きみが思い出をつかい果たしても〜鬼道を使うと、代償として記憶を失うAU(1) 悪い知らせ
温氏との全面戦争はもう何日も続いていた。
射日の連合軍は温氏の本拠地である岐山へと迫るべく、各地の監察寮を攻めては戦いを繰り広げていた。
その日、藍忘機は兄のそばで、雲夢江氏の軍についての知らせを聞いた。射日の連合軍では、御剣の速いものを定期的に遣いに送りあい、互いに戦況を知らせていた。江氏は渭南を攻めていたが、門弟の半数以上が戦死したためいったん全軍後退したという。
一方の藍氏は、渭南から一五里ほど離れた耀州で戦っていた。
藍忘機が進み出て言った。
「兄上、私が渭南へ行って加勢します」
「しかし……」
ここ耀州の監察寮もまだ落とせてはいない。藍忘機が離脱するのは痛手だと、藍曦臣の表情は語っていた。
そのとき、藍忘機の先輩修士の一人が言った。
「雲夢江氏なら、夷陵老祖がいるだろう」
「はい」と報告係が返事をした。「今、戦場には夷陵老祖がお一人です。生き残った味方を下がらせ、前線で屍を操り、戦っておられます」
藍曦臣の目が驚きに見開かれる。一方の先輩修士は、さもありなんとうなずいた。
「敵味方の別なく、死者が出たら夷陵老祖の軍勢が増えるのだ。彼に任せておけばいい」
藍忘機はとっさにその男を睨みつけた。
魏嬰が負けないことは、藍忘機だって知っている。危惧しているのは、そんなことではないのだ。
藍曦臣がおだやかな声を作って言った。
「魏の若君はもう藍家の一員同然です。いくら優れた戦士とはいえ、たった一人で奮闘していると聞いて放ってはおけません。忘機、行ってくれるか」
藍忘機は兄へ供手すると、すぐに片手で印を結び、避塵を水平に浮かせて飛び乗った。上空へと舞い上がると、全速力で渭南を目指す。切り立った崖の合間を飛びながら、藍忘機の胸はある不安に占められていた。
――魏嬰はまだ、私のことを覚えているだろうか。
向かい風のなか、血の臭いが濃くなり、山々に囲まれた平原が見えてきた。
下界に江家門弟らしき一団を見つけたので、藍忘機がすこし速度を落として眺めると、江晚吟の姿を見つけた。江の文字を染めた旗を門弟の一人が掲げ、温氏の監察寮だった建物へ入場するところだった。
報告係が飛び、藍忘機がこちらへ来てとしているあいだに、江氏率いる連合軍側が勝利したということだ。
新しい江家の宗主は、怪我を負ってはいるようだが、足取りはしっかりしている。
眉山へ避難している江厭離を含め、魏嬰の願い通りに、彼の姉弟は無事ということになる。
一団のなかに魏嬰の姿を認められなかったため、避塵はさらに先を目指す。
やがて見えてきたのは、無数の亡骸が敷きつめられた平原だった。ところどころに剣、槍などが突き立って、まるで墓標だ。
そのただ中に、魏嬰が座りこんでいた。陳情を持ち、その左腕を見つめていた。次に何をすればいいのか考えている。そんな風に見えた。
「魏嬰!」
藍忘機はすこし離れたところで剣から降りると、彼に駆け寄った。魏嬰がふらりと立ちあがり、藍忘機のほうを向いた。彼が陳情を握る手に力を込めたのがわかった。
藍忘機は背筋に冷たいものを覚えつつ、声を掛けた。
「魏嬰、無事か」
彼がかすかにうなずく。
「宿営へ戻ろう。傷の手当てを」
「平気だよ。全部返り血だ」
魏嬰が腕を広げ、体を見回して言った。
「なら体を休めるといい。私の御剣で行こう」
藍忘機がいつものように、彼を抱きかかえようと手を伸ばすと、魏嬰が後ずさってそれをかわした。
「おまえが江澄か?」
藍忘機の心臓が凍りついた。この時が、こんなに早く訪れるとは思っていなかった。
「違うのか?」魏嬰が、目の前の男を上から下まで眺めて言った。「誰だ?」
「私は……」
藍忘機は言いよどんだ。
自身が魏嬰の記憶から消えたら、友人だと答えると決めていた。知らない者から婚約者だと言われても、普通なら警戒するはずだからだ。藍氏の家規は嘘を吐くことを禁じているが、二人は友人関係から発展したのだから、嘘とまでは言えないはずだ。
「俺たちって知り合いか? 名前は?」
魏嬰がじれたようにまた聞いてきた。藍忘機はやっとのことで重い口を開いた。
「含光君と呼ばれている」
「それは号じゃないのか? 名前は?」
「今はいいだろう。行こう」
藍忘機は自分を落ち着かせるために大きく息を吐いた。ふたりで過ごした記憶を持たない婚約者から、愛しいあの声で名を呼ばれる覚悟がまだなかった。
魏嬰が「名乗れ」と言うのに答えず、藍忘機が仙剣を抜き出すために片手で印を結ぶ。だが魏嬰はしつこく言いつのった。
「名乗れ」
藍忘機の眉間が険しくなる。答えなければ、彼をこの場から連れ出すのも難しそうだ。
「藍忘機」
と諦めて告げる。
「藍……」魏嬰はこめかみに手を当て、記憶をたどるようにつぶやいた。小声だったが、藍忘機には聞き取れた。「姑蘇藍氏。四大世家。言われてみれば、その格好は藍氏だな。味方か……」
魏嬰はそう理解するやいなや、藍忘機に供手した。
「これは失礼。人の名前を覚えるのが苦手で。助太刀、感謝します」
魏嬰のこういうところが、藍忘機の気持ちを沈ませる。勘が良く、その気になれば状況に合わせて立ち回ることも上手い。そのせいで、夷陵老祖を頼る人々は、彼が屍を操る度に記憶を失っていくことにまだ気がつかない。
魏嬰が首をかしげ、目の前の男の顔をのぞきこんだ。
「藍……藍湛?」
琥珀色の瞳が、信じられないという風に見開かれる。魏嬰が覚えていてくれたのか。
藍忘機の表情の変化を見て取った魏嬰が、陳情を構えるのを止め、帯に差した。
「藍湛なのか?」
「そうだ」
「藍湛、藍湛、そうか、おまえが」
魏嬰が自分の左の袖をまくった。彼の左腕になにか書いてあった。藍忘機はそれを見てはっとした。名前と、いくつかの文字。魏嬰は記憶がすべて消える日に備えていたのだ。
魏嬰が尋ねた。
「次は誰と戦えばいい?」
「もう戦わなくていい」
「そうなのか?」
「そうだ。帰ろう、魏嬰」
一刻も早く、亡骸の海から魏嬰を引き離したくて、藍忘機は彼を抱きあげた。今度は抵抗はなかった。二人が乗った避塵が舞い上がるとすぐ、藍忘機は彼の体力を回復させるため霊力を注ぎはじめた。魏嬰はそれを感じたのか、慣れた仕草で、藍湛の胸に頭をもたせかけて聞いた。
「江厭離と江澄を知っているか?」
「君の家族だ」
「家族? 本当に?」
「そうだ」
「ふうん。二人は無事か」
「無事だ。君が守った」
「よかった」
避塵が戦場の中心から遠ざかっていく。魏嬰が尋ねた。
「藍湛、どこへ向かってるんだ? 俺、家族のところは……思い出してからでないと」
「きみは……」
この期に及んで、まだ家族に心配をかけたくないだとか、江晚吟に金丹のことを知られなくないだとか思っているのか。彼らのことを思い出すなんてできるはずもなく、これまでのように藍忘機が説明して、彼はそれを覚えて、それらしく振る舞うしかないというのに。
藍忘機はため息を吐くと答えた。
「藍氏の宿営地へ行こう。すぐに着く」
藍曦臣たちはまだ戦っているはずだ。だが戦場の後方に構えた宿営地で、魏嬰を休ませることはできるだろう。
途中で見つけた江氏の門弟に、江宗主への伝言を頼むと、藍忘機は速度を上げた。茶色の崖や、岩肌に張りつくように生える木々の緑が過ぎ去っていく。魏嬰が口を開いた。
「藍氏ってさ、家規が厳しいだろ。まさか藍氏に、俺の親友がいたなんてな」
藍忘機はため息をついた。
「違う。婚約者だ」
「……」
(2)代償
藍忘機が魏嬰と婚約したのは、温氏が各仙門に監察寮を置くことを強要し始めた頃だった。
雲深不知処が襲われた後は、藍忘機自身、藍家のために戦う日々だった。蓮花塢が焼かれ、魏嬰の行方がわからなくなったと知ったときも、できる範囲で探すことしかできず眠れぬ夜が続いたものだった。
幸いにも婚約者は乱葬崗から生きて戻ったが、やがて藍忘機は、彼が金丹を失ったと知ることになった。
鬼道の術の利点は、霊力がない者でも使えることだ。死者の怨念を利用するからだ。魏嬰は霊力を失っても、優れた鬼道使いになった。
だが鬼道には落とし穴があった。
霊力が術者の内側にあるのに対し、怨念は術者の外側にある。術者が自身と怨念を繋ぐとき、媒介が必要だったのだ。それが記憶だった。
藍忘機と魏嬰がそのことに気がついたとき、魏嬰はすでに二人が出会ったころのことを忘れてしまっていた。
射日の征戦が本格化した後、ある拠点で姑蘇藍氏と雲夢江氏とが共に戦ったことがあった。その地を治める仙門は、連合軍に部屋を提供したので、藍忘機は久々に魏嬰と過ごすことができた。
立派な部屋ではなかったが、窓からは温かい陽が射していた。
鬼道と記憶の関連に気が付いた彼らは、二人きりの部屋で、ちょっとした検証をした。
魏嬰は文机の前で筆を手にしていた。藍忘機が詩を一行唱えると、魏嬰が二行目からを紙に記した。藍忘機が測量の計算を問うと、魏嬰は紙の上にすらすらと解いてみせた。
次に庭へ出て手合わせをしたが、魏嬰は金丹のない体とはいえ、相変わらずの身のこなしで藍忘機の拳を優雅に避けた。
その後、二人は木陰に出された長椅子に並んで腰かけて話した。眩しい太陽が庭を照らしていた。
「暗記してた詩、計算の方法、体の動かしかた。どれも覚えてたな」
魏嬰が腕組みして言った。
「しかしきみは、雲深不知処ではじめて出会った日のことを覚えていないのだろう」
と藍忘機が返す。
「体が覚えていることと、思い出みたいな、心が覚えていることは、別なのかもな」
魏嬰の首筋を伝う一筋の汗に、藍忘機はあらぬことを思い出し、とっさに目を逸らして答えた。
「しかし体の感覚が伴わない思い出などあるだろうか」
「そこなんだよなあ。記憶の仕組みって、どうなってるんだろうな。記憶なんて目に見えないから、わからないよな」
藍忘機は、茶を淹れることに集中しつつ会話を続けた。
「霊力も怨念も目には見えない」
「俺たちみたいに修行した人間なら、怨念や、相手の霊力の大きさって感覚的にわかるけどな」
「しかし、修行をしない者にはわからない。測って数字で表すような術はない」
「今のところな」
言って、魏嬰が茶をすすった。
「とりあえず、お前と検証したことから類推すると……」と彼が藍忘機の顔を見てニヤニヤした。「いや、なんでもない」
蓮花塢が焼き払われた今、温氏打倒は魏嬰にとっても悲願だ。
藍忘機は魏嬰から、鬼道と記憶のことを他言しないでくれと頼まれていた。
「俺はもともと忘れっぽいし、適当なことを言ってその場を取り繕うのは得意分野だから」
彼の器用さと大きな力のせいで、戦場に駆り出され続けるのは皮肉なことだ。藍忘機は内心で歯噛みしたが、結局は婚約者の思いを尊重するしかなった。
藍忘機は上空を遠回りし、藍氏の宿営地の裏手に着地した。
歩哨へ声を掛け、魏嬰と手を繋いで結界のなかへ入った。そのとき藍氏の戦況を尋ねたが、まだ勝敗は決していないようだ。
立ち並ぶ天幕や、武器を収めるための箱のあいだを縫って進むと、誰かとすれ違う度、「含光君」「夷陵老祖」と供手で挨拶を受けた。
魏嬰は藍忘機と並んで堂々と歩きながら耳打ちしてきた。
「俺の未来の夫は、みんなから尊敬されてるんだな」
宿営地の中央へと進み、藍忘機は自身が使っている天幕へ魏嬰を招き入れた。木材の枠組みに大きな布を掛けただけの空間で、布が日射しを透かしてほの明るい。
一脚だけある椅子に魏嬰を座らせた。彼がなにか口にできるよう、卓とも呼べない台に竹の水筒や乾き物を用意した。
「私は行かなければならない。すぐ戻るから、ここから出ないで」
去り際、彼の帯からさりげなく陳情を抜こうとしたら、さすがに抵抗にあった。悶着している暇はないから、藍忘機が諦めて陳情から手を放すと、魏嬰がなにを思ったのか首に抱きついてきた。
鼻先が触れるほど距離が近づき、藍忘機の肩に思わず力が入る。婚約して幾月かになるとはいえ、藍忘機は藍氏で、魏嬰は江氏でと、普段はそれぞれが属する場所で過ごしていた。触れあう機会は多くはなかった。
「俺たちって、婚約者同士なんだよな?」
魏嬰が小声で確認するので、藍忘機はかがんだ姿勢のまま、小さく顎を引くことで肯定した。
魏嬰が椅子の上で背を伸ばし、藍忘機と唇を触れあわせた。いったん唇を離し、藍忘機の反応を確かめるように琥珀色の瞳を覗きこむと、すぐにまた唇を合わせた。
藍忘機は膝をつき、彼の口づけに応えるしかなかった。しばらくは互いの唇を柔らかく触れあわせていたが、やがて藍忘機は口のなかに、相手の温かい舌を感じた。
魏嬰がうっとりと目を細め、唇を触れさせたままでつぶやく。
「本当だ。これ、知ってる感じだ……」
彼の舌が甘えるように絡みつく。離さないでと言うように、合わせた唇ごと舌を吸う。それは藍忘機の体が覚えている通りの口づけで、本当に魏嬰が記憶を失ったのかと疑いたくなるほどだった。
藍忘機は跪いたまま自身の衣をぎゅっと握り、魏嬰が離してくれる隙を待つしかなく、なぜ急に彼がこんなことを始めたのかなど、考える余裕もない。
鼓動が大きくなり、ついに耳元で鳴りだしたので、まわりの音さえ聞こえなくなりそうだ。藍忘機はついに強引に体を離した。
「行かないと。これは、その……」言いながら、どんどん声が小さくなる。「また後で……」
魏嬰が笑ってうなずいた。
(3)笛の音
藍忘機は御剣で戦場へ急行した。
藍曦臣は陣の後方にいて、大きな藍家の旗の下で指揮を執っていたため、すぐに見つけることができた。
藍忘機はすばやくそばに寄り、兄と目を合わせた。雲夢江氏の勝利について簡潔に報告する。藍曦臣がしっかりとうなずいた。
藍曦臣が陣の後方に並んだ門弟たちに号令をかけると、彼らが印を結び直した。中空に張っていた防御の陣はところどころ破れていたが、これが張り直された。
藍忘機は防御の陣からも出て、前線へ突進した。温氏の戦士たちへ剣を振るう。何人かを切って捨て、敵の一人と切り結んだときだった。
どこからともなく笛の音が響いた。
美しく、力強い音色。
藍忘機はぎょっとした。魏嬰だ。注意が逸れたその一瞬に、敵の剣が振り下ろされた。藍忘機はとっさに反応したが、切っ先が衣を裂く。
まわりでは転がっていた屍が起きだし、温氏の本陣を目掛けのろのろと動き始めていた。
(魏嬰、どこだ)
探し出して、すぐに止めさせなければ。
藍忘機は魏嬰を見つけたい一心で、目の前の戦士をきっと見据えると、これまで以上の速さで剣を振るう。ドサリと音がして、温氏の戦士が仰向けに倒れる。
藍忘機は肩で大きく息をして、呼吸を整えた。
藍氏の戦士も夷陵老祖の加勢に気がついたらしい。ところどころで歓声が上がっていた。
藍忘機は平原を見回したが、敵味方の戦士と屍が入り乱れ、血しぶきと砂埃がもうもうとあがっているせいで、魏嬰を見つけることなど不可能に思えた。
魏嬰は近い記憶まで失っていた。屍に命令を送る際、いったい何を媒介にしているのか。
それに気がつき、藍忘機は愕然とした。
(先ほどの記憶だ)
印象が強いできごとほど、時を経ても鮮やかに記憶に刻まれているものだ。
鬼道の術者には、強烈な思い出ほど有用だ。魏嬰にはその知識が残っていたから、「思い出」を調達するために口づけを仕掛けてきたのだ。
藍忘機は、婚約者の姿を探しながら戦ううち、あることに気づいた。
屍は起き上がり、十数歩前進すると立ったまま動くのをやめ、今度は別の場所でいくつか屍が起き上がったかと思うと、同じような動きをした後に静止する。魏嬰は意図的に力を節約している。屍を暴れさせたくとも、この程度動かすだけで精一杯なのかもしれない。
それでも温氏の戦士たちを震えあがらせ、味方の士気をあげる効果は充分に果たしていた。
(今のうちに)
この監察寮を制圧しなければ。すべての思い出を失ったとき、鬼道が術者にどんな代償を強いるのか、彼らはまだ知らないのだ。
藍忘機は猛然と戦った。
「魏嬰! 魏嬰!」
耀州の監察寮長の首が胴体から切り離され、温氏の敗残兵が殺されるか逃げるかしているなかを、藍忘機は走っていた。
「含光君、こちらです!」
門弟の誰かに呼ばれ、声のほうへ向かう。探し人を、藍曦臣たちが先に見つけていた。
魏嬰は担架に寝かされていた。
土埃で汚れていることをのぞけば、頬は雪のように白く、閉じたまぶたは青ざめている。
戦闘の最中に倒れたと、誰かが説明した。
藍忘機は衣が泥で汚れるのもいとわず、その場に膝をついた。魏嬰の体を起こして抱き寄せ、霊力を送りはじめる。それを見届けた藍曦臣や門弟たちはほかの味方の救護へ向かったので、その場には二人きりになった。
しばらく経つと、魏嬰がうっすらとまぶたを開いた。
途端、魏嬰は握られていた手を振り払い、同時に身を離そうと藍忘機の胸を押し、その勢いで地面へ倒れこんだ。藍忘機は彼を助け起こし、自身が藍氏で、味方同士であることを説明しなければならなかった。
魏嬰はそれに耳を傾けるうちに知識が呼び覚まされたらしく、治療の礼を言った。藍忘機は礼は不要だと首を振り、魏嬰の砂埃で汚れた額や頬を、袖のきれいなところで拭ってやった。
「魏嬰、私がわかるか?」
魏嬰はぼんやりとした、不思議そうな顔をしていた。藍忘機は、魏嬰の赤い模様のある袖をまくり、書かれた文字が彼に見えるように左腕を掲げた。
「見て。きみが自分で、腕に書いた」
水で洗っても消えないよう、なにか植物を煎じた染液で書かれたようだった。
――江厭離と江澄を守れ 藍湛を頼れ
藍忘機はもう一度聞いた。
「魏嬰、私がわかるか?」
「江澄?」
「……」
藍忘機が黙りこむと、魏嬰が苦笑した。疲労がにじむ弱々しい笑みだった。
「あれ? ハズレ? おかしいな。お前を見てると、守りたいって思うから」
藍忘機の胸に説明のできない思いがつのり、魏嬰にぐっと顔を寄せた。白い額に唇を押し付ける。魏嬰がすこし驚いたように目をまたたかせる。
藍忘機が尋ねる。
「抵抗しなくていいのか?」
そして、彼のこめかみに、頬にと続けて口づけた。
魏嬰が身じろぐ。白い上衣の襟をつかむと、自ら藍忘機と唇を合わせた。口づけが深くなる。魏嬰は腕を伸ばして藍忘機に抱きついて、なにかを懐かしむように、絡みあう口づけの感触を味わっていた。
藍忘機は確信した。庭のまぶしい日射しの下で、魏嬰が言おうとしたのは、きっとこのことだったのだ。
魏嬰の記憶から藍忘機が消えたとしても、体の感覚が二人を繋ぐ。ぞっとする想像だった。
唇を触れあわせたままで、魏嬰がささやいた。
「藍湛……?」
「うん」と藍忘機は答えた。
「人が見てるぞ」
「うん」
そうは言っても、誰しも自分の仕事で手一杯なのだから、チラチラと気にされている程度だ。
「おまえ、俺の夫だったんだな」
「まだだ。婚約者だ」
「ハハ、そっか」
魏嬰は白い服の胸に寄りかかると、呼吸を整えながら聞いた。
「江厭離と江澄を知っているか?」
「君の家族だ」
「家族?」
「そうだ」
「ふうん。二人は無事か」
「無事だ。君が守った」
「よかった」
藍忘機は魏嬰を抱いて立ちあがった。
「戻ろう、魏嬰」
腕のなかで、魏嬰が小さくうなずいた。
「藍湛、一つ聞いてもいいか?」
「うん」
「さっきからおまえが呼んでくれるそれは、俺の名前か?」
了