ドレスを着た君の姿は見慣れているはずなのに。
だけど今日の君は一段と輝いて見える。
6月の日曜日。
九条朔夜は横浜の小さな教会でタキシードに身を包み係の者に呼ばれるのを待っていた。
その様子は一見無表情のように見えるが、つき合いの長いものにしてみれば落ち着きがない様子だとすぐにわかる。
朔夜がタキシードを着るのは初めてではない。ステージに立つときに何度も袖を通したことがある。しかし、今日着ているものは演奏会用のものとは作りや色合いがどことなく異なるのを感じ、どこか落ち着かない。
ーまるで七五三みたいだな。
そう思いながら朔夜は朝日奈唯と出会ってからの日々を思い浮かべる。
高校の合格発表のときに隣で泣いていたのは運のつきと言うべきか、それとも神様のイタズラと言うべきか。
その後も同じクラスになったり、スタオケで一緒に活動するなど、いつしか一緒に過ごすことが当たり前となっていた。
スタオケの演奏会で唯がドレスに身を包み、ライトに照らされながら最初はぎこちなく、でもいつしか堂々と演奏をしている様子を見るのはなぜだか誇らしく、一方でその姿を独り占めしたいとすら思うこともあった。
ただ、それが恋心によるものだと気づくまでには相当な時間が掛かったのだが。
そしておそらく唯の方も自分に甘えるのは恋心が含まれているということに気づくのにそれなりの時間が掛かったらしい。
「こんな俺でよければつき合ってくれないか……?」
高校の卒業式におそるおそるそう言ったことと、そのときに唯が目を丸くして涙をポロポロこぼしながら頷いたのは今でも忘れられない。
そして社会人として過ごすようになって3年目の秋。
長年弾いてきたヴァイオリンはあくまでも趣味で続けると割り切ることにした朔夜と、ソリストとして活躍することを選んだ唯。
道が別れても気持ちが通じていれば問題はない。
そうは思っていたものの、やはりオーケストラをバックにして協奏曲を弾くときにドレスを身につけ、ライトの下でヴァイオリンを奏でる。
そんな唯の姿は自分の恋人であるということを差し引いても美しく見えた。
ーもっと確固たる関係になりたい。彼女を他の誰のものでもなく、自分と固い絆で結ばれている仲になりたい。
そう思い告げたのだ。
「俺でよければ結婚してくれないか……?」と。
今思えば情けない台詞だったと思う。もっと毅然とその言葉を発することができたらどんなによかったことか。
それにも関わらず彼女は告白したときと同様に目を丸くして涙をポロポロにこぼしていた。
ーいつも彼女の泣き顔を見てばかりだ。
そんなことに気がつく。そして、朔夜は思う。唯の涙を見るのはこれで最後にしようと。
「お待たせしました」
永遠とまではいかないものの、かなり長く感じた待ち時間。
ようやく係員が自分を呼びに来た。
彼女と出会い気がつけば約十年の月日が流れていた。
自分は正直そんなに待ち焦がれてはおらず、あまり思い入れもないが、おそらく唯にとっては一生に一度の大切な日。
自分のことはさておき、愛しい者がどんな姿を見せるのかやはり期待してしまう自分がいることに気がつく。朔夜は係員が開けたドアから中をそっと覗き込んだ。
まず目に入ったのは純白のドレス。
そして、
「朔夜……」
ずっと隣で聞いてきた愛しき者の声。
今日は天使の囁きのようにすら感じる。
「おかしく、ないかな?」
どこか自信なさげに聞いてくるが、とんでもないと朔夜は思う。
ドレスを着た唯の姿は何度でも、これこそ数えきれないくらい見てきた。そして、ライトに照らされる様子も。
だけど、今目の前にいる唯はこれまで見てきたどんな姿よりも美しく、綺麗で、そしてかわいかった。
「朔夜、かっこいいね…」
唯は意外なことを口にしてくる。
馬子にも衣装とはこのことを言うのだろう。唯の言葉を素直にうけいれることができずに朔夜はそう思ってしまう。
「朔夜に釣り合うのか不安だけど、せめてドレスの裾は踏まないように頑張るね。ドレスは着なれているけど、やっぱり今日は特別だから」
不安な気持ちを抱えているのは同じらしい。
一方で朔夜は何を言っているんだと思う。
確かに出会ったときは何かに打ちひしがれていた。
その後も彼女が困難に直面する様子を何度も見てきた。
だけど、そのたびに彼女は困難から逃げることもなく、乗り越えてきた。これこそ、自分が眩しいと思うくらいに。
「朔夜にはずっと導かれてばかりだね」
自分はそんなつもりはなかったが、唯にはそう見えていたらしい。
自分が奏でたチャイコフスキーの協奏曲の音色。
そして、スタオケで隣で弾き続けてきた日々。
「いや、そんなことはない」
そう呟くが唯の耳に聞こえていたかどうか。
ただ、今日の一番の主役である彼女の顔を曇らせることはしたくない。
そして、できれば彼女とは笑顔を守り続けたい。
そう思いながら朔夜は唯の手を取り歩き始めた。
朝の光が彼女の横顔を照らす様子が眩しいと思いながら。