いつかあなたと見たい花火大会日曜の夕方、近くのホールの演奏会を終え日本大通り駅についた朝日奈唯は逆方向からやってきた人混みに圧倒されていた。
年配の男性に家族連れ、そして若い女性たち。
年齢層も性別も多岐多様に渡っていたが、野球のユニホームを着、揃いの帽子をかぶっていることから、今日は近くの球場ではプロ野球の試合が開催されていたことに気がつく。
そういえば、駅に着いたとき、そんな貼り紙がしてあったような気もするが、そのときはコンサートの集合時間に遅くなりそうだったため、あまり見ていなかった。
このまま電車に乗っても、背中のヴァイオリンケースがまわりの人の迷惑になりかねない。
どこかで時間を潰そう。
そう唯が思ったとき、人混みの中に知っている顔を見つける。
「堂本!」
「あんたは……」
彼はまわりのものとは異なる黒とオレンジが差し色になったユニホームを着ており、首にはオレンジ色のタオルが巻かれている。
普段見ている彼の服装とは雰囲気が異なり、目が慣れないがこれも彼の一面なのだろう。
せっかくここであったのも何かの縁。
そう思ったのは堂本も同じだったらしい。互いに人混みから離れる。
「ちょっとお茶でもしていかない?」
唯の提案に堂本は少し目を見開くが、次の瞬間はおもしろいと言わんばかりに笑う。
「俺とで、いいのか?」
その言外に含まれている意味を理解しながら唯は頷く。
「ええ。だって朔夜や成宮くんともお茶することはあるから」
少し前に唯は御門浮葉との交際を始めた。
互いの立場もあるため、スタオケ内でも知っているものは少ない。
ヴァイオリン演奏に差し障りがありそうなため指輪をすることはないが、髪飾りは御門が選んだものをつけている。もちろん、今つけているものも。
堂本がどこまで察しているかは判断しかねるが、おそらく彼なりに気を遣っているのだろう。
だけど、唯にとっては堂本も仲間とはいかなくても知ったもののうちのひとり。だから問題ないと判断した。
それに黒橡としてともに活動している彼なら、自分が知らない御門の姿をたくさん知っているだろうから。
言葉で聞くことはなくても、彼の気配を感じられるのではないか。そんな期待もどこかにあった。
「野球見るんですね」
「まあ、親父が好きだったから、その影響でな」
駅周辺のカフェは限りがあり、そこは既に観光客で埋まっていた。
ふたりは駅から程近いそば屋に入ることにする。
おしゃれとは程遠いが、自分たちの関係にはこれくらいの場所がちょうどいい。
山のように盛られた蕎麦を箸で取りながらふたりは会話を進める。
彼の言葉から想像できない言葉が飛び出し、唯は思わず彼を見つめる。
だけど、触れてはいえない空気を感じ、唯はそれ以上聞くのをやめることにした。
野球はどうしても長い時間が掛かるという印象があったため、避けてきた唯であったが、堂本はそんな唯にもわかりやすく今まで見てきたナイスゲームに珍プレーなど、テレビのダイジェストを見るだけでは知ることのない野球の魅力を存分に話してくれた。
「この間、社長からチケットもらってお坊っちゃんとドームに行ったときは大変だったぜ。試合自体は楽しんでいたみたいだったが……」
ドーム……
きょとんとする唯に堂本は補足してくる。
「東京ドーム。ほら、世界の一流アーティストやアイドルがコンサートするので有名だろ。あそこは俺の贔屓球団の本拠地なのさ」
ああ、なるほど。そう思う唯であったが、堂本は眉間に皺を寄せながら続ける。
「去年から完全キャッシュレス化で、現金が使えない。そのくせして使える支払い方法も限られている。俺たちこーこーせーはSuicaやPASMOがないとほぼ詰む」
その言葉を聞いて、唯は蕎麦を口にしながら飛び上がりそうになった。
現金が使えない。
その事実に背筋が凍りそうになる。
あと数年もすればクレジットカードを持つことができるが、それまでは現金中心の生活とならざるを得ない。
唯はふと御門のことを思い出す。
自分だってこんな調子だ。この煩わしい世界から隔離されたかのような存在の御門が対応できるとは思えないし、対応できるようになってほしくもない。
「あんたも知ってるだろ、お坊っちゃんの浮世離れぶりを」
唯は蕎麦を口にしながら頷く。
以前、御門と電車に乗ったとき、彼は切符の買い方すら知らなかった。ましてや交通系ICの存在なんて知るよしもないだろう。
「Suica買っとけとは話したからSuicaはかろうじて持っていたが、チャージしていなくてよ」
堂本は困り果てた顔をしているが、唯はそのときの御門のきょとんとした表情が容易について思わず笑ってしまう。
彼は変わらない。たとえ黒橡として地獄で生きることを選ぼうと、本質的な部分はそのままだ。
「デーゲームだったからメシの心配はなかったが、さすがに3時間飲み物なしで倒れられても困る。それで立て替えてやったんだが、その後のリアクションが大げさでよ……」
『先日はご迷惑をお掛けしました』。
そう言いながら渡してきたのはミネラルウォーター一箱。しかも丁寧に包装され、熨斗までついていたらしい。
その様子も想像つき、唯は蕎麦を口にするのをいったん休むことにする。
「たかがミネラルウォーター一杯だっつーのに」
だけど、そんな義理堅いところが御門。それは堂本と唯の共通認識だったらしい。
ふたりは瞳を合わせながら笑ってしまう。
そして実感する。本来ならすれ違うだけの自分たち。そんなふたりが蕎麦を食べながら笑顔で会話できるのは御門のおかげだと。
「御門さんによろしくお伝えください」
先ほどに比べると圧倒的に人が少なくなった駅のホームで唯は堂本を見送る。
「ああ、でもあんたからも連絡取ってやれよ。あんたからの連絡着ていないかしょっちゅうスマホ覗いて確認しているぜ」
意外な事実を告げられ、唯は目を丸くする。
飄々とした人で、自分が執着しているから振り向いてくれただけだと思っていた。
だけど、もしかすると恋しく思う気持ちは同じなのかもしれない。
唯は電車を待ちながら検索し、やがてやってきた電車の中から御門にマインを送る。
「今度、神宮球場に行きませんか? 夏は花火が綺麗みたいですよ」と。