現代AU/都会のジムで、忘羨が出会う回。藍湛は、ジムへ来ると淡々とその日のトレーニングをこなし、シャワーを浴びて帰るだけの利用客だ。十代の頃から体を鍛えることにこだわってきて、トレーニングについても学習してきた。だから行きつけのジムにパーソナル・トレーニングのサービスがあっても、特に受けたいと思うことはなかった。魏嬰というトレーナーを知るまでは。
魏嬰は藍湛と同年代に見えた。その夜も、藍湛がチェストプレスで大胸筋を追いこんでいると、彼の声が聞こえてきた。ほかの利用者が魏嬰のパーソナル・トレーニングを受けていた。藍湛はそれを見て感心した。
トレーニングというのは結果が出るまで時間が掛かる。運動を単調で退屈に感じ、通って来なくなる利用者も多い。
しかし魏嬰は解剖学や実技の深い知識があり、さらに利用者に結果を実感させる声掛けをしていて、彼の指導を受ける人たちはトレーニングを継続できているようだ。これはなにも藍湛の勝手な思い込みではない。
ここのマネージャーが、魏嬰が指導すると、ジム通いが継続する人が多いと話していたのだ。ほかのトレーナーと比べても優秀だと。藍湛はここへ通ってもう長いから、マネージャーもそんな内輪の事情を明かしたのだろう。
魏嬰は、利用者に対しすこし慣れ慣れしい感じもするが、それもフレンドリーな雰囲気で喜ばれているということだろう。
藍湛はレッジカールへ移動しながら、また魏嬰のほうを盗み見た。藍湛にとって特筆すべきは、彼のとびきりの笑顔だ。あの輝く瞳に見つめられ、笑いかけられ、励ましてもらえたら、きっとどれだけでもがんばろうと思えるだろう。
帰宅後、藍湛は意を決して、ジムのホームページにあるパーソナル・トレーニングの申込画面を開いた。トレーナー紹介コーナーの魏嬰のプロフィールは、もう何十回読んだかしれない。そのページのリンクをたどってSNSをフォローし、彼が地元の小学校のダンスチームで、ボランティア同然の報酬で教えていることも知った。
魏嬰が子供たちに囲まれている写真を眺めると、藍湛の口元も自然とゆるんだ。彼のまわりには笑顔があふれている。
ジムのパーソナル・トレーニングは有料で、トレーナーの指名もできる。もちろん魏嬰を選んだ。
(二五〇元も払えば彼とマンツーマンで話せるなんて……)
風俗店めいているという考えを、藍湛は頭を左右に振ってかき消した。自分は優秀なトレーナーに指導を依頼したいだけだ。もう何十回も自分に言い聞かせた、その自己正当化の文句を頭の中でくり返した。
藍湛は爪の手入れをしたり、トレーニングウェアを新調たりして予約の日を待った。だが当日の予約の時間が来ると、藍湛の心はこれ以上なく落ち込むこととなった。
パーソナル・トレーニングはカウンセリングから始まる。談話用の小じんまりしたブースに現れた魏嬰は、困ったように笑い、こう言ったのだ。
「お兄さんみたいな完璧な体をした人に、俺が教えることなんてないよ」
「そ、それは……私は指導を受けられないと……」
ショックを隠そうにも、言葉が途切れがちになる。
「うーん、いつも藍湛さんがトレーニングしてるの見てるけど、日ごとに鍛える筋肉を変えて計画的にやってるし、マシンの使いかたは適切だし……そのへんのトレーナーより詳しいんじゃない?」
「私をいつも……見ていた?」
「そりゃあ、藍湛さんは常連だから、前から名前も知ってるよ。俺を指名して予約するから驚いたよ」
魏嬰に名前まで覚えてもらっていたと知り、今度は藍湛の心臓は高鳴りだした。たった一分で他人の気分を乱高下させるなんてと、藍湛は魏嬰に畏怖の念すら感じ始めていた。
「トレーニングで、なにか悩みでも?」
魏嬰が小首をかしげると、癖のある前髪が柔らかそうに揺れた。
「か、体を絞りたい。それで、食事面を含めて指導をお願いできたらと……」
藍湛は用意していた依頼を口にした。
「え、体脂肪率、今いくつ? 一五ないでしょ?」
「いや、ちょうどそれくらいだ」
「普通に生活するなら、これ以上落として、体を絞る必要ってないと思うけど」
「……」
「あ、もしかして、夏にビーチで目立ちたいとか?」
「……」
「さすがにないか」
魏嬰が、自分が言った冗談に自分で笑っている。
「まあ理由はいいか。藍湛さんのトレーニングの手伝いなんて、やり甲斐があるよ。俺、全力でサポートするから!」
「わ、私も……」
きみの人生を全力でサポートするという言葉が喉元まで出かかって、そんな自分に動揺した。この瞬間、藍湛は魏嬰を指名してパーソナル・トレーニングを申し込んだことを後悔した。やっぱりやましい気持ちがあったんじゃないか。結局自分が買いたかったのは、彼との時間だったのだ。倫理にもとる行為だ。
だが魏嬰のほうは、無邪気に握手の手を差し出していた。おずおずと藍湛は握手に応えた。魏嬰がしっかりした力で手を握り返す。温かい手だった。魏嬰が笑う。あの笑顔で。
「これからよろしく!」