたいような、思い切り息を吐いてその香りを胸から追い出したいような、よくわからない気分になった。
「ねえ、藍湛」
魏嬰がせかすので、藍忘機はやっと答えた。
「甘くはない」
魏嬰の顔がぱっと輝いた。
「じゃあどんな味?」
「ふつうだ」
「ふつうって?」
「ふつうの唇の味だ」
大嘘だった。ほかに魏嬰の気持ちを落ち着かせる言葉が思いつかなかったのだ。
魏嬰は「やっぱり桃娘なんて迷信だったんだ」とひとりでブツブツ言っていた。
これまで誰かと口づけをしたことがあるのかといった、つまらないことを尋ねようという発想は、このときの魏嬰には浮かばなかったようだ。彼から見れば、藍忘機はずいぶんおとなだったからかもしれない。
次の朝から、魏嬰は藍忘機と一緒に、米や野菜の料理をたくさん食べるようになった。
それから藍忘機と少年魏嬰は何日も旅をして、立ち寄った町で妖魔鬼怪に苦しめられている人がいれば助け、やがて姑蘇へたどり着いた。こうして魏嬰は姑蘇藍氏の門弟となった。藍氏の家規の、あまりに無茶な要求に泣くことになってもあとの祭りだった。
藍忘機は、雲深不知処へ戻った翌朝から、規訓石の前で跪いた。魏嬰から唇が甘いかと聞かれた夜に、家規を破って嘘をついたからだ。
魏嬰は最初の夜から、ほかの門弟たちと同じ宿舎に入っていたが、藍忘機が跪いていると聞きつけたらしい。
「藍湛は跪く理由なんてないじゃないか」
と規訓石のところまで言いに来た。
「どうして一日中跪くなんて言うんだ? ひょっとして俺のせいか?」
藍忘機は「きみは自分の修行をしなさい」と、それをすげなく追い払った。
魏嬰が「また来る」と言い残して修練へ戻るとき、彼の長い黒髪とともに、たなびく抹額が視界に入った。藍忘機はそっと振り返ると、白く細い布地の端が見えなくなるまで、魏嬰の後ろ姿をまぶしく見つめていた。(END)