仙門百家cafeAU 金子軒が江厭離との距離を縮めようとかんばる回~忘羨を添えて初夏の風がさわやかな朝、カフェには仙門を代表する三家から公子公女が集まり、開店の準備に取りかかっていた。
金家の公子二人も、美しい制服に身を包んで会場に入った。だがカフェのきらびやかな雰囲気とは対照的に、二人はそろって重いため息を吐いた。
金子軒の当初の目論見では、この行事を通して江厭離と仲良くなるはずだった。だが来る日も来る日も雲夢の憎き弟たちに邪魔をされ、彼女と一言も話せない日もザラだ。
一方の金光瑤は前の夜、金夫人、つまり金子軒の母から「子軒が厭離と全然話せてないみたいじゃない。あなた、なんのために子軒に付いて参加してるの。なんとかしなさいよ」と無茶な要求をされたのだ。
金光瑤は金子軒へ声を掛けると、彼のアスコットタイの結び目を整えながら言った。
「先に魏無羨と江晚吟の好感度を上げたほうが早いんじゃないですか」
金子軒は黙りこんだ。
一理ある。が、(どう考えてもムリ)が金子軒の感想だった。
金光瑶は彼の心情を察したのか、「彼らに挨拶だけでもしたらどうですか」と諭すように言う。
(それもムリ)とは思ったものの、とりあえず魏嬰と江澄へ近寄ると、「よ…よう」と声を掛けた。
「「?」」と低音の二重奏が返ってきた。
「挨拶してやってるんだから、ちゃんと返せよ」
と金子軒は二人に向かって言葉を投げつけた。
「よう、は挨拶とは言わないな」と魏嬰。
「だからって睨むことないだろ」
「睨んでませーん」
金光瑶がショーケースを磨く手を止め、「ガキのケンカですね」と嘆息する。
その時もう一人、準備の手を止めて三人のやり取りを見ていた者がいた。藍忘機だ。
目が回るような忙しい一日を終え、後片付けが一段落した頃。
藍忘機が相変わらずの無表情で「魏嬰、よう」と恋人へ話しかけた。
「藍湛、なんだなんだ、かわいい挨拶を覚えたな!」
魏嬰が破顔すると、藍忘機が首をかしげた。
「金子軒から『よう』と言われた時は、いつもと違う真剣な顔をしていた」
「あれは睨みつけてたんだよ」と魏嬰。
「そうなのか?私にもやってみて」
「どうしたんだ急に?」
「魏嬰のどんな表情も見逃したくない」
「でもなあ、かわいい藍湛を睨むなんて、俺には難しいよ」
金子軒は思わず、片付けていたグラスを粉々に握りつぶしそうになった。
(俺のこと睨みつけてたんじゃないか! だいたい「よう」は挨拶じゃないとか言ってなかったか!)
その次の日も、金子軒は江厭離に話し掛けようとしたり、食器を運ぶのを手伝おうとしたり、思いつく限りのことを試してみたが、結局は雲夢双傑に邪魔をされる。そこで仕方なく彼らへの挨拶を続けることにした。
「よう」の二文字を言うだけだ。カフェの短い期間中の我慢だと割り切ったのだ。
金子軒が挨拶作戦を始めて五日目。
カフェでは交替で休憩を取ることにしていて、金子軒と金光瑤はたいてい時間が重なっていた。控え室として使っている小部屋で休んでいたら、金光瑶がこんなことを言い出した。
「雲夢の公子たちにお小言が尽きないんですね。え、挨拶? あれ、挨拶だったんですか? 確かにあの二人へ挨拶するよう勧めましたが……」
頭が痛い、というように金光瑤が眉間を押さえる。
「あなたが毎朝、魏無羨と江晚吟に話しかけては言い合いをしているので、雲夢のお二人に嫌味が言いたくてたまらないのかと思っていました。あれでは好感度を上げるどころか、下げているのでは……」
「じゃあ俺はなんのために、来る日も来る日も屈辱に耐えてるんだよ! お前がもうちょっとマシな提案をしてくれればよかったのに!」
言い返す声が、思わず大きくなる。
「そう言われましても……。ハア、あなたのお母様になんと申し上げれば……」
と金光瑶は困り顔だ。
「もう明日からは、挨拶するのやめよう」
と金子軒はガックリ肩を落とした。
「まあ、挨拶じゃなかったですけどね」
「うるさい」
その時、小部屋の扉がノックされ、金家の二人は口をつぐんだ。細く扉が開き、隙間から江厭離のドレスの裾が覗いた。
すかさず金光瑤が駆け寄り、「どうぞ」と扉を開く。
「あの、金公子……」と江厭離は部屋に入るなり、金子軒へ微笑みかけた。「いつも弟たちとも仲良くしてくださって、とてもうれしい。ありがとうございます」
金子軒はこれ以上ないほど目を見開き、「は、はい……」と口にするのが精いっぱいだった。
「それだけ、お伝えしたくて。もう戻りますね」
厭離が照れた笑みと共に一礼し、扉が閉まる。再び部屋に二人だけになると、金光瑶が口を開いた。
「どうやら、あなたにお礼を言うためだけに弟たちの目を盗んで来てくださったようですね」
金子軒は感動のため息を漏らした。しばらくの沈黙の後、金家の二人はほぼ同時に口を開いた。
「俺の努力が実ったんだ」
「私の提案がよかったようですね」
金子軒と金光瑤は顔を見合わせた。
こうして江厭離の好感度を上げるという、金子軒の当初の目的は果たされたのだった。