魏無羨と謎の目録(1)魏無羨と謎の目録
「なあ思追、俺が死んでたあいだも、含光君とあちこちで夜狩をしてきただろ。含光君に現地妻がいたことってあったか」
「げん……なんですか?」
藍思追が聞き返すと、隣にいた藍景儀が替わりに言った。
「つまり魏先輩のことだろ?」
「俺?」と魏嬰が首をかしげると、景儀がうなずいて言った。
「現世妻」
「……じゃなくてだなあ」
と魏嬰は苦笑した。
昼下がりの雲深不知処。
姑蘇藍氏には「食うに言わず」の家規があるため、魏嬰は門弟たちが午前の修練を終え、昼食を食べたころを見計らって、思追と景儀のところへ来たのだ。
十代の門弟二人は、食後のお茶で一息ついているところだった。
「要は、離れた土地に愛人がいて、そこを訪れたときは、その相手と夫婦のように過ごしたりするヤツだ」
「なるほど」と思追が言った。「前世の魏先輩のことですね。含光君とお会いになったときには、夫婦のように過ごした」
「へえ」と茶を飲みながら聞いていた景儀も言った。「含光君と魏先輩は前世からの縁とは聞いてましたけど。ていうか、俺らの飯が終わるのを待つほど、その話をしたかったと」
「じゃなくて! 俺とは別に、含光君が仲良くしていた人がいるみたいなんだよ」
魏嬰が言う。
「含光君と、仲睦まじい方ですか?」と思追。
「まるで夫婦みたいに?」と景儀。
思追と景儀が顔を見合わせ、それから首を横に振った。
「思い当たりません」
思追が目をパチパチさせて言うと、景儀もうなずいた。
「沢蕪君に聞いたらどうでしょう。実の兄上なら内々のこともご存じかも」
「こ、こら、呼ぶなって」
魏嬰が小声で叫ぶと、藍氏の師弟二人が首をかしげた。そのときだ。
「呼んだかい?」
卓を囲む三人の背後から、まるで春風が吹いたように、おだやかな声がした。
「わあ!」
思追と景儀が同時に叫ぶ。
魏嬰が(おまえら、沢蕪君の気配に気が付いてなかったのか)と目線で問うと、二人は目を見開いて、(気配なんてありましたか?)という顔をした。
師弟二人と魏嬰が立ち上がって挨拶するのを、藍曦臣は手ぶりで腰掛けるよううながした。
魏嬰が雲深不知処へ住むようになったころは、ちょうど藍曦臣は閉関して修練していた。あれから数か月が経ち、少しずつだが宗主の執務へ取りかかり、親しい者とは言葉を交わすようになっていた。
「すみません。騒がしくして」
魏嬰が丁寧に謝ると、藍曦臣は温かい笑みを浮かべた。
「そんなことはないさ」
「お聞きしたいことがあって」と景儀がさっそく口を開いた。「含光君に現地妻がいるか、ご存知ですか」
「知っているとも」
と藍曦臣がうなずくので、魏嬰の表情に一瞬、緊張が走る。
「ちなみに、魏先輩のことじゃないですよ」
と景儀が言うと、藍曦臣が腕組みした。
「違うのかい? となると誰だろう?」
「べつに謎かけじゃないので」
魏嬰は肩から力が抜け、卓に寄りかかりつつ言った。
思追が替わりに説明した。
「魏先輩がご不在だったあいだ、含光君が親しくしていたお相手がいないか。魏先輩はそれをお知りになりたいのです」
藍曦臣が眉間を曇らせた。
「忘機が十年以上のあいだ、いかに魏公子のことを一途に思っていたか、また私の口から聞きたいのかな」
「いえ、それは、充分わかってます」
魏嬰がブンブンと手を振って遠慮すると、景儀と思追から抗議の声があがった。
「え、聞かないんですか」
「知りたいです」
藍曦臣がほうっと息をついて、魏嬰を見た。
「魏公子は忘機の気持ちをよくご存知だ。なのに今日に限って、どうしたのかな」
魏嬰はしばらく渋い顔をしていたが、やがて口を開いた。
「もう、見せたほうが早いから、お見せします」
魏嬰が懐から取り出したのは、一冊の帳面だった。卓に置いて表紙を開くと、端正な文字が並んでいた。ほかの三人がそれをのぞきこむ。
魏嬰が表紙を開くと、何年何月何日、地名、女の名前、そして添え書きが箇条書きになっていた。日にちは、その項目を書いた日を表すようだ。
「忘機の字だ」と藍曦臣。
「目録だよな」と景儀が続ける。
「一見したところ、どこの土地で、なんというお嬢さんと、どんな約束をしたかが、書かれていますね」
思追が、最後の項目まで見終わってからまとめた。
「魏公子、これをどこで?」
藍曦臣の問いに、魏嬰が答えた。
「静室の箪笥の奥です」
「ふむ。私にも心当たりのないことばかりだ」藍曦臣もやや困惑しているようだ。「なるほど、魏公子が忘機の昔のことを探りたくなったわけだね」
昼下がりの中庭がしんと静まり返る。沈黙を破ったのは藍曦臣だった。
「江宗主にお聞きしてみよう」
それを聞き、思追がぱっと顔をあげた。
「今朝からいらしているんですよね」
「ああ、今は客間でくつろいでおられる」
「でも、なんで江宗主に?」
と聞く景儀に、藍曦臣が答えた。
「姑蘇の外でのことなら、ほかの仙門の人に聞くのがいいだろう」
魏嬰が目録を懐に入れ、そっと席を立とうとすると、景儀に袖を掴まれた。
「魏先輩、なに逃げようとしてるんですか」
「江澄に聞く必要はないかな~と」
景儀の手から袖を抜こうと腕を振ると、逆の袖を思追が握ったので、魏嬰は悲鳴をあげた。
「おまえら、放せって。夜狩でつちかった連携を、こんなところで活かさなくてもいいのに!」
「往生際が悪いですよ。魏先輩のために、みんなで協力しているんじゃないですか!」
景儀に指摘され、魏嬰はうなだれた。
(2)魏無羨と世家の宗主たち
「含光君に女の噂がなかったか、知りたいということか、魏無羨」
「うん、俺の意図が一発で通じるところは、さすが江澄だな」
四人で連れ立って江家宗主を訪ねたので、客間はにわかににぎやかになった。
「魏公子は、彼が不在だった十三年間のことが急に心配になったようでね」
藍曦臣の説明に、魏嬰は苦笑した。
「沢蕪君……それだと俺が情緒不安定な夫みたいに聞こえるのですが」
「違うのかい?」
「う……」
江澄が眉を寄せ、腕組みして考え込むので、ほかの四人は「まさか」と固唾を飲んだ。しばらくして江澄が言い放った。
「なにも思い当たることがない! 女の噂はなかったと考えるのが妥当だろう」
「私もそうだと思ったよ」
藍曦臣がほっと安堵の息をつく。
「けど」と景儀が菓子を口いっぱいに頬張りながら言いかけて、隣の思追を肘で小突いた。雲深不知処では、食べながら話してはならないのだ。
思追も卓にあった菓子をつまんでいたが、お茶を一口飲んでから言った。
「けれど、それでは含光君の目録の説明がつきません」
「含光君の目録?」
江澄が眉を寄せた。魏嬰があわてて立ちあがる。
「景儀、思追、菓子はやるから、子供はもう戻れ!」
「そうはいきません!」と思追もつられて立ちあがり、断固として言った。「魏先輩と含光君のことなんですよ。こんな心配な気持ちのままではいられません」
「そうだそうだ~」
と景儀はまた菓子と口に入れている。
「景儀、おまえは野次馬だろ」
魏嬰は口元を引きつらせた。
「なるほど……」江澄は目録に目を通したあと、重々しく口を開いた。「含光君が夜狩で各地を訪れたとき、そこの娘たちとした約束の記録か。筆跡は同じだが、項目ごとに墨の濃さが違う時があるから、一時に書かれたものじゃなく、そのときどきで追加されてきたんだな。そうした紙の束を紐で綴じて、一冊の目録ができあがったと」
卓を囲んだみなが、黙って江澄の言葉に耳をかたむけていた。
「逢乱必出だ聖人君子だと言われているが、含光君も意外と奔放だったと見える」
魏嬰はその言葉を聞いても、椅子の上でじっとしていた。
「これを見たら、そう思うよな……」
「なぜ本人に問いたださない。含光君はどこにいるんだ」
「忘機なら、午後からずっと蘭室で子どもたちに教えています」
藍曦臣が答えると、江澄が「蘭室だな」と目録を手に椅子から腰をあげた。さっさと扉のほうへ歩いていくので、魏嬰はあわてて先回りし、扉の前で両腕を広げた。
「まさか蘭室へ行く気じゃないだろうな?」
「だったらなんだ?」
「聞いただろ。含光君は子どもたちに教えている最中だ」
「こちらのほうが優先だ」
魏嬰は歯噛みしてしばらく逡巡したが、諦めて言った。
「本人にはもう聞いたんだ」
魏嬰が発したのが落ち込んだ声だったので、その場にいた全員が驚いたようだった。「江澄、とにかく戻れって」と魏嬰はまた江家宗主を椅子へ着かせる。
「昨日、これを静室の箪笥の奥に見つけた。藍湛が部屋へ戻ってから聞いたんだ」
「ほう、含光君はなんと?」
江澄が腕組みして尋ねた。
「この目録のことは忘れるように。二度と見てはならないってさ」
魏嬰が答えると、一同が小さく息を飲んだ。
「だからこうして、藍湛がほかのことをしているあいだに調べてたんだ」
魏嬰がやや投げやりに言う。
「えっと、忘れるように言われたのに、ですか」と思追。
「というか、その目録をよく持ち出せましたね」と景儀。
「そんなの簡単さ。藍湛が俺から目録を取りあげようとしたから、腰に乗っかってやったんだ。藍湛は目録どころじゃなくなったから、俺は服を脱ぎながら、服のなかにうまいこと目録を隠したんだ」
魏嬰が言い終わったときには、藍氏と江氏の宗主がそれぞれに腕を伸ばし、藍曦臣が思追の、江澄が景儀の耳を塞いでいた。
「恥知らず」と江澄が言い捨てる。
「次にそういう話をするときは、予告してもらえると助かるかな」
藍曦臣は口調はおだやかだが、言い知れぬ圧力を放っていた。
「とにかく」と江澄が浮かせた腰を椅子に落ち着けた。「江氏の船は大きいからな。魏無羨、おまえが乗る場所くらいあるぞ。俺は明日、雲夢へ戻るが、それまでに荷物をまとめられるなら、乗せてやってもいい」
「お待ちください」割って入ったのは藍曦臣だ。「兄である私の口から言うのもはばかられますが、忘機は魏公子一筋でした。魏公子がいないあいだも、魏公子を忍ぶ品を身のまわりに置き、毎夜欠かさず問霊をしていた。それに、当時は理由がわからなかったけれど、今にして思えば魏公子のためだったとわかることがたくさんあります。ある時、忘機が静室の庭に唐辛子の苗を……」
「沢蕪君、充分わかりました!」
魏嬰はいたたまれなくなって、もうやめてくださいと、両手を前に突き出した。すると江澄が魏嬰を睨みつけた。
「今いいところじゃないか。沢蕪君、続けてください」
籠に山盛りだった菓子が、すべて景儀の腹に収まったころに、やっと藍曦臣の弟語りは一息ついた。
「そうでしたか」
江澄が真面目な顔でうなずいている。
魏嬰も、つい聞き入ってしまった。
「魏先輩が死んでた一三年間も、含光君が魏先輩一筋だったんだとすると」
と景儀が切り出す。
「あ、あんまりハッキリ言うな」
と魏嬰が言って、膝の上でもじもじと手を組んでいると、景儀があきれた表情で続けた。
「あの目録、字は含光君ですけど、中身は含光君じゃないのでは? すべて邪祟の記録とか」
「ああ、それは俺も考えた」と魏嬰はいくらか背筋を伸ばして答えた。「藍湛が邪祟を供養したとき、どんな願望を持っていたのか、後の世のために記録をつけていたのかもって。けどさ、それなら藍湛は目録のことを忘れろなんて言わないで、単なる邪祟の記録だって話してくれるはずだろ」
「それもそうか」
「それに」藍曦臣がつけ足す。「どうして後で品物を贈という約束なのでしょう。その場で買って贈ればいいものを」
「たしかに、魏先輩と違って、含光君は当時からお金を持っていましたし」
と思追が大きくうなずくと、魏嬰があわてて言った。
「いや、俺だって昔は金を持ってたよ。今だって、藍湛の金がある」
「後半はいらなかったですね」と思追が苦笑する。
江澄が肩をすくめて言った。
「こうやって約束を取りつけておいて、次に会う口実にしようって魂胆だろう。おまえだって、よく娘たち相手に使っていた手じゃないか、魏無羨」
「え、そうなんですか?」と思追が腰を浮かせかける。
「聞き捨てなりませんね」と藍曦臣も険しい表情で魏嬰を見る。
「おまえ、余計なこと言うなよ」
魏嬰が、卓の斜めの位置にいる江澄を肘で小突こうとすると、江澄は体をよじってかわした。
「身から出た錆だ」
「本人が答えないとなると……」江澄が目録の頁を指差した。「この娘たちに聞いて回ればいいんじゃないのか?」
「あのなあ、そこへ行くのに何日掛かると思ってるんだ?」
魏嬰があきれた声を出すと、江澄が「いいか、よく見ろ」とある行を指す。「いろいろな土地の名が挙がっているが、一行だけ姑蘇がある」
「ここなら、今からでも行けますね!」それを見た思追が元気よく言って、「調査しましょう!」と隣を振り返ると、景儀が「うんうん」とうなずきながら、籠のなかの残りの菓子を、急いで口へ詰めこんだ。
「これ、江宗守のために用意したお菓子なのに……」
「かまわん。若い者はしっかり食べろ」と江澄。
江氏宗主の言葉に、藍氏の若い修士二人は供手した。
魏嬰は、藍氏の若い修士二人とともに彩衣鎮の大通りを歩いていた。目録の件の頁には「玄正三〇年 姑蘇 蓬莱客桟 長女 張若汐 櫛を贈る」とあった。つまり、この項目は十年近く前に書かれたことになる。
「はあ、俺、昼間からこんなところまで来て、なにやってるんだろう」
魏嬰がため息をつくと、景儀が「夫の素行調査でしょ」と几帳面に答える。
「あのな、俺の夫ってあの含光君だぞ。なんで素行調査が必要なんだよ!」
「わかってるなら、なんで目録のこと気にしてるんですか」
「そりゃ、藍湛が大事に保管していたものだからな。本当に、俺が思っている通りの内容なのか、確かめたいっていうか……」
そのとき、町を見回しながら歩いていた思追が、一軒の家屋を指差した。
「蓬莱客桟。ここですね」
「よし、おまえらはここで待ってろ」
「お待ちください。私たちが参ります」と思追が魏嬰を呼び止めた。
「そうそう。魏先輩はこの街じゃ顔が売れてるから、俺たちが聞き込みしたほうが」と景儀も言葉を重ねる。
「いいよいいよ」魏嬰はヒラヒラと手を振った。「色恋沙汰かもしれないんだ。若き藍氏門弟に、そんな話の聞き込みをさせる訳にはいかないよ」
魏嬰はなにげないような軽い足取りで、客桟の入り口へ近づいた。
入り口では女が掃き掃除をしていた。二十代なかばくらいに見えるから、目録に記録されたころは、花も恥じらう十代なかばだっただろう。
まさか、藍湛はあんな若い娘さんと?という思いが一瞬、魏嬰の頭をよぎる。
「やあ、精が出るね。今日は張若汐さんはいらっしゃるかな」
魏嬰が話しかけると、女が頭を下げてから答えた。
「そんなかたはいませんけど……」
魏嬰は、その答えにほっとしている自分に気がついて、思わず苦笑が浮かんだ。きっとこの目録は、現実にいる女性たちではないのだ。
そのとき、店の奥から別の男の声が聞こえた。
「張若汐なら、今は陳酒店で働いてるよ」
魏嬰は藍氏門弟を引き連れ、先ほど聞いた陳酒店へと向かっていた。
「私的な用事に、おまえらの手を煩わせて悪かったな。俺一人で林檎ちゃんと来たってよかったのに」
魏嬰が話しかけると、思追が答えた。
「林檎ちゃんでは時間が掛かりますから。いつでも御剣でお送りします」
「思追は、含光君が来られないときは魏先輩をお守りしないとって思ってるんだよ」
景儀がそう追加すると、思追が肘で景儀の脇腹を小突いた。
「じゃあ景儀はどうして来てくれたんだ?」
魏嬰が尋ねると、景儀が頭の後ろで腕を組み、さもなにげないふうに答えた。
「思追だけ修練をサボるなんてズルいだろ」
魏嬰は、本当は思追を心配しているのだという景儀の気持ちを感じ取って思わず微笑んだ。
「そっか。今度、丸々太ったキジをつかまえて、おまえらに食わせてやるからな!」
陳酒店へ到着すると、魏嬰はまた門弟二人を外に置き、自分だけ店に入った。席につくと酒を注文して、店の雇人たちの会話にそれとなく耳を傾けた。運がいいことに、しばらくするとだれが張若汐なのかがわかった。
張若汐は、齢のころは藍忘機と同じくらいに見えた。声に張りがあり、多少柄の悪い客が来ても太刀打ちできそうな雰囲気だ。
魏嬰は、彼女が卓の近くを通りがかったときを狙って呼び止めた。
「姑蘇はきれいな女の子が多いけど、きみは特にきれいだね」
張若汐は怪訝そうな顔で魏嬰を見返した。
「その豊かな髪に、美しい櫛を挿したらすごくいいだろうね。ねえ、これまでも誰かから、櫛をもらったことはある?」
どこからどう見ても、女の子を口説こうとしている軽はずみな男だ。魏嬰は、自分がこんなことをペラペラしゃべっていた十代のころを懐かしく感じた。
「はあ……」
と彼女の視線が冷ややかなものに変わるが、魏嬰はそんな視線にも慣れっこではあった。
そのとき店の奥から男が出てきた。
「おまえ、どうした?」
その親しげな口調に、魏嬰ははっとした。男は魏嬰を見ると、深々と礼をした。
「今日のお宿をお探しですか。それともお食事ですか」
「いや、ちょっと酒を引っ掛けにきただけさ」
決して店の女の子を引っ掛けに来たわけではありませんと、魏嬰は目で訴える。
「ここの酒は美味いね」
「ありがとうございます」
「この店はご夫婦で切り盛りしてるの?」
「へい」
「やっぱり。お二人は夫婦なんだね」
見ればわかることだが、ここは確認しておかなければならない。
「へい」と男が照れた顔で答える。魏嬰が酒をもう一杯頼むと、店の主人は、何年か前に彼女が嫁いできた話をしてくれた。
魏嬰は(ああ、藍湛、もしあの子がお気に入りだったら、もう亭主がいたぞ。まあ今は俺という夫がいるから、別にいいよな?)と思いながら勘定を済ませた。
店を一歩出たところで、「夷陵老祖」と小声で呼び止める声がした。張若汐だった。彩衣鎮にはよく来るから、やはり知られていたかと、魏嬰は内心で苦笑しつつ振り向いた。彼女が言った。
「櫛はけっこうですよ。含光君と、また店にいらしてくださいな」
(3)魏無羨と秘密の夜
江澄が宿泊している客間へ、また五人が勢揃いしていた。
「藍宗主、江宗主……」魏嬰はやや口元を引きつらせて言った。「また集まってくれてありがとう! ほかにやることはないのかな!」
「含光君の目録が優先だ」
「大切な家族のことだからね」
思追が彩衣鎮での事の次第を報告した後で、魏嬰は話しだした。
「俺も女の子に声を掛けたりしたけど、この目録ほどひどくはないよ。これがもし、一人の男の記録で、一つも叶えていないとしたらさ、たくさんの女の子と約束しておいて、放ったらかしってことだろ。女の子たちに気をもたせて、純情をもてあそんで。ひどい男だ!」
卓を囲むほかの四人も、まったくだとうなずいだ。
「しかし、困りました」と沢蕪君が首をかしげた。「これだけ額を寄せ集めてもわからないとなると、お手上げですね」
そのとき、思追がすっくと立ちあがった。
「いえ、もう一人、心当たりがあります!」
しばらくあと、思追の案内で、魏嬰たち五人は雲深不知処の裏山にいた。高く茂った木々のあいだから、うららかな日が射している。
小道を進むと、小屋が見えてきた。その前には人影が一つあり、ちょうど薪割りをしているところのようだった。
「温寧おじさん!」
思追が元気よく呼びかけ、手を振った。
温寧は顔をあげ、手を振り返そうと腕を上げかけたが、沢蕪君に三毒聖手まで顔をそろえていることに気がつくと、すぐに供手して深く頭を垂れた。
沢蕪君が困ったように微笑んで告げた。
「おもてを上げてください。危害を加えに来たわけではありません。お聞きしたいことがあって、みんなで来たんですよ」
「はい、なんなりと」
温寧がかしこまって答える。
江澄は一行の最後尾の、すこし離れたところから様子を見ていた。
「あのさ、温寧、この目録を見て、なにか思い当たるものはあるか?」
魏嬰は言って、糸で綴じられた一冊の帳面を手渡した。温寧が書名もなにもない表紙を見つめて尋ねた。
「これは……?」
思追が経緯を一通り話し、温寧はそれを真剣に聞いてから、頁をめくって目録に目を通した。そして、温寧は青ざめた。
「魏公子、本当におわかりにならないのですか?」
彼は生きた人間ではないから血色もなにもないが、表情が凍りついている。
「魏公子は昔から、娘さんたちに人気ですからね。私なんて全然でしたから……うらやましいです」
温寧から見つめられ、魏嬰は「え?」と眉根を寄せた。
「やはりそうか。薄々そんな気はしていたが」
やや離れた場所から、江澄の声が聞こえた。
藍曦臣がクスクス笑っている。
「私もそんな気がしていました。これは、なかなか……」
「お噂以上でした」
思追が苦笑している隣で、景儀があきれていた。
「真面目に考えて損した」
魏嬰だけが、状況から完全に取り残されていた。
「え、みんなはわかったのか?」
魏嬰はきょろきょろと一同を見回したあと、温寧を振り返った。
「おまえ、この目録がなんなのかわかったなら、教えてくれよ」
「含光君がおっしゃられないなら、私から申し上げることはできません」
あんまりキッパリ断られたので、魏嬰がほかの四人のほうへ縋るように目をやると、すでに四人とも下山しようとこちらに背を向けていた。
魏嬰が声を張り上げる。
「なあ、わかったんなら、教えてくれたっていいだろ!」
江澄がチラと振り返ると、足を止めることなく言い返した。
「魏無羨、それを知ってどうしたいんだ?」
夫の秘密を知ってどうしたいのか?
魏嬰は目録の正体を知りたいだけだったのに、新たな問題が出てきてしまった。
その後、風呂を浴び、藍湛とふたりきりの夕餉を囲みと、ふだん通りに時間は流れた。
魏嬰が寝支度のため、白い寝間着を羽織ったところで、後ろからそっと抱きしめる体温があった。
「なにかあったのか?」低い声が、魏嬰の耳元でささやく。「今日は口数が少ない」
魏嬰はうなだれたまま、さっき脱いだ自分の服のなかから、あの目録を取り出した。振り向いて、それをそっと藍忘機の胸に押しつける。
「また見ていたの?」
すでに寝間着に着替えた藍忘機が、魏嬰の衣の帯を結びながら言う。行灯のあわい灯りのなかでも、彼の表情が曇ったのがわかった。
魏嬰は言った。
「おまえが俺を大事にしてくれてるのは、わかってるから」口から出たのが、不安そうなか細い声で、魏嬰は自分でも少し驚いた。「おまえが会いたい人がいるなら、会いに行っていいんだよ」
魏嬰は藍忘機の顔をまともに見ることができず、うつむいたまま続けた。
「俺は十三年もこの世にいなかったから。そのあいだに、おまえがほかの子と仲良くしてたって、俺には責められない」
「魏嬰……」
という呼びかけには答えず、魏嬰は思いのたけがあふれるまま続けた。
「この目録、おまえが大事に保管しているってことは、大事な約束もあるんだろ?」
「魏嬰」
藍忘機はこんどは魏嬰の頬に手を添え、顔をあげさせた。
「本気で言っているの?」
藍忘機に問われ、魏嬰はうなずいた。
「本気だよ。律儀なおまえのことだから、ちゃんと約束を守るために、この目録を取っておいたんだろ。櫛を買ったり、花を贈ったりしてあげるといいよ。俺はちゃんと待ってるよ」
藍忘機は頭が痛いというように、自身の眉間を押さえた。
「きみ、心当たりはないの?」
まっすぐに見つめられ、魏嬰は「へ?」と首をかしげた。
(4)魏無羨と呪いのキジ
翌日、魏嬰は藍忘機とともに温寧の小屋を訪ねていた。
正午前で、ほぼ真上から日射しが照りつけている。
雲深不知処は山の高いところに位置し、空気は冷涼なはずだが、魏嬰が小屋の前でキジを焼くせいで、焚火の熱気が広がっていた。
藍氏の宗主と門弟二人もまた焚火を囲んでいた。
「焼き色がついてきた!」景儀が満面の笑みで言う。「魏先輩、今日はまた、なかなかの獲物ですね」
「キジを獲らせたら、俺の右に出る者はいないからな」
魏嬰は腕まくりして、火に薪をくべながら言った。
「昨日は協力してもらったからな。しっかり食っていけよ」
「協力といえば、江宗主はもうお帰りになったんですか」と景儀が尋ねる。
「ああ、今朝、船着き場まで送ったよ」
魏嬰が答えると、藍曦臣がつけ足した。
「魏公子に、船に乗らないのかと、最後までお尋ねになっていたね」
「そのようなことはさせません」
魏嬰の背後から、きっぱりと断じる声がした。藍忘機だ。
藍忘機は、焚火の前にかがみこむ魏嬰の後方に佇んでいた。パチン、と火がはぜたので、藍忘機がすかさず魏嬰の脇を持ちあげて、ズルズルと火から遠ざける。
「魏嬰、火に近づきすぎだ」
「これくらい大丈夫だよ」
「はいはい、キジはちゃんと俺らが焼きますんで、魏先輩は離れててください」
「なら、この薪はここに置こうか」
思追が薪を抱えてやってきて、景儀の横に置いた。さっきまで温寧の小屋の前で薪を割っていたが、一通り割り終えたらしい。
「沢蕪君もキジを召し上がるんですか?」
思追が尋ねると、藍曦臣は微笑んで首を振った。
「そうですか」と思追。「雲深不知処でいちばんキジを食べそうにない方だとは思っていました」
「思追、おまえ、ときどき大先輩にもすごいこと言うよな」
「そう?」
のけぞる景儀に、思追が不思議そうに首をかしげる。
「今日はせっかくだから、私もみんなと昼食を一緒にと思ってね」藍曦臣はおだやかに微笑んだまま言った。「替わりに、これを焼いてみようかと思うんだ」
藍曦臣は言って、持参した桶の蓋を開いた。その隣にいた魏嬰と藍忘機が、桶をのぞくと、串に刺した野菜があった。
「兄上、これは、あまり……」と藍忘機。
「あまり?」藍曦臣が聞き返す。
魏嬰が笑いながら、藍忘機の袖を引いた。
「いいんじゃないか、キュウリを何本焼いたって」
そのとき、小屋と焚火とのあいだに、卓が出された。温寧が思追の手を借り、小屋のなかから卓を運び出したのだ。
魏嬰が礼を言うと、温寧が気にしないでくださいと、胸の前で両手を振った。
「魏公子、あの目録のことは、おわかりになったんですね」
温寧が尋ねると、魏嬰が答えた。
「俺が、自分で、女の子たちと約束したことだった」
「やはりそうだったか」
と藍曦臣がうなずいた。どうやらこの人も、野菜をたずさえてまで、答え合わせをするためにやって来たのだ。
「昨日、景儀と思追が、夕方になって修練が終わってから来てくれたので、我々三人も話していたのです。意外でした」
「意外?」
「含光君に遠慮なさっているんだなと」
「そうそう、俺らの思ってる魏先輩は恥知らずだから」と景儀が温寧の言葉を引き継いだ。「あんな目録が出てきても、含光君、昔のことなんて忘れて、俺だけを見て! みたいな」
「景儀、それぜんぜん似てない」
思追が卓に皿を置きながら、クスクス笑う。
景儀が木の枝を使って、まんべんなくキジが焼けるように角度を変え始めたので、魏嬰はキジの番を後輩に任せることにして、藍忘機に寄り添った。
「けどさ。俺たち約束なんてしなかったのに……こうして結ばれたんだな」
と魏嬰が藍忘機を見つめる。
「いや、なにいい話みたいにまとめようとしているんですか」景儀があきれた声で言った。「夷陵老祖は乙女たちを泣かせてきたって昔話を聞いたことありましたけど、マジだったんですね」
「うん、きみが娘たちに声を掛けて回っていることは、当時から有名だった」と藍忘機。
「約束もすっかりお忘れだったとは。若い娘さんたちの純情を、もてあそぶだけもてあそんで……」と藍曦臣が追い打ちをかける。
さすがに言葉をなくす魏嬰に、思追が苦笑しながら話しかけた。
「あ……謝りに行きますか……?」
「そんなことしたって迷惑がられるだけだよ。女の子たちと約束をした頃はともかく、その後、俺は大悪人になって世の中の全員から嫌われて……ん」
魏嬰が言い終わらないうちに、その口を藍忘機の大きなてのひらがふさいだ。
「全員ではない」
「ああ、そうだったな」
「とにかくさ、彩衣鎮のあの子も、もう亭主を持って、魏無羨少年との約束は単なる過去のことって感じだっただろ。そういうことだよ」
「では含光君は、娘さんたちが気になさっていないとご存知の上で、記録を残していらっしゃったんですか?」と思追が首をかしげた。
「そうだ」藍忘機がうなずく。
「含光君は優しい方ですね」と温寧。「私が同じ立場なら、娘さんたちからそんな話を聞いても、忘れることにしますけど」
「私もそうしますね。どうしてわざわざ記録を?」
思追は、育ての親たちのこととなると気になるらしく、真面目に尋ねるので、藍忘機はしぶしぶといった感じで口を開いた。
「魏嬰が戻ってきたとき、娘たちとの約束のどこか一つでも覚えていたら、その人のところを訪れるかもしれない。記録をしておいて、定期的に見張っておけば、魏嬰と遭遇する可能性を上げられる」
一同がポカンとするなか、キジの脂が、パチパチと場違いな音を立てる。
魏嬰も、なんと声をかけたものか考えている顔だ。
「なるほど!」と思追が無理に笑顔を作って言った。「恋敵すら活用しようという、ある種の戦略ですね!」親と子のような関係だけあって、口出ししにくい場面でも切り込んでくる。
「魏嬰が忘れていたらいたで、私がこのような目録を作っていると知ったら、見たがって私のもとへ来る可能性がある」
藍忘機は断固とした口調だ。またキジの脂がしたたって音を立てる。
「そ、そこまでお考えだったとは!」と思追。
「包囲網が敷かれていたんですね」
と温寧が言うので、魏嬰は藍忘機にもたれたままうなずいた。
「うん。俺、最近、藍湛から逃れるのは不可能だったんじゃないかって思うときある」
魏嬰は大きくため息をつくと、藍忘機の袖を勝手に探って、一冊の帳面を取り出した。
「昨日の目録!」
と思追と景儀が声をそろえる。魏嬰が腰をかがめ、それをそっと焚火にくべた。
「あ……!」とまた藍氏門弟の二人が声を上げた。非難がましい声だったので、魏嬰が手を振って言った。
「べつに燃やしたっていいだろ。含光君が、目録は俺の好きにしていいって言ってくれたんだ」
「いや、そうではなくて……」と思追。
「目録から出た炎で、これから食べるキジを焼くんだなあと……」と景儀。
「だ、だからなんだよ」
「気分的に……」
「キジが呪われそう」
なにか言い返そうとする魏嬰の後ろで、ふっと、藍忘機の笑う気配がした。魏嬰はすぐさま振り返り、「藍湛!」と肩に寄りかかった。「おまえ、笑ったな!」
藍忘機が魏嬰を見つめ返す。
「きみはどのようなことも、最後は楽しい思い出に変えてしまう」
夫夫の様子を見て、景儀は諦めたように、呪いのキジを焼く作業に戻る。
静かに話を聞いていた藍曦臣が、キュウリをあぶりながら聞いた。
「しかし魏公子、この目録に書かれた方々が、あなたが考えていた通り、忘機と親しい方々だったらどうするおつもりだったのですか」
「そりゃあ、藍湛が女の子たちとの約束を守れるように、待っててやるさ!」
と魏嬰は胸を張った。
「昨日はそんなふうに見えなかったけどなあ」と景儀。
「なんだよ! 昨日だって余裕だったろ!」
「昨日は所在なさげでしたよ」
藍曦臣が言うと、藍忘がほう、と興味深そうな顔をした。
「まさか魏公子が、ほかの女のかたたちのことで嫉妬するだなんて」
「あの……それだと俺が面倒くさい夫みたいじゃないですか」
「違うのかい? てっきり、昔の体と今の体とどっちがいいかと、忘機に聞いたりしているのかと思っていたよ」
「うわー、それは面倒くさいですね」と景儀が苦笑した。
「何度か聞かれたことがありますが、面倒くさいと思ったことはありません」
藍忘機が淡々と言うと、一同の顔に、やっぱり聞いてるんだという表情が浮かぶ。魏嬰は肩をわななかせながら言った。
「俺が悪かったから、この話マジでやめにしない?」
了